玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

なぜ映画Gレコはわかりやすい? 0 テレビ論のレイヤー(再)

 Gのレコンギスタの劇場版第一作が公開される1年前、現在から2年前においてテレビ版のガンダム Gのレコンギスタがいかにテレビ番組として異質なのか、という文章を書いた。


 僕はTVバラエティが嫌いなので、やや大衆蔑視に傾いてしまった感がある。今回、Gのレコンギスタの劇場版を語るにあたり、テレビ番組として異質だったGレコがどう変化したのかを論じていきたい。


 その前段階として、2年前に書いたテレビ論の記事の要点を拾っていく。要点を抜き出しただけだが、僕は長文を書きすぎる癖があるので、これだけで1記事にしてしまう。

TVディレクターの演出術: 物事の魅力を引き出す方法 (ちくま新書)

nuryouguda.hatenablog.com


 Gのレコンギスタがなぜ大衆に受けなかったのか、と言うことを解析する一環として、そもそも大衆はどのようなものを見ているのかと言うことを考察しているのである。
 そこで、この図で示したかったことは、テレビ番組において視聴者は「方向付けとルールに沿った上で」「レイヤー階層で分かりやすく役割を分担された人物の言動を聞き」「主対象である司会者の事件対象に対する言及」を受け入れ、それによって「敵対対象(北朝鮮や不審者や、スポーツの相手チーム)と報酬対象(拉致被害者の女性、殺害された少女、スポーツの日本チーム)」についての印象を深め、注目し、CMを見るのである。

ここで理解してほしいのは、野球選手、野球の試合展開、それを解説するキャスター、野球のルール、野球の歴史、球場のファン、テレビで見る視聴者、それぞれが別々のレイヤー階層にいるということだ。



 

 プレバトという番組がある。俺は嫌いだ。
 これ以外にもクイズ形式だったり、食レポだったり、芸能人に格付けをする番組は多い。


この番組が何を見せたいのかと言うのは時間配分やCMのタイミングなどを見れば一目瞭然で、ランキングが落ちて才能無しと馬鹿にされるタレントを嘲笑したり、あるいは名人の梅沢富雄などの失言や暴言を視聴者が楽しむものである。別に俳句をきちんと収めようとか、自分で俳句をきちんと考えて行こう、と言う教養番組ではない。単にランク付けされるタレントを見て嘲笑し、自分のゴミのような愚民の人生を紛らわす、実生活で会社や社会に低ランクの烙印を押されているごみのような労働者がランク付けされるタレントを仮初めのおもちゃにして憂さ晴らしをするだけの低俗な番組である



 で、ここで僕が指摘しておきたいのは、他人を嘲笑する愚民の心理では”ない”。


 重要なのはこのショーの演出において、レイヤーが分断されていることである。これは他の多くのテレビバラエティーにも言えることである。


 ひな壇に奴隷品評会のようにならべられたタレントたちがランキングされる。それぞれが必死に自己アピールする。それにタレントの中でも才能があると言われている上位の名人とかが文句を言って場を笑わせる。
 司会者のダウンタウン浜田雅功がタレントが作った俳句についてあれこれ言って笑わせる。女性アシスタントは華を添えるための置物に過ぎない。そして採点する時に浜田は叫ぶ。
 「せんせぇーーー!」
 そこで、俳句の先生が出てくる。
 俳句の先生は別のスタジオの部屋にいて、先生を呼べるのは司会者であり同時に道化である浜田雅功だけなのである。俳句の生徒と先生は分断されているのである。
 江戸時代の句会のように、サークルのメンバーが平等に同じ部屋にいて作品を見せ合い、顔を突き合わせて意見交換して俳句や技を磨くのとは違うのである。レイヤーが断絶しているのである。
 そして毒舌先生は安全な別室から毒舌の寸評を言い、才能がないと言われた人の顔のリアクションがワイプで映って視聴者を嗤わせる。
 また、その嗤いを盛り上げるために、声優の銀河万丈がそれっぽい声を出して俳句の先生の理論の正しさや、失敗した人の愚かさを声色で表現する。こうして、ナレーションで雰囲気に方向性をつける演出がなされる。このナレーションも、声優であるのでレイヤーが違う。タレントとしての銀河万丈が直接相手に言うのではないのだ。声だけの存在が先生の理論を補強するパーツとして行使される。バンキシャ大塚芳忠食レポ番組の水樹奈々も同様の役割を果たしている。
 で、タレントのリアクションを笑うスタジオの仕込みの女性スタッフたちもまた、声だけの透明な存在である。しかし、笑いものにする雰囲気を作るためにはそういうソープドラマの感性が必要なのである。これもまた、テレビ時代のレイヤー構造であろう。


