玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

当サイトはGoogleアドセンス、グーグルアナリティクス、Amazonアソシエイトを利用しています

#Gレコ感想 なぜ劇場版 #Gレコ は分かりやすい? ノレドの尊さと下品な演出

 あのさあ!


 僕はねえ!
 「劇場版になってGのレコンギスタは分かりやすくなった」って、TV版も序盤で挫折したようなやつが上から目線っぽく、簡単にわかってしまったなあって言うのが嫌いなんですよ!!


 僕はわかろうとした!わかろうとしたんだよ!具体的には60回くらい(バックグラウンドでエンドレスリピート再生していたのも含めて)G-レコのTV版を見て、ベルリのストレスチェックと、それが反映している戦闘行動をビームライフルの一発、ビームサーベルの一振りのレベルで分析したんですよ!!


nuryouguda.hatenablog.com


 それがてめえ・・・。自分からわかろうともせずに分かりやすく描き直されただけで、どいつもこいつも「分かりやすくなった」って簡単に言いやがって・・・。気に入らねえ・・・。
 ちなみに今回の記事は1万8千文字あります。


(僕がテレビ放送中と、放送後の2回に渡ってクッソ長く解説文を1話に付き3万文字くらい、普通の出版社だと絶対編集者にボコボコに殴られた上にボツにされる長文をブッ込んだおかげで、それが副読本になってTV版が見れたという人もいるけど、それは副反応です。僕が書きたいから書いただけです)
(ちなみに僕が2周目のGのレコンギスタの分析を始めたのは2015年の11月から劇場版第一部の公開前日の2019年11月末までです。アニメ一本に4年もかけてるんじゃねえ!第一部の絵コンテの第一稿は2015年の6月にできており、監督の弁によれば、すでに絵コンテは第5部まで全部できている、らしいので僕の感想記事が監督に影響したとは考えにくい。富野監督ほどの天才が俺なんかを見ているわけ無いだろ!)



 俺はなあ!!
 劇場版Gのレコンギスタ第一部「行け!コア・ファイター」を見た時に、
「こ、こりゃあ、えらいこっちゃ!演出論が分かりやすい方向に変わってしもうとる!」と感じ、
その次に「人間にとって”分かる”、即ちホモ・サピエンスに起こった”認知革命”とはなんだろうか?」と考え込んで、進化心理学の文献を読む前に律儀に化石による進化人類学の本も読んだんですよ。
サピエンス全史(上) 文明の構造と人類の幸福 サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福


 「分かりやすくなった」、それはそうなんだが、ではどのような刺激だとヒト脳に「分かりやすい」と認識されるのか。そういうのを、基本の進化心理学、というか脳の構造や農業革命以前のホモ・サピエンスが数万年間続けていた狩猟採集生活による脳や精神の癖の分析などから「わかろうとした」のだが!
 僕がダラダラ一日に12時間も寝てたり(仕方ないだろ、自律神経が壊れている障害者なんだから)、予定のない日の前は徹夜して次の日に16時間寝たりしていてあんまり文献を読み勧めてないうちに仕事の早い富野監督が第三部を先に上映してしまいました!


  • 汚らしいものが真実と

 まだ論文をしっかりと読めていないのだが、そして、文献にはそのようなことは明言されていないのだが。「アニメを作ることを舐めてはいけない」も後回しにしていて読めていないのだが。
アニメを作ることを舐めてはいけない -「G-レコ」で考えた事- (単行本コミックス)



 G-レコよりも分かりやすいと言われる多くのTVバラエティなどを観測した結果、(本当はもっと早く沢山の本を読んで整理してから記事にすべきだったのだが)
「人間はきれいな感情より”恥ずべき感情”、即ち怒りや苦痛や敵意や利己心を真実、もしくは非常に重要だと認識する癖がある」と、僕は思っている。


 多くのリアリティショーでは、人間関係の理性的で円滑な構築よりも、揉め事や敵対関係、あるいは裏切りが娯楽として視聴者に観測されるし、それを引き起こす利己的だったり好戦的である感情こそが真実、すなわちリアリティと見られるだろう。(僕は嫌いですが)
「推しの子」のリアリティショー編なども参照のこと。
[asin:B08V12QYHG:image:large]
www.nhk.or.jp
bunshun.jp



 視聴者は芸能人の鍛えられた技による美しいお芝居よりも、醜い失言や愚かな失敗こそを「リアル」だと感じるようだ。
 これは政治家も同じで、多くの美辞麗句や実績よりも、うっかりしたミスやスキャンダルの一つで彼らの評価が決められたりする。


 また、「警察24時」とか「世界衝撃映像」などの番組では犯罪者が警察官に怒られたり攻撃されたりする姿を、あるいは不幸な事故の被害者を「間抜け」として面白がったりする。僕は嫌いですが。


