ガンダム Gのレコンギスタの劇場版が株式会社サンライズからガンダム40周年の目玉として発表されましたね。おめでとう。
まあ、普通のファンだと公開を待つだけですが、僕はテレビ版の「ベルリの殺人考察シリーズ」の批評が13話までしか終わってない。
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なので、富野監督とガチのレース状態になりました。週1ペースで記事を上げれば何とか?ソシャゲは制限すべき?
それもこれも宇野常寛などの批評家がきちんとGレコをコマ送りレベルで考察しないのが悪いのです。プロがやらないので僕みたいなヤクザがやることに…。まあ、やるとキメたことはやる。そのために仕事もやめた。賃金労働には向いてないけど、こういうレコカツはできる。
今回は、このシリーズの完結編です。2万7千500文字ありますが、半分で結論を書いているので1万4千文字読むだけでもいいです。
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ここまで、ワイドショーやバラエティー番組、テレビアニメの構造を図解にしてきましたが、前回「Gのレコンギスタは図解にできない」と諦めましたが、そこはさらに微分して要素を抽出することで解決できるのです。
↑こういう図を用意する。
↑こちらの、前回まで使っていた敵味方のレイヤーの横軸ではなく、好き嫌いの横軸です。前回も書いたのだが、敵か味方かというより、好き嫌い、むしろ見上げるか、見下すか、従うか、ナメるかというヤンキー(?)みたいな目線が重要。Gレコはその特徴として非差別階級の「普通の人が安心して見下せる階級」の「クンタラ」を設定しています。見下すか、反撃するかです。
で、Gレコは複雑そうに見えて実は単純です。ですので、縦軸の高次元はそのままキャピタルタワーから金星までの高度で図示することができます。
- アイーダの図
前回、ベルリははっきりしないと言ったが、逆に彼のヒロインにならなかった姉のアイーダ・スルガンはわかりやすい上昇を行っています。
それで、こうなる。
かなり簡単にまとめられたのではないかと思う。(ベルリとクンパの正体が中盤で明かされたことで心理的な位置が移動する、ということはあるにせよ)
この人間関係の距離感や位置は私個人の見解ですが。(チュチュミィやリンゴなど、アイーダさんにとって重要でなさそうなのは省きました…)(フラミニアさんとか解釈が難しいのも省きました)
図の左側の概念領域は、アイーダさんが宇宙を向上していくにつれて開示される情報であったり、出会った人々からの影響であったりする。
ダーリンインザフランキスやドラゴンクエストIIIでは1個か2個だった世界観の情報が、
Gレコでは多いのが特徴。地上、キャピタルタワー、ザンクトポルト、トワサンガ、ビーナス・グロゥブと登っていくその時々によって影響を与えてくる情報源が変わり、より高次元な問いかけになっていく。それでアイーダは成長するのです。これはかなり分かりやすい。
男の子でガンダムに乗っているベルリを主人公として見ると、彼は試練に遭いまくりなので、混乱する。しかし、元々の企画はダブル主人公だったし、姉であるアイーダを主人公として見ると、向上と成長を経て、広がる世界の真実を真正面から見つめ、崇高な目標に到達する、というビルドゥングス・ロマンをこなしている。アイーダさんは美女なのでヒロインだと思ってしまいますが、アイーダさんが女船長として船を引っ張っていくということを、(もう少し演出的にも)強調して見れば、彼女が主人公の話だと思うこともできます。
これは各話の批評で書くつもりだが、ビーナス・グロゥブでのラ・グー総裁からの世界のネタばらしをされて、地球に戻ってきたら地球人同士も勝手に戦っているので、ピアニ・カルータを排除すればいいというものではない、という政治的判断をできるほどにアイーダは成長しています。そしてアメリアとキャピタルの両方の艦隊をラライヤに潰させる。その上で戦争を終結させる宣言を出す。そしてクレッセントシップと金星の威光を地球人にわからせていく世界一周の旅という政治的周遊をする女王になる。
- Gレコを理解する方法
つまり、全体を図解することは無理です。なので、個人としてのキャラクターを中心に据えた図にする。そうすると、意外とすっきり配置できるのではないか。
富野監督は「Gレコで全体主義を描く」とおっしゃいましたが、むしろ鑑賞する時は「個人主義」的に見ると分かりやすい。
まあ、それでもアイーダさんの図でもベルリの位置が大移動していたりして、(クリムに対する印象も恐らく変わっているだろうし…)2次元の図には収まらない動きを見せるのがGレコなのですが。
つまり富野監督は全体主義がテーマと言っておきながら、ちゃんと個人主義というカウンターワクチンを忍ばせていたのですな。
この、個人主義、キャラクターごとの視点の違いを理解することがGレコの解釈において非常に有効だと思います。ツイッターでGレコのファンが「Gレコはわかりにくくない!面白い!」と書いている散文を、不肖わたくしがまとめると、こういうことです。Gレコはどうにもまとまった考察文章がネットには少なく、(まあ、4年も前のアニメだし)Twitterで散文的に呟いているファンがいる、というような状況だったのですが。今回、私はまとめてみようかと。(本当は劇場版とは関係なく、3年前のトミノアニメブロガーナイトの後に殺人考察もまとめるべきだったんですが。賃金労働は本来の仕事の時間を奪いますね)
ですので、「脱ガンダム」なんです。旧来の連邦とジオン、地球人とスペースノイド、ニュータイプとオールドタイプの二律対抗の決戦ではないのです。福井さんとかヤマト世代はそれをやりたがっているようですが。
今の時代のテーマは「個」と「世界」です。メガファウナがアメリア艦隊に最終的に帰属しないで海賊部隊でいつづけた意味がそうなのです。帰属している陣営や属性のテーゼに従って、反対する勢力と戦う、という図式は古い。個人としての自我と、それを取り巻く世界が問題なのです。
そして、さらに個人や考え方も独立したものではなく、環境や教育や自己向上によって変化させられていく、というものなのです。こういう現代的な問題をGレコは内包しているのです。
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(まあ、夏目漱石や勝海舟はどうも個人主義者だったようにも見えるので、個人主義が本当に現代だけのものかというと、それも違うというアレなのですが。まあ、今回はアニメの話に留める)
(富野監督はジャンプ漫画のワンピースに放送前に影響を受けたとおっしゃっていたが、ワンピースは一隻の海賊船というより世界政府と反乱者、の二律対抗になっているかもしれないので、逆に古くなっているのかも)
しかし、作品全部を理解するのが難しかったら各キャラクターごとに考えてみるって、すごく当たり前のことを言っている気がするぞう。
- クリム・ニックの図
で、同じアメリア人のクリム・ニックの図を考える。