 違うレベル、違うレイヤー、違う階級と言うものは古来より人類社会に存在してきたものである。そして、テレビ、メディアと言う非常に広範囲に観客をつくりだすシステムが構築されると同レベルでの争いは他のレイヤーにとっての娯楽になる。(これはインターネットでも同じである)
 自分たちは安全な場所から、剣闘士の、戦争の、テレビタレントの、犯罪の、災害の、サークルクラッシュの争いを楽しむ。

 テレビバラエティ番組の論考を通じて何が言いたかったのかというと、「芸能人は格付けランキングでレイヤーが分かれている」「他にも、事件の対象、コメンテーター、司会者、道化の芸人、声だけのナレーター、女の笑い声、「チーン」とか「ガーン」といった効果音」などの要素で「上位と下位のレイヤーが分かれている」ということです。

 パトレイバー内海課長は日本人の卑しさを言うわけだが、進化心理学、生物進化学として考えれば、寄生獣のミギーが言ったように単純な「動物は強弱やヒエラルキーに敏感である」ということなのです。
 テレビバラエティ番組もヒエラルキー意識が強く大物芸能人が恥をかくのが面白かったり、逆に権威とされる人の意見で作品を添削されたりするパターナリズムがあったり、赤ちゃんや動物は無批判に可愛かったり、物の価値をお金で測ることを重視したりするわけです。
 物事の上下関係に、テレビ番組は敏感ということです。


 水戸黄門やスカッとジャパンなども、虐められていた下位の存在が、いじめてくる上位の存在(悪役キャラとスカッとジャパンでは記号化してハッキリと言っている)に対して、さらに上位の存在が退治して、ヒエラルキーの安定性を感じて気持ちよくなるのです。


 それは、アニメも同じということを2番目の記事で述べました。

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  • アニメ・物語のテンプレート

 と、このようにテレビ番組やバラエティー、を分析してきたが、実際に大事なのはGのレコンギスタの異常性を伝えるために、他のアニメと比較することである。
 そのためにテレビ番組の一般的な構造を解析し、その上で、テレビ番組の一つであるアニメーションの構造も考えてみたい。



・「争いは同じレベルでしか生じない」
 「存在身分レイヤー」と名付けた縦のパラメーターがある。上に行けば行くほど、世界の情報を知っているが、実社会とはなぜか壁があって主人公はなかなかアクセスできない。
 存在身分が低いのは、いわゆる一般人であり、俗っぽいが世界観のことをあまり気にしないで生活している。
 
 敵にも存在身分レイヤーがあり、主人公はまず低いレベルの敵を倒しつつ、自分の存在身分レイヤーを上げていく。
 (叫竜の方が存在のパワーが強いので、主人公のヒロたちはフランクスで存在力を強化して戦います)
 同時に、自分よりも存在身分レイヤーが低い、テレビバラエティーの場合だと見下される芸人やトリックスター(道化)のポジションにいる脇役と交流してなにか「気づき」を得る。
 例えば、ミツルとココロの妊娠事件を通じてヒロは気付きを得る。それに、グループ内で見下される立場のフトシなどが装飾をする。
 また、人間ではないナインズとの共闘も気づきになる。

・世界観のメタ情報にアクセスする
 そして、存在身分レイヤーの高い敵と戦う頃には、報酬対象でありヒロインとの中も縮まる。同時に、博士や賢人といった世界観の情報を知っているレイヤーの高いものにもアクセスできるようになり、メタ情報を手に入れる。

・高い目的の終局に向かう
 そのメタ情報を付与された状態で主人公はドラマの外に飛び出して、「物語の目的」つまり宇宙怪獣との決戦に臨み、報酬対象のヒロインのゼロツ―と合一する。それで勝つのだが、その後、主人公たちのメタ要素を持った子供が帰還する暗示がある。

 だいたい、SFアニメーションの流れとはこういうものである。



 小さい目標をクリアしつつ、自分より下の身分の脇役と交流しつつ、モブの社会的評価を高め、身分をレベルアップさせていく。そうしてアクセス権を獲得して抽象的な世界のメタ情報を取り込み、強大な敵の試練を乗り越えて、報酬ヒロインを獲得しつつ、物語の目標をクリアする。さらに読者、視聴者にメッセージを放つというメタ目標をこなす。

