玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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ラ・セーヌの星39さらばパリ(最終話)

見た!
面白かった!
富野だった!
イデオンはまだ途中で、富野作品の全部を読んだり見たわけではないので、全然浅いが!


この間、岡田斗司夫氏が

アニメ夜話で新潟に行ったときにさ、イデオンの話が出るわけよ。イデオンのことを語るわけよ。そしたら、それを見た人がブログに感想を書くわけですよ。そしたら「富野御大の作品…」って書くわけ。「富野御大」って書くからには、この人はガンダムとか富野さんが好きな人なんですよ。「富野御大」って言い方を富野ファンはよくするんだよね。富野さんの発言をウォッチングしてますよ、もしくは富野ファンの間でのジャーゴン(専門用語、業界用語、隠語)、業界内用語というのを私は使えますよというサイン、もしくは私は仲間ですよというサインをその人は出しているわけ。で、「富野御大の作品であるイデオンを私は未見であるが」って書いてあるんだよ。

(観客爆笑)

なーにが、仲間ですよだ!(茶目っ気たっぷりに)

(観客爆笑)

もっと恥ずかしそうに書けよ、てめーは!(笑)(愛嬌のあるツッコミで)



http://randal.blog91.fc2.com/blog-entry-343.html

と言う事を言ったらしい。
へーへー、すんませんねー。
いい機会だから言うが、僕が富野御大やおハゲ様と言う隠語を使うのは、単なるキーワード対策アクセス乞食にしか過ぎん。へっへっへ。


まあ、それはそれとして、ですね。
で、岡田氏はアニメを教養として語る云々と言うので、それは他者との間のヒエラルキー構造でしかないのではないか?と、個人主義ニートな僕は思う。
まあ、確かに、僕にとってもはてな界隈ではてブされたりすると、自己承認欲求を満たされてるなーって自覚する事は合って、優越感ゲームな部分はある。
と、同時に、だからどうした、どうせ死ぬじゃないか、とも思う。
が、

で、アニメーションを教養として語れないのは、こんなにアニメが好きなんだったら、もったいないと思っちゃうんだよな。なんかアニメを教養として語るなんてつまんないと思うかもしれないけど、じゃあ君は何を自分の中の教養として語れるの?といったら、アニメが好きで見てるのに、アニメすら教養として語れなかったら、あまりにもボキャブラリーが少なくて、自分の世界を語る言葉とか考え方自体が少なかったから、それって6色しかない色鉛筆で絵を描こうとしているみたいで、すごい貧しいことになっちゃうんじゃないかなと俺はおっせかいにも心配しちゃうから、自分の好きなものぐらいは、体系的に考えて歴史みたいなものを捉えて、教養として考えた方が、言語として長続きすると思うな。

と言う喩えならば、まあ、分からない事もない。
論壇ヒエラルキーの問題ではなく、内部ネットワークの複雑化というフチコマ的本能なら、わかる話だ。
蒙を啓く快感はある。
つーか、まあ、普通、自我を構築していく要素は女や仕事や学問なんだけどねえ。それってねえ。オタクって奴は!
まあいいか、俺はキモヲタだし。ブヒブヒ
自我・ストラクチャーになるっていうことはアニメでも教養的に語れるって言う事ね。
そりゃまー、路傍の石だって鉱物学ですけど。


↑マクラ


いや、羽織は脱ぎませんけど。寒いし。


ラ・セーヌの星の最終回である!
えーっと、すみません。実は、最終回だけ先に見てたので、今回は再見です。
やっぱり、全話見てから見たら面白さが倍増です。出崎哲パートも踏まえて!


