玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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ベルサイユのばら 第19話 さよなら、妹よ! 出崎統降臨!

今回から出崎統チーフディレクターになった。
その前は長浜忠夫総監督だった。面白かった。
昨年から私の中で長浜忠夫再評価がすごいというか、ライディーン、コンV、ボルテス、ベルばらと見るとやっぱりすごさが・・・。さすが富野が一時は師匠と仰いだ人物。
長浜忠夫の作品は巨人の星は子供の頃に見て、一昨年からライディーンボルテスVって見てベルサイユのばらが一番面白いと感じていた。
長文の感想を書いた。
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私がなぜ、こんなに長浜忠夫編のベルばら評論を書いたか? 出崎統が好きすぎて後半はもっと長くなるからに決まっているだろうが!僕は富野喜幸と並んで出崎統を愛しているんだ!
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手のひらを返すようだが、出崎統が登場した第19話、もはや別次元のすごさ!

出崎統おもしろすぎるよー。富野アニメと出崎統アニメを見てる時だけ生きてる実感がする!
大学時代から、富野アニメと出崎統アニメを見ている時だけ、狂った人生のレールの歯車が噛み合う感じがする。それくらい、俺の魂のレベルで脳内麻薬快楽物質が出る!最高の芸術だ!


長浜忠夫編のベルサイユのばらは原作との改変点を比較考察する余地があった。
「このシーンとこのシーンの順番が入れ替わってるから、長浜忠夫の演出意図はこうで、オスカルの行動の理由はこうで、アニメ版のテーマは正義観や倫理観かな」と、考察する余地があった。
だが、出崎統、完全に別次元だというか、原作と全然シーンもセリフも事件の内容も全然違う!
もう、これ、出崎統じゃん!「原作の良さを活かす」とか「社会現象にもなったベルサイユのばらという大きな原作をテレビ向けに再構成」とかそういう次元ではない。
もう、出崎統としか言えない。そして、それが原作クラッシャーとかアニメーターの暴走とか原作の知名度を借りた二次創作とか、そういうレベルではなく、はっきり言って美しい!
もう、アニメ版のベルサイユのばらは魂が震えるくらい美しいから素晴らしい、としか言い様がない。
もう、考察とか解説とか感想を書こうという気持ちが失せた。見る前は「各話解説を書こう」とか思っていたが、そんなものが無意味になるほど本編が良すぎるので感想を書く気力がなくなった。もう、見るしかない。
いい・・・。これは。詩だ。萬画のアニメではない。おお。美しすぎて、悲しいシーンでなくても涙が溢れてくる。さきまくらさま・・・涙が止まりません・・・。


本当に、私は10年以上、社会恐怖障害、回避性人格障害パニック障害を患っていて、日常生活や勉学や仕事に支障があって、何もかも恐ろしくて不愉快な無間地獄で生活している。先日、私の母親が自殺して、さらに精神状態が悪化した。もう、こんな人生は間違っていると思って辛く感じている。
なのに、富野由悠季出崎統のアニメを見ているときは「俺は俺の人生を生きている」「俺はこの芸術作品を見るために生きている」と、生きる喜びを感じて元気が湧いてくる!
ストーリーの内容が自殺や殺人や不幸を描いていても、逆にパワーが湧いてくる!
家族に不幸が連続するドラマの連続テレビ小説 純と愛を見ていた母親は「どうしてドラマみたいに家族がうまくいかないんだろう」って言い残して自殺した。だから、不幸の連続を露悪的に描くだけのドラマは本当に糞だし、親の仇だ。
だが、違う、違うんだ。富野喜幸出崎統はどんなに辛い内容や鬱屈したものを描いていても、その根底に人間讃歌、人間の魂が人間の魂として燃えたり、燃え尽きたり、命を燃やすことそのものに対する慈しみと敬意がある!
だから、だからこそ、見ていて俺は生きていると感じる!
狂気や死が描かれていても、美しいと感じる!そう、俺の人生だって狂気や死に隣接している修羅場の連続だ。私だって自死遺族だ。だけど、そういう不幸にまみれた人生だとしても、そういうことも受け入れて人生なんだって、命なんだって、宇宙を支える力なんだ!そういうのが出崎統富野由悠季なんだろ!!!!

