玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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輪るピングドラム第9話氷の世界・子供の世界・壊れる世界

武内宣之絵コンテ・演出・作画監督・原画
で、それは武内宣之さんが手がけたシャフトっぽい演出とか角度らしいって。ハトとか。顔の傾けとか、喉とか。化物語とか。
今回はとても幻想的な演出と、陽毬が回想する長い年月(4〜5ねんくらい)を詰め込む脚本と、膨大な引用があったので、それは2ちゃんねるの考察スレなどから拾ってきた。成るほど、ネタが多い。今回のサブタイトルは林檎を歌った井上陽水の歌から、とか。
http://moepons.blog.fc2.com/blog-entry-361.html
himarin.net
宮澤賢治銀河鉄道の夜のザネリと南極物語の渡瀬から、今回の新キャラの渡瀬眞悧(わたらせ・さねとし)が命名された、とか。
陽毬ちゃんが幻想の中の中央図書館で借りていた本がスティーブン・キングをもじってスティーブン・クイーン、勝間和代をもじって勝文和代とか、村上春樹をもじって村春樹とか。村上春樹からの引用は「かえるくん東京を救う」をもじって「カエルくん東京を救う」とか。多い。
ちなみに、書籍の引用は小説版ではもじってなくて、そのままスティーブン・キングとか。なんだけど、さすがに「はだしのゴン」はキーアイテムだからか小説でも「はだしのゴン」www



あの、中央図書館の地上部分は杉並に実在する杉並区立図書館で、地下の「そらの孔分室」部分はストックホルムの図書館(↓)のイメージCGらしい。
http://www.cgsociety.org/index.php/CGSFeatures/CGSFeatureSpecial/stockholm_library_interior


あと、夏芽マリオという小説にもいないキャラクターがアニメのエンディングのテロップで確認できたが、これは水族館にいたペンギン帽子を被った少年だろうか?それとも、「こどもブロイラー」で陽毬と話していた顔の見えない運命の少年だろうか?
ここで名前が出るとはなー。
それから、夏木マリのパロディで夏木マリオというネタをしていた芸人がいたそうだ。

「よくある、話をしましょう」という言葉を突然思い出しました
たぶん芸人のネタだと思うんですけど、どなたか知りませんか?

質問日時:
2006/10/20 23:31:46



ベストアンサーに選ばれた回答

ernie1111ernieさん

学校へ行こう」の「BE RAP ハイスクール」に出ていた、
夏木マリオという太った男のネタですね。
退屈な話〜♪というヤツですよね。
あの歌はもともと、夏木マリさんの曲だったそうですよ。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q139717443

輪るピングドラムの命名や引用は多岐にわたりまくっていて、しかも意味がありそうな物と意味が無いノリで付けたっぽいものがたくさんあるので、あんまり元ネタを調べようとすると疲れそうだ。伊空ヒバリと歌田光莉とか。


しかし、新キャラクターと言えば、UST番組のこっそりピングドラムのメインパーソナリティーの小泉豊さんがオープニングで1話からずっと謎のキャラだった眞悧の役とは・・・。まさかのメインキャラ。うゎ。じゃあ、岩崎愛さんも1話の林檎の話をする少年から、レギュラーになるんだろうか?



「こどもブロイラー」の場面の扇風機っぽい物の絵の構図がカズオ・イシグロの「わたしを離さないで」っていう小説の表紙に似ているとか、あるらしい。


本棚から眞悧がペンギン帽子取り出す時に「カエル君再びHトリオを救う」って本が…とかも。

再登場があるのか?光莉の声は荻野目苹果と同じ三宅麻理恵さんだし。しかし、幼いヒバリの声はこおろぎさとみみたいな子供声でしたね。


小ネタとしては

この棚の「192」の執拗な「イクニ」推しが笑えた。地味に


今回のキー・アニマルはカエル。
僕としては、メインの動物がペンギンだったり、苹果の両親がラッコと河童だったり、「水との境界線の動物」が多く描かれているので、カエルってのも境界線的で面白いな、と思った。
ま、陸のスカンクや海のウツボや空のツバメ、っていうのも今まで描かれてきているのだが。


http://unmake.blog133.fc2.com/blog-entry-72.html
↑こちらのブログでは、カエルの近親相姦性や「ヨミガエル」と絡めて書いてあって面白い。


