Gのレコンギスタの後半を見た。やはり、Gレコはテレビ番組として異質だということが分かった。
ところで、みんなテレビは好きかな?そんなテレビ番組はどのようなレイヤー構造で作られているか考えてみよう。
この記事は三部構成だ。なぜなら僕がまとまった執筆時間を取れないから分割するからだ。
「テレビの構造」
「アニメの構造」
「構造を超えたGレコ」
の三部構成でお送りします。1記事を1日で書こうとしたらスケジュールが破たんすることに気づいて鬱病になって3日間倒れていました。
ところで、人口の大半を占める愚民のみんなはテレビバラエティーやワイドショーやニュース番組をよく見ていると思う。
テレビ番組も半世紀以上の歴史を持ち、視聴率で淘汰されてきて、要素が洗練、というか効率的に視聴者に見られるために整理されてきた。
こういう構図は読者諸氏も見慣れているだろう。
ところで、前回の記事で、ガンダムのキャラクターやメカは要素である、と言ったわけだが、
nuryouguda.hatenablog.com
ワイドショーの画像やタレント・コメンテーターも因数分解できる。皆さんは目の前の現実をどのように見ているのか、個人差があるので知らないのだが。対象には種類がある。
人は平等ではない。テレビではコメンテーターたちはこのようにタグ付け、属性を付与されて単純な要素として役割を演じる。これは数式と同じく因数分解できるのである。
この世は舞台、人はみな役者だ
All the world's a stage,And all the men and women merely players.ウィリアム・シェイクスピア『お気に召すまま』第2幕第7場より
www.youtube.com
↑川崎国の凶行殺人ラブライバー
こういう構図は愚民の諸君には日常的に見慣れたものであると思う。
これを因数分解してみよう。
クソ雑パワポで申し訳ないが、ワイドショーの構成は大体このようなものだ。
とある事件について、見出しとサマリーでまず雰囲気を作り、どれが悪いのかというルールの印象操作をしたうえで、VTRやフリップで被害者、或いは食レポのグルメなどの報酬対象と、それに対する犯罪者や試練などを話題としてアナウンサーや司会者が提示する。それについて、インテリ専門家(フィギュア萌え族の人とか)、重鎮のベテラン芸能人(武田鉄矢や坂上忍)、がコメントし、多様性な意見や庶民の代表としてオネエ(はるな愛)やアイドルタレントが賑やかしをして、ホンコンや南海キャンディーズのようなお笑いタレントが的外れなことを交えて馬鹿にされながら楽しい雰囲気を作ったりする。
これは殺人事件でも政治でも、扱うテーマが変わっても大体ワイドショーはこういう構造である。
ここで私がやりたいのは何も視聴率を稼げるテレビ番組の分析ではない。私はガンダム Gのレコンギスタのためにこれをやっている。で、Gのレコンギスタがなぜ大衆に受けなかったのか、と言うことを解析する一環として、そもそも大衆はどのようなものを見ているのかと言うことを考察しているのである。
そこで、この図で示したかったことは、テレビ番組において視聴者は「方向付けとルールに沿った上で」「レイヤー階層で分かりやすく役割を分担された人物の言動を聞き」「主対象である司会者の事件対象に対する言及」を受け入れ、それによって「敵対対象(北朝鮮や不審者や、スポーツの相手チーム)と報酬対象(拉致被害者の女性、殺害された少女、スポーツの日本チーム)」についての印象を深め、注目し、CMを見るのである。
- 視聴者の姿勢はどうか
そこで、このようなワイドショーを見る愚民どもである貴様たち大衆の視聴者はどのような姿勢でテレビを見ているのか。それは愚民であり、しかも不況であり、ほとんど何のとりえもない日本の大衆である貴様たちにとっては安っぽい自己肯定感の補給であろう。色んなコメンテーターの意見を見たり、報酬対象(料理とかアイドルとか動物の赤ちゃん)のおいしそうな所を見て快感を覚え、北朝鮮や汚職官僚や野党などの敵対対象に憤る。そして、「自分は正しい大衆のルールの中にいる正しい人間だ」と自己肯定感を充足させる。また、道化や安心して見下せるタレントのおいしいヘマや失敗をバカにして自分はそれよりも上だと満足する。それが大衆に向けたメディアなのである。
