玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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おにいさまへ… 13〜16 芸術だけが真実

宝島を見終わったので、2年数ヶ月ぶりにおにいさまへ・・・視聴再開。
輪るピングドラムとか、見てましたからね・・・。うーん。ゆっくり生きてるなあ。
しかし、ブランクがあってもあっさり物語の世界に入り直せると言うのが、さすがの出崎統の手腕だ。


美しい・・・。
躍動する生命。
限りある可能性の中で生きる事の美しさとはかなさ。それを言葉や説明ではなく、台詞と美術と音楽で、感じさせる出崎統アニメ。最高だ。
芸術だ。
出崎統は死んじゃったんだけど、生命感を感じる。いい・・・。
決して作画の丁寧さやデッサンやパースが完璧というわけではない。でも、最高だ。
物語とかフラグとかもキチンと説明されてない。でも、雰囲気が良い。アナログな、オーガニック的な何かがある。
原作よりも生命力が強調されている。でも、躍動する生命と言うテーゼは原作にもある要素である。
だが、原作には全くないエピソードや絵も混ざっている。
原作のアニメ化として原作の要素を活かした良さもある。
同時に、原作とは関係なく、何かの美意識のような芸術性がある。
原作のたった数ページから数十分のアニメ、数千枚の絵、何人ものスタッフを膨らませて・・・。豪華・・・。(逆に長い原作を短くまとめたAIRやGenjiも逆方向だが同じ角度で、ベクトルが最高)
ずっと見ていたいと思えるようなとてもいい原画やハーモニーや、かみしめたい台詞を、畳みかけるようにアニメーションして行くスピード感と濃厚さ。長く見ていたら粗が目立つ単なる絵を、作りごとの物語を、長く見ると心に傷を負いそうな辛い出来事を、辛いと感じる暇もなく畳みかけるストレス制御。ストレスにストレスを重ねることで逆に快感に変える芸術性、精神、生きる本能のようなもの。
決して一つの所にとどまっていないシナリオとアニメーションの流転。それでいて、その全体が、「それ」と感じられるような硬質感。
圧倒的な情報量で強いテーマ性を感じさせつつも、主義主張の具体的な説明を省くことで、逆に感性に訴えかける。
この様々ないくつもの二律背反を重ね合わせての、ギリギリのチューニングが「芸術」と感じる。この「高速で走っていながらも、その軌道はたった一つでしかない」という、最高のツーリングバイクや超音速戦闘機や宇宙船に乗っている時に感じるような高揚感。最高のライブ、コンサート、曲芸を鑑賞している時のような感覚でもある。
そうだ。これが芸術なんだ!
この一個一個の要素が「バシッ!」と決まりつつも、「ぬるっ」とひと塊りになっているような、全てが計算されているのに、何度見ても予測不可能な驚きと新鮮さを感じさせる。ああ、これだ。こういうアニメを見ている時、僕は生きていると感じるんだ!


