玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

機動戦士クロスボーン・ガンダムDust 9 コミュニケーションの真摯さ

 表題でコミュニケーションの真摯さと書いたが、9巻と10巻の感想を放置している間に一昨日出た11巻を買ったので、すげー雑に感想を書く。Gレコの映画とかがあったし、僕も風を引いたり精神病が悪化したりゲームにハマったり。
 不眠症で昼は眠いのでソシャゲくらいしか出来ないのに、夜は寝なくちゃいけないのに目が冴えるというダメダメな生活なのでざっと書く。


機動戦士クロスボーン・ガンダム DUST (9) (角川コミックス・エース)


 昨日書いた2つの記事も、このクロスボーン・ガンダムDustの感想を書くためのアイドリング感覚で書いたのだが、文章を書いていると時間感覚がおかしくなってアイドリングだけで就寝時刻を過ぎてしまった。



 

 まあ、9巻は宇宙戦国時代の人口問題とか資源問題とか戦争とか兵器とか戦法について、色んな意見が出てくる本だった。(雑なまとめ)
 ちなみに10巻と11巻はまだ読んでいない!


 SF的にも、ロボットアクション的にも、色々とアイディアがあった。90年前の一年戦争からだいぶ経って、ニュータイプという言葉もすでに陳腐化した超感覚者同士の戦闘中の読み合いとか。バトルの展開の小道具としても面白いけど、その首切り王の感覚が彼の思想の表現にもなっていて、濃い。富野ガンダムを受け継ぐ形でもあるので、戦闘中に議論したり、その議論のライムバトルでモビルスーツバトルの結果も変わったりする。
 そういう濃い感じの演出はやっぱり好きですね。


 長浜ロボットもののビクトリーファイブをやっとこさ先日読んだんですが。(ゴッドバードの方を先に読んでいた)
 長浜ロマンシリーズのロボットってやっぱり昭和だし科学の発展を信じられた時代の明るさがある。まあ、長谷川裕一先生の漫画は敵はキチガイが多いけど主人公とか読後感とかは前向きなんですが。それでも宇宙戦国時代のカツカツ感は長谷川裕一先生の明るさを持ってしてもなんともならないディストピア感がある。


 あと、地球環境を保全するために宇宙移民するのが宇宙世紀イデオロギーって連邦軍の士官が言っていて、「シャアの思想がなんだかんだ言って普及しちゃったんか」と思った。


 地球環境を保全するために宇宙に移民したら、今度は技術の崩壊で宇宙で食えなくなって、でも地球に戻ったら不法居住者として粛清される、自縄自縛になっていくような未来社会。

 

  • コミュニケーションの描写

 ほんで、首切り王の言葉をフォント・ボーが「感染する毒だ」って言ったり、虐殺器官とか、その監督を努めた村瀬修功氏が手掛ける閃光のハサウェイのアニメ映画でも「言葉で人が殺せる」という言葉があり、そういう感じの作品の影響を長谷川裕一先生も取り入れているのかなーという感じなのですが。



 虐殺文法とかニュータイプ感覚だけでなく、この萬画9巻で印象に残ったのは、いろんな意見、というかコミュニケーション手法が描かれているなあということで。



 アーノルド・ジルベスターの演説に隠されたジェスチャーとか、センサーがついてないモビルスーツを操るという超能力者の首切り王の超感覚でもわからない、レオとアッシュの間の信頼関係とか。
 過去の親からのビデオメッセージとか、密会での会話とか、自分に言い聞かせるために子供に理想を語ったり、子供の為を思っている親の言葉が子供の気持ちを縛っているんじゃないのか?とか。
 ベタだけど振られるための告白とか。小ネタとして語られるニュータイプのチェスの腕前とか。
 フォント・ボーの理想的なインフラ回復政策に対して、アーノルド・ジルベスターは宇宙戦国時代の資源状況ではインフラの回復を待つ余裕はないと反対する。で、主人公であるアッシュ・キングもアーノルド・ジルベスターのことを嫌っているけど、アーノルドと同じように現実の実地を見て「間に合わない」という点では同じ考えを持っている。でも、人を生かすかどうかについての行動は全く逆。


 ガンダムだしバトルアクションや戦略描写と同時並行でこういうコミュニケーションの描写がある。かなり繊細で多種多様なコミュニケーション描写をやっていると思う。ガンダムなのでニュータイプ的な精神感応がガンダムらしさだと思う人もいるけど、Dust9巻はそれにとどまらない多様なコミュニケーションが描かれている。善人側のキャラクター同士が対面して話し合っても決裂したりするし。でも気持ちは通じてるみたいな感はあるとか。


