なんだかんだで最終日。2日前に見てきたんですがフリクリオルタナ。
世代っちゃ世代なんですけど、いろいろとガタガタしていてフリクリは先週見た。
だから信者じゃないし、そこまで怒る必要はないが、問題点は感じた。
まあ、僕はガチのフリクリ信者のさめぱさんと面識があるし友達(だと勝手に思っている)なので、彼の言うことが全てだと思う。
それに対する補遺を書いて明日のプログレを待とうと思う。
samepa.hatenablog.com
すぐにオルタナの感想を書いたらよかったんですが、オルタナを見た後にラーメンを食いたくなっておいしいラーメンにから揚げと半チャーハンをつけて食ったら三十路にはきつくてフィジカルダメージを食らってました。
それもフリクリ―
- アニメーションとしてのフリクリ
ーー背景がフリクリじゃないじゃんね。
背景が小林七郎プロダクション出身でオネアミスの翼の美術監督の小倉宏昌(IG所属)だったんですけど。小林七郎と言えば少女革命ウテナで榎戸洋司さんとも関連があるんですけど。
なんか今回の美術監督の人、ググってもヒットしないけど何者だ?女性っぽいけど、どっちかっていうと輪郭線をブラウンのクレヨンっぽい感じで使うのはけいおんとか輪るピングドラムのフェミニンな印象が強い。
つか、OVAフリクリは美術にもかなり変化球を入れてきてたんだけど、今回のフリクリの美術はなんか学校の風景とか街の風景とか家の風景とかが一本調子で、あんまり面白みはない。
絵コンテもレイアウトも退屈だ。
元の貞本義行さんが原案したのはハルハラ・ハル子くらいで、残りは違う人がデザインしている。それってフリクリかー?キービジュアルとかパンフレットには貞本義行さんを使ってるんだけど。なんつーか、ガンダムの続編で主役ガンダムだけ大河原邦男だけど他のMSは違う人がやってるっつーか、まあ、それはナオ太君のガンダムハンマーというか、機動戦士ガンダムではガンダムだけ大河原邦男デザインじゃなくて安彦良和リライトが入ってるという問題まで突っ込んだらドム以降も富野メモなんですけどね!
というめんどくさい富野的なアレをナニしなくても、キャラデザが統一されてないのはなんだかなー。
-
- 音楽、ピロウズじゃなくてもよくなかった?
フリクリと言えばピロウズの音楽ってイメージの人が多い。OVAのピロウズの使い方は、盛り上がるシーンだけでなく、日常シーンでの軽快なリズム取りにも使われてて、インストゥルメンタルでもthe pillowsはいい味を出してたんだけど。オルタナではピロウズの使い方が、なんかガツンと来なかった。(曖昧な表現)
っていうか、ピロウズは鶴巻和哉監督がOVA当時好きだったというだけで、鶴巻さんじゃない人がピロウズを使うのも必然性がないっていうかさ。(つーかOVAでもピロウズ以外の楽曲は結構ネタとして使っている)
ピロウズって結構マニッシュじゃん。なんか、ナオ太君とか20世紀末の僕らみたいな男性オタクが背伸びして聞きたがるインディーズ系バンドみたいな雰囲気がある。ブランキ―ジェットシティーとか。でも、オルタナの女子高生って女子高生じゃん。背伸びしても、ピロウズやブランキーは聞かなさそう。だから、なんだろう。
上村監督がアイドルが好きならむしろアイドルソングとかもっと若い女子高生に人気のバンドやフェミニンなボーカルを使った方がまだフィットしたんじゃねーの?って気分がある。
こまかい音楽の使い方はプロじゃないのであんまり言えないんだけど、オルタナの4人組は煤けたマニッシュな印象のピロウズを聞くようなキャラクターじゃなかったんじゃねーのって思う。
一番フリクリっぽかったのが新谷真弓さんの謎ラップという…。新谷さんは18年ぶりなのに無茶ぶりされて違う演出家の元で頑張ってて、その、泣ける。
nuryouguda.hatenablog.com
割と自覚的に、「フリクリって尖った演出が注目されがちだけど、仮面ライダーやプリキュアみたいな広汎的な楽しい構図でも見れるよね」という感想を書いていた。
フリクリはギターで殴るんだけど、仮面ライダー響鬼みたいだし、最近のプリキュアも楽器で敵を弱体化させてからビームでやっつけるので、そういう戦法の構図だけ見るとフリクリとプリキュアは似てる。
