玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

輪るピングドラム第20話 妹背に「選んでくれてありがとう」でも恋や社会の敵となる

シスコン戦略ーっ!!!!感動したっ!
シスコンは運命!世界の最初の男と女は兄に選ばれた妹なんだよ!!!!
分かるよ幾原邦彦監督!そうなんだよ。妹は古来日本語では恋人という意味もあるんだよ!年下で小さくて愛すべき女の子はみんな妹だよ!!!
妹は親に与えられるものじゃない!ねだるな!選びとれ!さすれば妹!
愛の話なんだよ!!!




しかも、真砂子まで妹キャラだだということが判明!!!
苹果も妹だったし!
ゆり以外みんな妹!生娘のキャラはみんな妹!


と言うわけで、今回はとてもシスコンにはよくわかる話でしたね。うん!(読者の感情を無視する俺)
僕も脳内妹と自分がイチャイチャする夢小説を書いてるしねえ・・・。僕の脳内妹は親の娘では無くて、僕の妹なんだよ。
幻視小説夢兄妹寝物語第1巻目次 - 玖足手帖-アニメ&創作-
同じ親から生まれた人は兄妹愛にはなって、普通の家族の共存戦略にはなるけど、シスコンとしての恋にはならない。むしろシスコンにとっては親の存在とかはどうでも良くて、妹が太陽のように輝いているんだよ。それこそ、罪も罰も分けあう自分の片割れとして大切に思うことが重要なの。血が繋がっていようがいまいが、そんな受動的要因は重要では無い!(シスコン熱弁)
そこまで愛していないきょうだいは、単なる2親等の親戚だよ。祖父母とか孫とかと同じだよ!
でも、妹は特別なんだよ!特別だって選ぶからこそシスコンにとって妹は妹なんだよ!!!!
(壊れた)
(風邪をひいて数日倒れているけど、さすがに関西で21話を見てしまったので、書きあげてしまう。このブログは37度のテンションで書かれている長文です)


それくらい、男を、兄を狂わせるくらい、陽毬ちゃんはかわいい。かわいいよーーーーっ!


と、萌え狂ってみたけど、ちょっと今回はいろんな関係性が描かれていたので、それを整理したい。
兄妹と、親子、社会、とか。

  • 幼女と幼児の結婚

幼い6歳の晶馬は母親に捨てられ父親も分からない、団地で一人ぼっちだった3歳の陽毬を妹にした。
おお、それは妹背な関係だ。

しかも、もう、疑似家族というか擬似夫婦になってる。3歳と6歳だけど、子猫を育てる共同作業で家族を作ってる。既に、自然に。というか晶馬が回想画面で言ったように、晶馬は企鵝の会のなかで一人ぼっちだったから、あの団地の中で一人ぼっちだった陽毬を見つけることができたんだ。


氷の世界で一人ぼっち同士がくっつくのは自然な生存戦略
そして、一人ぼっち同士のぬくもりを分けあうものとして、かすがいになるのが猫。


でも、その子猫は消えてしまう。ここで、一回陽毬と晶馬の夫婦関係は一回破綻してるんだ。桃果を失った事で壊れ始めた荻野目夫妻のように。


ちなみに、今回出てきた子猫のサンちゃんの死体は映らなかったので、3話のドラネコと同じだったら伏線だなーって思ったけど、模様が違いますね。残念。子猫がゴミ収集車に入れられる事件は数年前に流行りましたね。

  • 社会的に死ぬ子供の無垢性

そこで、陽毬と晶馬の小さな世界は一度、子猫の死という形で終わった。
陽毬は「この世界は選ばれるか選ばれないか、選ばれないことは死ぬこと」と言った。「生きる事は罰なんだよ」と。



つまり、選ばれずに死んだ子猫は全く罪がない、が、選ばれて生きる物は、死んだものを蹴落として生きるわけだから罪を負うし、苦しむ罰を背負って生きる。という教義を陽毬は語っている。
これは、18話の過去で無垢なまま消えようとした多蕗が16年を経て罪にまみれた大人の大人になってしまったこともちょっと伏線になっている。作品のテーマというか雰囲気として、「生きる事は後ろめたい」というのがある。陽毬を生かすために冠葉が無理をしたりしてるし。それと、出てくる親や大人がだいたい屑なので、普通に生きてる人が屑という風に描いている。大人になるという事は穢れること。
演出的にも、18話の多蕗が子どもブロイラーでは上手に立ってたのに、16年後では逆ポジションになっているとか、

に似ていて、
子どもブロイラーで晶馬に抱かれた陽毬が

20話の冒頭で晶馬に抱かれた陽毬が

逆ポジションになっているとか、露骨に時間経過を演出している。
(単純に上手下手論の善悪論で、陽毬が汚れた、という事を表現してるとは思えないけど・・・)

  • 幼女妹と幼児兄の妹背

で、1回目の陽毬と晶馬の擬似的婚姻関係は、団地社会のルールによる子供(猫)の喪失という事故があって、母親役の陽毬がクラッシュして子どもブロイラーに出奔して破綻する。
「幼いカップルは子供を育てられないでしょ!」という世間の圧力による中学生の妊娠みたいな話を、子猫を育てるのに失敗した幼児を使って描くのはアクロバティックな発想だなー。