キャラクター小説の作り方 (星海社新書)

大塚氏の物語理論を殺人事件に当てはめると、次の図になります。

 ここで、僕が大塚氏の論に着け足したいことは、欠落を回復させるファクターとして「スタジオとは別の現実感が希薄なメタ情報のレイヤー領域から、顔の見えない声優ナレーターから、証拠や情報が与えられる」ということです。

 争いは同じレベルでしか発生しませんが、それを解決するためには、異質で高次元のレイヤーが重要になります。おそらくアメリカインディアンはそれを「神」とか「大自然」と呼んでいたのだろう。ニュース番組で事件を解説するナレーションやレイヤーが違うコメンテーターが紹介する証拠や経済評論も「世間」や「常識」や「社会秩序」といったメタ上位存在なのだろう。

 また、お笑い芸人の「ウェ~~~イ」みたいな声や、ワイプ顔や、ゴテゴテしたフォントのテロップもメタ情報としてテレビ番組の効果を作っている。

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 実はドラクエやってないんですけど、これが一番シンプルなのでドラクエIII。小説版は読んだ。
 色々な土地を探索して、アイテムを集め、探索範囲を広げていくのがドラゴンクエスト
 それで、普通なら手に入らない特別な精霊の加護を受けた鳥ラーミアとか装備とかアイテムを手に入れて、勇者は存在力を強化していく。
 その際、世界の成り立ちとかのメタ情報を得て、特別な存在に成る。


 何が勇者を勇者たらしめるのかというと、別に暴力が強いからというより、そのようにメタ情報領域の精霊にアクセスして特別なアイテムやメタ情報を付与されて、存在力を強めるからで、それだからこそ大魔王と決戦をする権利を持つ。そして、魔王を倒して世界の均衡を回復させる。
 これはスター・ウォーズとかもそうです。ルークもヨーダからメタな修行をさせられてジェダイになって、父を説得してフォースのバランスを正す。


 ドラゴンクエストと同じ鳥山明ドラゴンボール孫悟空は最初の方はドラゴンボールを地道に集めていたが、徐々に「神様」や「界王」などの、あの世のメタ情報存在とのコネクションを得て、それを利用してさらに修行して強くなっていった。スーパーサイヤ人はちょっと急なパワーアップだが。
 しかし、物語後半では孫悟空は死んだり生き返ったりし過ぎて存在係数が実存よりもあの世の概念に近くなってしまう。そこで、神様とかよりも人間社会とのつながりのつよいミスターサタンが世間の人との仲介者になって元気玉を作成させたりした。


 北斗の拳ケンシロウは敵ボスの技の情報をインストールして強くなっていき、最後に「かなしみ」のメタ情報で悟りを啓いて拳王と闘う。


 ただ、特筆すべきは、世界が見えるニュータイプが、他の図と違って、敵側(厳密にはシャアの近く)にいることです。そして、ニュータイプは「世界や刻が見える」けれども、世界観の秘密や宇宙の真理を知っているわけではない。ということが他のSFアニメとは違う。ララァは世界が見えるけど、ガンダムには「メタ情報領域」に隔離された超越者がいないんだ。ほとんどすべての登場人物がドラマが起こる黄緑色の範囲に入れられている。神様とか精霊とか解説役がいない。(ナレーターの永井一郎がギリギリ…?)


 戦争をファンタジーや分かりやすいエンターテインメントにしてやるものか、という意地すら感じる。
 戦争なので、偶然飛んできた砲弾の破片とかでうっかりすぐ死ぬ。ニュータイプが未来予知とかできても、ちょっと反射神経がいいくらいの扱いで、取り返しのつかないことをしてしまう。


 ただ、この図解に意味があるとしたら、ホワイトベースニュータイプ身分関係でしょう。
 戦隊もののように、底辺にリュウ・ハヤト・カイがいて、それをフラウが支えて、中心に艦長のブライトがいる。(ブライトはリュウにちょっと頼りたかったんだけど、死んじゃって、)
 ここら辺のデブとチビとニヒルとリーダーの人間関係はコン・バトラーVやゴレンジャーの安定した伝統的テンプレートと言える。