 ツイッターでも右派も左派も意見は違えど、自分の意見と違う人を侮蔑したいという言葉を多用するという点では共通している。
 僕は先日ブログで「F91のコスモ貴族主義みたいな実力主義が氷河期世代以降の日本にあるよね。だからF91も現代的な作品で、決して貴族的なビジュアルのように近世に後退しているわけではないよ」って書いたが、その夜にアフガニスタンのカブールがタリバンに侵攻され、Vガンダムみたいな斬首ショーが行われて、非常に気が重い。僕はそこまでやれとは言ってない。
 しかし、ツイッターでは死者を悼むというよりは戦場カメラマンがアフガニスタンにいるふりをして日本からツイートしているのを突っ込まれたり、自民党やアメリカのバイデン政権の云々カンヌンで憎しみや罵倒の言葉をぶつけ合う人が多い。悲しいことだ。


 陵辱系エロ漫画や魔女裁判などでは、筋道だった証言より、拷問や脅迫によって口に出た言葉が真実だとみなされる。体は正直と言われる。
 まあ、人間は暴力に屈するというのは真実の一面ではありますが。(しかし、ハラリによれば暴力の源泉も宗教や金銭などの幻想とのこと)


 プレバトやジャンクスポーツなどの司会を務める浜田雅功氏は高評価の作品の美点よりも「作者の自信が権威のある先生の添削によって打ち砕かれる様の恥ずかしさ」を強調するし、アスリートの実力よりも、アスリートがなんか本来のスポーツではない賭け事のようなチャレンジに失敗して悔しがるのを娯楽として提供する。あ、これは体育会系TVだったか?
news.biglobe.ne.jp

 体育会系TVではアスリートが子供とかに負けると「赤っ恥!」と立木文彦さんに言われる。立木文彦さんはVガンダムを代表する名優なんだから、そんな低俗な番組のナレーションはしないでほしいのだが、ナレーション、アニメよりギャラがいいんすかね。TVアニメよりもCMの方がギャラがいいとか聞くし。
 「ニンゲン観察バラエティモニタリング」も他人の恥をコンテンツにしている。サンドウィッチマンの「博士ちゃん」とか「チコちゃんに叱られる」とか小学生レベルのクイズ番組も、情報の正しさや価値よりも、ノーヒントのクイズで間違えた芸人が赤っ恥をかくのをわらいものにする。あと、テレビなれしていない素人も笑いものにする。
(だから、僕は複数の人から「グダちんさんはガンダムに詳しいのでマツコの知らない世界に出れるのでは」って言われているのだが、TVバラエティにつきものの「笑い女の効果音」が最悪に嫌いで、うかつに笑われたらシアー・ハート・アタックを発動すると思うのでテレビには出たくないです)


 また、名司会者の明石家さんまさんや浜田雅功さんは美談については「カットしろ」とよく言う。僕は英雄主義なので美点や強さこそ勲とすべきだと思うのだけど。


(ちなみに、バラエティ番組でけなされず、褒められるのはアスリートや芸術家の技術や過程や努力ではなく、結果です。一応その道の権威らしい人が決めつけて解説をすることもありますが。そして、その結果というのは殆どの場合「賞金や年収などの金銭」や「序列の権威」として記号化され、視聴者と価値観を共有されます。(※追記 オリンピックですら技ではなく、金銀銅のメダルという記号を取れたかどうかで評価されます)視聴者は熱心なファンではない限り、アスリートや芸術家そのもの本人や、その感覚的な技巧や具体的な作業工程よりも金や発行部数や再生数や視聴率といった数字に価値を感じます。これもハラリによるとサピエンス特有の共同幻想なのですが。そして、キャピタル・タワーという命名をした富野監督もそれに気づいていたと思うが。ユヴァル・ノア・ハラリ氏の「サピエンス全史」が邦訳出版されたのは2016年なので、「はじめたいキャピタルGの物語」をガンダムエースに富野監督が投稿したのは震災以前の2010年12月号であるため、直接の関係はなさそう)
(貨幣という価値の共同幻想もハラリ氏とG-レコのテーマの一つですが、本記事では感情面に絞って書くため、この部分は省略する)
(しかし、ガンダムエース100号記念にお祝いの言葉ではなくガンダムのようでガンダムではないオリジナル企画小説をぶっこむ富野監督、テロだよね。色んな会社の偉い人が祝辞を送っているのに、原作者本人は自分のオリジナル企画をぶっこむチャンスって。形だけでもおめでとうとか言わないのだ。まあ、キャピタルGの物語の次のページではTHE ORIGINでギレン・ザビが死んでるので…どっちもどっちというか)



 まあ、身体化障害が発症するほどの精神障害者で回避性人格障害で機能不全家族出身の僕が嫌いだと言っても、夕飯時には機龍警察のライザ・ラードナーの実家のように低俗なバラエティ番組が放送されるものなのだ。それが平均的な人間のふるまいなのだ。
(僕はテレビが見るに耐えないので、ダイニングの壁に貼ったモネとかゴッホとか神坂雪佳とかの美術館で買った複製画を見て夕飯を我慢している。ひどいうつ病なので美しいつくりものしか見たくない。名画はテレビ番組と違って毎日見ても飽きない。)


 富野由悠季監督も彼の映像技法の高度さよりも怒りっぽいとか、暴言を言うとか、そういう人格の問題エピソードが強調されて語られることがオタクの間でも多い。(これは監督の責任もあるというか、監督は責任者なので)