で、妻(陽毬)がそういう風に自殺しようとして出奔したけど、晶馬はそこで、子どもブロイラーまで追っていく。
で、「運命の果実を一緒に食べよう=世界で最初の男女になろう=生きていくという罰を一緒に背負おう」という2回目のプロポーズを行うんだな。
しかも、プロポーズでありながら、恋する、ではなく「妹にする」というのが妹背な関係ですごい。
何がすごいって、陽毬は一度婚姻関係に失敗しているわけですよ。猫とか。あと、陽毬の本当の母親も婚姻関係に失敗して陽毬を育てられなくなって消えたような感じ。陽毬は恋愛にトラウマっぽいものがある子になってしまってるんだよ!3歳にして!
陽毬の父親は最初から出てないので、陽毬は父親的に晶馬に甘えるという発想も無いし、晶馬もそこまで大人じゃない。
それに、晶馬も子猫の事で剣山に頼ろうとしてなかったし、父親に頼ろうとはしていない。子どもブロイラーについて父に聞いたが、父は「子どもブロイラーには手出しできない」と言って、陽毬を助けるのに同行しなかった。晶馬が勝手に行った。
だから、夫婦でも親子でも無く、「兄妹」になるのが必然だ!というシナリオが上手い!私も長くシスコンをやっておるが、こういうふうに「兄妹」の特別性を強固な論理で描く物語は素晴らしいと思うのじゃよ・・・。
陽毬は運命の花嫁では無く、運命の妹!妹!セックス以外で家族に成る幼い純愛の形としての妹!
「妹だからお兄ちゃんの事が大好き」「妹だからお兄ちゃんの事を良く分かってくれる」「妹だからお兄ちゃんとずっと一緒」「妹だからお兄ちゃんと同じ血が流れている仲間」というギャルゲー的に都合のいい妹もかわいいと思う。でも、輪るピングドラムのように徹底して「妹の妹性とはなんなんだよ!!!」と追求するハードコア・シスター・アニメもなかなか美味しゅうございます!
ピングドラムは今回、夏芽真砂子が冠葉の妹だと判明して、ゆり以外のレギュラーキャラがみんな妹属性もちという、シスコンには桃源郷のようなアニメになっておりますウううう!あ、ゆりもサンシャニー歌劇団で娘役&レズビッチネコ=妹という属性があったか!ヤヴァイ!妹アニメやばい!


で、つまり、晶ちゃん(6さい)は陽毬の男女関係に臆病な所に上手く気を使って恋人じゃなくて妹にするという離れ業をするのが、すっごいすけこましで、王子様力強いわー!ルックスも美形だ。


  • 小さな団地の企鵝の会のルール

で、そんな晶馬は高倉剣山を親に持ちながら、彼の「お話」を真面目に聞いてない奔放な一人っ子だった。あまり興味を持っていなかったし、剣山もそういう晶馬を放っておいてた。
対して、夏芽真砂子とマリオっていう弟妹がいて一人ぼっちじゃなかった冠葉は剣山や真砂子の父親の話を大人しく聞いていた。冠葉は夏芽姉弟という守るべき物を既に持っていたから企鵝の会のルールに従って会合に真面目に参加していて、だから陽毬を見つけられなかったのかな。



また、「決行前日」の回想の表札を見ると「そこには同じような扉がたくさんあって、どれが正しいのか・・・」と書いてあった。
窓の外にいる幼い晶馬は団地のたくさんの窓という社会を並列に見ていて、自分の親の高倉剣山の主張もそんなに重視してなかったのかな。
逆に部屋の中の夏芽真砂子と冠葉は部屋の中の企鵝の会の価値観に従おうとしていたと言う事か。
真砂子は父親の言う事に従おうとしていたけど、父親の消失をきっかけに企鵝の会を抜けて実家の夏芽ホールディングスの社長になったという事か?真砂子の父親は夏芽ホールディングスからPingroupに内通して、夏芽家から捨てられたのかな。
などと、各人物の出自がこの終盤になって、まだまだチラチラと見え隠れするという伏線の残し方がサスペンスですね。


で、ミステリーやミスリードは色々あるんだが、メッセージ的には、「社会の大きさ」についての描写が面白かった。


ここら辺の村上春樹的な社会性について、
ピングドラム20話感想 /「氷の世界」の説得力と「やさしい物語」 - さめたパスタとぬるいコーラ
↑こちらのブログを参照しました。
僕は村上春樹アンダーグラウンドは読んでないです。「カエルくん東京を救う」はニコニコ動画でラジオドラマを聞いたけど読んでない。



結構前日の剣山は

剣山 この世界は間違えている。(略)
 選ばれたとか選ばれなかったとか。やつらは、ひとに何か与えようとはせず、いつも求められることばかり考えている。
 この世界はそんなつまらない、きっと何物にもなれないやつらが支配している。・・・もうここは、「氷の世界」なんだ。
 しかし幸いなるかな、我々の手には希望の松明が燃えている(略)
 今こそ取り戻そう、本当の事だけでひとが生きられる美しい世界を。これが我々の生存戦略なのだ!