 
 しかし、ミライとセイラがニュータイプとして少し高くいて、その上に未来への希望(一年戦争当時)のカツレツキッカがいて、頂点に主人公で最強のアムロがいる。ここはちょっといびつで、アムロが突出しすぎ。
 アムロは最強すぎて、ホワイトベースの人間関係からもちょっとはみだしがちなんだが、そういう点では、アムロは十分特別なヒーローではある。めっちゃジオン殺すし。
 ただ、それが個人的な幸福に結びつくのかって言うと、そうではないのがF91Vガンダムにまで続く富野ガンダム世界観。ベルトーチカの出産には立ち会えないわけですし。


 で、ここで読者諸氏は「富野ガンダムは1stガンダムからハリウッドや神話の構造から外れていて物語の体裁をなしていないじゃないか」と、ツッコみたくなるかもしれない。
 そう、富野アニメは異質なのだ。そのことについては大塚英志氏は「キャラクター小説の作り方」の終盤でわざわざ紙面を割いて富野作品についてハリウッドとは別枠だと解説している。(手塚治虫の影響も大であるとしているが)
 引用する。

P279(出版社ごとにページ数が違うかも)

海のトリトン
 さて、もう一つ、この際ですから日本の戦後まんが・アニメ史は「戦争」をめぐってハリウッドと異なる手法を開拓していることにも触れておきましょう。
 富野由悠季が「ガンダム」を作るより七年前に演出した「海のトリトン」というアニメによってそれは示されています。小学生のものであったアニメに10代半ばの視聴者がついたのは「ヤマト」が初めだと思われがちですが、実は「トリトン」が最初です。
(中略)


P281
 トリトンは主人公の男の子が敵と戦いつつ成長していく、そして思春期の少年少女であった当時のぼくたちはそれに自分の成長を重ね合わせて見ていくという、前述の『ハリウッド脚本術』のセオリーに忠実な話でした。それがとても心地よかったのです。
 ところが最後にそれがひっくり返されるのです。トリトンが正義と信じていた行動は、ポセイドン族の側から見れば侵略であり、彼は「敵」を倒したつもりだったけれど、その結果、ポセイドン族の側の一般市民をも殺してしまった、という「戦争」の持つ現実を突きつけられて物語は終わるのです。
(中略)
 富野由悠季が戦後アニメ史に残り得る価値があるとすれば、それは、「ガンダム」の商業的成功ではなく、「トリトン」で与えた衝撃の大きさにおいてだとぼくは考えます。
 そんなふうに、ハリウッド映画とは違うやり方でぼくたちは「戦争」を描けるのです。少なくともこの国のまんがやアニメはハリウッドとは異なる「戦争」の描き方を積み重ねてきました。(後略)

 というわけで、富野作品は異常です。トリトン以降の他のアニメを色々と図解してみたが、ほとんどが「ハリウッド脚本術」に近い「欠落の回復と成長」で「世界観を分かった気になる」作品が多い。
 デビルマンエヴァもヒロインや人間関係では悲劇なんですが、「世界観が分かる」という点ではテンプレートが安定している。サタンも碇ユイも最後にちゃんと解説してくれるし。「悲劇なんだな」と納得はできる。(エヴァは気持ち悪いけど)


 僕は大塚氏とは少し違って、トリトンはちょっと若さゆえの粗削りさがあって最終回がちょっと唐突に見えたな、という評価です。ポセイドン族が被害者になるという最終回は、富野監督は他の脚本家に黙ってぶち込んだらしいので、テロに近い。
 で、ガンダムララァへのアムロの恋心を丁寧に描写した上で、一緒に世界を見る気持ちよさを描いた直後に、世界と通じているララァをぶち殺します。真実なんかないんだ。ララァが精神体になってアムロと一緒になった、という風に小説版の「密会」は読めるのだが、そこにララァの「肉感」を手に入れて因縁を深めたシャアが立ちふさがる。そのシャアを殺したり改心させるわけでもなく、奥歯にものが挟まったような感じで終わる。
 アムロホワイトベースの仲間の所に帰るのは感動的なのだが、世界の真実の巫女であるララァを手放して、欠落して存在レベルを低下させてるようにも見える。(まあ、「人間は逆立ちしても神様にはなれないからな」って言うのが富野監督の哲学なのかもしれない)(無敵超人ザンボット3無敵鋼人ダイターン3機動戦士ガンダムニーチェの超人思想の影響のもとにあると僕は思っているのだが、超人になったからめでたしめでたし、とはなってない、人間が人間を超えることができると良いけどできない、という歯がゆさがあるし、それがリアル)(イデオンはやっぱり永劫回帰なのかなあ)
 そして、やっぱりシャアはこじれたまま、やけくそでほとんど戦略的な意味がないのにキシリアをぶち殺す。後年、クワトロ大尉は親が殺された直後のカミーユくんに「個人的な感情を吐き出すことが、事態を突破するうえで一番重要なことではないかと感じたのだ」と、「やけくそになろうぜ」みたいな暴言を吐いています。