  • Gのレコンギスタ劇場版は下品になっている

 本当はユヴァル・ノア・ハラリ氏の「サピエンス全史」の下巻も読んでから記事にするべきだったのだが、僕よりも富野監督のほうが仕事が速いので。上巻しか読めてない。
 そして、Gのレコンギスタ第三部でノレド・ナグさんが、答えそのものである「恥ずかしい!」という言葉を発してしまったので、記事にするしかない。


  GレコはTVアニメとしては異質だからわかりにくい、という仮説を立てた。そうすると、逆に劇場版は分かりやすくなることでむしろテレビ的になったのでは?などと思った。
nuryouguda.hatenablog.com



 劇場版Gレコは下品になっていると言うか、もっと正確に言うとカメラが近くなっている。キャラクターの恥ずかしいシーンを赤裸々に描くようになっている。
 TV版のGのレコンギスタは「キャラクターの心情を視聴者が察してやることによる能動的な感動」があった。端的に言えば心情の答えそのものは映されない。カットが変わったり話数をまたいだりして有耶無耶になっていることが多い。
 で、僕のようなアクティブソナー型のオタクは自分からフィルムに対して探査して、反応から類推して直接映っていない感情を推察して楽しんでいたのだが。


 Gのレコンギスタの劇場版はTV版第2話では、クンパ大佐の部屋でベルリに対して虚勢を張っていたアイーダさんが、より分かりやすく、当然な怒りとして予想されるようにベルリに「人殺し!」と叫んでいる。(TV版でもベルリと口論していた流れから、ベルリを人殺しと読んだだろうということは予想できるが、それは映されなかった)


 テレビの第5話でもアイーダがカーヒルのことを話している時に、アイーダの同年代の友達であろうステアがちらっと目線をやって気にかけたり、(ここも劇場版でセリフ変更) 


 アイーダがメガファウナのブリッジから更衣室に向かう前にステアと頭を寄せ合って、ちょっと腰を押してもらったりしているというノンバーバルコミュニケーションを見て、僕みたいなオタクは「演出の侘び寂び〜〜〜」ってなっていたのだが。
 劇場版ではカメラがメガファウナの正面ガラスとアイーダとステアの間に回り込んで、アイーダがステアに愚痴って泣くセリフと表情が追加されている。


 言ってしまえば、TV版の時の富野監督はアイーダさんを美しい謎の女性として描こうとしていたのだと思う。なにしろ、第1話のサブタイトルが「謎のモビルスーツ」だし。アイーダさんのことですよね。
 で、富野監督はアイーダさんがカーヒルと寝ていたのではないかと思って、自分の作った創作上のキャラクターなのに勝手に幻滅してしまったとインタビューで答えていたが。まあ、裏を返せばそれくらい19歳くらいの非実在青少年のアイーダさんに70過ぎの富野監督は好感をもっていたということなのだろう。(年齢を気にしていたらあの年で子供向けロボットチャンバラ宇宙アニメなんか作れねーだろ!)


 なので、TV版は恥ずかしいシーンを映さないで、カメラが引いていた。と言うか、キャラクターが見せたくないと思っている恥ずかしいシーンは敬して映さないという距離の遠さがあったのだけども、劇場版ではわかりやすさのために恥のシーンにカメラが切り込んでいっている。ある意味で劇場版の演出は下品で不躾になっていると言える。
 だから、アイーダさんがブチギレてパイロットスーツをロッカーにぶち込む怒りのシーンも盗撮気味(逆光)に撮影されてる。それでアンダースーツ一丁になったアイーダさんがベルリに性的な目で見られるけど、怒りのあまり自分のエッチな体を自覚できなくなっているという、やはりちょい下品な演出が入っています。
(TV版に対して僕はGレコの合同同人誌で「ベルリは去勢されているように見えて、あまり近親相姦という感じがしなかった」という意見を書いていたのだが、まあ、これも監督には関係ないだろう)
nuryouguda.hatenablog.com


 ベルリはベルリでTV版では殆どなかったモノローグが追加されている。
 第三話でG-セルフの中でベルリがウンコする「超大恥」のシーンは挿入歌と流れるようなエンディングで、はっきりとウンコだと描かれなかったけど、劇場版では「トイレ音楽」とノレドさんが言ってしまう。で、ベルリがうんこしてスッキリした顔とか、それで苦々しく思うアイーダさんが追加されている。まあ、それだけではなくテレビでは話数またぎで省略したビクエスト島までの移動のダイナミズムを挿入歌の長尺に乗せて、きれいな海の生き物と移動中の美人のアイーダさんなどG-セルフのコックピット内のきれいな新作画というサービスシーンも追加している。


 第二部「ベルリ撃進」ではデレンセン大尉との戦いのあとのショックと、それをケルベス中尉に吐き出すのも分かりやすくなっていて、恥の描写がなされるようになっている。
 TV版では僕は好意的なオタクだったので「デレンセン大尉とのことを察していてもあえて言わないケルベスの態度が上品」だと思っていたのだが。劇場版第二部では分かりやすく体育会系の教師と生徒として「高トルクパックを使ってみせろ!飛び級生の根性と腕前を見届けてやる」という浪花節っぽく変化している。それでもケルベスは「殺した」という単語はギリギリ出してないんだが。あと、劇場版ではケルベスは趣味でメガファウナに乗り込んだと言うより、デレンセン大尉はベルリにではなくアーミィの軍事化というシステムに殺されたと思っている、ようにも見える改変。
 ベルリを締め上げながらも、メガファウナの海賊たちには気付かれないように密談しているようなケルベスとベルリの距離感、カメラの近さもTV版のちょっと引いた態度よりもグイグイと突っ込んでいるようだ。