と演説した。剣山は「何物にもなれないやつらが支配している社会」の中に「希望のたいまつを持っている我々」が居る、と言う風に世界を認識している。世界の中に我々がいる、という。


同じような事を幾原邦彦監督も語っていて、

いい学歴を得たって、高い収入を得たって、大きな家を買ったって、そんなことで幸せになれないってことは、みんなとっくに知ってる。
幸せの価値がひとそれぞれってことだとすると、そこで最も大切なのは“想像力”だ。
メディアに“幸せ”を教えてもらわないと不安な人には難しい。
 

他の誰にも、それが分からなくっても、私には分かる。
“私だけの幸せ”を想像する力。
それだけでいい。
イクニのメルとも蔵Blog(保存版)

と言っている。
剣山は「私だけの幸せ」を「我々の生存戦略」と、「私を我々」にすり替えた所で戦術的な力を得たけど、戦略的には過激化して、テロ行為に及んだね。
まあ、生きる事は戦いだから別に不愉快な他人をぶち殺す戦争をする事は特に珍しい事ではない。
富野監督も戦争と平和という本の中で「テロは力で各個撃破するしかない」と言ってる。

戦争と平和 (アニメージュ叢書)

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つまり、アレだ。
「社会」に対する「私」が集まってできた「反社会的グループ」も人間が複数いればその中に「社会」を作りだしてしまうっていう事。
これ、オウム真理教が模擬的な国家を作ったり、その中でのヒエラルキーやルールを作った事に似ている。
そう、このピングフォースや企鵝の会が団地の回覧板や社宅(南極観測員の公務員住宅?)コミュニティから生まれた小さなコミュニティだとしても、その中ではやっぱり社会が発生してしまうというもどかしさがある。
ルールを押し付ける社会に対抗して生まれたグループなのに、いつの間にか内部社会の問題を起こしてしまうというのは、日本の60〜70年代の学生運動内ゲバでもあった。


幾原邦彦監督は学生運動やコミュニティに関して

学生運動は国家の否定だったけど、それらは同時に親の世代の否定、家族の否定でもあったよね。そういう風に、何かを否定することで自分のコミュニティを肯定する…、悪を登場させて、その時代的なものを否定することで自分の立ち位置を守るという話にはしたくないと思っている。むしろ、間違っているかもしれないけど、それをしたお父さん、お母さんすら、愛おしいと思ってしまう感覚。
(中略)。
そういう家族の話をリアリズムで描くんじゃなく、現代の寓話・神話のようなものとして描きたいと思っているんだ。ただ、スピリチュアルなものだと勘違いして欲しくはないね。僕はそこに興味はないから。

とかBDのインタビューで書いてた。

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また、フランス革命は貴族の否定だったけど、その後は運営能力がなく、ナポレオンと言う英雄が出るまで混乱していたし、ナチス前のドイツもそうだった。
小泉純一郎総理や橋本徹大阪市長のように「とにかく体制が悪いから破壊しよう」というのも「破壊しっぱなしでその後は、使い捨ての後任を次々に取り換えて劣化していく」という運営能力の無さを露呈しているので、アニメの中よりもグダグダな世の中です。まあ、アニメの中は整理された世界だから基底現実より綺麗なんだけどさ。


で、「大きな社会」と「小さな我々」を選別する事は「奴ら」と「我々」の間に線引きをする事なんだよね。
だいたい、扇動者と言うのは「正しい(そして虐げられている弱い)我々と、間違った(そして大抵は強くて大きい)奴ら」と演説するのであるが。そして、何者にもなれない大衆は、その演説を聞いて、その扇動者に同調する事で「何者かになったような快感」を得て全体主義を強化する。全体主義とは独りの絶対者を崇める事では無く、全体が独裁者に同調して協調する事です。だから、ルールに従って敵対者と戦っているコミュニティの内部は平等で平和なんだよね。


だけど、そのコミュニティは「あちら側」と「こちら側」を分けた時点で「選別」という要素を持っているんだよ。
そういう事を20話では「選ばれないということは、死ぬということ」と語る3歳の陽毬を中心に、いろんな組織を配置して繰り返しフラクタルに描いている。
「ピングフォースと社会」「企鵝の会の中の冠葉と、外の晶馬」「団地のルールと、子猫」「子どもブロイラーに手出ししない剣山と、子供ブロイラーに行く晶馬」「選ばれる事は罰」という、いろんなシチュエーションで。


剣山は

この世界は間違えている。(略)
 選ばれたとか選ばれなかったとか。やつらは、ひとに何か与えようとはせず、いつも求められることばかり考えている。 この世界はそんなつまらない、きっと何物にもなれないやつらが支配している。・・・もうここは、「氷の世界」なんだ。

と、選択に従う、何者にもなれない奴らを否定して自分たちを結束しようとしたが、そういう決断主義というか、新自由主義というか、「何者かで在れ」という彼は、自分の団地の中で一人ぼっちになっている陽毬を見つけられなかった。
晶馬は企鵝の会の中では何者でもないただの一人ぼっちの子供だったがゆえに、団地のルールからはみ出した陽毬を見つけることができた。


企鵝の会は表の社会の奴らから隔離された独自のコミュニティで、多分それはあの団地の人の会合だったのだと思う。それはそれで、その中では平等な組織だったのだけど、そのコミュニティに選択されなかった陽毬や子猫は死んでも仕方がないという、外部やルールを破ったものに対しては非常に厳しい態度だった。

たぶん、幾原邦彦監督も見てたと思うけど、未来少年コナンの否定みたいなアニメだなー。
未来少年コナンっていうのは、世界大戦で人類が滅んだ後の話のアニメで、工業主義的なインダストリアという古い秩序の社会の国を否定して、平等な小さなコミュニティのハイハーバーが祝福されるって言うアニメだったのね。でも、小さなコミュニティからもこぼれおちる人はいるよね。と言う事を今回の陽毬や子猫を通じて描いている。
未来少年コナンでは理想的な小さな社会を最終回に作るために、テリットというハイハーバーになじめない小悪人はテレビの画面に映っていない所で事故死した事にされて死んでいた。1979年時点の理想主義的コミュニスト宮崎駿は、平和なムラのルールを乱す人物を演出する事ができず、適当に殺した。
僕はテリットの事が引っかかっていて、「テリットは作り手の都合で生み出されて殺された可哀そうな悪役」だと思っているので、未来少年コナンよりも機動戦士ガンダムの方が好きです。