 そういうわけで、ガンダムはなんだか落ち着かないのである。

  • 低次元の存在の意味

 物語や英雄譚は高次元の存在に注目して進んでいくことが多い。
 だから、低次元の人には「みんな私を見下しているんだ! 何の苦労もなく、持って生まれた力を誇ってな!! だからお前たちは、みんな平然と....人を踏みつけにできるんだあああ!」
 という気持ちがある。


 そう、低次元の大衆はワイドショーとかユーチューバーやアイドルの事件性を安全に消費しているように見えて、実はそれは錯覚なのです。なぜなら、一番たくさん死んでいるのは、一番たくさんいる低次元の大衆なのです。あと、低次元の大衆はすっとろいのでつまんねーことですぐ死ぬ。
 ワイドショーはそういう大衆が「自分はまだマシ」と思うような装置なんですが。

 じゃあ、多くの健常者はどうするか。


 「切断操作」です。SSSSグリッドマンでもシン・ゴジラグリッドマンゴジラに踏みつぶされて死んだような大勢の人の死の痛みは脱臭して演出しています。(SSSSグリッドマンはあの世界がアカネちゃんの創作なので、6話でグリッドマンと怪獣の戦いに巻き込まれても、嫌いな人以外は生き返るって補則されました。やさしいせかい)


 それについては、大塚氏が興味深い文章を「キャラクター小説の作り方」に載せている。

P221

 「世界観」とは読者がキャラクターの目を通じて「観」る「世界」でなくてはなりません。

 という前提はあるのだが、人やキャラクターは往々にして自分の都合の良いものばかり見たがるところがある。なので、世界の真実だと思って見たものが歪んでいるかも…?

P133

ハリウッド映画の主人公が不死身な理由
(前略)
 いうまでもないが、そもそもの草創期から、映画というジャンルは、<壊れない人間>を描くものだった。そういうヒーローを見ている間、観客は自分が<壊れもの>であることを忘れる。単純なカタルシス作用の仕掛けだったんだ。不死身のヒーローにバタバタ斬り殺される、その他大勢の脇役は確かに<壊れもの>だよ。しかしかれらは映像の記号にすぎない。たとえば脇役の、一個の人間が斬り殺される苦しみを強調して、同情をこめて映し出されるということはない。そんなことをしてみろ、たちまちスーパー・ヒーローと脇役とは、役割が逆転してしまう。一方で、クルクル廻したピストルをガンベルトにしまい込むヒーローを映し、他方に、きみ式にいうなら「異化」された傷口をさらけだす脇役とを想像してくれ。(大江健三郎『取り替え子』)


 ガンダムの図を見ると、重大なドラマはほとんどアムロとシャアとセイラとララァで済んでいる(事実、「密会」でそれで短く再構成されている)のですが、低次元のキャラクターも濃い。


 ホワイトベースの中でも脇役メンバーのカイとミハルの悲劇やハヤトのみっともなさやフラウのアムロへの苦手意識が描かれている。
 特にひどいのは子供の食べ物を盗む避難民の老人と、それを目撃するアムロアムロは子供に食べ物を分けてやるが、パイロットなので多めに食事をもらってるだけなのです。
 つまり、存在身分レイヤーを意識すると、「人を見下す」ということに富野作品は自覚的だと発見できるのです。大抵のアニメはモブはモブとして、ほとんど意識しないように主役周りばかり丁寧に描きます。ウテナの若葉を描いた幾原邦彦監督は自覚的なので、それゆえにこそモブをピクトグラムとして処理しています。
 富野監督は「ノブレス・オブリージュ」(高貴なるものの義務)をテーマにすることが多いのですが、その反作用としての「下の者を見下す」ということにもかなり自覚的です。