ベルばらの本筋、王道、あまりにも有名な場面からは一本も二本も逸れた横道にこそ、アニメ・ベルサイユのばらの魅力は溢れているように思います。
時にメインキャラを差し置いて・・・原作読んだだけならエキストラにも満たないような人物あるいはまったくの創作キャラに、アニばらはとてつもない役割を与え、画面いっぱい妖しく激しく動かします。そして、新しく命を吹き込まれた彼らは目を見張るような存在感でもって、物語をがっしりと支ていくのです。その結果、アニばらは原作に忠実または従順な従来のアニメ化作品ではなくなりました。故にアニばらは原作原理主義のお局様方から叩かれ続け、、場合によってはマジに弾圧されそうな場面もあったと聞きます。
しかし、原作があるからアニばらが生まれたのだし、アニばらがあるから原作があるのです。世間的にはまったく同じタイトルを持ち、内容的にはこれ程までに美味しく突っつき合う事ができる・・・このように活発かつ素晴らしい相互作用をもった作品を、私はベルばら以外に知りません。
http://www.ne.jp/asahi/s.cherry/blossom/sub71.html

ベルサイユのばらの考察サイトの女性も言っているが、もう、出崎統のアニメはベルサイユのばら以外にも、全部こんな感じ。あしたのジョーエースをねらえ!劇場版AIRCLANNAD源氏物語千年紀 Genji、全部出崎統は原作以上に命を燃やして!
全部原作を吹っ飛ばしてすべての登場人物に命を吹き込み、命は作品の世界を支える力なんだ!


最高すぎる!!!!

  • 蛇足ながら多少解釈をする

WEBアニメスタイル | アニメ様365日 第33回 『ベルサイユのばら』
ポリニャック伯夫人の娘であるシャルロットが、ド・ギーシュ公爵と政略結婚をさせられそうになった事から、精神を病み、遂には投身自殺をしてしまう話だ。
オスカルの許に、ロザリーという娘が身を寄せているのだが、この話では、ロザリーの育ての母の仇であるポリニャック伯夫人が、彼女の産みの母である事も判明している。
何よりもシャルロットが狂気にとらわれていくところから、ラストまでのテンションの高まりが凄まじい。中盤で、ポリニャック伯夫人が自分の産みの母だと知ったロザリーが、「かえって憎しみが増すばかり」と言ってのけるのも凄い。

そしてロザリーはオスカルの家から銃を盗んで馬で家出をしてポリニャック伯夫人の馬車を遅い、短銃を突きつける。
ポリニャック伯夫人を撃ち殺すかどうかをロザリーの自由にさせるオスカル。オスカルはロザリーの復讐心という炎を燃え尽きさせるまで自由に燃えさせる。ロザリーがポリニャック伯夫人の居場所を突き止め襲いに行くということを、オスカルは知って追いつくが、殺すかどうかはロザリーの引き金の指に任せる。

出崎統あしたのジョーでも、あった。「何よりも、自分がやりたいことに魂を燃やす事に価値がある」これが出崎統の主義!
これが命!
前回までの「倫理観、規範意識」の強い、長浜忠夫ヒーローとしてのオスカルなら、この復讐は絶対にここまでやらせなかった。原作でも「剣を教えたのは、お前が復讐を本当にするまでの時間を稼ぎたかったからだ」とうやむやにしている。
だが、出崎統版では「私はお前に剣を教えてやると言った。仇は必ず取らせるとも言った。あの時の私の言葉は全て嘘だ」
と、前回までのオスカルの行動を土台から崩すようなことを言う。「全て嘘だ」ってむちゃくちゃだ。まあ、全て嘘で「剣を教えたのは時間稼ぎのためだった」と言うのは原作通り。
だが、そう言ってやった上でロザリーが復讐の執念に沿って行動するなら、そうさせてやる、というのが出崎統のオスカル。
長浜忠夫のオスカルは「正義感、規範意識ノブレス・オブリージュ、義務、論理性」で行動していたために「貴族の義務を果たすために、腐った貴族に反発して革命派になる」という風の描き方だった。法を重んじるヒロイズムがあった。
出崎統は善悪の彼岸に立っている。だから、「復讐は悪だからやめろ」とは言わないで見守る。
アンドレと「復讐をしてなんになる。ロザリーが復讐をして燃え尽きて、そのあとどうする。我々になにかできるのは燃え尽きた後だ」と、あしたのジョーみたいなことを言う。