しかも、晶馬が陽毬を妹に選んだあとは、高倉夫妻が陽毬を大切にした事が、また問題を難しくしている。
小さな社会も選択性を持っていて外部には残酷だが、決してそれは悪意ではない。子猫を禁止するのだって、団地の秩序を維持しようという善意だろうしね。だから、陽毬が晶馬によって選ばれて妹という地位を与えられたら高倉の娘として大事にした。高倉夫妻は、ちゃんと子供に優しくしようという気持ちはある。でも、選ばれなかった陽毬を助ける事は出来なかった。猫は団地のルールのもとに死んだ。
どんな理想家でも、理想を掲げる集団でも、その中の全ては救えないのさ。そういう宇野常寛みたいなシニカルな視点は幾原邦彦というリアリストな農耕民族のアニメ監督にはあるよね。
同時に、タコツボ化する社会のどのグループの理想からも外れた人だからこそ互いを支えられるよね、というロマンティシズムも持っていて、そこはバランスが上手いなあ。と。

 そういう意味では、僕は「こどもブロイラー」を9話のヒマリの回想ではじめて見た際、咄嗟に「マジキチ」と、拒絶感を持ったんですね。これが「こちら側」の物であるはずがないと。サブタイトルの「氷の世界」というのも、「こどもブロイラー」空間やヒマリがカルト団体関連で辛い事でもあったのだろう、と考えていた。ところが今回になって、「こどもブロイラー」というのがカルト団体(=あちら側)とは関係のない、「こちら側」の社会に属するものらしい事が分かって、しかも剣山によれば「氷の世界」というのも、まさに「こちら側」の世界を指した言葉であった事が判明するという。これにはやられました。


 しかし、こうした「あちら側」/「こちら側」という図式を単純な対立構造から崩して考えたり、論じたりする場合、事が事であるだけに非常にデリケートにならざるを得ないわけです。
ピングドラム20話感想 /「氷の世界」の説得力と「やさしい物語」 - さめたパスタとぬるいコーラ

人は最後まで一人だけど、同時に一人では生きていけないので誰かを選択して連帯して、そして「こちら」「あちら」を分けて生存戦略をして戦って殺し合いの結果、生きているので、「こちら」や「自分」の罪や汚点を指摘する事は心理的に非常にデリケートになるんでしょうね。
でも、世の中って本当に完璧に敵と味方に分けられるものではないし、流動化するんだよね。
それを固定する「家族」という「ルール」は便利だけど、同時に家族の中での軋轢もある、という雰囲気を感じさせるピングドラムだ。

透明になるということは、誰の目にも見えないということ。誰の心も動かせないということ。そうなれば、肉体的には生きていても、社会的には死ぬ。いまの時代、透明にならず色を保てるのは「選ばれた人たち」だけだ。

だから、つまり、選ばれないということは、死ぬということ。


こどもブロイラーからの救出が「家族」だという点は、すごく象徴的だと思う。陽鞠は、晶馬の“家族になる”ことで、こどもブロイラーから助け出される。


すでに透明になってしまった私たちがどうやって共同体を再構築するのか


あの花』は「学校教育により分断された若者たちがコミュニティを再構築する物語」だった。


めんまは神様なのだと思う。キリスト教のGodじゃない、日本の神道的な神様。共同体再生の守り神だ。
「家族」とは、いちばん最初の共同体/『輪るピングドラム』第20話の感想 - デマこい!

そういう点で家族は優しいけど、家族以外には残酷かもしれない。家族は生存戦略だが、生存戦略は戦略なので、戦いだよ・・・。殺し合いさ。

  • 何者でもない者たちの社会に従う、今の晶馬

逆に、企鵝の会が倒そうとしている何者にもなれない奴らの社会から企鵝の会を見ると、彼らは犯罪組織だ。
だから、13話で高倉剣山と千江美が指名手配されて家に踏み込まれた時のようにテレビに名前が載ったり、高倉の子供が多蕗圭樹の復讐に遭っても仕方がない、と、高倉晶馬は考える。
高倉晶馬は高倉冠葉が苹果の部屋に侵入した時や、荻野目苹果がストーカー行為をした時に「それは社会的によくないんじゃないかなー」と、社会の側の倫理を基準にした発言が多かった。彼は企鵝の会の論理では無く、一般社会の倫理観を持っている。
そして、それは両親の失踪から今までに、色んな人に上っ面の優しさを向けられたり、敬遠されたり好奇の目を向けられたという風に一般大衆にさらされてきた晶馬の来歴から、一般社会の中で生きるために自分を何者にもならないようにしていこうという意識を持ったからだろうね。


また、その前から、晶馬は子猫や陽毬を救えなかった団地の大人たちを見てきた経験があるので、「社会に助けてもらう、社会は味方」という意識が無さそう。だから、「社会の中で目立たないように、悪い事はしない」という発想になるだろうし、荻野目苹果の好意を18話まで拒絶しようとしていた。


晶馬は高倉の本当の息子という「特異人物」でありながら、同時に「何者でもない社会の人」という、境界の人だなあ。というか、このアニメはキーになる動物がペンギンや河童やラッコやカエルだったり、水と陸の境界だなー。
晶馬は一般社会の人物ではないけど、一般社会の中で偽装して生きるために一般社会的な倫理観を自分に強く課しているんだなあ。



山晶好きとしては、何かの事件の連帯責任でゴミ掃除をさせられてる山下が重要。
「あいつらは腐ったミカンだよ。一緒にいるとこっちまでカビちまう」という世間の人のような山下の言葉と、それに反論しない晶馬。
山下は悪気があるわけではないが、「悪い奴の近くにいる奴も悪い奴だ」「でも俺は悪くないんだ」という世間の論理を晶馬の前で披露してしまっている。そして晶馬は「僕が陽毬を妹に選んだせいで、陽毬まで罰を受けることになってる」と、苹果に相談している。山下のストレスを苹果で・・・。
あれ?山晶破局???えー!!!!
「捨てる山下アレば、拾う苹果アリ」ってこと?