 それが、最新作「ガンダム Gのレコンギスタ」の「クンタラ」として明文化されます。「ふつうの人が安心して見下せる身分」として「クンタラ」が設定されているのです。そして、それは富野アニメの脇役への目線からちゃんと地続きのものなのです。


  • 敵味方が分かりにくいGレコ

 基本、敵と味方に分けて図にすることができた。デビルマンエヴァンゲリオンでさえ、怪獣の裏にいた真の敵は人間だった!ということで、敵の構造を2重にするだけで図解にできた。
 しかし、Gレコは敵対組織が多すぎる。その上、どの組織も守旧派と急進派に別れて内紛をしている。なので、分かりにくさも二倍。

 もうね、図にならない。あきらめた。善悪とか無いです。なんとなく流れでグダグダの戦争をしてるだけです。


 主人公のベルリ君は最後まで悪役探しをしてフォトンサーチャーで「一番強くて悪い奴は誰だー!そいつを叩けば平和になるはずだ!」ってやって、結局戦う相手が「個人的にベルリのことを嫌ってた学校の先輩とその彼女」。

 ベルリは最強のマシーンを与えられたのに、ヒーローになりきれない。

  • Gレコのメタ要素。

 世界の真実を君の目で確かめろ!というキャッチフレーズで、ヴァルヴレイヴの松尾監督や進撃の巨人の荒木監督やプリティシリーズの菱田監督を演出陣に迎えて、すごい期待感があった。
 スコード教の教えと配給制に捕らわれているベルリたちが世界の真実を知って海賊として反旗を翻す話になるかな?みたいな期待感があった。
 ……スコード教、結局悪のカルト宗教とかじゃなくて普通に「いや、タワーとバッテリーは大事っすよ」くらいのふわっとした宗教団体だった。後、マナーを作る宗教だったり。そして、法皇様は最後まで普通にいい人だった。
 しかもどの陣営もスコード教を信じてはいるんだけど、自分の都合で細かいタブーを破っていく。
 だからスコード教の総本山のトワサンガビーナス・グロゥブをその目で見たけど、1パーセントも見てないわけで。一番技術と資本を持っていそうな金星のヘルメス財団の子安のラ・グー総裁は「エネルギーを溜めて地球を別の銀河にワープさせる」とかものすごいトンチキなことを言っているけど、特にそれは物語に影響しない。むしろ、「ムタチオン」と「人類の女性として健康!」の演出の方が大事に見える。


 「世界を理解したぞ!」という快感もないし、「世界を理解した特別な勇者」という風にもならない。G-セルフはレイハントン家のものしか動かせないので勇者の装備みたいなところがあったのだが、建造したロルッカとミラジは「ヘルメスの薔薇の設計図で適当にガチャを回して建造したら偶然強かった」ぐらいの雑な建造。しかもモランにコンペで負けるし。クレッセントシップとG-セルフとレイハントン家が特別なつながりがあるような描写はあるのだが、それでベルリが「レイハントンを復興していこう」とはならない。アイーダはクレッセントシップを抱き込んで世界一周で示威行動をして金星と地球の結びつきを云々する政治家になりそうだけど、ベルリはそれを支えようという流れにはならない。富士山を登りに行く。

 大抵のアニメも「世界の真実」などのメタ情報や、キャラクターの主人公からの距離感により上下関係によって、レイヤーが分かれています。
 脇役、モブキャラ、などの言い方がそれを如実に表している。


 しかし、Gのレコンギスタは、ベルリが最強のパイロットという設定はあるのだが、それで安定はしない。どのキャラクターも同じような土俵で関わったり攻撃したりする。
 これは富野作品が「人を見下すこと」に敏感な傾向があるので、逆に「見下される人(クンタラ)」も同じ世界の一員として、やはり同列に殴り合いになる。


 大抵のテレビ番組、そしてアニメ作品は「レイヤーの上下関係の分割」によって構造を整理しているのに対し、Gのレコンギスタはそれがリアルの現実のように整理されていないで、各々のキャラクターが自意識を持って戦い合っているのが、「テレビ番組としてGレコは異質である」という僕の意見なのです。
 その、どのキャラクターも生き生きとしている、記号化された役割をこなすだけの人物が少ない、というところが富野作品の魅力であり特徴でもあるのですが。癖の強さでもある。