ルパン三世-大隅正秋総監督!
イデオン富野喜幸監督!
(なぜか、監督の富野の方がオープニングのラストに止めでクレジットされている。どっちがえらいのさ?)
ザブングル吉川惣司脚本!
ザンボット3坂口尚作画監督
バカボン阿佐みなみ絵コンテ!
コン・バトラーV寺田和男演出!
という!
最強の布陣であります!
うおおおっ!おもしろいぞー!
作画は杉野昭夫がやるかもナ、って思ったけど。



んで、富野はリリーフなので、富野分が全て!という言い方は出来ないだろう。
でも、明らかに後年の富野作品に通じるものがある。


えーっと、古い作品で、ビデオソフト化されておらず、たまーにヤフー動画やケーブルテレビで放送されると言う状態なんですけど。僕は幸い入手する事が出来ました。
で、なかなかみんなが見る機会がないと思うんですけど、ネタバレです。







































  1. 島本和彦先生に物申す!

http://issoku.cocolog-nifty.com/suzume/2004/06/141_.html
ということです。
しかし!
僕は!富野を誉めたいっ!
ごめん、あたし、やっぱり、シマモト君より、トミノ君の方が・・・。
いや、島本和彦先生も作品の面白さを伝えるような面白いラジオをしたい、という意思表明はされていらっしゃるんですけど、それでも話の流れや限定された時間で批判的になっちゃうときもあるんだろーなー。と。
というわけで、トミノ弁護側としましては、「お茶の間の正義」というだけではない、との証言をしたいと思う。
なんでこういうことを深夜に必死こいてやっているのか、と言うと、
あたし、島本君も富野君も好きだから!あらそわないで!
いや、本人同士は争ってないが。
私個人の感情の決着は、つけさせてもらう。


一応、ラジオは録音してあるんで、聞きなおしてみる。

ラジオネーム「食玩買いすぎたッ!」さんですねー。
シマモト
「いつも楽しく聞かせてもらっています。
最終回と聞いて真っ先に頭に浮かんだのはラ・セーヌの星です。
それまではフランス民衆の味方として貴族と戦ってきたラ・セーヌの星
しかし、最終回で革命が成功し、マリー・アントワネットとその子ども達が処刑される事
(正確には、子ども達は民衆の手で自由と平等の再教育を受けさせられる事)になると、
牢屋(正確には、靴屋のシモンの家)を襲い、子ども達を助けようとするラ・セーヌの星
「おいおい、ラ・セーヌの星は俺たち民衆の味方じゃなかったのかよ?!」
(正確には「ラ・セーヌの星と言や、俺たちの味方だったはずなのに」)って言う、驚く民衆に、
「私は、弱いものの味方よ!」(正確には「私は、弱いものを助けたいだけ。」)
と言いながら去っていくラ・セーヌの星
(モナミン、笑)
おい、それで良いのかよ・・・。最終回でいきなり善悪をひっくり返すなんて、民衆ばかりだけで無く、見ているほうも、叫ばずにはいられませんでした!」
っていうお話ですねー。
いいお話ですねー。
(モナミン、あっはっはっは)
「お茶の間の正義」だからねえ。」


モナミン「正義の味方・・・〜〜」


シマモト
「見てる人が、「あっカワイソ」って言ったら、「あ、それはイケナイ事だな」みたいなね、みんなを助けなきゃ。
そんなことはありえないのに〜!!
(シマモト、笑)
ああ〜、何て言うか、「小手先の正義」が美しいよね!(シマモト爆笑)


モナミン
「小手先と言いましたか」


シマモト
「なんていうかなー。あのー、ねぇ?まぁー、ねえ?
あれで、よく、さあ?テレビとかラジオとかでもさあ、ニュースとかを読む時にね?
「これは本っ当に許せませんねえ!」なぁんていう「小手先の正義」がまかり通りますよねえ!
いやいやいやいや、いやいや、いや、まあ、ちゃんとねえ、あの、みなさん、ちゃんとした、方ですよ(笑)。


モナミン
「あははははははっ」


シマモト
「でも、萬画描くときも、やっぱり、「一つの事を正しく、行かせよう」と思うと、片一方は、犠牲にしなきゃいけないって言う事もありますよね!」


モナミン
「うぅ〜ん」


シマモト
「この辺を「小手先じゃない正義感」をもってくると、「最終回っぽいなあっ」っていう?
うーん。
たとえばタイガーマスクなんかは、今まで「虎の穴」っていう敵と戦ってきたんだけど、向こうは反則をしてくるんですよ。でも、フェアープレイで切り抜けるんですよタイガーマスクは。
ところが、最後、敵が強すぎ!ね?!
「エイ!敵を潰すために、俺も反則だ!」