  • 何者でもない奴らを必要とする企鵝の会

こういうカルト集団は敵が必要なのだ。だから、結束力を持つために社会は悪い存在でなくてはいけない。そして、実際に世間は「悪い奴と一緒にいる奴は悪い奴だ」っていう論理をぶつけている厭味ったらしい世界だ。
そういうわけで、
高倉剣山は

この世界は間違えている。勝ったとか負けたとか、選ばれたとか選ばれなかったとか。
やつらは、ひとに何か与えようとはせず、いつも求められることばかり考えている。
この世界はそんなつまらない、きっと何物にもなれないやつらが支配している。

と、何者にもなれないやつらを敵視し

この瞬間にも、大勢の子ども達が透明にされている。それを放置しているこの世界は間違っている。

と、子どもブロイラーで子どもたちを透明にしている世界を敵視している。
だが、子どもブロイラーには手を出さないが、子どもブロイラーよりも先に子どもブロイラーのある世界を浄化するという、大小が矛盾した供述をしている。
なぜか、彼の敵が子どもブロイラーそのものという何者かではなく、「何者にもなれない子供の成れの果ての奴ら」であるからだ。

晶馬:ねえ父さん、「こどもブロイラー」って何?

剣山:・・・社会から、見捨てられた子ども達が行く場所だ。我々も手を出す事ができないし、救えない。「氷の世界」だ。

晶馬:そこに行った子どもはどうなるの?

剣山:「透明」になる。

晶馬:どういう事?

剣山:彼らは、何物にもなれない。

晶馬:死ぬって事?

剣山:(無言)

子どもブロイラーのある世界は剣山の敵だが、こどもブロイラーに行く程度のレベルの、つまらない何者にもなれない大勢の名の無い人々が剣山の本当の敵だ。
だから、子どもブロイラーには剣山は手は出せない、というか、出さない。企鵝の会の結束のために敵を必要とするのだ。その戦いの原動力となる「希望の松明」がどういうものか、それはまだ伏せられているが。まさか、それがピングドラム????
普通の炎ではなさそうだ。桃果を焼いた炎のような、不可思議な魔法なのかもしれない。世界の書き換えとか、眞悧や陽毬の変身が出てくるファンタジーだからなー。そこら辺は現実のオウムのサリンとは違うんだろうなー。マンガは良いよなー。夢があって。


っていうか、形の無い大衆が敵とか、幾原監督は実に逆襲のシャアが好きだなあ!

まあ、大衆が一番しぶといって言うのは手塚治虫どろろとか黒澤明七人の侍とか、もう、古典的な概念なのだけども!


だから、高倉剣山にすると高倉陽毬のような「自分からは追わない」「自分からは実りを与えない」という者は敵なのかもしれない。

剣山:選ばれたとか選ばれなかったとか。やつらは、ひとに何か与えようとはせず、いつも求められることばかり考えている。この世界はそんなつまらない、きっと何物にもなれないやつらが支配している。

陽毬:あの子は選ばれなかったのよ。この世界は選ばれるか選ばれないか――選ばれないことは、死ぬこと

剣山は陽毬のような少女を敵視していたのかもしれない。憶測だが、だからこそ、団地の中で陽毬は一人ぼっちだったのかもしれない。
だが、高倉剣山と高倉千江美にとっては、陽毬を大事に育て、守る事が彼らなりの贖罪で、人間らしい情だったのかもしれない。それはわからない。
南極に行く科学者というくらいの優秀な頭脳を持つ剣山は「何者にもなれないつまらない奴ら」は敵視していても、何者かになる可能性すらなく消えてしまう子供は保護しようと思ったのかもしれない。だから、自分の息子の晶馬が選んで妹という何者かにした陽毬を、彼らは本気で守った。台風の時に陽毬を背負った剣山や、倒れた鏡から陽毬をかばって顔に怪我をした千江美の陽毬に対する愛情は強いものだった。その行動だけは確かだ。

ここで、陽毬の帰ってこなかった母親について考える。そして、晶馬と陽毬がアダムとイブになったのなら、陽毬の母はリリスだったのではないだろうか?と思う。

リリスとは本来はメソポタミアにおける女の夜の妖怪。
しばしばアダムの最初の妻とされるが、この伝説は中世に誕生した。
(ウィキ)

なのだが、輪るピングドラム20話を幾原邦彦監督の言葉を信じて「社会のルール」にまつわる現代の「神話」だとすると、陽毬の母親はあまり深く語られないが、神話的に意味があるのではないかと思う。その語られない所も、また神話的である。

『創世記』1章27節のくだり「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女にかたどって創造された」(アダムの肋骨からエヴァが誕生する前の節である)は、アダムにはエヴァ以前に妻がいたということだ、と信じられることがある。