 TV版はドラマではなくドキュメンタリーと評する人がいたり、やはりカメラが遠かったと思う。というか、キャラクターがあまり見せたくないというシーンにカメラが入り込まなかった、遠慮があったような。


 で、劇場版では恥ずかしいシーン、感情的に泣いているシーン、苦しんでいる場面、テレビでは隠していた素顔を追加して、キャラクターに対してカメラの距離が近くなっている。
 しかし、戦場カメラマンの葛藤などでよく言われるように、客体に対してカメラが近くなっている方が不躾で、相手の気持を無視しているのかもしれない。(まあ、アニメキャラは実在しないんだけど、富野監督はキャラクターを実在していると思いこんで作っていくタイプ。ディアナ・ソレル陛下ガチ恋勢筆頭。そりゃ、作者が筆頭なら勝てへん)
 TV版はやっぱりアイーダさんやベルリというキャラクターに対してカメラマンとしての富野監督が遠慮や温情を見せて引いたりカットして尊厳を守ろうとしていたのかもしれないのだが、劇場版ではもう色々と割り切ってブッコミモードになっている。
(TV版でもキア隊長が負けるところやクン・スーンちゃんが泣くところなど、金星編以降はカメラが近づく方に修正したっぽい?大気圏突入ラブシーンとか)


 だが、劇場版ではクリム・ニックの出撃前のおもしろシーンや、カットシー部隊をG-セルフに破られて男泣きするデレンセン大尉の敗走シーンがカットされている。

 そういう点で、ベルリとアイーダ(そしてノレド)にカメラが近づいているが、TV版で描かれた他のキャラクターの多重的な視点はわりと削られて、情報の視点が単一化の傾向になっている。これはこれで分かりやすいのだが、文芸的には情報量が減っているとも言える。これが映画志向の富野監督の方針なのか?映画になることで、逆にTVバラエティ的な価値観になってはいないか?
 と、思いはするものの。
Reconguista in G the Movie | GUNDAM ONLINE EXPO 2021

 昨日、北米のイベントGUNDAM ONLINE EXPO 2021で劇場版Gのレコンギスタ第一部と第二部が英語字幕で北米大陸限定でYou Tube無料公開されたことへの富野監督のコメントとして

アニメは、楽しくて、かっこよくて、テンポが良ければ(fast-paced)、OK。

でも、ちょっと戸惑ってたり、コミカルに抜けていたりするキャラがいれば、もっと良い。

 というご意見なので。週イチのTVアニメの一週間ごとのじわじわした重ねと、一気に疾走感で見せる90〜100分の映画ではメディアが違うとのこと。
 まあ、やっぱりイデオンもそういう所あるよね。IDEONは劇場版がすごいんだけど、TV版伝説巨神イデオンのゆっくりしたテンポ(何しろ序盤のイデオンはほとんど射撃しないで殴る蹴るで戦う)と宇宙逃亡劇の延々と続くウンザリした感じを味わってから、劇場版で突き抜けるのもいいんだよなあ。∀ガンダムもそういうところがある。リーンの翼は短期決戦。ブレンパワードもサンライズフェスティバルで劇場にかかるらしい…。ヘボット!と同格で…。



 話がそれたが、劇場版はアイーダとベルリの恥部にカメラが切り込んでいるので、視聴者も「これだけ恥ずかしいことをしているんだから、これは本心だろう」と思って、「わかりやすい」と感じるのだな。TV版の遠慮がちで遠くて、本心を「想像しなさい」と、視聴者にアクティブソナー型に考える余白を与えていたカメラワークから一転、パッシブセンサーに「これが恥ずかしい本心や!」って情報をぶち込むカメラワークに変わっている。キングゲイナーの、サラに長文告白して読心術を破るゲイナー・サンガくんのサイコアタック返しみたいな。
 まあ、イデオン発動篇の冒頭のキッチンとか、劇場版で富野監督がリミッターを外して吹っ切れてキャラクターにひどいことをするのは、割と昔からあるわけでして・・・。


 TV版では「ひどすぎるかな」と欠番になっていたラライヤの恥ずかしい酸欠よだれまみれ登場シーンや、エルフ・ブルをボコボコに破壊するG-セルフの左上からの凶暴な攻撃も劇場版では描かれる。


 ここでパトレイバーの内海課長の週刊誌の作り方の画像を再掲してもいいけど、流石に飽きたので面倒。


 しかし、そういう人間の卑しさについて、「卑しい」と切って捨てるのもどうかと思う。なぜ、卑しい人間がホモ・サピエンスの大半を占めるようになったのか。それについて調べてみた。