まー、とにかく幾原邦彦らしく、引用符がたくさん、軽いものから根幹にかかわりそうなものまでちりばめられているってことね。
幾原監督が原作を書いているマンガの「ノケモノと花嫁」に出てくる秘密結社の「燃えるキリン」ってのは、サルバドール・ダリの絵のタイトルから来てるし。ノケモノと花嫁は他にもミュージックネタとかサブカルネタとかお笑いネタとか、引用やパクリやネタが多いよ。そういうパッチワーク感覚の楽しさみたいなものは持ち味としてはあるね。それはもう、イクニの癖なのかなあ。おれ、ウテナは見てないけど。


ただ、アレだ。
そーいう引用符をちりばめた中にある「氷のように壊れやすい子供の世界」っていう、身も蓋もないくらい直球なセンチメンタリズムが幾原邦彦には、あると思う。
引用についての考察はネットのみんなに任せて、俺は感想を書く。
ここからが本論。




今回出てきた「こどもブロイラー」とか、「わたしを離さないで」を見ると、臓器移植のために作られた子供の養成施設っぽい(?)。小説版を読んだら陽毬は幼児期に孤児院のような収容所のような所にいたらしい。そこで、運命の男の子が落ちてきた林檎をキャッチして陽毬に「運命の果実を一緒に食べようよ」って言って、陽毬が「選んでくれてありがとう」って言うの。
「こどもブロイラー」のロゴは3体のふしぎなペンギンが出荷される所にも書いてあった。
もし、これがSF的に実在する「クローンや臓器提供の子供を養育する施設」なら、「ノケモノと花嫁」につながるね。あれも大人の都合で作られたり縫い合わされたり愛されなかった子供たちの話だし。幾原監督的には輪るピングドラムノケモノと花嫁は同時並行だし。

ノケモノと花嫁 THE MANGA 第二巻

ノケモノと花嫁 THE MANGA 第二巻


っていうか、むしろ、SF的なクローンとか、社会哲学的な『子供の臓器提供の正否』っていうテーゼより、「大人と子供の対立」っていうテーゼの方が重要かな?と、思う。あんまり社会的議論や世界観を問うような雰囲気は受けないんだよね。むしろ、そう言う物を小道具として使いながら生み出される物語の感動とか、情熱のような何か、みたいなものを感じる。
あと、ノケモノと花嫁の文脈だと「大人と子供をつなげる、家族」とか「家族を作る結婚」「結婚に依って運命を変える」っていうテーゼとか。ピングドラムでもウテナでも「運命」とか「花嫁」とか出てきたよ。
陽毬と高倉冠葉と高倉晶馬の双子と血が繋がっていない、って言う近親相姦回避展開もあるのかな???
だったら、結婚、っていう物にも結び付くかもな。
しかし、「何物にもなれない」「運命」が「どうにもならない」「終わってしまった物語」だから「それを変える」ために「運命の相手」と「結婚」ってのが、もう、幾原邦彦の物語だなーと思う。
少女革命ウテナを見てないけど。
っていうか、なんか、ほら、おにいさまへ・・・を見てから見たいよね、ウテナ。おにいさまへ・・・は宝島と家なき子を見てから見たいっていうか・・・さ・・・。ウテナ信者には申し訳ない。


あと、この「こどもブロイラー」の構図は「わたしを離さないで」にも似てるけど、

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)


同時に「生まれるのを待っている子宮の胎児や卵巣の中の未受精卵子精子」のようにも見える。この扇風機が卵巣で。
だから、「運命の相手」との陽毬の記憶が、実在する人と事実か、あるいは受精のメタファーかどうか、って言うのもあるんだよなー。
こういう「絵で象徴する、非言語的な演出」は、まだどういう意味か、作品が完結してないからわからないんだけど。わかるようでわからんのが非言語だし。(それが映像作品の醍醐味でもある)
そう言えば、小説版はとてもファッションの描写が多く、ビジュアルを想起するような文章だった。小説を読んだだけだと、どうしてそんな描写をするかわからない分もあったのだが、アニメを見てると意味があると思えたりもした。(9話だと、どうして陽毬の思い出で巨大な扇風機があったのか?とか)多分、絵コンテを見て高橋慶さんが小説にしたんだな、と思った。だが、今回眞悧の服装が小説版と違っていたり、前の回で苹果のドレスの色が違っていたり、鯉のシーンで陽毬がスカートをパンツの裾に入れていなかったり、と言う違いがある。だから、小説にした時点の絵コンテから、オンエアまでに色々と変わったり、絵にしなかった部分もあるっぽい。
図書館の地下の描写は小説ではもっと背景動画っぽい、有機的に光る絵が変形するイメージ(ガンバの冒険の一話の河みたいな)だったけど、アニメだと3DCGと透過光の切り替わりで、なんだか堅いイメージだった。でも、色々と不穏な感じは出てた。BLAME!っぽくもあり。


