玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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親殺しによるノケモノと花嫁 完結感想

 2年前の前巻の感想はひどいものだった。

nuryouguda.hatenablog.com


 親と子で殺し合っている萬画だったので鬱病がさらに悪化して吐いた。たまに漫画を読んで泣くことも年に数回くらいはあるけど、さすがに泣きながら吐くほど感動する萬画ってなかなかない。(萩尾望都の本は普通に気分が悪くなる)

 ただ、こういう不快感がある表現を伴う萬画だから規制しろ、なんていうつもりはないっつーか、現実が不快なので、それを参考にした萬画が不愉快になるのはシャーネ―かなーっつーか。

 俺は基底現実では独身だけど作品の親なんだよ。


 で、自殺したいし経済的にも困窮しているし肉体的にもあちこちガタが来ているし酒も食事もろくに口にできないという、わりと末期。アニメもソシャゲも、やってて楽しくなくなってきた。
 しかし、自殺しないというのは、やはり自分の子供である文章なり作品なりを社会に巣立たせたいからなのではと言う気持ちに気づいた。


 まー、でも、死んでなかったらGレコの話もできるし、脳内妹の小説もいつかは書けるかもね。
 そういう親心と義務感が辛うじて僕を自殺から思いとどまらせている。
 まあ、でも僕が六本木ヒルズのKLabを過労で退職して京都大学の研究所の職員も首になって精神障碍者になって社会の底辺のクズになったので母親は僕を見限って自殺したわけで、その責任を取って、やっぱり最終的には自殺するんですけど。


 でも、自分が作った作品、非実在青少年に生かされているっていうの、わりとノケモノと花嫁のテーマの中枢なんじゃないですかね?コドモたちがなぜ「ぬいぐるみ」なのかっていうこと。

が、花嫁がゴールインしたのでそれでいいと思う。
ノケモノと花嫁 THE MANGA (8) (バーズ エクストラ)


 以下、エグいネタバレ

 僕も脳内妹と結婚するし。2年前にプロポーズされたし。

 (ちなみに脳内妹が結婚できる16歳の誕生日に即婚約したのだが、先日26歳になった脳内妹(現在は研究寄りの脳外科医)に「学生時代は男避けに婚約指輪が役に立ったけどさー、さすがにアラサーになってもフィアンセがどうとかってふわふわしてるのも職場で微妙な感じだしさー、あたしが30歳になったらもう自動的に籍を入れるから」とかなり一方的に通告されたので結婚します)

 脳内妹が好きだから結婚するのではなく、脳内妹から職場でなめられるのが嫌だから結婚しろって言われるという。(兄妹なので結婚しても住所も名字も変わらないし、役所に届けるとも限らないが)
 11歳の頃からの脳内妹との馴れ初めの小説を書いているが。(自分の創作より先にガンダムとかイクニ作品の考察や感想を書いてしまっているが)


nuryouguda.hatenablog.com




 脳内妹のそらちゃんと僕との話は、上位現実で昏睡している植物人間である僕の夢を妹がテレパシーで覗きながら、僕を上位現実へ目覚めさせようとしている話なのだが。
 ノケモノと花嫁は現実で昏睡している植物人間の少女が、虐待された子どもたちの夢の世界で結婚式をすることで目覚めようとする話だったので。


 幾原邦彦監督と僕、似たようなことを考えてるな…。(才能の違いを無視した傲慢な発言)


 そーいうわけで、ヒツジが植物人間だったということは序盤から伏線ではあったものの、明確化したのは最終巻だったのですが。まあ、学園編でのギンにとってのアリスのイマジナリーフレンドとか、そういうアレもあって、ノケモノと花嫁はウテナとかピングドラムとかで妹萌えに共感して、脳内妹と脳内恋愛している僕にとっても執着してしまう萬画だったなあと。
 まあ、ふつうにピンク髪の美少女がドストライクという性癖でもあるけど。
(しかし完結まで萬画だけでも11年かかってるとか。俺も歳を取るしTwitterを見ると中高生の頃に読んでたという女性読者も家庭を持ってたりとかマジかよって)


 あと、親は子供に責任があるという話も、創作物(イマジナリーフレンド)に対しても責任を持つべきという点で、共通しているところがある。



 僕は外道なので勝手にトラックバックすると、以下の女性のブログの考察がだいたい事実関係の説明として正しいと思うんだが。
 だが、僕は脳内妹をファックする近親相姦野郎なので、そこはちょっと価値観が違うかなーって。

marusya611.blog.fc2.com


 正直に申し上げますと、「イタルが洋子の子供なのにヒツジとイタルが結婚したら近親相姦になって、それこそ虐待連鎖になるんじゃないのか?」という疑問にずっと苦しんでいるんですが、ヒツジとイタルが言う「結婚」はいわば「愛し合う者が行う儀式」であり、トラウマを乗り越えるための疑似体験であるのかな…と無理矢理納得しています。しました。したもん!