 まあ、ガンダムはロボットアニメで戦争が舞台だけど、ガンダム00とかユニコーンほど「対話」を強調しなくても、ファーストガンダムの時点からニュータイプララァとの関係とか、ホワイトベース内での苛立ちと脱走を繰り返しながらの関係構築とかシャアの能力はあるけどちゃんとできない生き方とか、描写されていたので。ガンダムは人のコミュニケーションの話でもあるんですよねー。いや、それはドラマなんだから当たり前なんだが。


  • 大事なのは真摯に向き合うかどうか

 で、まあ、悪人の首切り王はすごい嘘をつくし不誠実なのだけど、その言葉が多くの人を動かし扇動して略奪に駆り立てたりする。アーノルドも大衆に対して嘘をつくけど、その演説に感動する市政の人もいるし、そのおかげで主人公たちが助かったりする。コミュニケーションの微妙なすれ違いについての描写が結構深い。


 ただ、ざっくりいうと悪役側のキャラクターは自分の執着のために他人に嘘をつくし殺すし、自分の内面しか考えてない感じで不誠実。
 善人側のフォント・ボーやアッシュは相手の内面を慮って自分の行動を変えたり、自省する。
 だが、フォント・ボーがアーノルド・ジルベスターの暴走する部分を矯正できると考えているのもうぬぼれがすぎないか?という感じもあるし、一筋縄では行かない。


 細かいところだが、多層コロニーサイド1ネオ1バンチを統治するバンス王に対してアッシュが「あんたの気持ちが娘に乗り移っちまってる」と、富野節みたいなセリフを言うのだが。それはアッシュ・キング自身が7巻で祖父の理想と戦って決別して成長したから言えるセリフなんだよなー、というキャラクターの行動の連続性がいい。かなり重いセリフなんだけど、アッシュはグリプス戦役からVガンダムまでの富野キャラみたいな根暗ではないので、そのあとに笑顔で冗談めかして場を収める。この萬画としての一コマ一コマでの雰囲気の作り方も熟練を感じる。


 レオ・テイルも似たような感じで親と真摯に向き合って決別して成長する。それがバトルアクションにも組み込まれていてうまいなーって思う。バトルの盛り上がりと、内面的な葛藤の盛り上がりが同時にやってて、萬画力が高い。


 で、主人公たちは善人なので相手のことを考えて真摯に向き合おうとする。でも、すごい嘘つきの煽動家の首切り王ヘッド・ハーベスターもかつては人民や社会に対して真摯に向き合って仕事を頑張っていた。それが裏返ったので他人の命をもてあそぶような狂気になったけど、それは悪いことなのだが、もとは真摯さが強かったせいなので。単純な悪い野盗とかよりももとが真面目だったからこそ、それが反転したときの狂気のレベルがすごいという。


 その危険性は主人公たちにも内在している。木星共和国タカ派とかとの緊張状態もあるので、主人公たちの行動が果たして善の要素だけで行けるのかっていう怖さもある。相手と真摯に向き合っていくのはいいことだし、相手にも内面や心があると尊重するのは善の行動につながるのだが。それが裏返ったのが首切り王だし、地獄みたいな戦国時代の現実に真摯に向き合っていくのも、相手の人格を認めた上で戦って殺すのもしんどいのでは?というのがある。


  • 子供への真摯さ

 病気の子供に対してその場しのぎのことを言えないレオ・テイルも真摯なのだが。


 やっぱり長谷川裕一先生は長浜ロボットものとかガンダムとか子供向けのアニメのアンソロ作家だったわけで、子供に対する真摯さみたいなのが重視されるっぽい。富野監督も子供に対しては本気で作品を作るって言う。(大人に対しては、まあ、政治もある)


 そんで、子供の一言がヒントになってアッシュ・キングの大作戦のアイディアになる。これはロボットものの作劇としては、ある意味アナクロな展開でもあるのだが。
 ただ、その子供もアッシュにヒントを言うためだけに配置された子ではないので、ちゃんとアッシュと人間関係を年単位で構築しているので。


 僕は主人公が脇役の一言で行動を転換する展開が嫌いなんですけど。0080の終盤のバーニィとか、全体はいいけど、そこだけ嫌いなのですけど。
 

 まー、「言葉に対して真摯に向き合うかどうか」というテーマに沿った行動が9巻では幾人ものキャラクターによってなされているので、この場面も「アッシュは子供の思いつきでも真摯に考えに取り入れられる人物である」という一展開として許容できるかなあー。って思う。いや、理屈っぽく言ったけど、最初に読んだ時は、アッシュはいいやつなんだなーという印象でした。作劇論というのもあるが。