タイガーマスク「虎の穴からもらったものをみんな返してやる!それで俺は、伊達直人に返るのだ!」

ねえ?とらのあなから教えて貰った反則をみんな叩きつけるんですよ!で、やるだけやって相手を半殺し状態。もしかしたら、死んだかも?て言う状態にして、
「ああ、テレビを見ている子供たちに悪い事をしてしまった!」

タイガーマスク「おれはグレートを倒すために反則で立ち向かった。だが、子供たちには分かってもらえると思う。おれの命がけのファイトを。悪に立ち向かう人間の勇気をきっとわかってくれたと思う。」

このままね、伊達直人はですね、あのー、外国に旅立って、しまうわけですよ。」


モナミン
「みんなの前から消えてしまう」


シマモト
「まあ、アニメ版なんですけどね。」


シマモト
「すごい、だから、何て言うかねえ。
だから、こういうことですよ!
許す!(笑)」


モナミン
「許す?」


シマモト
「『反則許す!』『やっちまえー!』って、うわー、これ、メッセージとしては子どもに悪いものが入ったかも。子どもって私のことだけど(笑)
いやいや、こーいう、これ、梶原一騎先生のタイガーマスクなんだけど、原作とテレビマンガはまた別でね。あのー、テレビの方は、あ、テレビじゃないや、
萬画のほうは、子どもがトラックに轢かれそうに成ったのを助けて車に轢かれて死んじゃうんですけどね。」


モナミン
「それはアニメでは許されなかったんでしょうかねえ?」


シマモト
「そうですねえ、やっぱり敵を完全に叩きのめす最終回。これはこれで、すごく素晴らしい事ですよ。
これ、梶原一騎原作モノのアニメって、「最終回の基本となる」事が多いです。
「ああ、最終回ってこういう風にすると、腑に落ちて、納得が行くんだ!」
だいたいは、主人公が破滅する事が多いんですけど。
例えば巨人の星でもね、」



以下略!

うーん、島本先生の言ってる事も分かるが、じゃあ、ラ・セーヌの星も「小手先じゃない正義」で「片一方を犠牲にして」「主人公が破滅する」っていう感じの最終回に適合して無いっすか?
うーん?
島本先生は男性なので、美少女戦士よりは梶原一騎に肩入れするのかしら?
まあ、ラジオ番組ってえのは「その場で楽しいトーク」が重要なんだし、こー言うブログでイチイチ突込みを入れる必要は無いと思うが。
だから、個人の感情の決着だってば!
っていうか、ラ・セーヌの星とか海のトリトンって、

善悪の逆転というよりも相対化といったほうがいいだろう(ポセイドンだって善じゃない)。
結局のところどちらが悪いという問題ではない。
どちらも一族のための復讐劇であることに変わりはない。

http://dargol.blog3.fc2.com/blog-entry-1817.html

なんじゃないでしょうか?
富野監督作品って言うのは個人の感情を激しく描くけど、どちらに肩入れ、と言う事もなく、激しいものを冷めて描いている所も在るのではないだろうか?
いや、ソーではないか?
うーん?
どちらにも、っていうかカテジナにもウッソにもカガチにも本気で肩入れしまくって、なんだか分からなくなってるんではないか?
誰ソレが「作者の代弁者」で誰かが「違う主張の人」で、他が「脇役」ではなくって、「全部富野!」っていうのがある気がする。
誰もが富野であり、また富野ではなく、バイストン・ウェルの中の個人なのでは?
うーん。いや、上手く言えんが。
島本先生と違って、僕は簡単に「わからん!」と言える立場なので楽だなあ。


トミーノは「だって、人間ってそうするだけなのよ」「そりゃ、人って、そうだけど…」というような人間に対する唯物主義?と同時に反する内的葛藤があるのが、なんていうか、富野で、好きッ!
というか、富野に関して書いている俺もなかなかに葛藤せざるを得ない。このやろー!