そもそもクリムは金星に行っていないので、アイーダとはそこも違うのだが。クリムは天才なので、図の左上の「好感度が高く、高次元」に人物がいない。クリムは天才なので高い技術力のクレッセントシップの人を尊敬したりしない。あと、ムタチオンとか知らんし全くかわいそうとか思ってない。MS技術だけもらう。それで、Git団についてはクリムは内情を知らないので、「諸君らはビーナス・グロゥブから私にやられに来たんだよなぁ!」と言い放ってチッカラを殺害する。このセリフとアニメーションの動きもかなりかっこいいんだが、かっこいいだけでない。Git団もそれなりに人間味があるキャラクターとして劇作演出されていたのだが、モビルスーツ越しにしか彼女らを見ていないクリムにはそんなことは関係なく、「ビーナス・グロゥブからわざわざやられにきた」やられ役として、クリムは敵を自分の人生を彩るアクセサリーとしてチッカラをやっつける。エゴがすごい。
ミック・ジャックは最終的には対等なパートナーという感じになった。逆に大統領の父は若いクリムの出世の足掛かりだったし、多少は尊敬もあっただろうが、最終的にクリムを戦死したことにして利用しようとしたので、クリムは「潰してよい」と侮蔑した。
また、ベルリやラライヤのことはクリムは自分より力量のある高次元の戦士だと直感したので、あえてメガファウナから離れたのではないか?とも思える。クリムは自分が一番の天才だと思いたがる人なので、ベルリの二番手としてメガファウナにいるよりは、アメリア艦隊の司令官になった方が嬉しい。
(多分カーヒル大尉にもイライラしてたし、いない間に勝手に死なれたのでキレたんだと思う。キレたけどジャベリンありがとうね。)
でも、サラマンドラが轟沈したら一人の戦士として戦い抜く。艦隊司令としての責任感というより、やっぱり一人の天才なんだな…。あんまりアメリアの一般国民を大事にしてないというか、ちょっと下に見てるところあるよね。ラストに世界一周するクレッセントシップから抜けたのも、あのグループの中でなあなあで過ごすよりは恋人と世界一愛し愛される南の島の方が居心地が良かったからだろうし。天才はグループ行動が苦手(自分より下の身分にちやほやされるのは好き)
なので、アイーダとクリムは同じアメリアの上流階級でも行動原理やリアクションや他人への評価の仕方が全く違っている。
そして、見ている世界が違う。
Gレコのキャッチコピーは「君の目で確かめろ!」なのだが、自分の目で確かめた真実は名探偵コナンのように万民にとって明らかな一つの真実ではなく、自分の目の中にしかないのかもしれない、という個人主義がある。(密会~アムロとララァ~のラストみたいな)
なのでGレコを見たからといって、視聴者もガンダムシリーズや富野作品とか世の中のことが分かったつもりにはならない方がいい。
- マスクの図
マスクは僕にはこう見えた。左側の影響を受ける概念の下地が、当たり前ですけど、アメリア人のアイーダとクリムとは全く違っている。そして、マスクはクンタラ概念も刷り込まれている。
また、マスクは自分より上位にクンパやクリムがいることを意識していて、見下されている感じがあって、被害者意識がある。そして、最終的にベルリが独裁者候補として、目の上のたん瘤になって激しく憎悪する。
マスクは差別されているのと同時に、キャピタルガードの素人やメガファウナなど、自分より能力の低い人を見下している気持ちも強い。(だからケルベスを人質にしてメガファウナに脅しをかけた時に舐めプして失敗したのだが。)
キャピタル・アーミィやベッカーも味方陣営だとは思っているけど、差別されてるし、自分の方が能力があると思って、内心下に見ているんじゃないかなあ。
また、私見だがマスクは法皇のことを自分より立場は上だと思っているけど、尊敬はしていない気がする。だからカシーバ・ミコシ奪取作戦も他のスコード教信者がビビって手を出せない状態のときに、マスク大尉が成功させられたんじゃないかと。(描かれてないので予想ですが)
クンパ大佐のことも出世の道具として利用し合っている雰囲気がある。この二人の距離が近いのは、企画段階でクンパ大佐が仮面キャラだったからかも。
Git団と比較的早く打ち解けたのは、クンタラとヴィーナス・グロゥブが同じようなものだと言われたからだろうか。
バララよりマニィの方が好きだけど、マニィを大事にし過ぎて、バララみたいに一緒に行動することが後半まで少なかった。
ラライヤ・マンディだった前半から考慮するとトッ散らかるので、トワサンガについて記憶を取り戻して戦士に戻った状態の図です。
クリムとは違って、ラライヤさんは良い人なので、自分より下位の人を軽蔑することは少ないと思う。
ただ、やっぱりアイーダとか一部の高貴な人を除いて地球人を下位の低次元で見ている所はあると思う。あと、自分に惚れてるリンゴ君とかは、正直どうでもいいと言うか、割と放置気味ですよね、この人。美少女という自覚はあるのだろうか…。むしろ女性同士の好感度が高い感じの人だと思ったんだけど、大好きだったフラミィが悪悪Git団に裏切ったので、そこはうーん・・・。軍隊やレジスタンスの間でスパイとかやらされてたりしてたので、軍隊のことは総じて嫌いだけど、自分より上にいる大人だと思っているような気がする。だから最終回では軍艦に向かって激高したわけですが。
同じ戦士でも、マスクは自分より上にいるものに劣等感を抱きつつも、下の者を踏みつけにしていくスタンスで闘志を出していたけど、ラライヤさんは自分より上に居ながら悪いことをしている者への憤慨、義憤で戦っていく、という違いがあると思う。ここら辺の性格の分け方はこまやかですし、単に敵は悪いと思ってるから殺すっていう敵味方論ではない。まあ、殺すんですけど、そこに至る性格や動機づけがキャラクターごとに違うんですね。
- クン・スーンの図
左側の影響を受けた観念で言えば、金星人のクン・スーンはスコード教が根底にあるにせよ、地球人とは逆に金星の位置が低い。当たり前のものとして考えているからだ。地球人は金星の技術力を最上位、キャピタル・タワーの果てとして考えていると思うのだが、(クリムとミックは途中から宇宙世紀の歴史オタクと金星人を罵倒するようになったが)、クン・スーンやキア・ムベッキたちGitラボの職員や金星人にとってはオーシャン・リングの六つのシー・デスクの海が満ちたことが当たり前のように考えられる世界観になっている。そして、Git団は故郷を捨てて地球に戻ることを発展と考えた。
それにピアニ・カルータの扇動と「地球にレコンギスタする」ということが上位になっている。地球人が当たり前のように地球に住んでいることや、地球人がバッテリーを奪い合って戦争しているようなことが、「文化の発展」などと上等なもののように、クン・スーンには思われている。
Git団の一戦士であるクン・スーンをここで図解したのはラライヤとのグラデーションでもあるのだが、とにかく住む土地や旅の出発点が逆になると「常識が逆になる」ということを考えてほしいからだ。これがGレコの金星人の描写の面白いところだ。まあ、富野作品では20年前のクロスボーン・ガンダムの木星人の描写が近いのだが…。
しかし、常識や価値観が地球人と金星人で逆、だからといって宇宙人や怪物のように全く違うものか、というと、そうでもないというのが富野作品の面白い所で。これは外国人の婿を貰った富野監督の実体験かも知れないのだが(もしかすると差別的な発想かも知れないのだが)、「見知らぬ土地を見てみたい」という気持ちはスコード教の両端の地球と金星の人でも、目的地が逆なだけで、衝動としては似ている感情なのかもしれない。(だから最終回のエピローグでクン・スーンはクレッセントシップに溶け込むことができたのだろう)