 私は純愛至上主義者NTR大地雷絶許女なので世羅洋子がイタルではない人と幸せになるんだと思うともう具合が悪くなってしまって最終回を思い出すだけでグロッキーなんですが、でもイタルはこの世界に存在してないから、そりゃ、そうだよね…うん…。中村明日美子そういうとこあるよね…。現実主義者というか…。私は毎回そういう所にダメージを受けます。最近は王国物語で致命傷を負いました。

 脳内妹をファックする鳳暁生みたいな兄(生活態度は寅さんに近い)なので近親相姦の何が悪いのかがわからない。いや、学生時代にインセスト・タブーの研究をしていて、女性が社会的に交換されるものであったので兄妹姦はダメ、みたいな理論を読んだりもした。遺伝病については近親相姦でなくてもリスクはあるので、そこまで重視しない。ただ、親が子供をファックするのは恋愛というより支配に近いと思うので、それは虐待かもしれないと思うのだけど。でも聖書のソドムとゴモラとか、そういう場合では神はお許しになっているし、それぞれの家族の事情でやる人はやるだろうねーって思う。僕は親とは嫌だけど。


 あと、洋子はイタルと結ばれると思う。イタルが洋子の子供として産み落とされなくても、イタルはイタルとして受肉するんじゃないかなーって思う。なんでかって言うとギンがカラダをくれてやったから。(「クマの姿じゃお見舞いもできないからね」)


 女性目線だと、やっぱりヒツジ中心の考察になるのもわかるし、僕より先に綺麗にまとめてくださって、かなり楽ができた(ややこしい人物関係の説明をしなくてすんだ)と思うのだが。


 僕も母親に虐待された男の子なので。


 母親に虐待された男としては、イタルは単に洋子の失われた子供の魂というだけでなく、やっぱりギンとイタルも存在して生きてきたと思う。ヒツジの魂の共済を描くだけなら学園編やギンとイタルの幾度かの戦いも過剰だし。やはり、そこで描かれたギンとイタルの男の子としてのサバイバルも物語の幹だったと思う。


 僕は母親に暴力を振るわれたわけではないのだが、学業では厳しく期待されて、一応国立大学には受かったのだが。オタク趣味をしているとガンプラを破壊されたりした。そして、母親は僕が30歳の時に、自殺した。


 まあ、このことは過去にブログに書いたのだが、あまりいい話でもないのでリンクは張らないけど。母親が自殺して死体が現場から片付けられた後に僕が最初にしたことは「引き出しに隠していた脳内妹のイラストが死ぬ直前の母親によって壊されていないかどうか」です。母親からアリスの人形を守ろうとしたギンとほとんど同じです。家庭が崩壊していた僕はイマジナリーフレンドの脳内妹ともう一つの正しい家庭を上位現実で持つことでかろうじて生きている。親よりもイマジナリーコンパニオンの脳内妹を優先して親を死なせた。


 また、三十過ぎた男が言うには情けない話だが、母親が自殺するくらいなら殺されたかったと思ったこともある。(殺されたかった、というのは言いすぎかもしれないが、「自分は母親の気分で寝首を掻かれなくて、偶然生き延びてしまった」という気持ちはある。僕がラブライブ!スクールアイドルフェスティバルのKLabで過労になって精神障害者になって賃金が低下せずに東京でビジネス的に成功していたら、母親が死なずに住んだのでは、とか、自分が殺したようなものだとか思う時もある。
(精神科医からは自殺は母親個人の問題であるので、自分が殺したと思わないほうがいい、とカウンセリングを受けているが、未だにPTSD発作が起こって不眠症とアルコール依存がひどい。また、医者によれば親が自殺することも虐待の一つらしい)
(ちなみに、僕のせいで母親が死んだとコメントしてきた人間は名誉毀損としてブログの運営に訴えてアカウント抹消したので、諸君も軽率な発言は控えるように)