  • 悪徳に反応するヒト脳

人体六〇〇万年史──科学が明かす進化・健康・疾病(上) (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 2015年9月に早川書房から発売されたダニエル・E・リーバーマン氏の「人体600万年史(科学が明かす進化・健康・疾病)」の文庫版上巻134P5行目からの引用

 狩猟採集民の母親は互いに助け合って子供に目を配るし、男性は家族にだけでなく、ほかの男性にも広く肉を分け与える。誰か一人が狩りで100キロ以上もあるようなレイヨウなどの巨大な獲物をしとめると、その肉は仲間全員に分配される。この類の分けあいは、ただ単に親切にしようとか、肉を無駄にしないようにという意図でなされるのではない。これは空腹のリスクを低減するための必須戦略なのだ。いつ狩りに行っても大きな動物をしとめられるなんて可能性は、確率にすればきわめて小さい。しかし、自分が狩りに成功したときに肉を分けておけば、空振りだったときに仲間から肉をもらえる確率が高くなるだろう。
(中略)
 驚くにはあたらないが、狩猟採集民はたいした平等主義者であり、相互依存を重視して、全員に日々の食料が少しでも多く行き渡るよう心を砕く。今日でも私たちは貪欲とわがままを罪と見なすが、狩猟採集民のきわめて相互協力的な世界では、分け与えない、協力しないというのは生死に関わってくる。集団内の相互協力は、二百万年以上前から狩猟採集民の生き方にとって基本中の基本だったことだろう。

 大学院生だったら、Gレコの放送後のけものフレンズブームのときにこれは一日で読破しておくべきだったのだが、僕はダラダラしていた。


 同書235P、後ろから5行目からの引用

 現生人類の脳の組み立てに改変がなされているのは明らかだから、それによって私たちならではの特殊で適応的な認知技能が説明できるかもしれないということだ。狩猟採集民の成功は、他人と協力して効率的に狩猟採集をする能力があるかどうかに大きく依存する。そして協力するには、いわゆる「心の理論」――他者の動機や心理状態を直観的に理解する機能――が必要であるとともに、自分の衝動を制御して戦略的に行動できることも必要となる。これらの機能はすべて、前頭前皮質が大きいほど、あるいは高性能であるほど高まるだろう。加えて、協力を実行するには、感情や意図について、およびアイデアや事実についての情報を、迅速に伝えあう能力も必要になる。側頭葉の拡大はこれらの技能の高まりにもつながっていたかもしれず、頭頂葉の拡大もあいまって、最初の現生人類が最終や狩猟をする際に、より効率に推論できるようにしていたかもしれない。
(後略)


 また、このあと238Pからの「おしゃべりの才能」の節では、現生人類が旧人類よりも短い口腔部を持ち、チンパンジーよりも頭が直立しているなどの解剖学的な見地から、「声道の垂直管と水平管が、人間においては同じくらいの長さ」で「きわめて丸まった舌の動きによって、二つの管の断面図をそれぞれ10倍ほど修正できる」という分析のもと、人間は非常に巧みに言語を操る動物になったとのこと。(その代償として誤嚥で窒息死する唯一の動物だとか)


 リーバーマン氏の「人体600万年史」の下巻は数百万年に渡って狩猟採集に”適応”していた人間にとって農業革命以降の文明社会、さらに産業革命以降における進化のミスマッチとそれによる疾病の分析に移る。
「劇場版Gレコの演出が何故分かりやすいと認識されるのか?」という問いに対しては、生活習慣病の分析よりも「人間の脳の癖」として「人間は生存戦略として他人の心の中の悪徳、すなわち利己主義に鋭敏に反応する」、「人間は言葉を重視する」というこの3ページの文章が必要だった。通読したけど、その他の解剖学や地質学と考古学の知識は雑学。


 リーバーマン氏の化石解剖学的なハードウェア面での人類進化の歴史を30Pで書き飛ばした、やや文学的なきらいのある、脳のソフトウェア面の記述の多いユヴァル・ノア・ハラリ氏の「サピエンス全史」ハードカバー版37Pの認知革命と言語についての一節からの引用。
サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

 私たちの言語は、噂話のために発達したのだそうだ。この説によれば、ホモ・サピエンスは本来、社会的な動物であるという。私たちにとって社会的な協力は生存と繁殖のカギを握っている。個々の人間がライオンやバイソンの居場所を知っているだけでは十分ではない。自分の集団の中で、誰が誰を憎んでいるか、誰が誰と寝ているか、誰が正直か、誰がずるをするかを知ることのほうが、はるかに重要なのだ。
(中略)
 陰口を利くというのは、ひどく忌み嫌われる行為だが、大人数で協力するにはじつは不可欠なのだ。新世代のサピエンスは、およそ七万年前に獲得した新しい言語技能のおかげで、何時間も続けて噂話ができるようになった。誰が信頼できるかについての確かな情報があれば、小さな集団は大きな集団へと拡張でき、サピエンスは、より緊密で精緻な種類の協力関係を築き上げられた。
(中略)
 今日でさえ、人類のコミュニケーションの大多数は、電子メール、電話、新聞記事のいずれの形にせよ、噂話だ。
(中略)
 噂話はたいてい、悪行を話題とする。噂好きな人というのは、元祖第四階級、すなわち、ずるをする人やたかり屋について社会に知らせ、それによって社会をそうした輩から守るジャーナリストなのだ。