金星人は外国人のメタファーなのかもしれないのだが、国によってプリインストールされた知識や土地による常識は違っても、人類としての基本OS部分からの感情とか振る舞いは大して変わりがないのかもしれない、という考えも入っているのかもしれない。これはやはり、全体主義を最初のテーマとして考えた富野監督なりの、「違う集団の人間」の描写の仕方なんじゃないかなあ。
Git団やラ・グー総裁は戦闘アニメとして終盤にパワーアップをアイテムをくれる戦闘インフレエンタメ要素だとは思うのだけど。キャピタルなりアメリアなりが全体主義的にまとまって闘争しているのに、終盤に各陣営が同じ金星から供与されたマシーンを使って戦う、というのも戦争の文化として一つの考え方だと思う。また、トワサンガ人でも金星の武器を売り歩くレイハントン家の家臣のロルッカとミラジに対して、金星の武器を手に入れられずに全滅させられたドレッド艦隊の対比とか。ルナリアンはそういう日和見主義なところあるよね。
また、クン・スーンはベルリやクリム(それとマスク)のことをたまたま金星のマシーンを手に入れた地球人、という程度にしか思っていなかったっぽいのだが、エピローグで親交を深めている、というのも国際交流っぽさがある。とくにクリムとミックとはガチで殺し合いをしたわけで。それは女性の強さの描写なんだろうか。
- クンパ大佐の図
クンパ大佐のGレコ劇中での動きはかなり、あっちこっちに行って複雑である。が、そもそも、彼の全盛期はピアニ・カルータ事件の時であり、クンパ・ルシータ大佐としての人生は余生というか、2周目。
なので、図解も過去にさかのぼってピアニ・カルータの時代で作ってみた。時が未来に進むと誰が決めたんだ。
Gのレコンギスタの登場人物は作中の現在だけに存在して行動しているのではなく、過去から継続して生きているのだ。この概念も頭に入れておくといい。
ピアニ・カルータは月の裏側のトワサンガから金星に行き事件を起こし、またトワサンガに戻ってドレット家とレイハントン家の政争に参加してレイハントンの遺児を地球に逃がして、自分もキャピタル・テリトリィの要職に上り詰める、という波乱の人生をすでに行った。
そんな彼が影響を受けた概念は、Gレコのメインの若者とは違い、宇宙世紀時代の過去のトラウマ(大半の登場人物はこれを「スコード教」としてとらえている)と、金星で見た人が劣化するムタチオンという未来の両方である。それを彼なりに考えた結果、人類を弱肉強食の争いで鍛え上げて選別するという独自の思想に至った。
自分で思想を思いついて、自分より若い世代をそれに沿って動かす、というのがクンパ大佐の異様な所。と、同時に過去の富野作品のアマンダラ・カマンダラやパプティマス・シロッコと違って、劇中の時点では本当にほとんど何もしない傍観者に徹している。ヘルメスの薔薇の設計図を撒いて、大陸間戦争を起こして、キャピタル・アーミィを発足させる、までで種蒔きは終わっている。
第3話で恣意的にベルリとアイーダをG-セルフで逃げさせたが、これもベルリとアイーダの行動力に期待していて、明確に命令したわけでは無い。世捨て人なのか、命令や指示をほとんどしない。アドバイスを求められたら言うけど。
あと、悪の黒幕の割に、微妙に人類に対して理想を抱いている。なので、「戦争をしたがる人間は腐りきっている!」とか、自分で焚きつけておいて謎の怒りを沸かしたりします。こじらせている…。
- ラ・グー総裁の図
出番が少なくて、メガファウナ一党にアイテムをあげてアイーダさんにムタチオンを見せただけのようにもみえるラ・グー総裁だが。実際、一番科学技術とバッテリーと人生経験と人類の業を持っている。で、ラ・グーもピアニ・カルータと同じく宇宙世紀の黒歴史と劣化する絶望の未来を背負っている。が、急進派のピアニ・カルータとは違い、穏健派だ。穏健派なので平和を維持しようとしているが、そのためにベルリに強力すぎる武器を渡した。パーフェクト・パックはベルリがフルパワーを出さないように使ったけど、使いようでは大量破壊兵器だ。(Git団のメカに対策するにしても…)
そして、ラ・グー総裁が何百年も平和を維持しようとしている目的は、「地球を別の銀河にワープさせて、人類を永遠に存続させる」というSF的に見てもかなり壮大でトンチキな計画だ。これはトンチキすぎると思うが、トンチキすぎて聞かされたアイーダさんもリアクションできずにスルーしてしまった。スルーしたけど、ラ・グー総裁とヘルメス財団が宇宙世紀を研究して未来に対策するために決定したのが、Vガンダムのエンジェル・ハイロゥの暴走を科学的に再現して地球ごとワープして人類の播種。そのためにスコード教とキャピタル・タワーとクレッセント・シップとカシーバ・ミコシなどをつかって、地球人の全生活を管理している。地球人はのほほんと地球で千年も平和に過ごしていたけど、「自然保護動物として管理」されてたわけで。保護動物扱いされてた地球人はヘルメス財団にワープするまで保留されているわけです。ヤバすぎる。ヤバすぎるので、アイーダさんしか教えてもらえない。
終盤で金星に行っていないクリムはGit団を見て「ビーナス・グロゥブの正体の見当もついた」「歴史オタク」みたいに言うけど、技術を保全するだけでなく、地球をワープさせるのが本当の目的だから。終盤で地球の南米で複数の宇宙戦艦部隊が交戦したけど、ラ・グーにとっては「人類が宇宙世紀レベルの絶滅戦争を起こす前にアイーダとベルリのレイハントンの遺児に”火消”させる」ですからね。Gレコのほとんどのキャラクターが終盤に命がけでマシーンを駆使して殺し合ったドラマに参加したけど、ラ・グーにとっては「戦火が拡大する前の火消」で、ラ・グーの本来の目的は「数千年かけてバッテリーを充電して」全人類ワープです。ラ・グーは穏健派なんだけど、長命すぎるからか使命に人生を捧げているからか、Gレコのドラマの大半を占める戦争やGit団の暴走を「一時的な事件、ガス抜き」と捉えているような。みんな真剣に殺し合って生きたり死んだりしているのに、ラ・グーはそれより数段上のレベルのヤバさで世界を見ている。
革命機ヴァルヴレイヴの子安武人が演じたアマデウス・K・ドルシア総統よりも世界の裏側に精通しているのがラ・グー総裁(子安武人)だと思うが、ラ・グーはヤバさのレベルが高すぎてスルーされた。
こういうキャラはラスボス扱いされるとか人間をバカにしているとか言われて殺されがちだけど、ラ・グーみたいなキャラも「次元が違い過ぎるけど、いるよね」という風に流されるのがGレコの大らかさ。
レイハントン家は宇宙世紀の情報を管理する家柄で、ヘルメス財団にも深くかかわっているらしい。スコード教の法皇様はベルリたちの両親と面識があったようだ。トワサンガと金星を行き来していたピアニ・カルータとベルリの両親とラ・グーにも昔何かドラマがあったと思うのだが、それは語られない…。闇が深い…
- ベルリ・ゼナムの図
そして、最後に残しておいた我らが主人公、ベルリ・ゼナムくんの最終回付近の気持ちを図にしてみた。
拍子抜けするほど書けないですね。