 そのGレコを解釈する方法を3番目の記事で書きました。

nuryouguda.hatenablog.com

  • Gレコを理解する方法

 つまり、全体を図解することは無理です。なので、個人としてのキャラクターを中心に据えた図にする。そうすると、意外とすっきり配置できるのではないか。


 富野監督は「Gレコで全体主義を描く」とおっしゃいましたが、むしろ鑑賞する時は「個人主義」的に見ると分かりやすい。


 なので、世界観の図、ではなく、キャラクターが他のキャラクターとどう関わっているかの相関図を、キャラクターごとに考えてみる。





 キャラクターごとにバックボーンが違い、それゆえ、ものの見方の方よりも個々人で違っているのがGレコのキャラクターの特徴。共通の目的をみんなで果たす、というような構成ではない。

  • インター・キャラクターの図


 第6話の戦闘後の図です。
 4枚の図を重ねて結び付けただけだが、Gレコの人間関係が文字通り「立体的」だとわかるでしょう。しかも時間経過でそれぞれの図の中の相関関係が変化する。そのキャラクターの中で他のキャラクターの価値の重みが変化したり、死んだり、失恋したりする。
 なので、三次元の立体的、というより動的で多次元的反応の変化がGレコの人間関係なのだと、私は考えます。


 ただ、Gのレコンギスタは分かりにくいと言えばわかりにくいのだが、ここまで図にしてきたことを踏まえると意外と単純ではないだろうか。つまり、どの登場人物にも主観があり、互いに観測し合っている。そして力関係と人間関係はリアルタイムで変化する。
 つまり、「Gレコはリアル」ということだ。図にして色々と理屈っぽく書いてきたのだが、リアルの力関係はむしろ理屈よりも動物的な勘、その場の空気の匂いとかで感じられるものじゃないかなあ。


 だからして、Gのレコンギスタはテレビで放送されたアニメだが、テレビ番組でレイヤーが整理されたような文化を見て慣れている人には見にくいし消化しにくいコンテンツだと思える。
 これはテレビバラエティを一から十まで馬鹿にしているだけではない。(ちょっとは馬鹿にしているけど)レイヤーを整理して情報伝達を効率化する文化は能や狂言でも洗練されてきた文化であるし、主人公とアンサンブルの違いなどはオペラやバレエや古代ギリシャ演劇にもさかのぼれる。
 なので、Gレコが偉いとかではない。ただ、Gレコや富野作品はたいていのお行儀よく整理されてタグ付けされた常識とかテレビ番組や映画やアニメとは「異質」の「リアルの地獄」ということだけを認識してほしい。長々と書いてきたが、要点はそれだけ。


 「キャラクターを嗤うな!ネタにするな!生きているんだぞ!」
 
 こういう内海課長のいう週刊誌のような態度で、TVアニメのキャラクターを笑いものやコンテンツにするためにGレコを見ている人にはGレコはわからない。
 これだけ言いたい。まあ、俺もたまにシャア・アズナブルがコラボキャンペーンなどで道化を演じているのをTwitterでネタにすることもあるので、ブーメラン発言なんですけど。


 他人の痛みも想像しないでその場の流れや空気で人やキャラを傷つけ貶めて嗤ってコンテンツとして消化するお前たちに比べたら、虚構のキャラクターに後押しされたSSSS.グリッドマンの新条アカネや、旧劇場版のシンジくんや、二次元しか愛せないオタクの方が、よっぽど「人格」に敬意を払っている。


 そして、俺は敬意を持たないものを軽蔑する。敬意をもって芸術を見ろ。Gのレコンギスタはそれに値する作品だ。それを解れよ!


 「Gレコはレイヤー構造がフィクション的に整理されていないので、テレビ的ではなく、わかりにくい」という一文を述べるために、かなり長く過去の記事を引用してしまった。


 では、次回はなぜGのレコンギスタの劇場版はわかりやすくなったのかを短く述べます。

劇場版『Gのレコンギスタ Ⅰ』「行け!コア・ファイター」 (セル版)


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 ペットボトルの水とコーラと野菜ジュースがなくなってきたのと、おかゆが足りないです。寝る前におかゆを食べてお腹に血を流さないと脳の血流が興奮しすぎて眠れません。
 ラーメンとスープはるさめはまだ残っています。お酒は・・・。ブランデーなど強いのは胃腸が荒れたので辞めて、ほろよいを寝る前に飲んでる。


 本当は読書すべきだけど、かなり積んでいますね。


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