(中略)
 虚構、すなわち架空の事物について語るこの能力こそが、サピエンスの言語の特徴として異彩を放っている。
(中略)
 だが、虚構のおかげで、私たちはたんに物事を想像するだけでなく、”集団で”そうできるようになった。(中略)共通の神話を私たちは紡ぎ出すことができる。そのような神話は、大勢で柔軟に協力するという空前の能力をサピエンスに与える。アリやミツバチも大勢でいっしょに働けるが、彼らのやり方は融通がきかず、近親者としかうまくいかない。オオカミやチンパンジーはアリよりもはるかに柔軟な形で力を合わせるが、少数のごく親密な個体とでなければ駄目だ。ところがサピエンスは、無数の赤の他人と著しく柔軟な形で協力できる。だからこそサピエンスが世界を支配し、アリは私たちの残り物を食べ、チンパンジーは動物園や研究室に閉じ込められているのだ。

まんがでわかる サピエンス全史の読み方 (まんがでわかるシリーズ)



 というわけで、僕がTVバラエティを観察して「人間って人の汚い部分を面白がる習性があるな」と軽蔑しているだけでは、単なる無職の精神障害者のオタクの一般向けテレビへの偏見であるので、いちおう人類学のベストセラーでもそういう事が書いてあるよって。
(しかし精神障害者集団というのも社会の中のある種の幻想によってくくられた集団であるので、僕が自分を事実として疾患が認定された精神障害者だと述べると、他の精神障害者から「精神障害者の社会的イメージが悪くなる」とか怒られたりする。アウトロロロロ〜〜〜〜。
医者にもあんまり障害者アピールをするなと言われているのだが、10年も幻痛などに悩まされていると、本人としては別に障害者アピールっていうか、そういう体質である事実でしかないんだが。でも社会は虚構のイメージで判断するから)


 ともかく、人間は進化と適応の過程で生存上の必要から、人間関係やコミュ力を重視するようになり、そのコミュ力が特に反応するのは主に他人の悪意や汚い部分だが、それこそが人類の世界制覇の原動力だったとか。
 でも、超高速噂話マシーンのインターネットが発達したので、小山田圭吾さんやDaiGoさんみたいに「いじめと迫害こそが人類の本質」とか公言すると怒られるからね?
 やっぱり清く正しく美しくですよ。


 リーバーマン氏とハラリ氏のご意見がどれくらい正しいのかは毎月学会誌を読んでいるわけではない僕にはわからんのだが、まあ、ある程度は化石とかの証拠を積み上げて論じているので、僕のTVバラエティに出てる浜田雅功に対する意見よりは説得力がある。


  • ノレド・ナグさんの黄金の精神

 で、「劇場版G-レコは恥ずかしいシーンを描く下品な演出になったので、TVバラエティを楽しむような低俗な一般人にも分かりやすく見えるのだな」と書いてしまうとただの悪口である。
 だから第一部と第二部を見て、だいたい頭の中にこの記事のアイディアがあっても、ファン心理から書くのをためらっていた。
 いや、学術書を読むのが遅かったと言うか、方法序説とかも読んでたりとか事情があった。事情が。


 しかし、第三部「宇宙からの遺産」でノレド・ナグさんが自分の発言について「恥ずかしい!」と吐き捨てたところに黄金の精神を見た。なので、書くことにした。


 というのも、ノレド・ナグさんがベルリに対して自分の汚い恋心の打算を打ち明ける前に、彼女はベルリのクッソ恥ずかしい大失恋の長台詞咆哮を聞いて、クッソ恥ずかしい青春疾走からの号泣転倒を見てしまっているのだ。


 ベルリがアイーダさんに対して失恋するのは劇場版にするに当たって、最初から重要視されていた場面だが。
 TV版第16話の「ベルリの戦争」ではベルリは失恋と同時に「レイハントン家への反感」で暴走してしまい、失恋がメインなのか、出生を知ったことがメインなのかちょっとボケていた。
 というか、アイーダさんとの夜のシーンでは取り繕って談笑していた。TV版は感情を隠したりごまかしたりする演出がとても多かった。ベルリが殺しているのに殺してないといいはったり。(この殺人の否認は劇場版でもいくつか残っているが)
 なので、僕はアクティブソナー型オタクとしてベルリが取り繕っている裏のストレスをチェックしていくという不躾な考察をしていたのだが。
 劇場版では取り繕わずに叫んで恥ずかしい本心を吐露して、パッシブソナー型の観客にも心情を打ち込んで更に恥の上塗りをしている。


 これでベルリの失恋は分かりやすくなった。あー、恥ずかしい。また、ベルリ自身がTV版の最終回くらいで気づいた「自分は天才だと思ってたけど、なんにもわかってないで調子に乗ってたバカでした」ということも白状してしまう。


 ここでベルリが股間を押さえているのは、アイーダさんに対する性欲の問題と言うより、「はじめたいキャピタルGの物語」のベリルが初めて宇宙空間に出たときに恐怖とともに感じた、”女子は、どうやって気力を支えるんだろう?”つまり、チンチンがなければ、女子はなにをもって踏ん張っているんだろう?ということのリフレインで、このシーンのベルリはその初期案からの「何とも繋がれなくなっている状態」を仕草にしたと思っている。僕は。