リリスがアダムの最初の妻であるとした中世の文献は『ベン・シラのアルファベット』(en:The Alphabet of Ben-Sira)で、8世紀から11世紀ごろにかけて執筆された(著者不詳)。それによれば、リリスは性行為の性交体位におけるアダムの支配的地位を拒否し、そして彼を捨てて去っていった(「彼女は『私は下に横たわりたくない』と言い、彼は『私はきみの下になりたくない、上位にしかいたくない。きみは下位にしかいてはならないが、私はきみより上位にいるべきだ』と言った」)。

おそらく、陽毬の母も性的に奔放な女性で、陽毬は父親の解らない私生児だったようだ。そして、子供を置いて去って行った。
そのような女性はルールに厳格な団地社会には馴染めなかっただろうし、企鵝の会が団地の集会場という疑似家族や地域共同体でも、陽毬の母のような女は排除していったのではないだろうか。
その結果、リリスの私生児のリリン、誰にも必要とされない子供、セックスのカスとしての陽毬が残された。


ここら辺は、新世紀エヴァンゲリオンのアダムとされていた物を、リリスと見破ったのが、渚カヲルだった事を考えると面白い。渚カヲルのモデルは幾原邦彦という説があるし。庵野秀明監督はセーラームーンRにご執心だったし。

僕は14、15歳の時には、本当に絶望していて人生真っ暗だと思っていたんだよ。(中略)70年代まで安保闘争があったわけだけど、それも終わって「ああ、やっぱり世界を革命するなんてことはできないんだな」って空気が蔓延してたんだ。だから自分は20歳までには死ぬんだろうと思っていたし、それ以降の人生なんてオマケみたいなものだって思っている――そんな話を(庵野秀明監督と)したんだ。
幾原邦彦『ALL ABOUT 渚カヲル』(p.54)

ALL ABOUT 渚カヲル  A CHILD OF THE EVANGELION

ALL ABOUT 渚カヲル A CHILD OF THE EVANGELION

本を噛まずに飲み込むブログ - [考察]輪るピングドラム 第3話「そして華麗に私を食べて…」

幾原邦彦監督も片親だったし、そこは個人的にかなり重要な所だったんだろうし、だからこそ、陽毬の母はハッキリと出さなかったのかも。
(まあ、とかいって来週出るかもしれないけど。20話で高倉の両親が出ちゃったし!!!)
まあ、作家性とプライベートはあまり混同しないほうがスマートだと思うから彼の親の話はやめよう。


逆に陽毬の母はどんな人だったんだろうか?陽毬の行動から考えてみよう。
3歳の陽毬と6歳の晶馬は「動物禁止」の張り紙を読めなかったみたいだ。でも、陽毬は3歳なのにひらがなの手紙は書けた。それに、3歳の癖に「太陽のSUNちゃん」とか英語を言えたり、「この世界は選ばれるか、選ばれないか。選ばれない事は死ぬ事」と抽象的な概念を言えたりする陽毬。
アニメだから、と言ったらそれまでなんだけど、陽毬は3歳にしては賢すぎる。
おそらく、3歳の陽毬は漢字を書くような教育は受けてないけど、母親の言葉をすりこまれて覚えて繰り返して、それを自分の行動原理にする事は出来てたんだろう。英語のSUNくらいは母親が言ってたんだろう。
だから、陽毬の母は陽毬と居る時は「よその人から物は貰ってはいけない」とか「選ばれないと死ぬんだからね」「かわいいのは消費される」と言って聞かせていたんだろう。陽毬がそれを覚えこむくらいずっと言っていたんだろう。多分、男に選ばれる事が生きることに繋がる売春婦か水商売か、そういうリリス的な女だったのだろう。そしてうまれたリリンの陽毬は団地の部屋に置き去りにされたんだろう。
親が子供に生き方をすりこむ、というのは冠葉の台風の話や、ゆりや多蕗の幼少期の回想で描かれているし、親が子供とは関係なく生きているというのは荻野目夫妻の離婚と再婚を通じて描かれている。そういう前提があるので、「陽毬と晶馬の生き方を決定づけた陽毬の母は描かないけど、想像して、理解しろ」という離れ業ができるんだよな!
こういう全体構成で部分を編集するという文学的なうまさは本当にすごい事だよ!
ああ、剪定は花畑を美しくするな!

  • 男を惑わすボーダーライン人格障害の女、陽毬。

3歳にして、「世界で最初の男と女の話、私、本当は知ってたよ」とか嘘をついたり、置き手紙で男が追ってくるかどうか試したり高度な恋愛テクニックを使う陽毬である。
それは、陽毬が弱い生き物で、守ってくれる誰かを必要とするからだ。本能的な生存戦略なのだ。だからメンヘラドぐされゲロ豚ビッチ娘という風に簡単には言えないのだ。
よく、ボーダー女は精神的に不安定になってリストカットしたり、勝手にどこかに行ったり、逆に別れ話をしようとするとキレたりするから怖い!って言われるじゃん。でも、境界例人格障害の人はそれを打算だけでやってるのではなくて、本能的にやらざるを得ないという信条に突き動かされてるんだよ。

パーソナリティ障害―いかに接し、どう克服するか (PHP新書)

パーソナリティ障害―いかに接し、どう克服するか (PHP新書)