また、事件の被害者よりも自分が安全な場所にいることに安堵して愚民に過ぎない自分の日常に安心感を抱く。俺の自殺していない方の親のような人間ですらワイドショーを見て安逸を感じるのだ。伴侶を自殺させるような人間が。あたかも自殺した人が間違っていて、自殺させた自分は社会のルールに浸かっているから正しいと思い込むような態度なのである。そして、ルールから外れたタレントは世間から批判にさらされるのである。
たとえ平気で我が子を殴るような大人でもこういうワイドショーやコメディーのテレビを楽しんでいるものである。
また、ワイドショーで非常に重用される演出としての「コメンテーターたちの顔のワイプの表情」も、どのように事件に対して表情や感情を持つべきかと言うことを視聴者に暗示する「方向付け、ルール」の作用を持っている。
笑うべきか、怒るべきか。
その程度の判断も愚民は自分ではできない。教えられて人の真似をするだけ、と言うのが大衆である貴様たちなのである。
生きるとは、この世でいちばん稀なことだ。たいていの人は、ただ存在しているだけである。
To live is the rarest thing in the world. Most people exist, that is all.
ほとんどの人々は他の人々である。彼らの思考は誰かの意見、彼らの人生は模倣、そして彼らの情熱は引用である。
Most people are other people. Their thoughts are someone else’s opinions, their lives a mimicry, their passions a quotation.オスカー・ワイルド
(19世紀イギリスの劇作家・小説家、1854~1900)
また、VTRのテーマにおいて素人や街の人が街歩き番組で言及されることも多い。そして、そこで農業をやって料理をしている人を褒めたり、変なこだわりを持っている人を嘲笑したりする。
本来、お笑い芸人やタレントにあれこれ言われたからと言ってその人個人の価値は、その人と関係する人によって規定されるべきものであると私は考える。しかし、テレビの編集という暴力によって、その人は笑われる対象にされたり尊敬の対象にされたり、家族の温かさの象徴のように扱われたりするのである。
- わたくしグダちんのレベルについて
ちなみに、ここで注意してもらいたいのは、完全に僕の言っていることは僕の勘に過ぎないということです。メディア論の教育は受けていない。サピエンス全史も先日読者の方に譲ってもらったのだが、まだアリストテレスとカントが読み終わってないので読めていない。
人間の認知論についての人間関係のレイヤー階層についての人文的な研究もしていないし、関連する書籍や論文も読んでいないし、ここ数日では見つけられなかった。「レイヤー」とかで検索していてもコスプレイヤーの話ばかり出てきた。
そういうわけで、あまり学術的な整合性はこの文章にはない。僕は単なるアニメオタクです。
むしろ、人間関係とか認知行動学とかメディア論についての先行研究の本があれば教えてほしいくらいです。
単に「テレビ番組って大体こういう構図で組み立てられてることが多いなー」と言う印象論に過ぎない。
- 例の一つ 野球中継の因数分解
愚民は野球中継も好きだろう。私の自殺していない方の親も球っころが動くたびに、夕飯をがっつきながら目をギョロつかせて反応している。
このプレイグラウンドに重なったレイヤーに
実況解説レイヤーがあり、応援団レイヤー、さらにテレビ放送加工レイヤーがかかって野球中継となる。
そして、それをテレビで見る視聴者はぬくぬくとした自室でビールなどを飲みながら必死の野球選手の成功に歓声を上げたり失敗を嘲笑したりする。