 この女子の気力の話はTV版では地球に引っ張られそうになったチッカラ・デュアルとクン・スーンが気合を入れるシーンに使われてたけど。(TV版はこの直後にCMに入るので恥ずかしさをごまかしている)


 「さらざんまい」ではないが、とにかくベルリは「アイーダさん恋し」で殺人とか宇宙戦争に参加してしまったが、アイーダさんが姉というつながりが発覚したことで、逆に恋人として繋がれなくなったことを自覚して、宇宙に放り出されたのと同じくらいの孤独感と寄る辺なさを感じていて、叫んで走るしかなかった。


 クッソ恥ずかしい。自己肯定感なくなる。アイーダさんにも聞かれてるし、多分、館の中の他の海賊やレイハントン家の家臣にも聞かれてるだろう。


 そこで、ノレド・ナグさんが「私も恥ずかしい事を考えてたんだよ」と、降りてきて言ってやってベルリの恥ずかしさを受け止めてやると言うか、ベルリの大恥を笑ったり嘲ったりせずに、それを承認してやる。それで、ノレドが「アイーダさんの家に戻ってやりなよ」と促すことで、ベルリはまあ、恥ずかしいことは恥ずかしいのだが、アイーダさんの前に戻って繋がりを新しく弟として結び直すことができた。TV版ではビー玉は「アイーダさんは覚えてるけど、僕は覚えてない」と、ベルリがちょっと姉に対して疎外感を感じるアイテムだったけど、劇場版ではビー玉の美しい受け渡しで弟を認めて新しいつながりを作るきっかけのアイテムになっている。もちろん、レイハントン・レジェンド・コードもだが。


 なんか幾原邦彦作品の感想みたいなことを書いてるけど。ウテナとアンシーが互いに汚い感情をぶつけ合う場面みたいな。


 でも、そんな感じでノレド・ナグさんが自分の恥をベルリに打ち明けることで、ベルリとノレドは恋人にはまだなれていないけど、「何もなければ、なんとなく流れで就職したあたりで結婚するんだろうな」という生ぬるい学生時代の見合いみたいな男女関係から、何でも打ち明けられる友達に変われたと思う。まあ、あと2部ある。


 アイーダさんもバラの遺伝子を持っているけど、アイーダさんは別に鳳暁生ではないと思うけど。G-ルシファーを従えるけど。


 ノレドさんが恥を晒している男に向かって自分の恥部を見せることで許しを与えるの、富野小説のエログロ的には割とあるというか、チンチンが縮こまって自信をなくして気にする男と、陰部を晒す女というアレはよくある。特にリーンの翼だよ!サッコウ!小説家としてのキャリアのスタートからだいたい富野小説はそんな感じだったのだが。


 もちろん、明るく楽しい子ども向けロボットアニメではそういう性器の描写はほとんど描写できませんからね。Vガンダムでちょっとオチンチンとゴトラタンが出たくらいで。ブレンパワードの最終決戦前のキスシーンもそういう感じだったかもしれないけど。


 TV版を劇場版にするに当たって、小説版で使っていた技を入れてくるというのは、割と新しい戦術で、「なるほど、こういう難しいシーンのリテイクをするにはそっちの引き出しにある道具を使いましたか」とオタクとしては感嘆した。しかも性器のメタファーだけどあんまり下品にならない感じで。でもノレド・ナグさんのミニスカートと生脚でなんとなく匂っている感じはある。


 なんかチンチンがどうとか、ロマンチックな青春シーンなのに下品になってしまったが、まあ、「さらざんまい」と同じく、二人だけだとぶつかり合うか離れるかになっちゃうけど、三人だとつながりを補い合えるよね。というか。


 劇場版の演出が恥ずかしいシーンを見せる方向になってたと僕が勝手に問題視していたけど、ノレド・ナグさんが自覚的に「私は恥ずかしいことをいいました!」と言うことで、「うわっ。ノレド・ナグさん優しい!黄金の精神だ」って思った。ベルリの恥が最高に高まったところで、ノレド・ナグさんが恥を許して、ベルリのストレスをなだめてくれるという。なるほど、女性というのはそういう事ができるのか。そういう演出プランが第一部からあったわけですね。なるほど〜〜〜!