この本によると、パーソナリティー障害者には幼少期の体験から自分に価値がないと思う人が多く、価値がないと思ってるのに無理やり生きているという矛盾から、生存戦略として特殊な能力や魅力を身につける人が多いと書いてあった。
上記書では、死んだ兄と同じ名前を付けられたサルバドール・ダリや、小さい頃から物乞いをするために芸を磨いたチャーリー・チャップリンや、立身出世のためにパトロンを誘惑したココ・シャネルなどの例が挙げられていた。
また、戦災孤児の中にはシェルターに保護された後も他人に全く甘えなかったり、逆に過剰に甘えたり、という生存戦略を行う者がいるという。
人格障害者は心にゆがみを持っているので、自分だけでは生き辛い。だから他人の気を惹くような不思議な魅力を発する美形や美女も多いらしい。また、哺乳類の赤ちゃんや鳥の雛がかわいいのは、保護者を誘惑して養ってもらうためという説もあるらしい。
小さな陽毬はその母親の性的な奔放さと、自分の境遇から、男を誘惑して自分を助けてもらうような本能的な生存戦略を身につけたのだなあ。


夏芽真砂子からすると、ずうずうしい子!なんだが。
真砂子もたいがいですが。


陽毬は普段は大人しいけど、解離性人格障害のようにプリンセス・オブ・ザ・クリスタルに人格が変わるし、家族の形を取り繕ってると苹果にいわれるように嘘っぽかったりする。9話で中央図書館そらの孔分室に行った時も、眞悧と哲学問答をしていたし。表面には現れないけど、陽毬は20話まで引っ張るほどの心の闇を抱えているんだろうなあ。表面に現れない分、激しいのだろうなあ。
また、学校に行けない所は回避性人格障害っぽいし、特に理由もなく体を壊して死にかけるような身体化症状は自己愛性人格障害者が現実の自分と理想の自分にギャップを感じて絶望した時に出るような物に似ている。
何でそういう分析ができるかというと、私も回避性人格障害者で依存性人格障害者(というか、たいていの人格障害は底辺で繋がっているらしい)で、社会不安障害で人と会話したり労働したりすると頭が痛くなるような病気だからです。今は3年ぶりに履歴書を書いたら5日くらい喉が腫れて喋れなくなって咳と高熱と下痢に襲われている。風邪薬は飲んだんだけどなあ・・・。
メンヘラ同士は臭いで分かる。


同じような病気を持っているのはかの名高きAIR観鈴ちんだ。幾原邦彦監督が影響を受けたであろうベルサイユのばらを作った事もある出崎統監督は劇場版AIR観鈴ちんが死ぬ理由を呪いでは無く「自分から死のうと思って網にかかる魚のような物」と言った。人格障害的には、実際に翼人だから呪われたという原作AIRよりも「何となく自分に価値が感じられないので病になって死ぬ」という出崎統解釈の方がしっくりくる。


陽毬の死ぬ病気も、結局何なのか名言されていないが、晶馬が「父さんと母さんが悪いんだ。陽毬の病気だって…」と言ったし、陽毬が死ぬ病気になったのはアイドルの夢を断念して高倉夫妻が失踪してからのようだ。精神的なエネルギーがなくなるから病気になったのかも。陽毬が9年前の台風の日に高熱を出したのも、高倉家の人々に精神的になじめなかったから、高倉家の人たちの寵愛を確かめるために病気になったのかもしれない。メンヘラは自分の意志とは関係なく、精神エネルギーがなくなると病気に成る。僕のかかりつけの心療内科医が言っていた。


しかし、そこまで自分の心と体をギリギリまで追いつめてまで自分に選んでほしいと不器用にアピールする妹は、メンヘラ女っぽくはあるけど本当に萌える!!!しかも、そこを「最初の男女の兄妹になろう」って解決する晶馬もすごい!


陽毬の心の闇は終了1か月前になってやっとちょっと明かされるくらい深いものだったけど、1話からずっと引っ張っていたという事が、陽毬の想いの深さや重さを感じさせる。すごくシスコン的には考えさせられる構成だ。
最初の頃の陽毬って妹キャラらしく、特に理由もなくお兄ちゃんと相思相愛で、女の生臭さの無い美少女だという風に、闇を描かずにいた。
1話から簡単に全裸になっても大丈夫なくらい清潔感がある美少女で、胸も成熟してない小娘の13歳だった。けど、ここにきて3歳のころから男を惑わし生存戦略に命をかけ続けていた必死恋愛少女地獄妹だと明かされて、とても強烈です!もう、妹ってすごいんですよ!!!

  • でも、妹の恋は実らない

なぜって?だいぶ上でも書いたけど、妹は恋人じゃないからだよ。
晶馬は陽毬の運命の人だったけど、その運命の人としての役目は高倉家に迎え入れた所で終わって、その後は退屈な日常を共に過ごす兄でしかなかったからだ。陽毬も最初の運命的情熱は忘れてしまってたし。
晶ちゃんは、ずっと一緒にいる。安心できる。学校に行かないけど、陽毬をお姫様扱いしてくれる。そういうお兄さん。
外交的な冠ちゃんもいるし、さびしくない。
付かず離れず、追えば逃げ、逃げれば追われる上手く行っていた兄妹の家族ごっこ。陽毬は母親に捨てられたし恋愛に臆病だし、その割には頭も良くて13歳にして勝間和代ライフハックの本や村上春樹を読んだりしているし、学校にいってないけど色んな本を持っている。英語版不思議の国のアリスとか。
そういう頭が良くて恋愛をする気の無い女の子の陽毬にとって、兄のお姫様。っていう位置はとても居心地が良かったのだろう。運命の男女という事を忘れてるのも、初恋の情熱だけでは永遠のお姫様の日常はできない、という生存戦略だったのかも。知らんけど。



だけど、突然晶ちゃんがそっけない。逃げられた!