だから昨年のキラキラ☆プリキュアアラモードで主役をやった美山加恋さんが新キャラの主人公をするのも、ある程度の説得力はある。
だけど…。
なんだろう。髪はオレンジになってエキゾチック反応を出したけど、プリキュアの変身に比べると、いや、そこはまだ変身しきれてねーだろ。って思うな。
海賊王アトムスクの力を奪ってギターをダブルネックにして「大人」の紋章を出した赤ナオ太は「変身した」と言えるけど、カナぶんは青少年の主張っぽいことを言った割りに、プリキュアや仮面ライダーほどの位相転換はしてないと思うし、なんか弾けきってねーんだよなー。
なんつーか、6話一挙上映という形式を取ってるんだけど、思春期の心の闇のトゲパワーから怪物体が生まれて、それをハル子が退治して、っていうプリキュアや仮面ライダー響鬼みたいな構図はオルタナでも踏襲してるんだけど、構図だけじゃん。って思う。
少女の心の闇で怪物体が出るには出るけど、OVAのマミ美とかニナモリはまだ、もっと切迫感みたいなものがあったんじゃねーのって。それは女子学生に対する世相の変化なのかの知れないんだけど。確かに閉塞感は2000年の方があった。
それと、怪物体を退治するハル子が退治するだけだし、怪物体を退治されて、それでそれを生んだ女子高生が何か精神的に変化する、っていうのもOVAに比べると弱かった。
OVAハル子は怪物体を破壊することで自分の目的にも利用するようなしたたかさがあったけど、オルタナのハル子はたんに怪物体を破壊する装置に徹していたというか。
むしろ、プリキュアみたいな心の闇から出た怪物をヒーローがやっつける、という構図を表面的に踏襲した結果が今回のハル子の描写だったのではないだろうか。つまり表面的で踏み込みが浅い。
- 自分じゃねーんだよ女子高生は
セブンティーンはさ、待ってくれねーんだよ。そしてセブンティーンはもう過ぎ去った。僕たちはおじさんであることを受け入れないといけない。(ちなみに僕は脳内妹が17歳の時にセブンティーンという香水をプレゼントした)
吉田玲子や山田尚子や松本理恵など、昨今は優れた女性アニメーション脚本家や女性監督が活躍している。
フリクリオルタナはおじさんが作っている。美術監督は女性のようだが。
学校の階段の踊り場の陽だまりで猫のように寝転ぶ主人公グループを描く構図がおじさんが女子高生を まな指す視点として象徴的だ。おじさんは女子高生とセックスしてはいけない(条例としては、ネ)。なのでおじさんから見た女子高生は猫と同じような「かわいい生き物」に過ぎないんだ。そこには、いじめを受けていたり家庭がぐちゃぐちゃのサメジマ・マミ美やニナモリ・エリの切迫感はない。
榎戸洋司は少女革命ウテナの核になるようなエピソードを担当したこともあり、おじさんでありながら女性の切迫感や生理を描けていると思っている。僕は。
しかし、おじさんになってしまった僕から見てもオルタナの4人組はネコみたいな「かわいい生き物」を超えるものではなかったのではないかと感じられた。つまり、対等な人間として、同じ痛みを作り手が共有しているのではなく、あくまで表面的にそれっぽいことをさせているだけなんじゃねーのって。
だって、ペットボトルロケット関係ねえだろ!!青春と言えばペットボトルロケットと海遊び、というのを雑に女子高生のガワにかぶせただけに見えたなー。
猫は同士じゃれ合っていればいい、という程度の女子高生観が鼻についた。デブがデザイナーではなくモデルを目指すっていうのも、大人を目指すというよりネタにしか見えなかった。
何が広い海だよ。
おじさんが勝手に「女子高生っぽいキャラ」を作ってるだけじゃない。それはもともと男子小学生だった経験のあるOVAフリクリ制作者の身を切るような実体験じゃねーよね。(マミ美は本当にそんな女子高生がいるのかはわからないけど、小学生の男子から見た女子高生は嫌らしいものだった)
変身しても超能力を出しても、切実さがないものはフェイクに過ぎないように見えた。
おじさんは女子高生を人生の頂点だと思いがちだけど、んなわけねーだろ!女の一生はさああ!