で、「同人誌版-燃えよペン5-クライマックスでケリをつけろ!の章」を読み返すわけですが。


うむっ!確実に面白いぞ!
なかなかためになるなあ。
だがしかし!ラ・セーヌの星にこの理論はどうか!と言う!
えーっと、燃えよペン炎尾燃先生の意見はこうだ。

まず人間の「内面」でテーマをクリアさせたあとで「外面」でもクリアさせる!
とにかくテーマさえクリアしてしまえば、あとは何をやっても大丈夫!合格だ

と、同時に、読者や視聴者が「外面」のクリアを「内面」のクリアに結びつけて読み解く事が必要と言う訳ですね!
炎尾先生!
そこらへんが、島本先生をして「ラ・セーヌの星は理不尽」という事に成っているんだろうね。
いや、えらそうですね!
俺!


というか、まあ、島本先生をネタに自分はどうなんだ?という事なんですが。


ボクは、ラ・セーヌの星は「敵の貴族をやっつけて勝つ!」というテーマじゃなくって
「敵をやっつけた後に、正義はやってくるのか?」であったり、
「そもそも、自分の敵って言うのはなにさ?」
「自分を不快にさせる奴は、何者であろうとどんな出自であろうと、ぶちのめす!」
「わたしはやりたいようにやるわ!」
「自分のやりたいことや幸せは、小さな愛でしかない」
ということかなー。とか思う。
というわけで、ラ・セーヌの星ってそんなに正義の味方じゃないと思う。つーか、富野作品って、「正義」というよりは「エゴ」の方が富野っぽいと思うなあ。
分かりやすく言うと、「正義は正義で在らなければならないという枷があるが、トミノはもっと自由にやりたいほうだいだ!だけど、自分と同時に他人もやりたい放題なので、もめる!」
という。
だってさー、ラ・セーヌの星が正義の味方で民衆の味方ならさあ、平民出身の警備隊員を斬殺するわけないじゃん。
ラ・セーヌの星は結局は自分(と周りの人と、気に入った人)だけの味方なんじゃねーの?
それでいいじゃん。
ボクはありもしない正義のために動く人よりは、そーいう人が正直でいいなあ。
まあ、強い人のエゴの前には真っ先に殺されるのがボクなので、なるべく「エゴを充足させるには正義っぽい事をしたほうが気持ちが良いなあ」っていう主人公のほうが好感をもてますが。


今、自己啓発の能力トレーニングのためにVガンダムを高速音声で聞いているんですけど(笑)、リガ・ミリティアについたウッソとクロノクルについたカテジナの差って、「第一印象で相手を気に入って縁ができたかどうか」でしかないかもしれないっていうのが結構人生っぽくて、しみじみとするわけです。


というわけで、お茶の間で思考停止したくはないと思う。
うーん。
色々とあるけど、シモーヌは貴族の血を引く平民なので、トリトンと同じくマレビト貴種流離譚なのかも知れんなあ。
まあ、そーいうのは多いよね。
ニュータイプもマレビトだし。エクソダス主義者の中の反対派のゲイナー君とか。オルファン組とか。
時間がなくて未見だが(笑)、神ファミリーもそうだし。メガノイドとかもそうか?
スタンダードだなあ。
キラきゅんはコーディネーターの中のスーパーコーディネーターというわけだが!
夢使いの三島塔子のモデルになった金田一耕介も地縁因縁や警察権から自由なマレビトだしなあ。
三島塔子自身はクライアント以上の因縁に囚われていはいるんだが。
イデっていうのは、双方の人類にとってのマレビトなのかもしれん。
ほほう!


というわけで、マレビトをホイホイと自分の味方だと思い込むことはこわいんだぞー。
というか、誰もが誰しもに対してのマレビトかも知れんわけで、僕らはみんな宇宙人!