終盤のベルリ・ゼナムは本当にヤバい主人公で、ニュータイプかもしれないのだが、人を憎んだり軽蔑したり敵視することがない。ものすごくフラットにものを見ている。これがベルリがサイコパスと言われる所以かもしれないのだが、私としては「大局を見る責任感」だと思う。なにしろ、第25話ではカバカーリーのマスクをトラクタービームで拘束して殺すチャンスがあったのに、殺さないで見逃しましたからね。まあ、それが逆に「舐めプされた!」としてキレられてマスクに最終回でメチャクチャ追い廻される理由の一つになってるんですが。
本当にベルリくんは難しい子で、「争いの芽になるものを摘みたい」と大局的に考えているのだけど、殺人は嫌いなので、ラライヤさんとアイーダさんみたいにそれで戦艦を沈めるということもなく。フォトン・サーチャーでラスボスを探して見たりして。ラスト付近のベルリは妙な達観というか、公益優先というか、優しさというか、個人的なモチベーションが少ないというか、主人公として難しい子なんです。そういうわけで私も一話ごとに、射撃の一発ごとに殺人考察をするという、妙な作業をする羽目になっているのですが。
ただ、ベルリは最初から無私無欲の人だったわけではないし、中盤の一部を切り取って図にすることはできる。それが、ベルリのひとつのターニングポイントとなった第6話。
主人公のベルリの人に対する印象は一話ごとにグルングルン揺さぶられるのだが、その一場面を切り取ることはできる。
- インター・キャラクターの図
デレンセンの図
で、これが第6話の時点での気の毒なデレンセン・サマター大尉の図。
なぜ、この記事の終盤において、わざわざ脇役のデレンセンを取り上げたのかというと、彼が第6話のラストで要になっているからです。
クリムとアイーダとベルリとデレンセンの図(6話)
この、なんということもなく見える戦闘後のブリーフィングですが。これを先ほどの図で表すとどうなるか。
4枚の図を重ねて結び付けただけだが、Gレコの人間関係が文字通り「立体的」だとわかるでしょう。しかも時間経過でそれぞれの図の中の相関関係が変化する。そのキャラクターの中で他のキャラクターの価値の重みが変化したり、死んだり、失恋したりする。
なので、三次元の立体的、というより動的で多次元的反応の変化がGレコの人間関係なのだと、私は考えます。ここらへんの発想は、ぼくが有機化学反応を習っていたからかもしれない。(劣等生だったので就職の役には立たない…)
いや、別に僕が賢いとか、難しいGレコを理解してて偉いとか、そういうことを言いたいわけじゃない。
劇場版ガンダム Gのレコンギスタが上映される前に、少しでも多くの人にわかってほしいという気持ち。別に上から目線で僕の解釈を押し付けたいわけじゃない。そもそも勘だし。
ただ、「Gレコはわかりにくい!」という声がインターネットで多く見られるので、「補助線を引いたら多少わかりやすくなるよ」という程度のことです。
いくつもの図を重ねて、やっと、Gレコのわかりにくさの核心的な部分へ言及することができた。
ただ、Gのレコンギスタは分かりにくいと言えばわかりにくいのだが、ここまで図にしてきたことを踏まえると意外と単純ではないだろうか。つまり、どの登場人物にも主観があり、互いに観測し合っている。そして力関係と人間関係はリアルタイムで変化する。
つまり、「Gレコはリアル」ということだ。図にして色々と理屈っぽく書いてきたのだが、リアルの力関係はむしろ理屈よりも動物的な勘、その場の空気の匂いとかで感じられるものじゃないかなあ。寄生獣のミギーが言うように、力関係は動物の方が敏感かもしれん。
前項
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で、
「キャラクター小説の作り方」を引用して物語の作り方のルールを述べたりした。
が、
ルールによって作られた物語の方が人工的で理屈っぽいんじゃないか?
今のアニメは世界的にユダヤ資本のディズニーやピクサーに牛耳られている。そういう洋画は敵味方がハッキリしている。ヒロインとヒーローとヴィランとマスコットとかいう用語でキャラクターの役割と身分が定義される。それは戦前のおとぎ話のシンデレラと本質的には変わっていない。いくらポリコレに配慮して有色人種を出してみたりしても、ヒロイン、ヒーロー、ヴィラン、マスコットで分類が分かりやすいのがディズニーだと、アナ雪を見て分かった。
こういう一枚でだいたいわかってしまうディズニーや理論ができているハリウッド脚本術と比較すると、キャラクターごとに背負うものや思想の土台が違っていて、その人間関係がマルチに、有機的動的立体的に、リアルに描かれているGのレコンギスタは、そりゃあ分かりにくい。分かりにくいというか情報の質自体が違うんだ。
ユダヤ的な、テレビ的な敵味方がはっきりした世間の常識という名の理屈を、Gレコは突破しようとして、獣のようなリアルさと複数個人主義で描かれたのではないかと。(日本のマンガ・アニメだとジョジョとかゴールデンカムイが近い)
だが、前項で述べたように、大抵のテレビ番組はリアルではなく、記号的で人がいるレイヤー層が整理されている。
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重要なのはこのショーの演出において、レイヤーが分断されていることである。これは他の多くのテレビバラエティーにも言えることである。
ひな壇に奴隷品評会のようにならべられたタレントたちがランキングされる。それぞれが必死に自己アピールする。それにタレントの中でも才能があると言われている上位の名人とかが文句を言って場を笑わせる。
司会者のダウンタウンの浜田雅功がタレントが作った俳句についてあれこれ言って笑わせる。女性アシスタントは華を添えるための置物に過ぎない。そして採点する時に浜田は叫ぶ。
「せんせぇーーー!」
そこで、俳句の先生が出てくる。
俳句の先生は別のスタジオの部屋にいて、先生を呼べるのは司会者であり同時に道化である浜田雅功だけなのである。俳句の生徒と先生は分断されているのである。
そして毒舌先生は安全な別室から毒舌の寸評を言い、才能がないと言われた人の顔のリアクションがワイプで映って視聴者を嗤わせる。
また、その嗤いを盛り上げるために、声優の銀河万丈がそれっぽい声を出して俳句の先生の理論の正しさや、失敗した人の愚かさを声色で表現する。こうして、ナレーションで雰囲気に方向性をつける演出がなされる。このナレーションも、声優であるのでレイヤーが違う。タレントとしての銀河万丈が直接相手に言うのではないのだ。声だけの存在が先生の理論を補強するパーツとして行使される。バンキシャの大塚芳忠や食レポ番組の水樹奈々も同様の役割を果たしている。
で、タレントのリアクションを笑うスタジオの仕込みの女性スタッフたちもまた、声だけの透明な存在である。しかし、笑いものにする雰囲気を作るためにはそういうソープドラマの感性が必要なのである。これもまた、テレビ時代のレイヤー構造であろう。
(※参照・少女革命ウテナの影絵少女)
- レイヤーで争いは制御される
争いは同じレベルでしか存在しない。
とは、日本のインターネット掲示板でよく出る決まり文句だ。
しかし、本来、争いは同じレベルで優劣を競い合うのが自然であろう。
ここまで3つの例を出して因数分解したが、被害者は加害者と、野球選手は野球選手と、タレントはタレントと、同じレイヤーで争っている。