で、こどもブロイラーが実在するものでは無くて「世界の外で子供たちを生まれさせる精霊の世界の物」かもしれないとも思える。「そらの孔分室」とか「クリスタル時空」は明らかに別世界だし。陽毬の生き返りとか見えないペンギンは明らかに不思議だし。
そうすると、「運命の至る所」とか「運命を変えて見せる」っていうのは、実際の話、写実的な物語ではなくて、「ちゃんと生まれて大人になる」っていう事のたとえ話かも知れない。
それは少女革命ウテナっぽいかもしれない。ウテナ見てないけど、ウワサで話はだいたい知ってる。でもネタバレは言うな。
どうなんでしょうね。


あと、「子供」っていうものが今回とても熱心に描かれていたと思う。
小学5年生の頃の陽毬が母親に向かって「お母さんのうそつき!」ってうつむいて叫ぶ所の顔の下半分の絵、これの鼻とか頬の描き方が非常に子供の幼い柔らかそうな質感である。かわいい。
それから、子供の壊れやすさ。
幼い陽毬が簡単に転んで、簡単に鏡が倒れてしまう所。これは子供が「壊れたらすぐに終る危ういバランスで生きてるもの」っていう感じ。
ここは既に鏡が一度割れて張り合わされている、っていう所も不安定さを煽っていた。
対比して、怪我をして入院した母親が傷を負う、というのは「大人は一度怪我をしても終わらない」「大人は傷を重ねている」というモチーフか?子供は無垢なので、傷を負ったら終わる。
ここら辺が氷の世界っぽくもある。
入院した時の陽毬の母の顔を下から煽って、鼻の穴や顎を強調したり、指の皺を作画するのも、「大人は傷を負って、生々しい」っていう感じである。
つまり、「子供は壊れやすいけど、壊れたらすぐに死ぬ。だから逆に無傷であり、無垢」「逆に大人は強いから、傷を負っても生々しく生きてる」っていう。


あと、鯉を殺そうとするシーンは子供の残酷さや、知らないうちに死に隣接してるって感じ。
あれ、小説で読んだ時は3人の子供がうっかり転んで溺死しそう、っていう怖いイメージを持った。子供と水の事故は怖い。銀河鉄道の夜な意味でも。
それから、その言い訳で光莉とヒバリが「百歳まで生きたかったから」とか「100まで生きてお父さんとお母さんをびっくりさせたかったから」とか、死とか寿命を意識してないっぽい子供の狂った感じが、子供の不安定さを出してたと思った。


それから、簡単に陽毬が学校でいじめられて不登校になるっぽい所も、簡単に子供の人間関係が壊れて無くなる、っていう脆さを表現してた。運命共同体のトリプルHが簡単に崩壊したり。

いや、何で登校しなくなったのか、とか、何でいじめられたのか、名言されてないのだが。病気と不登校は違うみたいだし。
高倉陽毬ちゃんは平成19年(作品の中で4年前と言われている)で、小学5年生だから14歳か15歳。中学3年生相当だけど、小学5年生の頃から不登校になって、病気になって入院したりしてたので学校には行ってない。


運命共同体だったトリプルHが崩壊してダブルHだけが有名アイドルになるのを、たった一人で見ている陽毬とか、子供の人間関係の弱さだなー。僕も転校しがちな子だったし、小学校の頃のクラスメイトはほとんど覚えてないので共感する。