それに、ラ・セーヌの星って言うのは団体行動したこともなかったしなあ。


あ、1,2クール目と、富野が関わった3クール目では、平民の描き方が変わっているって言うのもあったかもしれん。
なんていうか、前半は虐げられる個人という平民だったのだが、後半は貴族と同じように嘘もつくし人を裏切る人間として描かれるようになったと思う。貴族に擦り寄る平民もいるしな。
んで、敵も単なる生物で死にたくなくて気持ちよくなりたいだけって言う感じになったし。
最終回での平民は、大衆という固まりっぽく気持ち悪く描かれていたっぽい。


なんか、長くなってきたから、終わる。



えーっと、まあ、実際、18世紀の民衆も貴族も僕にとっては他人なので、どっちが正義でもいいや。知らん。
問題は、アニメが面白いかと言う事なんだが。
これが、いやあ〜。おもしれー。
やっぱり、トミノ絵コンテはおもしろいなあ。
何が面白いかと言うと、単純に美少女プロレスが面白い!あー、これだけで結構全肯定。
今回の戦闘は、
まず、花売り娘の格好のシモーヌが、初めて!変身しないで!姉さん被りにエプロンつけて、スカートのまま大の男を斬殺しまくり。
変身しないで戦うのは最終回だな!
その間に頭巾が取れて、スカートはボロボロに裂かれて、太ももを放り出しながらチャンバラ。
ストリップじゃん。
富野はあざといなあ。大好き。
そんでひとしきりサービスした後に、義兄である黒いチューリップが「ここはわたしにまかせて!」
確実に視姦していましたね。もっと早く来い。



次に、シモーヌと黒いチューリップが牢獄から川に飛び込む前に、河原に落下して大怪我する人を描く事でピンチ感を高めてるのが最高。


子どもを助ける所で最後の変身だが、窓を破りながらの両足蹴りとか、手の甲側の手首の骨による打撃(何て言うんですかね?)とか、妙に殺陣に凝っている印象だ。
トミノ格闘大好き。

あ、戦闘に関しては、島本先生の同人誌版燃えよペンのクライマックス特集で、存外に面白い部分を見つけた。

特訓は 今どき誰でもやっている!


敵だって主人公と同じ一日24時間生きているんだ。
もともと主人公より強いのなら主人公より練習してるのは当たり前!
練習量で勝ったら勝つ!というのは
理由にはならん!


ポイントはその秘密特訓で普通にはない「何か」を
心の成長につながる「何か」を得た!ということだ


心の成長があって初めて技術的成長につながる


マンガの中の戦いは技術的な戦いが展開されているようで、実は精神的戦いが展開されているべきなのだ

島本先生スゲーなあ。確かに!
と、いうわけで、すこーしだけ疑問が解けた。
一応、シモーヌはド・フォルジュ公爵家で剣の練習をしたわけだが、プロの軍人以上に強すぎる。
作中ではシモーヌの訓練だけが描かれていたが、敵だって練習しているはずなのだ。
マリーに「ラ・セーヌの星の力を持つあなたなら」って言われるけど、ラ・セーヌの星の力っていうか、腕力だし。
ということは、シモーヌは堕落した貴族や、税金に寄生している憲兵や、革命に浮かれている平民よりは精神が強い!と言う事なのかもしれん。
単に、金髪のお姫さまは無敵だ!という願望充足型美少女剣士かもしれんが
(笑)
警備隊長ザラールとの最後の一騎打ちは、正体バレの衝撃でザラールを動揺させないとやばかったかもしれん。
アムロ以上に訓練していたジオン軍もいたかもしれんが、やっぱりマンガは情動のものか?
うーむ。奥が深い。


細かい演出では、シモーヌに恋をする二人の紳士の対比がまず、面白い。
最初は、
何も持っていないし、官憲に追われている革命家で幼なじみのミランと、
名門貴族の嫡男でありながら平民を助けている強い義兄のロベール
が、互いにアメリカに行ったり国外追放されたりした後、
国民議会の議員のリーダー的存在と、没落貴族で無一文の剣士になってるのがおもしれー。
ミランは二度とシモーヌと会えなくなって、ロベールは結婚。わーい!やっぱり義兄だよなー。
しかし、ミランが最後にマリーに聞こえるように「子どもたちはラ・セーヌの星がさらって、永久に見つかるまい」と他の議員と話すのは、非常にグッジョブだ。
そういう男気はいいな。


