玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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世界と世間と世情と人情

劇場の最後では、セカイ系の勃発?らしく世界と人情だけの話になる。
が、1話、2話では驚くほど丁寧に世間やら情勢やらが描かれてる。エヴァンゲリオンの発進など、NASAスペースシャトル発射もかくや。
その業務に参加するたくさんのNERV職員には一人一人家族が居て、疎開の心配をしたり世間を作っている。
今日、一番シンジ君に共感したシーンは「やっぱり僕は、要らない人間なんだ・・・」(泣笑)
これも、エヴァが動かせないからとかミサトさん赤木リツコさんだけじゃなくて、「周りに大勢いる普通のネルフの職員の大人が人の役に立つ仕事をして頑張ってるのに、僕だけは邪魔者で無能でニートでヒッキーで童貞なんだよなあ。クソックソッ」という、周りの人に見られてる中での、社会の中心での無能感が出てて非常に共感できて気持ち悪かった。
でも、最終回ではそう言う周りの大人たちは全員死んじゃったり無視されてたりでアレなんだよなあ。世界系に。
やっぱり、ガンダムみたいに、「あまりにもしっかりした世界観を構築しすぎてしまうと、途中で飽きてオカルトに走ってしまうと言うアレ」か?
だが、エヴァンゲリオンと使徒や綾波レイの設定をあのように組んでしまった時点で、どのように他人を描こうとしても、自閉する物語になる運命だったのかもしれない。
富野由悠季が「KINO Vol.02 思考としての『ガンダム』」で杉井ギザブロー監督との対談で。このように語っている。
「基本的に、僕はキャラクターっていうのは決定的に訴求力が強いと思っています。(略)劇画原作者の小池一夫先生も仰っている事で、世界観から入っちゃいけない「西暦2526年」からじゃなくて、キャラクターから入る。『北斗の拳』の企画は、おそらく地球がダメになった状況から入っているんじゃないと思うんです。北斗の拳ってキャラクターを掴んだところから入ったんだろうし、その方が世界観を結果的に描ける。だから、どういうキャラクターを使うのかが大事だし、キャラクター性がかなり確固たるものができたら、作品としてはうまくいく。
ガンダム』の場合に一つだけ異例なのは、乗り物と言うキャラクター性ありきで始めてしまったこと。そのために、それに物語を設定したっていうことがあるんで、ちょっと異例でしょう。異例の問題に関しては、今の若い人はやってはいけないことになりますね。
(略)
 そして、ガンダムと言う物は、物語を作れるキャラクターではないのだから、本当の意味でのキャラクターとは言いがたい。ただ、グッズとしてはあり得るということです。」
なんか、この言葉を思いつつエヴァの始まりを見ると、世間と繋がった世界観を描こうとしつつも、小道具(乗り物、怪獣)とキャラクター(人間)とのハイブリッドな登場人物(?)の反則的に強力なキャラクター性に引っぱられて崩壊していったのかもしれない。と思ったり。
(あと、エヴァのドロドロを滅菌したかのようなグッズ産業にも興味深い言葉だ)
せめて、使徒の側の組織的な利益関係が有ればまた違った物になったはずなんだよな。