  • F91と首切り王

 機動戦士ガンダムF91という映画がTVシリーズに続かずに不完全燃焼した企画だったので、鉄仮面という魅力的なキャラクターも不完全燃焼だった。(肉体的には燃え尽きたけど)


 でも、機動戦士クロスボーン・ガンダムシリーズはF91の続編でもあるので。


 首切り王は目で見なくても超感覚で人の命が銀の花に見える。そして、人が狂気に堕ちて裏返るところは赤と黒の花に見える。



 銀色のビギナ・ギナのセシリーの百合の花と、赤黒いラフレシアの花の直喩ですね。



 というわけで、F91のラストシーンの感動がここで恐怖になるわけです。


 逆襲のシャアニュータイプアムロ・レイサイコフレームとかで人の心の光をアクシズを押し返す奇蹟レベルで見せたけど、その次作のF91では全人類にアピールするほどではないけどシーブック・アノーニュータイプ能力とF91のバイオコンピューターで宇宙を漂流していた好きな女の花を感知するっていう個人的な奇蹟を起こしてラストシーンがラブシーンとして綺麗にまとまった。
 (また、シーブックラフレシアを覆う鉄仮面の狂気のイメージを「宇宙のもののけ」と嫌悪感を憶えて感知していた。首切り王はその赤黒いラフレシアのような狂気こそが美しいと思っている)


 で、シーブック・アノーは好きな女の一人の命の花を感知して感動のラストシーンに言ったけど、首切り王ヘッド・ハーベスターは戦場の多くの敵の命を銀色の花として見ていて、それが死ぬときの最後の光が美しいとか言う。
 めっちゃ悪いんだけど、感覚能力としてはF91の主人公のシーブック・アノーの延長線上に首切り王ヘッド・ハーベスターがいるんじゃないのか?という理屈も成り立つ。


 シーブック・アノーは好きな女の命の花だけを集中して救うことで善行をなしたが、その能力を同じベクトルでパワーや範囲を強化して、戦場の敵の命の花も見えてしまったら狂うよねって言う。でも、首切り王は「命を散らす花火の祭りをしたい」って言うけど、それは善人だった頃の家族との祭りの幸せな思い出がベースになっている感情なので、悪いんだけどつながっている。


 コスモ・バビロニアの鉄仮面の不完全燃焼した「人口を減らす」ということもDustでは「そうしないと全体が滅びる」という切迫感で描き直そうと取り組んでいる。
 首切り王は事故でサイボーグになったが、そのサイボーグの身体感覚からくる狂気的発想は鉄仮面カロッゾ・ロナの描き直しとも見える。富野監督はダイターン3F91クロスボーン・ガンダム無印だけサイボーグを描いたけど、割とサイボーグみたいなのを嫌悪しているっぽいのでやらなくなりましたけどね。(ブレンパワードのグランチャーの義手と義足がそのメタファーだったのかもしれないけど。あとGレコのボディスーツ)他の人のガンダムでは結構出てくるサイボーグ。
 義手や義足は現実の人も使っているのでセンシティブな題材ではある。キンケドゥ・ナウをサイボーグにするのはどっちの作者のアイディアだったのだろう?



 で、クロスボーン・ガンダムサーガとしてはF91からVガンダムの時代を経て、世代交代していったり、前作の主人公を乗り越えていけるか、みたいな要素も当然ある。
 それで、Dustの巨悪の首切り王の悪の感覚がシーブック・アノーの善の感覚と大差ないのではないか?という善悪の相対化が、ハッキリと強調されているわけではなく、単に首切り王が短く述懐した独り言から、僕のようなガンダムのオタクは読み取ってしまうわけで。
 宇宙世紀0123年から0133年に主役をやったシーブック・アノーやキンケドゥ・ナウを今更、宇宙世紀0169年に出しても、年齢的に乗り越える壁という感じにはならないけど、F91のラストシーンと同じ感覚を悪に反転させた超感覚能力者を巨悪としておくのは長いシリーズ物の構成としてはかなりうまいなあ。すげえなあって思います。

  • 明日は10巻を読むぞ!

 まあ、FGOのラスベガスもクリアしなきゃなんですが。去年やったけど素材が美味しい。
 しかし、「9巻ではいろんなコミュニケーションが描かれているね」というだけのことを文章にするので30分で終わると思ったのに1時間半かかってしまった。タイピングの速度を上げていかないとなーーーーー!!!!


 Gレコとかは短くても1万5千文字書くけど、今回は6600文字だったので、自分としてはざっくり書いたほうだと思う!

  • 前巻

nuryouguda.hatenablog.com

  • 目次

nuryouguda.hatenablog.com

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