クソ雑パワポで非常に申し訳ないが、ここで理解してほしいのは、野球選手、野球の試合展開、それを解説するキャスター、野球のルール、野球の歴史、球場のファン、テレビで見る視聴者、それぞれが別々のレイヤー階層にいるということだ。
そして、別々のレイヤー階層にありながら、相互にそのレイヤーの役割の特徴、記号の表層を観測し合っている。野球選手本人は自分の肉体と球とバットを観測しているが、視聴者にとってはそれは晩御飯の暇つぶしに流れる映像に過ぎない。人間たちが互いに理解、観測し合えるのはほとんど点なんだよ。
これはプロレスやボクシングや、フィギュアスケートなどにも応用できるレイヤー構造だと思う。
人間の認知能力は古代ローマで剣闘士の殺し合いを見て楽しんでいる頃から何にも進歩していない。
そして、別々のレイヤーにいるからこそ視聴者は安心して娯楽を享受することができる。
- 例の一つ ランキング格付け番組
プレバトという番組がある。俺は嫌いだ。しかし自殺してない方の親は好んで見ている。
これ以外にもクイズ形式だったり、食レポだったり、芸能人に格付けをする番組は多い。先日行われた全ガンダム大投票ランキングもそうである。
私のように大局を見る人間にはランキングの序列などは大して問題ではないのだが、ヒエラルキーの顔色をうかがう愚民には重要事項のようだ。
芸能人が俳句を作り、俳句に詳しいらしい人物がそれを査定し、ランキングをつけて、それを浜田雅功が面白おかしくする番組である。
これを因数分解する。
この番組が何を見せたいのかと言うのは時間配分やCMのタイミングなどを見れば一目瞭然で、ランキングが落ちて才能無しと馬鹿にされるタレントを嘲笑したり、あるいは名人の梅沢富雄などの失言や暴言を視聴者が楽しむものである。別に俳句をきちんと収めようとか、自分で俳句をきちんと考えて行こう、と言う教養番組ではない。単にランク付けされるタレントを見て嘲笑し、自分のゴミのような愚民の人生を紛らわす、実生活で会社や社会に低ランクの烙印を押されているごみのような労働者がランク付けされるタレントを仮初めのおもちゃにして憂さ晴らしをするだけの低俗な番組である。
で、ここで僕が指摘しておきたいのは、他人を嘲笑する愚民の心理では”ない”。
重要なのはこのショーの演出において、レイヤーが分断されていることである。これは他の多くのテレビバラエティーにも言えることである。
ひな壇に奴隷品評会のようにならべられたタレントたちがランキングされる。それぞれが必死に自己アピールする。それにタレントの中でも才能があると言われている上位の名人とかが文句を言って場を笑わせる。
司会者のダウンタウンの浜田雅功がタレントが作った俳句についてあれこれ言って笑わせる。女性アシスタントは華を添えるための置物に過ぎない。そして採点する時に浜田は叫ぶ。
「せんせぇーーー!」
そこで、俳句の先生が出てくる。
俳句の先生は別のスタジオの部屋にいて、先生を呼べるのは司会者であり同時に道化である浜田雅功だけなのである。俳句の生徒と先生は分断されているのである。
江戸時代の句会のように、サークルのメンバーが平等に同じ部屋にいて作品を見せ合い、顔を突き合わせて意見交換して俳句や技を磨くのとは違うのである。レイヤーが断絶しているのである。
そして毒舌先生は安全な別室から毒舌の寸評を言い、才能がないと言われた人の顔のリアクションがワイプで映って視聴者を嗤わせる。
また、その嗤いを盛り上げるために、声優の銀河万丈がそれっぽい声を出して俳句の先生の理論の正しさや、失敗した人の愚かさを声色で表現する。こうして、ナレーションで雰囲気に方向性をつける演出がなされる。このナレーションも、声優であるのでレイヤーが違う。タレントとしての銀河万丈が直接相手に言うのではないのだ。声だけの存在が先生の理論を補強するパーツとして行使される。バンキシャの大塚芳忠や食レポ番組の水樹奈々も同様の役割を果たしている。
で、タレントのリアクションを笑うスタジオの仕込みの女性スタッフたちもまた、声だけの透明な存在である。しかし、笑いものにする雰囲気を作るためにはそういうソープドラマの感性が必要なのである。これもまた、テレビ時代のレイヤー構造であろう。
