玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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#劇場版ピンドラ 後編 葬られた英雄について #きっと何者かになれる

 ネタバレ感想するけど。

HEROES ~英雄たち


 まあ、結論から言えば葬られたヒーローは主人公の高倉冠葉、高倉晶馬のことなんですけど。
 運命の列車での運命の乗り換えと、同時並行している中央図書館「そらの孔分室」のエレベーター書架が崩壊して疾走する、映画的にブチ上るシーンでA.R.Bの「HEROS~英雄たち 運命の乗り換え」が鳴らされて、「幻想が造り上げたヒーローを葬り去れ!」って連呼される。ドラマチックに盛り上がる歌の使い方だ。

 そこで高倉兄弟が呪いの声に対抗して「それがどうした!」って言い放つのって「さらざんまい」以降みたいに幾原ファンからよく言われてるけど、むしろ「劇場版 美少女戦士セーラームーンR」じゃんって僕は思う。もう初映画監督作から30年くらい同じテーマでやってるのか…。
美少女戦士セーラームーンR


 イクニファンの友達からもらった「劇場版 美少女戦士セーラームーンRメモリアルアルバム」での幾原邦彦インタビューでも「世界を救ったのは美少女戦士セーラームーンではなく、何のヘンテツもないただの子どもとしての月野うさぎ」って幾原邦彦監督は言ってたわけで。
 だからスーパーヒロインのセーラームーンだから世界を救えたんじゃなくて、月野うさぎが優しい子だったからってだけなんすよ。
 それと同じで、輪るピングドラムの高倉兄弟もヒーロー性を葬られたけど、別にヒーローじゃなくても世界は救えるだろ!って話。


 「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」って言葉が2011年当時はキャッチーだったわけで、何者かになれるかどうかで悩む人が増えた。シロクマ先生ですらそういう本を書いた。買ったけど読んでないけど。(鬼畜)いや、僕はロングスリーパーなので。

何者かになりたい



 ただ、「劇場版 美少女戦士セーラームーンR」の時点での幾原邦彦監督はまだ若かったし、90年代前半の時代性もあって、「自分が幸せじゃない人は人を幸せにできない」とか「アイドルや月野うさぎは自分が幸せそうだから、周りの人を幸せにできる」って言ってたけど、まあ、その後のバブル崩壊不況も続いているし社会や家族のつながりも不安定になっていたし、近年のインターネットSNS文化ではアイドルも幸せそうにしているお仕事の舞台上の姿だけではなく私生活もさらされて攻撃されたりする。(月野うさぎは実家が港区にデカい一戸建てだし高学歴の彼氏と付き合っていて金持ち)


 そういうわけで、輪るピングドラムのダブルHは大ヒットしてるアイドルだけど、アイドルになれなかった高倉陽毬からの友達としてのプレゼントをとても喜んだし、サンシャニー歌劇団のトップスターの時籠ゆりさんもスターだけど友達の桃果がいなくなったので満たされない。


 だからアイドルになれるかどうかとか特別な何者かになるかどうかは、21世紀の幾原邦彦監督としてはどうでもいいんだよ!そういうステータスとか社会的地位や他人の評価やお金じゃないんだよ!


 で、僕は僕で「きっと何者にもなれない」という言葉は単にラストで高倉兄弟が、この世から消えて「何者でもないからこそ、どこへでも行ける切符を手にした特別な存在になった」とという事実を予言しただけのセリフだと思っていたし、そこまで「何者にもなれない」ということにショックを受けていないつもりだったんだけど。
 プライベートな話だけど、僕はどうも社会不適合者のようで労働をするたびに過労死しかけて精神障碍者保健福祉手帳を発行されて無職をしている透明な存在なんですけど。
 無職のわりにこういうよくわからないアニメ感想ブログを書いて広告収入とか読者の人からの食糧支援で糊口をしのいでいる、ねずみ男みたいな妖怪ですけど。


 でも「何者でもないからこそ、どこへでも行ける高倉兄弟」ってのも、ある意味幻想が造り上げたヒーローのように見えていたんだよね、って気づかされた劇場版。


 なんか冠葉は自分の内部のこどもシュレッダーで透明なガラス片になって、晶馬は運命の乗り換えに伴う呪いの炎を荻野目苹果の代わりに引き受けたりして、「痛みに耐えて成果のピングドラムを出した!感動した!」みたいな感じになっちゃって、自ら透明な存在になることで、むしろヒーローとして神格化されちゃった面も、幾原邦彦監督の自己反省としてあると思う。
「きっと何者にもなれない」というパワーワードが独り歩きしちゃったという面もあると思う。なので「何者かにならなくちゃ」みたいな風潮も出た。特にSNSの普及とかで、なんかみんな自分の写真を盛ったりしているし。



 だからテレビ版の輪るピングドラムのラストで何者でもない、どこへでも行ける世界の果ての外の少年になった高倉兄弟は割と高次元の存在というか、それはそれで幻想が造り上げた英雄だったんだよね。


 で、彼らが次にどこに行くかって自分で選べるときに、どこに行ったかっていうのが劇場版で付け足されていて、そこがとてもよかった。


 何者でもないしどこにでも行けるけど、どこに行きたいのかって言うと「一人で泣いている子を見つけてあげたい」です。尊い。


 ペンギンに支配された世界とか変な世界にも行けるんだけど、とりあえず最初に行きたいのは「一人で泣いてる子を見つけたい」なので。いや、まあ、ベースが宮澤賢治の銀河鉄道の夜だし、「雨ニモマケズ」みたいに東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリっていうのも追加シーンとして全く違和感がない。むしろテレビ版の尺でできなかったのを足したって感じでもある。(それでもテレビ版の最終回は色んな要素を30分番組の枠にぶち込んでいて、機動戦士ガンダムの第一話くらい完璧さがあるんだけど)


 「きっと何者かになれる」というのは、「アイドルになる」とか「前世からの因縁」とか「痛みに耐えて努力する」とか「社会的に成功する」とかそういうこと、そういう条件付けの上の幻想が造り上げたヒーローとしてのステータスじゃないんだよ。


 泣いてる子がいたら慰めてあげる、別にそれに対して見返りは求めない。泣いてる子が自分と血がつながっているかとか、同じ人種なのかとか主義主張が同じなのかどうかとか、かわいい子か不細工な子かとかも関係ない。
 泣いてる子がいたら優しくしてあげる、その程度のことで何者かになれるんだよ。そうしたら高倉兄弟以外の運命の子供たちも愛してるって言えるし、泣いていた子も愛してるって言えるようになるし。輪るピングドラムのメインキャラクターの運命の子どもじゃなくても、世界中のほとんどの子どもたちはみんな同じなんだよ。
 そうして海と空と太陽と世界に対しても愛してるって肯定して言えるんだよ。


 だからこの輪るピングドラムという結構へんてこな映画だけど、テーマとしては「人にやさしく」ということです。


 めっちゃ普通だな!


 そういう普通の優しさを普通にできる人でありたいものです。
 とりあえず中学生以下の子どもが見ているところでは狭い道で車が来てなくても赤信号では横断歩道を渡らないような、できる範囲のところから・・・。(労働者としての僕はマジで性能が低いので)

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