ベルサイユのばらとは似ているところもあるのだけど、
ベルばらでは平民が「わしらがむすこに飲ませてやるミルクもなく栄養失調で死んでいくのをただ見ていることしか出来なかった時、あんたはぜいたくな宮殿で宝石を身につけ笑っていた」とか、マリー・アントワネットに恨み言を言うんだが、
ラ・セーヌの星では平民はそれを子どもに言うんだよな。「ベルサイユと靴屋とでは住み心地はどうだい?」「お前達がのうのうと暮らしている時、俺たちの子どもはミルクもろくすっぽ飲めないで、死んじまったんだぞ!」「自由と平等の精神をちゃあんと教えてやるからなぁ!」
うわぁ、いやらしい。
んで、ベルばらでは子どもはすぐに親を忘れて平民の中で楽しく暮らすわけだが。
ラ・セーヌの星では「誇り」を忘れずに叔母のシモーヌたちと擬似家族を作って、アルプスへ亡命。
どっちが幸せなんでしょうね?
つーか、富野って基本的に平民は愚民だと思ってるだろう。いや、平民の中でも考えを持ってる人と持ってない人は分けて描いてるな。



ベルばらのマリーは最後にフェルゼンの事を想って、ラ・セーヌではルイの事を想うが、それは本筋ではない。
ベルばらは女としてのマリーで、ラ・セーヌは母としてのマリーだったよーに見える。ラ・セーヌでは登場時期も子どもが大きくなってからだし。
そこらへんが女性作家と男性監督の違いとは言わんが。
ラ・セーヌのマリーが最後に白髪にもならず、髪も切られなかったのは、アニメ的な同一性のためか?髪を振り乱した鬼女の形相をさせるためか?
死ぬ前に髪をまとめたマリーの気持ちは、男のボクには計りかねる。


まー、ダントンはずっと子どものままなんだがな。ミランは貫禄がついた。



というか、ベルばらとの違いというより、史実との違いがひどい。
マリー・アントワネットが死んだのは、1793年10月16日なので、秋なんだろうと思うんだが。
冬です。
雪が降っています。
しかも、処刑と同時に「冬の雷か・・・」「おとうさまがおかあさまをよんでいらっしゃるんだ!」
演出過ぎ。
ルイ17世 - Wikipedia
ルイ・シャルルは行方不明説も出ていたそうだが、2004年のDNA鑑定によると、ルイ・シャルルは虐待されて死んだらしいです。
1975年のラ・セーヌの星では陰謀史観をちょっと取り入れていたっぽいな。
マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス - Wikipedia
姉の方も陰謀史観が在るようだ。
まあ、萬画だしな。



つーか、やっぱり∀ガンダムっぽい。そこら辺の富野っぽさが感じられる。
女王が退くところとか。ラストは田舎で擬似家族を作るところとか。
金髪とか。
というか、Vガンダムにも似ている。
擬似家族は。
っていうか、頭巾を被って雪の中を馬車に乗って去っていくシモーヌたちは明らかにカテジナさんっぽい。
ただ、シモーヌたちは擬似家族でカサレリアっぽいんだが、カテジナさんは一人。
あと、シモーヌたちは画面右上から左下に進むので、映像の原則的には順行で都落ち。で、シモーヌが「神よ、わたしたちにこのちいさな愛を育てるための勇気をお与え下さい」って言ったら、行列は上手から進む真横のニュートラルなアングルになって、それから後からの撮影で画面奥中央のアルプスに消えて、山の上には天使の階段が光っているんで、希望的な暗示。


でも、カテジナさんは全く逆のアングルです。下手から上手に向って進まなければいけません。たった一人で不自由な目で。
前途多難すぎる。
http://www.youtube.com/watch?v=JQmL2JjK-0E
ずっと、カテジナさんは下手から進むのだけど、シャクティとカルルマンと話すときだけは上手に配置されてるのが逆に悲しいなあ!
で、カサレリアから逃げるように上手の下へ進むんですよ。
ああああああ!
カテジナさん、カテジナさーん!
もうだめだ。


というか、富野由悠季監督の最終回の引出しってラ・セーヌの星のような序盤から、こうなのか?
三つ子の魂?
そこら辺をして、


次はイデオンとか∀ガンダムとかライディーンを見ますよ。
http://www.youtube.com/watch?v=XTdL0NZpea4&feature=related