それが自然であるのだが、違うレベル、違うレイヤー、違う階級と言うものは古来より人類社会に存在してきたものである。そして、テレビ、メディアと言う非常に広範囲に観客をつくりだすシステムが構築されると同レベルでの争いは他のレイヤーにとっての娯楽になる。(これはインターネットでも同じである)
自分たちは安全な場所から、剣闘士の、戦争の、テレビタレントの、犯罪の、災害の、サークルクラッシュの争いを楽しむ。
そして、おそらくこういう構造を一般の市民も娯楽として享受するのは軍人育成を目的とした学校教育が文化として根付いたからであろう。
国の方針、学校の方針のルールを上位の政治団体、自治体が決め、官吏や教員がそれを子供たちに課してランキング付けする。そして、上位にも下位にも成れない大多数のモブはヒエラルキーのトップの成功や失敗に一喜一憂し、高校野球とかに注目し、逆にいじめられっ子の自殺や過労死社員を侮蔑する。
個人と個人は尊重し合えない。
同じレベルの人間は連帯できない。争い、足を引っ張り合い、自分の欲徳を満たすために争うだけである。
同じレベルの人間は連帯できない。しかし、レイヤーが上位の人間の言うことには従い、容易に暴力を振るうのが人間の本質なのである。
普段から違う食事、違う生活、違う身分として兵士と士官が差別されることによって、逆に作戦行動はスムーズになる。考えなくて済む。自分よりいいものを食べている、身なりの良い人の言うことには反射的に従って、蛮族を殺す。
それがヒトの本能なのだ。自由・平等・博愛を掲げたフランス革命は結局愚民の農民とインテリ階級と貴族で分断され、ナポレオンと言う絶対君主が現れるまではギロチンによる殺し合いが続いた。人は愚かで、絶対君主に盲従し、下位を侮辱し、同じレベルの間では連帯することなく細かな差異を見つけていじめる。
スポーツ選手もアイドルもトップ以外はゴミクズのように貶されて笑われる。そして、一度トップになった人も、ちょっとした失敗が露見すればすべての栄光をはく奪されて国民全体から嘲笑されるのだ。
更にテレビ画面で分断されている視聴者は安全なところから強い梅沢富美男みたいな芸能人の暴言も、弱いアイドルの失言も笑う。パトレイバーの内海課長が言ったとおりである。
違う場所、違うレイヤー、違う待遇で共感しあえない分断があるからこそ、争いは制御される。同じレベルでは足の引っ張り合いが暴走して殺し合いになるが、上位レイヤーが睨みを利かせれば整理される。
それがテレビバラエティー番組の構造をチラッと見ただけでも分かるのだ。
と、書いたが、Gのレコンギスタはそういうテレビ番組とは違う作品だということをわかってほしい。Gレコのあらそいは同じレイヤーだけで起こるものではない。ベルリは王子だがマスクは差別された階級だ。他にもいろんな土地のいろんな身分の人間がリアルタイムに宇宙という土俵でガチの殺し合いを繰り広げている。そこにヒーロー、ヴィラン、モブは関係ない。それがGレコのリアル目線だ。
だからして、Gのレコンギスタはテレビで放送されたアニメだが、テレビ番組でレイヤーが整理されたような文化を見て慣れている人には見にくいし消化しにくいコンテンツだと思える。
これはテレビバラエティを一から十まで馬鹿にしているだけではない。(ちょっとは馬鹿にしているけど)レイヤーを整理して情報伝達を効率化する文化は能や狂言でも洗練されてきた文化であるし、主人公とアンサンブルの違いなどはオペラやバレエや古代ギリシャ演劇にもさかのぼれる。
なので、Gレコが偉いとかではない。ただ、Gレコや富野作品はたいていのお行儀よく整理されてタグ付けされた常識とかテレビ番組や映画やアニメとは「異質」の「リアルの地獄」ということだけを認識してほしい。長々と書いてきたが、要点はそれだけ。
【ここで、文章の半分くらいですが、一応の結論は出たので、ここで読むのを止めてもいい】
- ユダヤ対富野
http://www.yatate.net/kiji-kikaku/atom/atom012.html
www.yatate.net2002年11月の末[オーバーマンキングゲイナー]の制作に忙しいスタジオにご存知富野由悠季氏を訪ねた。
富野「“Vガンダム”の時にもう1つ突きつけられた事実としてあります。東京エリアでソフトウエアのプロダクション創るってことに関しては基本的に興味なくしましたね。一番の理由は、自分にその力がないから日本人の気質で、もう100年ぐらい経たないとそれは出来ないだろう。ユダヤには勝てないだろうっていうことも分かった」
高橋「これからの10年間というのは何やっていくの?」
富野「ユダヤなりハリウッドなりに勝つために正確なのことを俺よりも20か30若い奴に教えていく、それだけです」
高橋「そういうこと」
富野「だから今“キングゲイナー”をそういう意識を持ってやってます。自分の為にやってることってほとんどない。だって自分の為にやって何が起こる? これから来年死ぬかもしれない、10年後に死ぬかも知れない自分の為にやることなんてたかがしれてるもの。今年の年収、来年の年収、国民年金はろくなお金入って来ないにしても・・・・」
キングゲイナーも動物的なセンスが重視された作品だった。
- ソシャゲ主人公視点
で、ベルリのラストの図をもう一度、見てほしい。
どこか、見覚えがないだろうか?ベルリはGレコのキャラクターの中でも異質だと図を作りながら感じた。
放送当時の記事だが。
――『G-レコ』の対象年齢は?
10歳から15歳。だって、それ以上の年齢の人は見ても役に立てられないと思いますよ。みんな、黙ってスマホやってるだけでしょ?
https://akiba-souken.com/article/21122/?page=2と言う監督の話もある。
また、スマートフォンのアニメ視聴アプリのdアニメストアやガンダムチャンネルでもGレコが配信されているのを受けて予告でベルリが「歩きながら見るなよ!」と言ったりしているので、やっぱりスマートフォン世代、スマホゲーム世代の若者への意識はあると思う。
ベルリには「みんなで叶えるスコード教」って言う全体主義な面があるが、
「みんなを出し抜いて飛び級」「レアアイテムで、おれTUEEE!!」「フレンドに自分の強さを見せつける」っていうソシャゲ課金装備的な「周りの評価を気にしながらの」個人主義がある。
また、クリム・ニック大尉の「アメリアが建造した宇宙用ジャハナムってのぁ、宇宙世紀の成果とも言うぞ!」と言うのも、「宇宙世紀に開発されたSR機体をアメリアの課金でドロップした」というソーシャルゲームの神モンスター召喚の例えになっている。リギルドセンチュリーのモビルスーツは開発したのではなくヘルメスの薔薇の設計図などを解読して古代文明の技術を再現して召喚しているものなので、妖怪ウォッチっぽさもある。
- 富野の脳内の若者代表のベルリ
今回、非常に印象的だったのはベルリの言訳の数々
「そっちが攻めてくるんだから……死なないでよっ!」
「死ぬんじゃないぞ、撃っちゃうから!」
「追いかけてこなければ!」
「パイロットは脱出してよ!爆発させてないんだから!」
「僕にライフルを使わせないでください!」
「僕にライフルを使わせると、皆で死ぬぞって言ってるでしょ!」
「これは牽制なんだ!誰も死ぬな!」
ベルリのこの「峰打ちです」という戦闘ボイス、どこかで覚えがないだろうか?