- 自分が見えない
初代フリクリは鶴巻監督のプライベートフィルムや好きなことを詰め込んだアニメだった。それは各アニメーターの表現にも当てはまること。
しかし、オルタナ。特に演出的に尖っているわけでもなく、絵コンテはぬるく、動画は初代フリクリよりも4割減。
なんというか、お仕事でやってるだけじゃんって感じ。監督や脚本や総監督の中からどうしようもなくあふれ出るフリクリな創意がどうしようもなく詰まっているんじゃなくて、「悩みから発生した怪物をやっつける」「世界はメディカルメカニカに滅ぼされる」という枠組みだけ使ってビジネスライクにプロダクションピクチャーしただけじゃんって思う。
上村監督、アイドルが好きなら、ピロウズじゃなくてアイドルを出してよかったんだ。だって鶴巻前監督がピロウズを出したのはピロウズが好きなだけだったんだかから。夏色キセキにしちゃっても良かったんだ。
でも、ピロウズは枠組みだから結局使う。ピロウズにそんなに思い入れが無くても、それが枠組みだから。
上村監督がそもそも抜擢されたのも、ガイナックスで仕事をしていたという経歴の枠組みを持っているから。
枠組み、枠組み、予定調和に既定路線!
そんなお仕事のプログラムピクチャーってフリクリか?貧乏くせええんだよ!
弟子筋だから大丈夫って、ガンダムビルドダイバーズや少女歌劇レビュースタァライトにも通じる問題。(これは個別に記事にする)
ピロウズの音楽はいいと思う。だけど、いいものだから出せばいいってもんじゃない。特にアニメは。それはやっぱり作り手の切迫感がないと。
それはプロデュースサイドの「ピロウズを入れないと売れない」という意見は芸術的切迫感ではないと僕は言いたい。
結局、女子高生には童謡を歌わせるくらいの女子高生像しか持ってないおじさんが作ったんだよね。今の女子高生はもっとしたたかだぜ。女性監督にやらせるくらいじゃなかったらさあー。カラオケで歌ってる曲の選択も古すぎ。
- フェイク
背景美術も演出もキャラクターデザインも女子高生の切迫感も音楽の作りも、前作の成功を受けてトレースしただけのフェイク。
贋作が本物に劣るか命題はFateだが、少なくとも公式続編でそれをやるなよってな。自分の心からどうしようもなく湧き上がるものがないとN.O.は動かないよ。
- 本広克行の批判
これはさめぱさんのブログで既になされているんだけど。
samepa.hatenablog.com
本広克行さん、僕は踊る大捜査線のテレビシリーズのグルーブ感は好きだったし、決してパロディが嫌いではない。でも、映画になった踊る大捜査線や、サイコパスの2つ目は大嫌い。クッソつまんねー。
なんでか分かる?