ていうか、このトリプルHのビジュアルって完全におジャ魔女どれみだよね。


ドジで忘れっぽいお団子ヘアーで赤いヒバリと、要領が良い青い光莉。そして、自己主張をしなくなったオレンジっぽい陽毬。これ、おジャ魔女どれみの、どれみ、あいこ、はづきだよな。陽毬がはづきで。
小説だと、鯉のシーンで陽毬たちはスカートをパンツの裾に入れてブルマ―みたいに炊くしあげる、って書いてあって、それはおジャ魔女どれみのむつみちゃん回でやってた。アニメのピンドラではやってない。ここら辺は、なんかシャフトっぽい演出の中に、幾原邦彦東映っぽさが感じられて面白かった。セーラームーン佐藤順一つながりで。
っていうか、お団子。
陽毬がお団子ヘアーに執着していたのは、ヒバリへの憧れ、同一化願望とかだったら切ないよなー。レズっぽくもある???

でも、ハブられる。
おジャ魔女どれみみたいに、運命共同体の赤青黄3人の女の子が一緒にグループを組めなくって、一人だけはぐれる、っていうのがピンドラ。
赤青黄の三人がロボットとアプリポワゼするのがSTARDRIVER 輝きのタクト。スタドラは南十字学園の綺羅星十字団の人たちが「サイバディ」っていう共通項で色んな「アプリポワゼ」するっていう話だったけど、ピンドラは子供時代の陽毬のアプリポワゼが一回終わった後の話。
なのかな?
まあ、タクトはタクトで中学時代に親友の死を乗り越えてたり、最終回の後も「もっとすごい空を何度でも見る」っていう話だったか。巫女は島の外に出て行ったし。
おジャ魔女どれみも最終シリーズではMAHO堂が解散して、別々の中学に行ったし。
輪るピングドラムも、陽毬が小学校時代のことを「もう終わった話」って言って、眞悧に「そうかな?」って言われていた。人生と言う冒険は続く。陽毬は「自分の人生は小学校の時に夢が破れて一回終わってる」って言ってるし、実際死んだけど、でも「まだ終わらないかもしれない」っていう。
プリンセス・オブ・ザ・クリスタルの時の陽毬が兄達に「きっと何物にもなれないお前たちに告げる」って言うけど「もしかしたら何者かに成れるかもしれない」ていう。
そこら辺の曖昧さを含んだ生命の力を感じる。


っていうか、サトジュン、五十嵐卓哉、イクニのセーラームーンとかウテナとかの東映系列を感じる回でもあった。(逆に僕はシャフトっぽさはあまり感じなかった。ここらへんは個人的思い入れの違いか)
カエルくん→魔女ガエル→おジャ魔女っていうラインも感じる。


そんで「子供は無垢で傷つきやすい」「傷ついたら子供は壊れて終わり」って感じだけど、
「傷がついて子供時代が終わってから始まるのが大人」
「人生と言う冒険は続く」
「世界が壊れても生きている大人」
っていう感じ、そう言う子供と大人の対比も感じました。


同時に、「運命の花嫁」と言うのは、「大人になって、別々の人生を歩んできた人たちが、運命を一つにする」っていう「結婚」って言うのを割とロマンティックに描こうとする感じで、子供と大人を繋ぐ「家族」っていう物も感じる。
陽毬や苹果が養子かもしれない、って言う事も含めて。


でも、同時に、高倉両親がいなくなっていたり、荻野目苹果の両親が離婚して、荻野目父が違う女性と結婚したり、苹果が結婚したがっていた多蕗圭樹が予期しない相手である時籠ゆりと結婚して運命が変わったり、という、結婚のロマンチックじゃない面も描いている。


ピングドラムって何?」という各論の考察も良いけど、「大人と子供」「結婚」「家族」「人生」っていう、とても漠然としてる総論も普遍性のあるテーマだと思うし、良いと思う。


はてさて、これからどう運命が輪るかな???という。
10話からは小説の先行ネタバレもなくなるからわからなくなるなー!


春風どれみが高校生になったおジャ魔女どれみ16も始まるしなー。


追記:
アニメの方が、陽毬のドロドロってした主観が描かれていないで外から見ている分、陽毬の激しさが小説よりも薄れているように感じた。
小説の陽毬はもっと世の中への憎しみを授精して心が凍らせているけど、内面は激しそうなのだ。


だけど、妹萌えとしては、妹の内面世界を覗くのは背徳的に萌える。