そう、FGO、Fate/GOの主人公の藤丸立香(ぐだ)だ!
また、特に思想的背景を持たずふわっとした正義感と平和主義なのに、場当たり的に暴力で物事を解決してしまうのは、グランブルーファンタジーの主人公のグランくんとジータちゃんにも見える。
ベルリは4年前のアニメの主人公だが、どこか流行のソーシャルゲームRPGの主人公みたいなところがある。これはなんだろう?
富野監督がソーシャルゲームをやりこんでいるとは思えない。なので、別々のものが同じような効果をねらった結果として似たように収斂進化した結果ではないかと思う。
つまりそれはなんなのかというと、「視聴者やプレイヤーと一緒に冒険するインターフェイス」としての役割なのではないか。だからベルリは個性が弱い、と言われればその可能性はある。(細かく見ていくと回によって殺人などへのモチベーションが変化したりしていて、ベルリなりの考えはあるのだが)
と、いうか富野監督の意図としては「視聴者にもプレイヤーと一緒にリギルド・センチュリーの世界を体験して冒険してほしい」というこどもアニメみたいな感じだと思うので、素直にGレコ世界に揉まれたらいいんじゃないかなあ。
あと、ベルリがレイハントン家の末裔で、宇宙世紀時代の超技術メカをもらったりするのも、グランブルーファンタジーの主人公が特異点で親が超強いのに似ている。FGOの主人公も引きが強くて課金サーヴァントで強くなる。G-セルフは明らかに課金装備なんだけど。
まあ、それくらい主人公を贔屓しないと、死ぬし。っていうのがガンダムのアムロがニュータイプになってた富野アニメの伝統…。
そこで贔屓されすぎだろ!ってマスクがキレたり、逆にベルリが強すぎるメカにとまどったり文句を言ったりというドラマがある。クリム・ニックは生まれは良いけど装備は理論値最強装備ではないレアリティのメカだが天才。
- 補記 演出の速さ
ただ「ベルリと一緒に旅をしよう」というコンセプトだけど、問題もある。それは、大抵の視聴者はベルリほどのセンスも動体視力もないということ。ソシャゲだとプレイヤーのテンポでテキストを読めるし説明も丁寧だが、Gレコはアニメなので速度が視聴者を置いていく時がある。
簡単に言うと「カット割りが速すぎる」。これはファンの僕でもちょっと擁護しきれない部分。
伝説巨神イデオンのころは「絵が下手なのがバレる前のギリギリで早めにカットを割る」というアクションシーンが多かったが、Gのレコンギスタは逆で、作画がいいのに「いい作画の情報量を観賞し終わる前にカットが割られる」。どっちにしろ富野アニメのカット割りは常に早めなんだけど、これがやっぱりGレコの「人間関係の複雑な構造」とは別の観点からの「分かりにくいと思われがちな要素」だよなあ。
具体的には。
第18話「三日月に乗れ」のトワサンガのMSガイトラッシュとG-セルフの戦闘。これはガイトラッシュとの交戦になる直前までマスク・クリム・ガヴァンともやり合っていて、同時にクレッセントシップに逃げ込もうとするメガファウナとトワサンガのクノッソスとの艦砲撃戦もやっていて、非常にせわしない場面。で、ガイトラッシュのパイロットのロックパイが「ガイトラッシュのビームサーベルをつかんでふせいでいる!」とG-セルフに説明セリフを言うんだけど、実際に掴んでいる絵は1秒未満しか映されない。
かなり光の処理とかきれいだし、作画が悪いわけではないのに…。コックピットの中のロックパイの「ビームサーベルを掴んで防いでいる!」というセリフをこぼしてメカを映すカットに秒数を使ったらもうちょっと状況が見やすいアニメになったと思うのだが。
G-セルフが自分のサーベルを抜いて反撃するのも一瞬ですからね。黒澤明の椿三十郎のラストかよ。
富野監督は後輩の演出家によく注意しているけど、富野監督も結構、邪悪なコンテを切るよね。速すぎる。
あと、第4話もかなり邪悪なコンテのアクション。
低空から侵攻するエフラグに乗ったカットシーを急襲するモンテーロ
頭部バルカンで牽制して相手のカットシーにシールドで受けさせ動きを止めてロックオン
カットシーはもたもた近距離戦用のサーベルを展開するが…
遅いな!
サーベル戦になる手前でジャベリンの投擲!
敵の肩に刺さったジャベリンの後半のバスターランスを回収しつつ、前半部でえぐり…
カットシーの装甲の破損部に運動エネルギーをぶつけるキックでトドメ!
この間、わずか10秒。モンテーロのコンボが気持ちよすぎる…。クリムはホントに戦い慣れしているし、富野ガンダムのエースの入力速度、滅茶苦茶早いし、アニメとしても1カットで複数の挙動をして高速で戦っている。
デレンセンも武人として瞬発力がある!モンテーロに襲われた一呼吸後に、
同時に、
Gセルフから距離を取る、
モンテーロに狙いをつけ直す、
ビームジャベリンを回避する、
破損したシールドをパージする、
翼をたたんで空気抵抗を減らして後ろに下がる、
ライフルでモンテーロを威嚇する、
左足から左手にビームサーベルを持ち替える、
体勢を整える、
この8動作をやる!
そして突き!
同じカットシーでもパイロットが違ったらクリムに「遅いなあ!」と「速い!」と両極端の評価をされる。パイロットの技量で量産型MSも段違いの性能を出すっていう富野ガンダムのMS運用、カッコよすぎる…。
どんな入力方式をやってんの?富野ガンダムのパイロット、格ゲー世界大会レベルやろ
バイオコンピューター的な脳波コントロールはユニバーサルスタンダードに入ってるんだろうか?
だが、クリムも速いデレンセンに圧倒されるだけではない!
デレンセンの突きを躱しながら左手のバスターランスで逆に突く!
が、デレンセンのカットシーが超高速でバックターンしてモンテーロの背後に!!!!速い!!!!
キャピタル示現流の一の太刀がモンテーロを捉えた!が!
モンテーロの肩のウィングシールド、
そして、肘でサーベルを握るカットシーの手首を打ち返して斬撃を逸らす!