「成功体験」
失敗体験より成功体験の方が始末に負えない。何しろ成功は良いことなのだから。そして、成功した時と同じことをやればまた成功するだろうとする。それが劣化コピーになるとも気付かずに。
踊る大捜査線は地味な演出家だった本広さんを織田裕二さんの進言でトップに持ち上げることになった。成功。嬉しい。同じことをしたら、同じ路線をもっと大きな予算でやれば、もっと成功するだろう、と、思う。凡人の発想。
そういうわけで、踊る大捜査線の劇場版はどんどんつまらなくなった。
リング・オブ・ガンダムはガンダムブランドに乗ろうとしたけど、富野監督の激情を受け止めきれなくて中途半端に終わった。
失敗体験は生理的に生き延びるために精査して反省するものだが、成功体験は同じことの繰り返しを自分に許してしまうので、失敗体験より危険。それが他人のブランドの引継ぎならなおさら。結局、女子高生の心の悩みから怪物体が生まれて、ハル子が退治する、という表層的な部分の”お約束”引継ぎしかできてない。
言っちゃあ悪いが、踊る大捜査線がどんどんつまらなくなっていったのも、「成功体験」に引っ張られて現実、というか作品そのものを見失った本広さんの残念な体質だと思うんだ。サイコパスもそうだし、それを押井監督の影響っていうのもどうかと思う。
また、パロディの寒さも本広さんの「元ネタが面白いから引用したら面白いだろう」という成功体験に引っ張られた失敗だろう。
ペッツが高村薫の照柿を読んでいたり、ボンボンのダンダンダンクについて言及があるんだけど、照柿もダンダンダンクも90年代中盤の作品だ。そこはスマホ世代のキャラクターを描くんなら機龍警察かユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパンか、十歩譲って虐殺機関だろう。ダンダンダンクより黒子のバスケだろ。スラムダンクでも古いんだよ。
感性が10年以上古い!
結局、「高校生」のイメージが10年くらい更新されてないってこと。
- 脚本の批判
脚本の岩井秀人への不信感もある。まず普段政治的なツイートが多いので本編の総理大臣による寒い政治ギャグは笑えなかった。だがそれ以上に印象最悪なのは『プログレ』『オルタナ』の製作発表があったときのツイートと、『オルタナ』の公開1ヶ月前に投稿された“ぼやき”ツイートだ。
お腹破れそうになりながら書いたでよ。愛と破壊の物語を。アニメの新しい自由と果てしなさはIGにお任せしましたで!お楽しみに! https://t.co/Tcw8h5xe8n
— 岩井秀人 (@iwaihideto) July 3, 2017『フリクリ』を「愛と破壊の物語」と捉えている人が脚本を手がける続編を見なければならない。その事実と向き合わなければならないことを強いられたこの1年は、はっきり言って苦痛だった。また劇場公開を間近に控え新PVが公開された際の岩井のツイートも目を疑うものだった。
フリクリは愛の物語だというのは、僕の感想でも述べたので、僕は同意できる。しかし、破壊だろうか?
メディカル・メカニカのアイロンは特に理由もなく世界をまったいらにするものだ。それは、そういうもの。メディカル・メカニカはOVAでも最初から最後までなんの顔も実像も見えない。それでいい。
なぜならそれはメタファーだからだ。抑圧の、大人の、社会規範の、メタファーであり、それ自体に特に実像は必要はない。
OVAでもメディカル・メカニカはその破壊力と比べて、異様に重要では、ない。ハル子やナオ太が問題とするのは、誰が一番自由で、誰が誰を屈服させて、誰に愛を告白するかだ。
ところが、今回のオルタナではメディカル・メカニカによる全世界的地ならしが物理的な事件として政治家や富裕層にも認知されている。そして、富裕層が地球を脱出するという裏側の大道具として使われている。
おそらく、ガイナックス出身の上村監督としては古典SF名作の「幼年期の終わり」をやりたかったようにも思える。ラストにどうなったのかは私もよく分かっていないのだが、どうも地球はカナブンの力で終わらない日常となり、逆に火星が因果の何とかで平らにされて地球の近くに引き寄せられたように見えた。
(ハル子が火星のドームポリスを見ているような絵もあるので、いまいちハッキリしないのだが)
で、まあ、脚本の批判はそれほど重要ではないのだが。なにしろ、脚本は女子高生4人組の猫のようなじゃれ合いに過ぎないのだから。
むしろ、重要なのは、脚本の人の政治的スタンスである。あまり、アニメスタッフの政治スタンスを云々するのは批評の手としては下手なのだが。
脚本の人は政治的ツイートが多いらしい。特に政権批判。
で、描かれるのは民進党(また名前が変わったんだっけ?)の蓮舫を連想させる総理大臣である。
- 人間に対する冷酷さ
蓮舫をネタにするのは、別に絶望先生でもやっていたので構わないのだが。オルタナの問題はそこではない。
ペッツという女子高生は親が政府の人物なので優先的に滅ぶ地球から脱出できるというドラマが描かれた。
では、このアニメは選民主義なのか?