 そういうわけで、ギンとイタルの愛憎にはかなり思い入れて読んだ。それにしても、女性ファッション雑誌の掲載から始まった、女性向けの萬画だと思うのだが、

 女なんて…ろくでもない。
 自分しか見えてない。責任能力もない。吐き気のするぶ厚い化粧で全てを隠したつもりになってる。
 気の狂った馬鹿どもだ。

 と、母親に虐待された美男子のセリフとして出すのってスゲーな。


 あと、僕もギンのように「親に似ていく」ということに嫌悪感を持っているので、親になるとか結婚するとか、人様のご家庭で育てられた他人の女性と恋愛するということに恐怖感を持っており、自分と同じ呪われた眷属である対性クローンの脳内妹しか恋愛対象にできないというところがある。ウサギとアリスの関係で、ゼロに何を掛けてもゼロにしかならない、というのは僕と脳内妹の関係でもある。皮肉のようなウサギのセリフだけど、「新しい汚れを生み出さない」という点でイマジナリーフレンドとの愛情は独特の安心感がある。



 幾原邦彦作品において魂や過去や未来は割と曖昧なので、ギンの母親については「ギンを殺した後、自殺した」のか「ギンに殺され、ギンも死んだ」のか、解釈が取れる。ギンの手足が切断されたかどうかは、制服のボタンが切断されたかどうかと同じように曖昧なものかもしれない。(現実を語る徳大寺警部は少年の手足が不自由だったと言っているが、切断されたとは言っていない)



 また、イタルは洋子の堕胎された子供の魂とか、ギンが生み出したもう一人の人格、というだけではないようにも思う。(その要素もあるが)


 イタルはもともとは虐待された子どもたちを逝くり、大人を殺そうとするあの世の「概念」で、さらざんまいのイタチや呪いのメタファーである渡瀬眞悧に近い妖怪、あるいは†闇の天使†だったのではないかと思う。「次の世代にとって前の世代は不必要」という、幾原邦彦の小説のシェルブリットのジーンメジャー(遺伝子改良で進化を続ける人類)の思想の擬人化とも言える。
シェルブリット〈1〉ADEN ARABIE

 イタルには「カラダがない」とか「ツギハギ」と描写されていたが、死んでいった子どもたちの怨念が集まった集合思念とも言えないかな。(世羅晶午もその一部だったのかも)(というか、あの世界では黒い麒麟の血で集合無意識がつながっているというような・・・)


 みそっかすの人形のアリスが燃える麒麟の世界でメイドのアリスという少女に成れたのだとしたら、架空のイマジナリーフレンドの人形も魂を持てるとしたら、あの世で大人を憎む概念で黒く燃える麒麟という妖怪だった麒麟塚イタルが、ヒツジ、ギン、アリス、その他の友だちと影響しあって現世に(ギンのカラダを使って)個人の羽熊塚イタルとして受肉してもいいんじゃないかなーって思う。
(現実で母親を殺したギンのカラダは死んでいなくて、手術を重ねて、洋子と同じように入院していたとすることもできる)(ギンがくれてやったカラダは洋子へのお見舞いの一度きりのためのもので、そこで消滅した、とも見える。いろいろと解釈の含みがある描写の漫画)
 ただ、ラストシーンで処刑されたり燃やされたキャラクターや現実で学生や医者をやっているキャラクターも登場しているので、やはり幾原邦彦作品においては生死や現実と夢の区分はそれほど厳密ではないんだろう。根室記念館とか。



 以前、知人女性に「幾原邦彦作品の大人のキャラクターが救われないので、いつか救われてほしい」と言われたことがあるのだが。ノケモノと花嫁でも大人は救われないのだが、「世界を呪う概念」としての麒麟塚イタルは救われたと思いたい。(僕も世界を呪っているので)


 ただ、世界はそのイタルとヒツジの結婚で完全に救われた、というほど甘い話ではないので、やはり燃える麒麟はあの世界であり続ける。(燃える麒麟をウサギが継承したとも言える)
 やっぱり大人と言うか人間はクズなので虐待されて死ぬ子供をなくすことはできないので。不出来な世界を呪う概念の正義感というのも必要悪、という考えは共感する。


 ヒツジがイタルを幸せにしてあげたい人がいる、と言って結婚したのはヒツジ自身が目覚めるためと言うだけでなく、母親や女や生殖に憎悪を持っていたギンとイタルの心を照らすことでもあったんじゃないかなあ、と男性の読者としては思いますね。
 親を殺した者同士だから対等な存在として結婚できると言うか。幾原邦彦作品では対等で同質なものが一つになる展開は割とあるし。