「チェストーッ!!」だけに気を取られていたら「強いデレンセンにモンテーロの指が斬られた」って印象だけど、コマ送りで見たら、クリムは2秒未満の間に2段防御でサーベルの軌道をずらして防御していたわけで。クリム級のエースパイロットじゃなかったら確実にコックピットの胴体まで両断されていたわけで。
達人級の剣劇アニメ最高かよ…。
まあ、何度も見てたら気持ちよくなってくるアクションなんですが、端的に言えば初見殺しですね。速すぎるし、動作が多すぎる。
逆襲のシャアの頃から富野アクションは早すぎるし戦術合戦が凄すぎるんですが。わからない人はわからないだろう・・・。
状況説明とキャラの心情を一つの台詞でこなす毎度の技。今のアニメはコレが別々になされているから富野アニメはわかりにくいと感じられるのだろう
— KMR_134 (@mr893) 2018年12月24日
だから、ベルリと一緒にリギルド・センチュリーを旅しようという感じだけど、めちゃくちゃ動体視力と注意力を要求される。なんでこんなにアクションが速すぎるのかというと、富野監督の中では「ロボットは人間よりメチャクチャ速く動くのが普通」「どのキャラクターも必死に戦っているので最善手は最速手」という戦闘の修羅場の緊迫感の描写なのだろう。
昔は富野コンテも長浜スーパーロボットの演出でちゃんと必殺技の見栄を切っていたのに…(でもちょいちょい妙な戦術を入れていたけど)。
なので、「ベルリと一緒に体験!」だけど、ベルリほどのセンスや動体視力や認識力がない人は脱落しても仕方がない、という不親切なフィルムになってるのは確か。
上記のインター・キャラクターの人物相関図もそうだけど、アクションシーンでも常に位置関係と力関係と速度とベクトルを意識しながら見ないと分からなくなる。これは、テレビアニメというか、テレビ番組を受動的に見るのに慣れ切った人には、分かりにくいし嫌がられるアニメになるんだろうなあ…。僕は富野アニメを全部見て富野演出の速度に慣れて、逆に他のアニメはちょっと早送り気味で見ないと退屈する人なんですけど。
ま、まあ、一度に全部理解しようとしなくても、ほら、Gレコはメカやキャラクターの色とか形とかファッションがかっこいいし!途中経過はメチャ速いけど、とりあえずの勝ち負けはハッキリ描写されるので。諦めないで見てほしい、というのが富野ファンの僕の立場です。
いや、「なんでアニメを見るのにこっちが努力せなあかんねん。Gレコはわからん。駄作」って短絡的に楽をしたいと思う人の気持ちも分からなくもないんですが。速すぎて濃厚すぎて、わからないのは仕方ないんですけど、慣れるとそれも「富野アニメは何十年経っても何度見ても発見があって面白い」って気持ちよくなるからさあ…。わからなくても、せめて悪口をまとめサイトに書き込むのはやめて…。
っていうか、そもそも当事者の富野監督が半ば確信犯的にわかりにくくつくってるし。
さらにガンダム35周年特別サイトで公開されている『Gのレコンギスタ』のPVが上映され、この映像に関して富野監督は、これを見たガンダムファンが違和感を感じるはずだといい、それについて説明してくれた。
富野監督:この映像に抵抗感があるのは当たり前です。ガンダムじゃないからです。だけどガンダム風にしてあります。それの気持ち悪さって何なんだっていうと、35年前にガンダム1話を見た人は、何をやってるのか全然わからないって言ったんです。理解されるのに5~6年かかった。それを考えるとこれはかなりわかりやすくなっている。が、今わかる必要は一切ありません。これ、同じもの(ガンダムっぽいもの?)が飛んでいく映像が2回ありますが、あれなーんだ? 番組見ないと絶対にわかりません。そのくらい変な画なんです。
普通のPVであれば、主役機だと思われるアレは、本編見ないと正体が分からない! と富野監督は言う。もう本当にやってくれた! としか言いようがない。さらに…
富野監督:『THE ORIGIN』も『ガンダムUC』にしても「えっ? わかんね!」って画はどこにもありません。分かる! 気持ちいい! って~そんな大人が気持ちいい画を作ってどうする? ってことなので、こういう映像を作りましたという意味で気に入ってます。なんで姉ちゃんが涙流す画がいきなり出てくるんだ? って知るかよそんなの!!(場内爆笑)って言い切れる自信はあります。お子たちには健全なロボットアニメですのでぜひおすすめいただきたい。……これでいいのかな?
分かりやすいガンダムのアニメを見て気持ちいいとかいうオールドタイプのガンダムファンは相手にしていないんだよなあ!
確かに僕は少しでも多くの人にGレコを分かってほしいからこういう記事も書いたのだが、「大人が分かって気持ちいい画」を期待して、少しでも分からないと駄作認定して逃げるような奴は、そんなやつはもういい!
だいたい、Gレコファンも劇場版の作業が難航しているっていう程度で自信を無くしてるんじゃあない!僕なんかテレビ版の2周目の評論が難航して、正直富野監督に追いつかれると困る!まあ、俺が賃金労働にかまけていたのが悪いんだけど。
まとめサイトでGレコが低評価で書かれて愚痴っているGレコファンも見ているけど、そんなクソみたいなアクセス稼ぎの悪口で注目を集めるしかない低俗なまとめサイトの評価なんかどうでもいい!俺が面白いって言ったら面白いんだよ!俺の中ではな!少なくとも俺がここまで長文でぶっ飛ばす気持ちになって引き返せなくなる程度には面白いんだよ!Gレコは!
ていうか、おれ、まとめサイトでGレコの記事よんだことない。
そんなにまとめサイトの影響力ってつよいの?
ウィルスとかフィッシングが怖いし、そもそも便所の落書きの匿名の5ちゃんねらーの意見には見るべきものはほとんどないな。俺のブログの方が、強い。未熟者の言うことは聞かないっ!
- テレビを見下す構図
キャラクターの世界観を色々と書いてきたがよー。テレビの前の一般人であるお前らの世界観はどうなんだってことだ。
どうせこのような雑なカテゴライズでテレビを見て、他人事だと馬鹿にしてコンテンツを消費しているんだろう!