(※参照・少女革命ウテナの影絵少女)
(2019年9月5日追記)
そして、テレビの中でもレイヤーが分かれているが、更にテレビ画面で分断されている視聴者は安全なところから強い梅沢富美男みたいな芸能人の暴言も、弱いアイドルの失言も笑う。パトレイバーの内海課長が言ったとおりである。
- レイヤーで争いは制御される
争いは同じレベルでしか存在しない。
とは、日本のインターネット掲示板でよく出る決まり文句だ。
しかし、本来、争いは同じレベルで優劣を競い合うのが自然であろう。
ここまで3つの例を出して因数分解したが、被害者は加害者と、野球選手は野球選手と、タレントはタレントと、同じレイヤーで争っている。
それが自然であるのだが、違うレベル、違うレイヤー、違う階級と言うものは古来より人類社会に存在してきたものである。そして、テレビ、メディアと言う非常に広範囲に観客をつくりだすシステムが構築されると同レベルでの争いは他のレイヤーにとっての娯楽になる。(これはインターネットでも同じである)
自分たちは安全な場所から、剣闘士の、戦争の、テレビタレントの、犯罪の、災害の、サークルクラッシュの争いを楽しむ。
本来、個々の人間に敬意を払う紳士やポリス市民ならば、そのような揉め事については心を悼め、解決のために努力するのが誠意であろう。しかし、テレビ時代の傍観者たちはそれをしない。
そして、おそらくこういう構造を一般の市民も娯楽として享受するのは軍人育成を目的とした学校教育が文化として根付いたからであろう。
国の方針、学校の方針のルールを上位の政治団体、自治体が決め、官吏や教員がそれを子供たちに課してランキング付けする。そして、上位にも下位にも成れない大多数のモブはヒエラルキーのトップの成功や失敗に一喜一憂し、高校野球とかに注目し、逆にいじめられっ子の自殺や過労死社員を侮蔑する。
個人と個人は尊重し合えない。
同じレベルの人間は連帯できない。争い、足を引っ張り合い、自分の欲徳を満たすために争うだけである。
www.mag2.com
A子さんは体格が小さく、母親に似て細身、顔も童顔であるから、私服だと小学4年生くらいに見られてしまう。だからその容姿をからかうように、あだ名がついた。派手な性格ではなく、見た目も大人しいA子さんでも、同じようなタイプの友人ができた。いつも一緒に通学し、一緒に帰宅するようになった。
ところが夏休みに入る前、突然、野球部の男子から背中に足跡がつくほど、飛び蹴りをされて、額を切る怪我をした。
さて、このクラスでは、明らかにピラミッド型の人間関係が出来上がっており、その頂点にいる男子生徒と女子生徒がクラスを仕切っていた。何かの基準はないようだが、私が個別に色々な生徒から話を聞く限り、垢抜けた目立つ感じの子が上位に立つ傾向があるようだった。
いじめのクラス構造というのは、様々だが、大きく3つに分けることができ、いじめをする「加害者グループ」いじめの被害を受ける「被害者」いじめとは無関係を気取る「傍観者層」となる。この3つの属性の比率は、クラスの状態で変化するが、このクラスではグループ間の交流がほとんどなく、権力的力学はさほど働いていない状態であると思われた。
蹴られた本人もわかっていたように、蹴ったのは野球部の男子であり、その指示をしたのが、クラスメイトの中で目立つグループにいる女子生徒2人であった。
この女子生徒は、成績が上くらい、スポーツは適当に万能、垢抜けた感じであり、発言力がある。その保護者はクラスの役員などをしているということで、両人とも学区の中では高収入者が集まる地域で一軒家に暮らしている。
団地やアパートに暮らす彼女らとは、クラス、レベルが違うとでも言いたいのだろう。ちなみに、調査協力をしてくれた女子生徒は、A子さんが休んでいる間に教科書を捨てられたり、階段から突き落とされるなどした。2人はすぐに担任に相談したが、「気のせいではないか?」と、やる気なくあしらわれ、助けを求める場もないと話し合って、学校に行くのをやめた。