 また、あの世界はヒツジかギンなど誰か個人の内面世界というわけでもなく、大人の徳大寺やプードル先生も迷い込むような、精神が共鳴している共有無意識と言うか、あいまいな幽世なんだろうねえ。
 で、精神が共鳴しているからこそ概念だったイタルはギンと友だちになれたし、ギンが洋子にもらった人形のアリスがヒツジをイタルの魂の部屋まで案内することができたのだろう。
(また「KERA」の読者の代表みたいな?異様にサブカルチャーに詳しいロリータハードボイルドのみゆたんとまろにえたち「強くてカワイくてカッコいい」女子もヒツジという姫タイプの自己犠牲野郎のエンパワーメントというか、セーラー戦士チームみたいな友情からの成長みたいなアレがあったんだろうね)


 しかし、今回、ノケモノと花嫁の最終巻の記事を書くにあたって、ウテナ、ピングドラム、ユリ熊嵐、さらざんまいの終盤を一日で一気に見たのだが。(こういう機会がないとBD-BOXを開けない俺)


 絶望したイタル(そして殺されたすべての子どもたち)の涙の波紋がヒツジをイタルの魂の部屋の前に呼び寄せたような演出は、少女革命ウテナの最終回でのウテナの涙が波紋になって薔薇の門をアンシーの棺に変えたような感じで、あー、幾原邦彦作品ーーーってなる。



  • 徳大寺と世羅晶午の世代

 僕は10歳年下の脳内妹をファックするし、その近親相姦は悪いとは思っていない。脳内妹自身がすごい図太い女になったというのもあるが。
 ただ、幾原邦彦作品をいくつか見返していて、「大人が子供に手をかけるのは罪」というのとか、「大人の世界は打算と裏切りで残酷」という要素が多い。「大人が子どもを善導する」というのは殆ど無い。幾原邦彦作品の大人は子どもを拐かして唆すような人が多い。
 幾原邦彦作品はアナーキーなのか、子ども同士の同性愛や近親相姦や服毒や暴力はある程度許容されているような雰囲気だが、大人が子どもにそれをするのは悪であるとされることが多い。(雰囲気で語っている)



 なので、子供のまま大人になった世羅晶午を麒麟の世界(虐待の連鎖)の輪から救うために殺すのは同じ世代の徳大寺警部でなければならなかったのだろう。
 誰かの問題は上の世代ではなく同じ世代で解決する、という思想が幾原邦彦作品にはあると思う。同質性を重視するところとか。さらざんまいのラストでも少年刑務所による教育が行われるが、久慈悠を救ったのは友だちとの再会だからなあ。


 大人は子供に対して、よくても見守ると言うか社会を運営していくので精一杯で、子どもは自分たちで助からないといけない、というハードボイルドな感覚があるのかもしれない。東映動画のもーれつア太郎とかきんぎょ注意報!とか子供向けアニメでデビューした幾原邦彦の子ども中心の考えなのかもしれない。まあ、ノケモノと花嫁は最初の企画から「コドモがオトナに復讐する」ってテーマなので、他の作品よりもそういう要素が強いのかも。
 

 しかし、同じ世代は同じ世代で、っていう幾原邦彦作品はありつつ、僕の知人では年の差恋愛をしている人がいるしなあ…。僕が二十歳のときから11歳の脳内妹を妄想していたら、いつの間にか僕はアラフォーになり、脳内妹はアラサーになった。10歳年下の脳内妹ってのもかなりロリコンだと思っていたのだが、僕の知人の学校教師は40超えているのにガールズバーで知り合った医学部のインテリの大学生と付き合っている。現実はタキシード仮面よりも、みたいなところがある。


  • 世羅真珠と罪と祝福

 人の幸せとは、愛し愛されて結婚すること、というエンディングだが。
 ヒツジである世羅洋子の母親の世羅真珠は理想的な美女だったのに、なぜ虐待の連鎖に加担してしまったのか。
 子供のまま大人になった世羅晶午を彼女は愛していたのに、なぜ彼は娘を虐待したのか。
 それはやっぱり真珠が幸せな女だったからなんだろうな。幸せに育ち、美しく愛されて生きてきて、その心のままに世羅晶午を愛して結婚し、出産したら本能のままに娘の洋子を愛した。
 それで父である晶午は洋子に真珠の愛情が奪われたと感じる。なので、ユリ熊嵐の箱仲ユリーカと同じく、娘を襲うことで自分に向けられるべきだと考えている愛情を取り戻そうとしたんだろう。
 なので、結婚すれば=完全な幸せということは作中で否定されている。