というと、そうでもない。選ばれた人々のノブレス・オブリージュなどは描かれない。
むしろ、私が意外に思ったのは、女子高生4人のペッツを除く3人が、蕎麦屋、カラオケ屋、工事現場でアルバイトしていることだ。それで、勤労学生の苦労を描くのかと思いきや、そこの現場の人の大人たちは女子高生に優しい。しんどかったら休んでもいいと言う。格差社会では珍しく子どもに優しい。
しかし、である。社会の末端の労働者が学生に優しくても、社会のトップは私利私欲と生存本能を優先して滅ぶ地球から火星に移乗するのである。そして、それに対して主人公たちは別に階級闘争的に憤ることはしないのである。
つまり、個人個人は女子高生に甘いけど、社会のマスとしては階級の上層の者が下の者を踏みつけにして生き延びることを当然として、主人公やハル子もそれに怒ったりしない、という非常にシニカルで冷酷な人間観があるのである。
それって、フリクリか?
閉塞が極まった2000年の世紀末、メディカルメカニカのアイロンがすってんころりんしても、それでも「すごいことなんて起こらない、当たり前の事しか起こらない」おおらかに「まあ、何とかなるだろ」と言ってのけた前作と比べ、実際に惑星規模の破壊をメタファーではなく事象として描いてしまって、「大人にならない17歳」と言う檻をなんとなく肯定してしまったオルタナの罪は深い。
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ハル子に嫌味を言われても淡々とヘアピンを交換して去っていくペッツ。カナブンに助けられたのにね。あの行為ってペッツの良心とも言えるけど、友達を裏切るという罪悪感を自分のなかで埋めあわせる行為のようにも感じる。ペッツにとってはギリギリの精神状態かもしれない。友達に黙って自分だけ生き残るだもん。でも現実はこんなもの。美しくもなんともない。仕方ない。絶望的なほど当然の選択。
- 諦念と向き合いながらも、人は夢と希望を叫ぶ
だから、もしかしてカナブンが転移した先でペッツと再会できるんじゃないか・・・って期待したんですよね。それならハッピーエンドだよね・・・って。
でも、それは明示されなかった。もちろん可能性としてはゼロじゃない。同じ火星に転移したのかもしれないしね。
でも自分はそうはならない気がする。この作品はそういう予定調和を拒否している気がするんですよね。なんでそう思うのか。
現実とはこんなもの・・・という諦念と向き合いながらも人は夢と希望を語ってしまう。ファンタジーの形をとりながらこのテーマを叫ぶためにこの作品は作られた気がするんです。
自分にはこの作品のキャッチコピー『走れ、できるだけテキトーに』がそのテーマを暗示しているように感じたんですよね。一見するとアンビバレントな言葉。
決してスタッフの『テキトーに制作しま〜す』宣言じゃなくて『終わるのが決まっているのにどうして生きるのか』という、矛盾に満ちた人生に対する一つの回答のような気がしました。
という意見もある。でもさあ、諦念しちゃってその折の中で青春したり希望がどうとか言うのって、フリクリというより押井さんですよね。本広さんが好きな押井さん。
本格的な破壊は起こらないけど、なんとなく社会にも不満があるけど、折り合いをつけるし、本格的な破壊に対してヒーローのように対抗することもしない。せいぜい自分の目の届くところがなんとなく安泰ならそれでよしとする幼児性。
ダセーんだよ。
破壊するなら自分で破壊しろよ!