A子さんを蹴った野球部の男子生徒であるという証言が揃って出た。この男子生徒は、保健室に行き、バケツに入れた水をかけたことを認めたが、台所用の漂白剤がどれだかわからないという理由から、漂白剤は混入させていないことがわかった。
しかし、この男性生徒が自白したことで、事は急展開をはじめた。
全くマークしていなかった女子生徒が、自宅からペットボトルに入れて、漂白剤を当日持参していたことがわかったのだ。
この女子生徒は、いじめの被害者3人がいなくなった後にいじめのターゲットとして狙われ始めており、その指示には逆らえなかったと証言した。
同じレベルの人間は連帯できない。しかし、レイヤーが上位の人間の言うことには従い、容易に暴力を振るうのが人間の本質なのである。
人間はもともと凶暴性を持っている。しかし、大半の人間はその行動力を発揮できない。しかし、上位の人間に命令されたから、というちょっとした言葉だけで人はいくらでも他人を殺せるのだ。
ユダヤ人の虐殺を担当したナチスのエルサレムのアイヒマンが凡庸な悪としてハンナ・アーレントに批判されたことがあった。しかし、アイヒマンが悪の中で凡庸だから侮蔑していい、と言うことではない。むしろ、我々を含めた多くの凡庸な人間は、上位の命令があればいくらでも人を殺せる。ユダヤ人の虐殺収容所への移送責任者であったアイヒマンだけでなく、載せられるユダヤ人を密告した市民、それを逮捕した軍人、列車に乗せた奴、列車を運転した奴、すべてが凡庸な悪なのである。しかし、彼らは下位のユダヤ人に暴行を加えたとは思っていない。ただ、上位命令を執行したのみである。それが人間的な思考なのだ。
これは戦場においても同じである。士官と兵卒は食事のレベルから区別される。
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よく映画やドラマで兵士と士官が一緒に同じ酒場で飲んでたりするけどウソです。基地の中でも士官(オフィサー)専用の食堂や将校クラブがあり、兵卒(エンリステッド)はこれまた専用のディスコで踊りまくってたりします。兵卒のお友達のエスコート付きなら私服の士官が兵卒用のディスコに潜り込んだり(そっちの方が面白いから)もできますが、そんな面倒なことしないでも六本木あたりに繰り出せばいいのでわざわざお忍びなどはしません。お外でもばったり出会えば上官と部下としての挨拶くらいはしますがそそくさと別の店に移動。
普段から違う食事、違う生活、違う身分として兵士と士官が差別されることによって、逆に作戦行動はスムーズになる。考えなくて済む。自分よりいいものを食べている、身なりの良い人の言うことには反射的に従って、蛮族を殺す。
それがヒトの本能なのだ。自由・平等・博愛を掲げたフランス革命は結局愚民の農民とインテリ階級と貴族で分断され、ナポレオンと言う絶対君主が現れるまではギロチンによる殺し合いが続いた。
人は愚かで、絶対君主に盲従し、下位を侮辱し、同じレベルの間では連帯することなく細かな差異を見つけていじめる。
スポーツ選手もアイドルもトップ以外はゴミクズのように貶されて笑われる。そして、一度トップになった人も、ちょっとした失敗が露見すればすべての栄光をはく奪されて国民全体から嘲笑されるのだ。
違う場所、違うレイヤー、違う待遇で共感しあえない分断があるからこそ、争いは制御される。同じレベルでは足の引っ張り合いが暴走して殺し合いになるが、上位レイヤーが睨みを利かせれば整理される。
それがテレビバラエティー番組の構造をチラッと見ただけでも分かるのだ。
しかし、私はテレビバラエティの専門家ではない。ガンダムのオタクだ。しかし、ガンダムもまたテレビ番組なのでGレコがなぜテレビバラエティばかり見ているような多くの大衆に受けなかったのかを考察していこうと思う。
考えること、それがオスカー・ワイルドに向かって「自分は存在しているだけではない、生きている」と言えるたった一つの方法だと信じて。
次回はテレビアニメの構造分析をします。
続き
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