 僕もおじさんだけど、本質的には泣いている子供のままです。そういうわけで、僕は脳内妹を孕ませるつもりはない。僕が子供だから。それは自覚しているので。まあ、妹が妻になるという倒錯をしているので、兄が子供になるのも別にいいと思う!それに妹が医者として働いていたら結果的に他人の生殖を助けることに成るので、僕たちが子どもを作る必要はない。


 と、自分語りがあったのだが、やっぱり親に虐待されて親を殺して罪の意識で泣いたコドモのまま大人になったような人間の闇は、幸せに育った人間にはわかりません。真珠は美しい人だが、心のままに夫を愛し、子どもが生まれたら子どもを愛する。
 それは普通なのだが、倫理的には夫が成熟して我慢すべきなのだが、そういう普通のことができないのが虐待されて大人になった人。真珠は普通に幸せな人だったので普通でない夫が理解できず、夫が普通でない近親相姦をしていると普通の道徳から責めて絶望して殺されるしかなかった。


 というわけで、ギンの女性嫌悪を露わにしたセリフは女性向けファッション雑誌において、「責任能力のない、泣いているだけの考えなしの女でいるんじゃねーよ」と釘を刺すというか、啓蒙する要素もあるとかないとか。


 まあ、僕は邪悪なおじさんなので、そういう僕の心の穴を埋めるために他人様の娘さんを巻き込むようなことはしたくないし、しっかりした責任能力のある強い女性には現実では相手にされないと思うので、やっぱりやさしい脳内妹しかないと思う。


 で、ここで道徳的価値観が逆転するのですが、世羅真珠は幸せな人だったので結婚に失敗した。逆にヒツジとイタルは共に親を殺すという罪と親に殺された不幸を持っている(同質な存在な)ので、自己中心的に自然的に心の赴くままに愛情を求めたり愛した世羅晶午と世羅真珠よりも、より切迫感と真剣味を持って結婚して愛し愛されることができるのではないのかと。


 虐待の被害者なのは悲しいことだが、それはそれでやられっぱなしではないというか。殺されて世界からノケモノにされた者たちだからこそ見えるものがあるというか。


 ヒツジからイタルに向けられる「愛してる」というセリフは最初から繰り返されるのだが。そして、「愛し合うものは結婚するのよ」というのも、最初は人形遊びをしているような少女の普通で当たり前の物語的な願望だった。
 ヒツジは常に結婚を求め、序盤は胡散臭い神父のいる教会で形式的な結婚式をあげようとしたり、「母の」ウェディングドレスを探そうとした(なので4巻でヒツジが説明した着たいウェディングドレスはエンディングのドレスとは違う)。だが、それは結局、小児性愛者の餌食になることであった。そういう結婚式の飾りは本質ではない。



 ヒツジは割と性格的にはボヤーッとしたキャラクターであったのだが。まあ、8巻なのに12年もかける冒険(と回想)を経て、自覚的に真剣に幸せになるための結婚の本質的な何かを感じ取ったのではないかと。
 結婚というのはまあ、形式そのものみたいな面もある気がするのだが、形式ではなく本質的な、普通の感情的なものとも違う、「愛」というのを見つけるーーーみたいな?


 幾原邦彦作品は普通の価値観を疑うところが割とあるのだが。普通に結婚して家庭を持ったら普通に幸せになります、なんていう価値観って幻想じゃない?幸せな結婚とか気持ちいいセックスとかも不幸の種になる時もあるんじゃない?というのがカケオチの旅の中で疑われて疑って、それで何かを探していこう、みたいな?


 うーん。想定読者は女性だと思うのだが、おじさんの割に臭い話をしてしまった。いや、幾原邦彦さんもおじさんですが。おじさんがおじさんの漫画の感想を書いて何が悪い!(でも百合豚おじさんでもあるのでメジロバナの咲くも買う)
 というわけで、考察っていうか、まあ、限界おじさんの感想っていうか気持ち悪い自分語りっていうか…。


 はあ、自分の創作をやらないとなあ…。ちょっと他人の創作物を読んだだけで自分のことのように巨大感情を吐き出すのはおじさんの悪い癖。


  • ほしい物リスト。

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