自分では何もしないのに権力を傘に切る女や貴族と、自分からやり遂げようとするヒーローの対比というのは長浜忠夫のバージョンでもあった。
が、出崎統のオスカルはそれ以上にやる気がある。そのやる気は「法」よりも「自分がやりたいようにやる」ことを優先させるほど。アウト・ロー。出崎統あしたのジョーや宝島やAIRなど、いろんな作品でアウトローを描いてきた。法の外の者。
だから、出崎統のオスカルが法よりも魂を優先させるというのは、出崎統第1回からスタートしていて、最高だ。命を感じる。命とは善悪を超えたところにある純粋なパワーだ。


池田理代子版の「女性として男の貴族社会に入り込み疑問を抱き、フェルゼンとマリーの恋愛からの流れで王室批判をする革命側になるフェミニズム的な」オスカル。
長浜忠夫版の「アニメヒーローとして、規律や正義や法を遵守するために、忠臣として王室批判をする侠らしい」オスカル。
そして、「男女も身分も法も超えて、命を燃やす」出崎統版のオスカル。
同じオスカルでも、ここまで解釈が変わるとは!三者三様である。


実の娘のロザリーに鉄砲を向けられて「私は死にたくない!撃たないで!撃たないで!!」
と言うポリニャック伯夫人。
カスじゃん。そういうカスだが、これもまたギリギリのところの人間の正直な行動かもしれん、っていうのが出崎統


原作ではロザリーが自分の娘だと知ったポリニャック伯夫人は
「たしかめなくては・・・あの娘のことを・・・お・・・お!神よ・・・・・・!」
と言う。
アニメではポリニャック伯夫人がロザリーが娘だと知ったのはロザリーに殺されかけたあと。
「あの親切だったニコール・ラ・モリエール、ああ、神様。私は忌まわしい悪魔に呪われている。どうか、どうかこれからの”わたくし”をお守りください」
って泣く。
ポリニャック伯夫人の自分だけの安全を祈る女のエゴイズムやクズさが引き立ち、そしてロザリーの妹のシャルロットの無理な結婚での自殺につながる説得力になっている。こんなエゴイスティックな母親とサディスティックな結婚相手に挟まれた11歳の少女は、そりゃあ心が潰れますよ。

WEBアニメスタイル | アニメ様365日 第33回 『ベルサイユのばら』
他にも見どころは多く、ドラマチックとはこういう事だと、言わんばかりの演出となっている。
また、この話では、蛙の口から水が出る噴水のカットが、ポイントとして何度も使われている。蛙は、おそらく獲物を丸飲みにする醜悪な生き物という意味であり、まだ幼いシャルロットを、権力で食い物にしようとしているド・ギーシュ公爵の象徴なのだろう。初見時は、そこまでは考えなかったが、噴水のカットのフラッシュバック的な使い方は、実に格好よく、痺れた。


最近、私は偶然(性的趣向から)マルキ・ド・サドを読み返している。なので、ベルサイユのばら出崎統1話のド・ギーシュ公爵の少女愛好嗜虐趣味貴族サロン原作よりもさらに気持ち悪いのだが、これは原作レイプではない。
原作のベルサイユのばらのロザリーとジャンヌはマルキ・ド・サドの「美徳の不幸」・「悪徳の栄え」の姉妹の対比を明らかに参考にしている。「おにいさまへ…」の御苑生奈々子さんも「愛読書がサド」だってソロリティ試験で言ってたし。

奈々子「はい、『星の王子様』のサン・テグジュペリと『赤毛のアン』のモンゴメリです!」
「『星の王子様』ですって?」
「『赤毛のアン』なんてまるで小学生ね!」
―いけない、子供っぽいと思われた!
―それじゃあ、ええっと、ええっと…
奈々子「サド! サドなんかも好きです!」
「まあ、マルキ・ド・サド?」
「あのサドマゾの?」
「まあ、素敵だわ! 中でもどんな作品がお好きなの?」
奈々子「あの… あの…」
「サドですって」
「いやらしい」

「よろしいじゃございませんの。進んでいて」

おにいさまへ…アニメ版第1話)

