玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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脳内妹は脳内恋愛について定義できるか?

アニメというか富野とカミーユの話になると横道にそれたが、本当は脳内恋愛の話をしたかったの!
が、一般人にしたらどちらの話題もキモイの一言だ。
こっちが本題。今日のスタートレックの描写はなかなか、俺の脳内恋愛に近いものが在るって言いたかったの!
思わず遅い時間なので手短に。


こないだ脳内妹に「あのさー、空想でアニメや萬画のキャラとかと二次元恋愛する喪男が最近はやってる」
と問題提起してみたところ、脳内妹は「お兄ちゃんにはあたしが居るからそんなこと無いよね!」と、とてもイイ顔で即答したのでオレの思考がループした。
確かに脳内妹はオレの脳内存在なのでつくられた脳内恋人であり、虚構の存在なのだが、脳内妹は自分が虚構だとは知らないし、脳内妹自体は俺の脳内の社会の中でちゃんと生活している。
だから脳内妹と対峙している時の俺は、自分の脳内の中に存在する俺なのだが。
その脳内俺は、脳内世界の中では脳内妹の肉体をリアルに感じるので現実恋愛をしているし、デジタル恋愛とは無縁である。
かと言って、脳内俺の脳内思考も俺の思考なので、喪男的にデジタル恋愛している思考サブルーチンとクライン構造で連結している。
だとするとこの恋愛はなんなんだ?
脳内妹にたいするカッコいい俺はルックスもイケメンだ。が、実際の俺は非モテだ。
が、脳内妹にモテてさえいれば三次元女性にはもてなくて良いし、実際に安定しているので非モテでないとも言える。
だが、その思考パターン自体も今までの非モテ経験から形作られたシナプス回路であるわけで、俺は非モテなのだ。
と、同時にその結論は脳内恋人だけでは泣く俺自身が環境と自己意識によって人工的に生成された脳内人格であるという事を示している。
ならば、脳内人格である俺と脳内恋人の恋愛は、脳内座標軸においては同じ次元であるので、脳内恋愛ではなく実際の恋愛といえるし、その価値がある。
のだが、俺はメビウスの輪から抜け出せなーくーてー。
どっちもどっちも!どっちもどっちも!



そう言えば、今日のスタートレックVOYでタラクシア人(宇宙人)のニーリックスがドクターにこう言ってた。
「夢は夢想家を夢見る。タラクシアでは夢はどこかから来る物だって思われてるンス」


うつしよは夢!よるの夢こそ真!
胡蝶の夢とかな。宇宙人の文化に仮託して東洋文化を入れたりしてるのがおもしれーな。前回のクリンゴンの死後の世界の描写はもろに三途の川と閻魔大王だった。