そして、これはキャラクター全般に言えることだが、個人個人は善良で女子高生に優しいけど、社会全体になると格差社会を平然と受け入れて移住宇宙船に文句を言わないし攻撃もしない、っていう情けない社会的人間像が浮かび上がる。
それは冷める。
脚本の人は政治的ツイートや安倍政権批判が多い人らしいが、作中で「個人個人は善良だが、社会運動や格差については受け入れて犬のように飼いならされている」という諦観に満ちた作劇をするのは青春としては気持ちが悪い。
特に、女子高生の描写について、私は不快感を持つ。
女子高生は女子高生だから価値があって、永遠に女子高生していればいい、というのは大人と子供の相克を描いたフリクリではない。
だが、オルタナの女子高生は「私は所詮女子高生だから政治の事や社会のことはわからないし、手の届く範囲の人の事しかわからないです」と、超能力に目覚めたのに移民に怒ったりはしない。
それで、眼に見える小さな世界をなんとなく続けさせる。
せっかくプリキュアの主演声優が主役なのに、いまいち変身しきれてない。プリキュア未満。砂糖の無いスィーツ。
女子高生を舐めてないか?あるいは女子校生を異様に神格化して、女子高生はそれ以上成長しないでセブンティーンの女子高生が人生の頂点みたいに書いてないか?
それって大人になろうとあがいたフリクリか?
- 大人の事情
ともあれ、劇中の内容なんかどうでもいいと言うのがプロデュサー連中の思惑だろう。結局興行をさせる企画の連中は作品の善し悪しよりもカネの事しか考えてねえよ…。このアニメは日本人を向いていない。
米国でプログレ+オルタナの合計12話がすでに先にi-tunesでネット配信された。
とにかく、6話×2を日本で映画で興行するってのは異常です。以上なうえに、苦痛です。6話×2シリーズのOVAだったら、一つ一つを吟味したりエンディングテーマを聞いて余韻を味わって、一つ一つに評判を出したり、それで制作陣が舵取り直したりすることができますが。
アメリカでは12話が配信されてるのに、日本は遅れて劇場公開というのが、なんとも。
また当初は全13話のテレビアニメとして制作し、それを再編集した劇場版を複数回に分けて公開する予定だったが、『シン・ゴジラ』のヒットを受け、焼き直しではない劇場作品を制作することとなった[46]。
『ダ・ヴィンチ』2017年12月号、KADOKAWA、195頁。
どうも、アメリカに主な軸足を置いた企画では、日本でのネット配信とかテレビ放送というのが難しくて、シン・ゴジラのヒットもあって「劇場で」となっているような広告会社の政治的な動きが感じられる。アメリカのネット配信会社と電通などの日本のテレビ広告企業のパワーゲームが裏側にあると感じられる。
フリクリは国内よりもアメリカでヒットしたし、そのためにはピロウズは外せない。細かい内容は関係ない。フリクリとピロウズというブランドがアメリカでは重要だ。
また、アメリカの保守化とポリコレにまみれたディズニーやリブートを繰り返すアメコミ映画などのアメリカの映像文化の中では、多少自由に見えるジャパニメーションはまだ売り物になる。
そのためなら、パロディは雑であろうがアメリカ人のキッズがオタクムーブできるスラムダンクだったり(いや、やっぱり世代的には黒バスだろ)、ペッツの和風なアイテムだったりが売り物になるってものでさあ。
それで、国外のファンにはとりあえずピロウズを鳴らしておけば買うだろうっていう舐めた態度。
で、そういうアメリカを向いた企画に対しては日本の内邦テレビ局は難色を示して、ネット配信も難しくて、結局劇場で、という流れになったのが今回の顛末じゃないのかな。
2時間半もの上映時間で、似たような構成の6話を見せられるのは苦痛だった。だけど、アメリカ様ではテレビ放送1クールするのが商品で、日本人は劇場で北米版より高いBDを買うコア層のオタクだと舐められてるんだよ。
アニメ作品じゃなくてアニメで商売する連中にコアなファンが利用されてるし、コアなファンは愛だとか執着だとか言う理由でホイホイ金を出して思うツボ。
オタクは盲目的に金を出すってみくびってる?
それってフリクリか?
バットを振れ!
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