インターネットやスマホのメールも大体そんなもんだよ。
安全なところから、他人の不幸や炎上を飯の種にしている下らないニュースサイトと、それに群がってアクセスする一般人、腹立つな pic.twitter.com/uxY3Al4STu
— ヌ・リョウグ・ダちん (@nuryouguda) 2018年12月24日
それで、アニメや漫画なんかは人格も人権もないネタとして消費してるんだろうよ。軽く見てるだろう。
僕は心が歪んだオタクなので小学生の頃から筒井康隆のメディア批判小説「48億の妄想」などを読んでいた。
- 作者: 筒井康隆,日下三蔵
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- メディア: 単行本
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「ネトウヨの問題などもそうであるがこれらの問題の根底にあるのがコミュニケーションせずに人を認識すること、つまり人に個別の物語を見なくなったことだと言えるだろう。」 / “人に物語を見なくなった世界で - メロンダウト” https://t.co/ha53JBzU76
— p_shirokuma(熊代亨) (@twit_shirokuma) 2018年12月22日
ある属性で人間をカテゴライズしそれを躊躇いなく言ってしまえる人はコミュニケーションを放棄している。こうこうこういう人間はこうであるといった単純化された世界観でしか人を認識しなくなり言語が通信手段でしかなくなった人達がわりといるのだろう。
ちぃたん、腹いせに… pic.twitter.com/rKr78R2KQk
— コール&レスポール牧 (@mikansei_bish) 2018年12月18日
こういうのを面白おかしく放送すると我々キャラクターに対して同じ事をしようとする人が必ず出てくる。
— 獄妖鬼 (@gokuyouki) 2018年12月22日
子供のみならず、酔っ払った大人までやってくる事さえある。
実際に怪我させられた例もある。
その時に放送側はどう責任を取ってくれる? https://t.co/UPDqeWtZXc
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俳優・坂上忍は同日、MCを務めるフジテレビ系「バイキング」で、この問題を取り上げ、「“芸能事務所”ってなると、こんなのが同業者でいると思うと、ヘドが出るわ」と苦々しい表情でコメント。Aさんが沸騰する鍋に顔を押しつけられるなどの動画映像について、「目をそむけたくなるというか、言葉が出てこなかったです」と語った。ゲストの薬丸裕英も「(我々と)一緒くたにしてほしくないわ。芸能じゃなくて、“芸”が“無い”事務所だと思う」と吐き捨てた。
この日の午前の会見では、さまざまなパワハラが明らかになった。代理人弁護士によると、14年の忘年会で二日酔いになり、翌日の仕事を遅刻したAさんに対し、同事務所社長(以下、Y社長)は罰として坊主にすることと10万円を要求された。以降、パワハラ・暴行に該当しうる行為は日常化。半日正座でパソコン業務をさせられたり、顔を殴られ口内出血したという。
東国原、鍋顔面押しつけに「リアクション芸を勘違いされている。これは暴行」
元宮崎県知事でタレントの東国原英夫が11月23日、フジテレビ系「バイキング」に出演し、しゃぶしゃぶ鍋に顔を押しつけられ、顔面にやけどを負った被害者がパワハラ被害を訴えたことについて言及した。
忘年会を盛り上げるために面白いことをやれと要求されたことをきっかけとした出来事に、東国原は「僕らはたけし軍団で痛い、熱いのいわゆるリアクション芸をやっていたが、ダチョウ倶楽部くんとか出川くんも一緒だが、痛い、熱いをやれば何でもウケると勘違いされている部分があるのではと思います。痛い、熱いで笑いを取るのは相当の腕が、資質が必要です。素人さんがただ熱い、痛いで笑いを取るのは非常に難しいし、やってはいけない。我々がそういう笑いを提供した責任はあるんでしょうが、素人さんにはやるなと言いたい。注意喚起を促したい。これは暴行、傷害のジャンルです」と訴えた。
タレント・土田晃之も怒り心頭。「パワハラって言う言葉で片付けていいのかなっていうレベル。僕らがいる芸能界で芸能プロダクションっていうのが、すべてこういう感じなのかって疑われる。こんなことありえない。大手プロダクションとかそれぞれのプロダクションに本当、迷惑かかってます」とピシャリ。
坂上忍も「あのモザイク、全部外してやりたい」と声を荒らげ、橋本マナミは「見ているだけで痛々しい。自分があの場にいたら、見ていられないぐらいの衝撃だと思う。笑っていられる空気感、人間としておかしい」と愚行を切り捨てた
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ハッ!都合のいい時だけ「僕たちのやっていることは芸能です!」ってか、笑わせてくれる!!!!お前の渾身のギャグよりもな!!
世の大半の人間は「芸」なんかに興味ないのだ
世の大半の人間は「芸」なんかに興味ないのだ
— パ ーフェクト寄生髭 μελαν (@gyakkost8) 2018年12月24日
幼稚な笑いをバカにする奴等の幼稚さが嫌い
— パ ーフェクト寄生髭 μελαν (@gyakkost8) 2018年12月24日
もうすぐ大晦日がやってくる。今年もダウンタウンたちが「笑ってはいけないガキの使いやあらへんで!」をやるんだろう。そして芸人の尻を叩いたり蹴ったりして、痛がるところや笑いをこらえるところを笑いにするんだろう。それで視聴率を稼いで何年もシリーズになっているんだろう。
人間は残酷なんだよ。他の個体が苦しむところを見て喜ぶのがお前たち人間なんだよ。そんなものが芸能、技能であるものか。
いや、言いすぎたな。人間の本能の笑いの反射神経を刺激するという点では、いじめも立派な芸だよなあ。だから電通などの広告代理店では裸踊りやパワハラで仕事を取ってくるし、他人の不幸のうわさ話はお前ら大衆のコミュニケーションの大半だものな!!
本稿で定義する激しい宴会芸は「徹夜で準備」「脱ぐ」「ゲテモノ飲み食い」「血を見る」のいずれかを満たすものです。
僕は背が低くて筋力が低いので小学校では酷いいじめにあったのだが、小学1年生の時に上級生に言われた言葉が深く心に刻まれている。
「お前を殴っても俺は痛くない。俺はお前を殴って楽しい。だからこれは良いこと」と言われた。それが純真な子供から発せられる人間の本能の言葉なんだよ。
だけど、世間一般人だと思っているお前たちはそれを認めようとしない。陰でこそこそ、セックスやクソをするように、裏ではみんな手を汚しながら、テレビや世間の”常識”では「暴力はいけない」「ポリコレ」「私たちは正しい」「命の大切さの教育」「正しくない奴に罰を!血の報いを!遺族の感情の処理を!処刑を!」とかほざくわけ。
そういう雑な認識で生きている人間が、僕がここまで一生懸命解説したGのレコンギスタのような
「個人個人に、それぞれ固有の人生と考え方と、その理由がある。個人個人が独自の目標を持ち、独自の見方で他人を見ている。そして、他人同士の力関係の世界観は必ずしも一致しないし、固定もされない」という世界観は理解できないだろう。
僕も世間から弾かれた精神障害者だからな…。恨む理由は存分に。
だからここまで読んでもGのレコンギスタの世界観が分からない人は、もう来なくていいよ。口を開けて出来合いのコンテンツや無料期間のコンテンツをぼんやりツッコまれて、話題を合わせるために番組を見て、何も考えずに無為に生きればいいじゃないの。文句を言いながらガンプラを買ってクリエイターやキャラクターをネタにして蔑視して嗤っておればいいだろう。それが楽しいんだろう?一般人ってやつはさあ。
「キャラクターを嗤うな!ネタにするな!生きているんだぞ!」
(2019年9月5日追記)こういう内海課長のいう週刊誌のような態度で、TVアニメのキャラクターを笑いものやコンテンツにするためにGレコを見ている人にはGレコはわからない。
これだけ言いたい。まあ、俺もたまにシャア・アズナブルが道化を演じているのをTwitterでネタにすることもあるので、ブーメラン発言なんですけど。
他人の痛みも想像しないでその場の流れや空気で人やキャラを傷つけ貶めて嗤ってコンテンツとして消化するお前たちに比べたら、虚構のキャラクターに後押しされたSSSS.グリッドマンの新条アカネや、旧劇場版のシンジくんや、二次元しか愛せないオタクの方が、よっぽど「人格」に敬意を払っている。
そして、俺は敬意を持たないものを軽蔑する。敬意をもって芸術を見ろ。Gのレコンギスタはそれに値する作品だ。それを解れよ!
- 総括を終えた
それでは、Gのレコンギスタの後半の殺人考察をまた、一話一話、やっていこう。劇場版に追いつかれる前に!
- Gレコ感想目次
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僕が一番Gレコを上手く語れるんだ!
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