あと、アニメ版の智子さんはやっぱり良い・・・。有賀智子さんみたいな友達が欲しい。原作ではシナリオのために使い捨てられたようなちょいキャラの仲矢さんにも一個の人生があると感じられる生命力。
智子さんは等身大の女子高生の良さをすごく出している。原作ではお嬢様たちばかりで、智子さんの出番が少なかった。
だが、同時に、脇役の存在感の大きさで人間臭さを増加させる演出と同時に、原作ではちょっと物語のパーツとして擬画化記号化されていた「ソロリティのおねえさまがた」「女子校の偉大なるキャラクター」「ネコ・タチ・レズビアン」という部分を「実際の女子高生」として人間臭く描いている部分がある。
宮様、薫の君、サン・ジュスト様たちには濃厚で美しい人々、と言う素晴らしい要素もありつつ、同時に普通の人間のような程度の愚かさ、努力の報われなさがある。努力の報われなさは原作にもある。だから良い。だが、「努力が報われない悲劇」という記号性を、アニメ版はもっと生っぽく人生にあり得そうな物としてチューニングし直している部分がある。記号性を生っぽくする技術には「シナリオと演出と感情の”揺れ”、”ゆらぎ”、”上下運動”」が使われている。
だが、その生々しさは、ナマっぽいのに、ナマそのままではなく、シナリオバランスワークとか撮影処理とかカメラワークとか絵柄の違い(ハーモニー)という超絶技巧によって支えられている。これが芸術の芸術として感じられる真に迫った所だ。自然主義でありつつ、浪漫主義のような所もあり、主義主張や技法を越えた所での「感性」のようなものがある。
智子さんのような「等身大側」の友達キャラが「芝居がかった時代劇っぽい言葉遣い」だったり。この「妙にテンポのいいセリフ回し」は出崎統作品にはよくあるキャラの演技だ。だけど、それが単なる技法の上手さではなく「感性の素晴らしさ」として観測できる。
原作では芝居がかかった台詞の多いサン・ジュスト様がアニメでは結構、俗っぽい部分や生っぽい弱さを見せたりもして。この二律背反の一体感がすごく良い。サン・ジュスト様の幻想シーンも幻想シーン演出と言う記号ではなく、何か突き抜けた所にある名状しがたい説明しにくい精神性を感じる。
唐突に挿入される、宮様の謎の乗馬シーンの突き抜けた感じもそうだ。同性愛創作の「ネコ・タチ」「受け・攻め」はかなり記号的な様式美で、非常にファンには議論されているジャンルである。だが、おにいさまへ・・・はそういう記号性を突き抜けた生っぽさがある。サン・ジュスト様がタチっぽい時やネコっぽい所もあると言う、その自由さ、みたいな。(高度に発達した百合作品は「これは百合ではない!」と言われる問題)
原作より格段にメンタルが安定している薫の君が、でもアニメ版では新しい台詞や表情の絵で感情的な所を見せたり。そのあやふやさが・・・。いい・・・。
原作からすごく要素を入れ替えているんだけど、すごく咀嚼している上で新しく描いているということで、別物なんだけど、逆に原作を尊重して並び立つ感覚がある。


あと、16話のスラムダンク前のバスケアニメであるバスケシーンがすごく良い。ほとんどバスケットボールを作画で描写してないのに、バスケ感がある。というのは、バスケの試合を見てる時のような「あわただしさ」がバスケ感。バスケを描写してないのにバスケっぽいという矛盾をはらんだ真実!バスケは芸術!
薫の君のぬるぬる動く1カットと、あとほとんど止め絵ハーモニーやアップの連続だったりする、全然バスケを描いてないのに、バスケのバスケらしさがすごくある。
信夫マリ子のバスケの説明過ぎる説明図解カットを入れた後の、全然バスケを描いてないのにバスケっぽいという試合シーン。試合の結果をすっ飛ばして語りやばい。
黒子のバスケとかスラムダンクのアニメとか、いや、原作もなんだけど、あと、キャプテン翼などのサッカー漫画もそうなんだけど、キチンと試合運びを説明すると逆に試合のスピード感がなくなって説明臭くなると言う、球技漫画の矛盾はあるんだが。おにいさまへ・・・は確実にスポーツアニメじゃなくて女子高生アニメなんだが、スポーツの本質である「生命の躍動」を感じさせる。これはほとんどちゃんと部活をしてないのに、謎のライブ感がある「けいおん!」や「てーきゅう」にも通じている!(ここはちょっと大げさ)
まあ、てーきゅう板垣伸監督は出崎統の大ファンだからなー。
スポーツアニメの試合の演出と言う点では、あしたのジョーでボクシング・スポ根萬画を抒情の域に高めた出崎統と言えよう。
だから、これは抒情であって、女子高生がダンクとか女子高生が超高速乗馬とか、そこら辺の野暮なツッコミを入れてはいけないのだ。いや、そういうツッコミを乗り越えた所に、マリ子の薫の君への気持ちのよくわからない流れに象徴されるような芸術性がある。




うん。いい・・・。



実はこのアニメを見ている期間に親が死んだので、人が死んじゃうアニメはすごく精神的にきつい気がしたんだけど、圧倒的に面白かったので良かったです。(まあ、13〜16話では死なないけど)
やっぱり、良いアニメには何かの力がある。
まあ、つまんないアニメやドラマや、糞みたいなニュースやバラエティは見ていて精神的ダメージになるんだけど、芸術性のあるアニメはストレスをも快感に変える何かがある。
芸術だけが真実じゃないのかな。