 TV版の最終回でフラミニアさんを見てベルリが「女の人ってすごいな」ていうのがあんまりピンときてなくて、っていうか放送後の富野監督のNHKカルチャースクールでのサイン会でも「僕の知人の女性もピンときてなかったらしいです」と富野監督に言ってしまったのだが。
 ノレド・ナグさんがここで女の黄金の精神を出してくるわけか〜〜〜〜!これは予想ができなかった。しかし、青春ラブストーリーのセリフとしてはありがちだし、負けヒロインがよく言うセリフとして、スッと聞こえるほんのちょっとした一言なんだが。


 恥ずかしさの頂点で孤独になっているベルリに「私も恥ずかしいやつだよ」って言える女、強い。ザンボット3の最終回のような暖かさがある。


 でも、まだ2部あるし、ヒロインレースからアイーダさんは明確に降りたので、ノレド・ナグさんもここからです!劇場版ルートでの追い込みはファ・ユイリィという先例もあるし。逆に抹消されたベルトーチカとかもいるけど。


  • 強くなったノレド・ナグさん

 TV版のノレド・ナグさんはラライヤの世話をしなくて良くなったので、自分が孤独になったと感じて、船医のメディー・ススン先生に相談して、看護師のキラン・キムさんに「歴史政治学の勉強をしなさい」って言われたのだが。まあ、ハンナ・アーレントの影響が強かったTV版ではそうだろうなという描写だが。
 やっぱり勝手に孤独感を感じて脇役の医者に愚痴を言って勉強しろって言われるより、劇場版でベルリの大ピンチに駆けつけて逆に彼の孤独を癒やしてやれるようになったノレド・ナグさんは(ドラマの強度として)強くなったなあと思う。


 まあ、女性のそういう優しさに救いを感じてしまうのも男の勝手な感情かもしれませぬが。でも、ノレド・ナグさんは「忘れて、恥ずかしい」といってクールに去るので、彼の弱みに付け込んで恋人になろうという気持ちがあっても、それをしない黄金の精神がある。


 その後の戦闘シーンでもベルリのピンチを見ていたり、また、第三部ラストでメガファウナに一人で残されて超孤独になっているマニィ・アンバサダをちょっとからかって緊張をほぐす親友ムーブもしてやるという優しい強さがある。(TV版では放送の間の空白で何日かマラソンとかしている間になんとなく打ち解けた感じだけど)


 なので、ラライヤ・アクパールの保護者役ができなくなったのでやることを見失ったTV版のノレド・ナグさんに比べると、ベルリのこともマニィのことも気にかける視野の広さが劇場版ではあるかなあ、と。
f:id:nuryouguda:20180406161431p:plain


 まあ、根っこの「面倒見が良い性格」というのはあんまり変わってなくて、少し芝居付けが変わっただけなんだけども。
 TV版でノレド・ナグさんがアイーダさんをアシストするシーンはむしろベルリに「男をやれ!」って言って(リンゴの同僚を殺したことで凹んでいる)ベルリに無理をさせる感じだったけど。
 リンゴが捕虜になるシーンのストレス描写も周りの大人の台詞がちょっと変わることで軽くなっているし、そこら辺の微調整をしてきたな、と。


 じゃあ、なんで最初からそれができなかったのかって言うと、やっぱり富野由悠季監督くらいのキャリアがあってもオリジナルアニメの創作っていうのは難しいんだろうな〜って。脚本家を間に挟むことでうまくいく場合もあれば、凡庸になる場合もあるので、たまには富野由悠季監督らしさが出まくっている脚本、絵コンテ、演出、監督、富野由悠季というG-レコのようなアニメがあってもいいかと。


 まあ、卑弥呼大和はもっと独善的になりそうな危惧はあるけど。ネタとしてもピーキーだしそもそもヤマタイカだし、ロボットものでないし、スタッフワークどうするんだ?YAMATO2202のスタッフを福井さんごと吸収するのか?


 いや、とりあえずはGレコのことを考えていこう。


 今回はノレド・ナグさんのよさについて書きました。歴史進化学は女の子の可愛さの前では参考資料に過ぎないよ。しかし、ノレドさんの新規セリフ一言二言だけでこれだけ書ける俺もひどいオタクだなあ。いや、そうとう気持ち悪いな。


 次はアイーダさんかリンゴについて書きたい。本来は鑑賞した日に書くべきだったんだけど、ワクチンで寝込んだりダイエット筋トレのあと寝込んだりクーラーが気持ちよくて惰眠を貪ったり。


 ゼロ時から一気に11時間書いて体の軟組織の細胞が死んでる感じがあるけど、


 やっぱりね、思考もウンコだから。一気に出してしまわないとな。


  • ほしい物リスト。

https://www.amazon.co.jp/registry/wishlist/6FXSDSAVKI1Z
↑グダちん用


 著者へのプレゼントはこちら


匿名で住所を伏せてプレゼントを送るための、つかいかた↓
nuryouguda.hatenablog.com
 このブログは最後まで無料で読むことができますが、著者に物を送ることは出来ます。特に返礼はないです。
 無料でこのブログが読めてありがたいとオタクの友人に言われることもあるが、基本的に勝手に書いてるだけなので、読者の人も適当に物をくれてもいいし、サイドバーを見て読む気をなくしてもいい。
 だいたい10万アクセスあって、やっと1件物をもらえるかどうかって感じの相場ですね。最近はダイエットで食欲がなくなったのでむしろもらった食べ物の賞味期限がやばくなって人にあげたりしてますが。一食が小さめのおにぎりでいい感じになっている。夕飯で少し肉と野菜も食べてるので多分死なない。



 脳内妹との結婚祝い用のほしいものリストはこちら↓
https://www.amazon.co.jp/gp/registry/wishlist/ZBT6MG18QP11



note.com
noteでは金銭のサポートができます。


(この記事が良いと思ったら読者登録お願いします!)