あ、アニメ版でもサドが愛読書っていうのは入ってたな。(以前の記事を訂正)
原作だと、星の王子様と赤毛のアン立原道造リルケになっている。


また、マリー・アントワネットとフェルゼンが仮面舞踏会で出会うのはサドの短編「オーギュスティーヌ・ド・ヴィルブランシュ あるいは恋の駆け引き」に似てるんだが、そこも若き池田理代子が取り入れたような気がする。
そういうわけで、出崎統ベルサイユのばらでサディズム愛好家の貴族たちを強調したのは原作の原案を掘り下げる行為で、最初から正しい。マルキ・ド・サド自身がフランス革命直前のフランスの貴族であり、その退廃した貴族の変態性欲を描いていたので、歴史の雰囲気として出崎統の演出は空気感が正しい。
あと青髭のまんが世界昔ばなしっぽさとかなー。
動画が見つかりません。3秒後に移動します。
出崎統はまんが世界昔ばなしの監督を「松戸館」名義でやっていたので、その経験もベルサイユのばらに活かされていることは想像に難くない。(「青ひげ」の回にどの程度、出崎統の演出が入っていたかどうかは「出崎統の世界」でも明記されていないので不明)


サド (古典名作集 1)

サド (古典名作集 1)

↑こちらに収録されているグリム兄弟の「人殺し城」はペローの「青ひげ」の原作になっていて、サディスティックな殺人鬼の話である。サド・グリム兄弟・ペローと池田理代子と世界昔ばなし・出崎統がつながっているわけだ。


そして自殺するシャルロットを描く姫野美智さんのレイプ目、聖闘士星矢に通じる滅びの美学があって最高すぎる。私は50代の母親が縊死して自殺した死体を見ているので、そんなに死体を美しいとは思わないのだが。
出崎統は、死を美化しているのではない。その、死というよりは、自殺する程に逆に美しく咲こうとして出来なかった少女の魂が燃え、燃え尽きる儚さを表現したのではないでしょうか!


僕は純と愛っていう露悪的な不幸を描いたNHKのドラマを毎日見ていた母親がノイローゼになって自殺したという経験を持つ。
だから、昼ドラやワイドショーみたいに人の不幸や死を露悪的趣味として描くドラマは大嫌いである。
池田理代子には多少そういうところがあって、今回のシャルロットの自殺も「貴族社会の汚さを表現するためのスパイス」として利用されるために作られたようなところがある。
あと、「ポリニャック伯夫人がオスカルの左手に怪我を負わせたので、オスカルがシャルロットを助けられず、死なせた。天罰だ」というふうなドラマツルギーとしてシャルロットを死なせている。池田理代子はドラマを作るために登場人物を弄ぶようなところがある。「おにいさまへ…」のサン・ジュスト様の自殺とかもそう。


だけど、出崎統はそれに反旗を翻して、死んでいくものを「死ぬまでは必死に命を燃やそうとした」と描く!
脇役の死をドラマのスパイス、添え物として、道具として扱うのがミステリ作家としての面もある池田理代子だとしたら、脇役にまですべてに血肉を通わせる演出家が出崎統だ。
それが命なんだ!宇宙を支える力なんだ!


君は、小宇宙を感じたことがあるか!

荒木伸吾と姫野美智の耽美さの中に生命のほとばしりを感じさせる絵、最高です!

追記
出崎統ベルサイユのばら男装の麗人オスカルに対するロザリーとシャルロットの百合的思慕を抑え目にしてるのがいいな。原作では「男よりもオスカル様みたいな女性と結婚したい」っていうフェミニズムだったし、「男性社会に翻弄される少女」「男性社会の中にいる女性だからオスカルが理想」っていうフェミニズム
原作ではロザリーとシャルロットがオスカルに対して性的レズビアン的愛情を持っていて「愛しているのに女性同士だから結ばれなくて」というところが強調されてた。
でも、アニメだと「オスカル様のバラのように綺麗に誇りを持ちたい」というふうに散っていったシャルロットの命が、男女というものを超えた命そのものという感じだ。
池田理代子の男女の違いを強調するフェミニズムは理屈っぽいし、歴史作家の池田理代子の第三者的な視点があるんだけど、出崎統は主観的だし理屈よりも命だからね!もう、命だよ。
池田理代子はミステリ作家や歴史作家としてキャラクターの死を道具にするところがあるけど、出崎統は本当にどのキャラクターにも命を吹き込んでいるし、本当に人の命や死に敬意を持っている人なんだなあ、と思う。
出崎統最高です。