なんで晶ちゃんが突然そっけないのか?1話で陽毬が「晶ちゃんのお味噌汁って、お母さんと同じ味がする」って言った時は晶馬は陽毬に光輝く星を見てデレデレになって「ひぃまりぃ〜〜〜」と甘やかした。でも、20話では「やめろよ。高倉家は俺たちだけだ」と突き放した。というか、現実を言った。
それは、あの女のせい。


苹果が8話で、陽毬の知らない所で晶馬に「陽毬ちゃんやあんたたちって家族のふりをしてるだけじゃない!」と言って、18話でいつの間にか晶馬を支えて「ずっとそばにいるよ」って嫁入りポジションになって、それで晶馬も「なあなあで家族のふりをするのはよくないな。しっかり現実を見よう」っていう気分になっちゃったからだよ。だから、陽毬に現実を言っちゃうんだよ。ごっこ遊びの兄妹だったのに。
女ができたから!
陽毬の場所を取って、嫁が来たから!
陽毬は決して苹果が憎いわけではない。むしろ苹果と友達になったのは陽毬が先だ。だけど、陽毬が何もしないで入退院していた間に苹果は晶馬とボーイミーツガールを着実に進行して、温泉旅行までして、失恋や家族の秘密を分けあったり、多蕗にやられた冠葉と陽毬を二人で支え合ったりっていう、着実な嫁入りを進めていた。
(というか20話に及んで陽毬がペンギン帽子の能力を知らないで何にもしてない、というのもすごいよな。サイバディをワコが終盤まで知らないSTAR DRIVERみたいなもんだよ!)


でも、晶馬は陽毬と1回目はSUNちゃんを介した男女の関係で、子どもブロイラーでの2回目のプロポーズでは陽毬を妹にした。女では無く妹として暮らすのが居心地が良いと思っちゃってる。それは陽毬もそうだった。
逆に女としての部分が強い荻野目さんに対して、晶馬は親や妹の秘密も相談するほどの信頼感を持っている。荻野目さんは高倉家の罪を知った上で一緒にいてくれる特別な女の子だし、苹果にとっての晶馬君も桃果ではない苹果を知っている共犯者な伴侶だからなー。


冠葉はプリクリとは初恋のような命のやり取りをしているが、陽毬からはただの兄。冠葉はがんばってる兄貴なんだが・・・。運命の人では無い。冠葉と陽毬は血のつながりもないし、晶苹の事を考えたら冠葉と陽毬がカップルになると、現時点では収まりが良いんだけど。
でも、冠葉が陽毬と男女の関係に成ると、新しい「選択」「線引き」ができて三兄妹の関係は崩れる・・・。


どうなるのだろう?
妹と女の境目のドラマって、本当にシスコンとしては精神的にはらわたを引きちぎられんばかりの興奮です!妹だからこその魅力、妹だからこそ親友に兄を取られる展開って良いね!
陽毬は女友達の苹果と兄の晶馬を自分の箱庭の中でロールキャベツで仲良くさせようとしたのに、苹果が兄の嫁ポジションになったら後悔してモヤモヤする妹って最高じゃないか!しかも陽毬は真砂子から兄を取ったというポジションでもあり!ドラマチックやん!



ところで、陽毬が「逃げる相手を追いかけても、そういう人はこっちに実りの果実をくれない」「キスをしただけじゃむなしいよ」「キスは消費されるんだよ」「キスをし続けたら心が空っぽになって凍りつくんだよ」って眞悧と恋愛問答をして、眞悧は「心が空っぽになるギリギリまでキスをし続けるんだ」「良いじゃないか、キスができたんだから」「君はキスがしたいのかい?果実がほしいのかい?」「気持ちに任せろってことさ」「キスだけが果実なんじゃないかな」と返した。
渡瀬眞悧は陽毬の情熱を煽っているようだ。アイドルの夢が破れた後、13歳にして余生モードに成っていて20歳で死んでも70歳で死んでも変わりの無い引きこもりの陽毬に、青春を謳歌しろと言っているのかな?ペンギン帽子で高倉・夏芽兄妹に物語のきっかけを与えたのも眞悧のようだし・・・。
しかし、眞悧には眞悧の目的がある。夏芽真砂子に揺さぶりをかけて日記を燃やさせようとしてるし、彼の言葉は相手の本当の幸せを願ったものではなく、相手を操るための物。では、陽毬を薬や言葉で元気にさせて行動させて、彼は何を手に入れようとしているのだろうか?


晶馬は陽毬に既に果実を与えているし、これ以上の果実はもらえない、と、陽毬は思うのだろうか?
いや、でも、兄妹愛タブーを犯すのなら、一夫一婦制を打倒するハーレムエンドでも良いかな?
それとも、果実って妊娠かなー。プロジェクトマタニティーもあるし、誰かが妊娠するエンド?


まさか、陽毬が桃果が小学生の時に産んだ子供という事は無いだろうけど・・・。ねえ・・・。

  • 余談


このマンションって、京都日野小児童殺害事件の犯人の自称「てるくはのる」が自殺した向島ニュータウンのマンションに似てるなー。
彼は1979年生まれで2000年自殺か。
僕と95年の酒鬼薔薇聖斗事件やネオ麦茶は1982年生まれですね。うん。
まあ、そういうダメ人間の影響も感じられるピングドラムですよね。