玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

なぜ、虐殺器官の主人公はヒロインに惹かれたのか

前項で、ヒロインに魅力がないと僕が感じている、と書いたが。
精神障害3級が虐殺器官を読んで、わかったことと、わからない事 - 玖足手帖-アニメ&創作-
読み返してみると割とハッキリと主人公のシェパードがルツィアに惚れた理由が説明されていた。こういう考察は、もう、本書が出版されてから何度もファンの間でインターネットなどで繰り返されたものだろうから、僕が取り立てて書く理由もないのだけど。自分の整理として書く。


以下、ネタバレ


虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

・二人とも死者に対して罪悪感を持っていて、許されたいが、相手が死者なので許されないという共通点。
・それゆえ、傷をなめ合う関係でお互いを許しあえるんじゃないかという甘え。
・シェパードは「死」に捕らわれている、「死者の国」にシンパシーを感じている人なので、生き生きとした女より死の影を匂わせる愁いを帯びた女にこそ魅力を感じる性的指向を持つ。

ブライアン・イーノは「パルプ・フィクション」を観てこう言った。カリフォルニアの女性はファム・ヴィタール(生き生きした女)にはなれても、ファム・ファタール(運命の女)にはなれない。
伊藤計劃虐殺器官』より

ゆえに、クラヴィス・シェパードはファム・ファタール(運命の女)としてルツィアを感じた。


また、ルツィア・シュクロウプに差す死の影はもちろん、虐殺の主犯との過去の関係と核爆弾で死んだ大勢の人の死だ。
虐殺の主犯の思考をトレースして過去を探るうちに、シェパードは彼ジョン・ポールに惹かれていって、ルツィアへのヘテロセクシュアルな愛情はジョン・ポールとホモセクシュアル的な愛情の変装かもしれない。あるいは、シェパードのラストを見るとシェパードは彼を追跡していくうちに彼以上に彼の死的な部分に同化していったので、同化願望としての愛情をシェパードは彼に抱いていたのかもしれない。
それがシェパードの脳の恋愛部分を変質させて、ルツィアを愛していると、シェパードに認識させたのかもしれない。


また、シェパードが死に傾倒した原因は父親の死。それに伴う心的外傷と、母への葛藤を抱いた結果として就職した軍人としての職務上の心的外傷。それをさらに上書きする母親の死。
そして、母親の死がトリガーに成って死者の国の夢を見るようになるのだが、死者の国での母親が自分そのものと気付いたあと、ルツィアにその葛藤を吐きだして、それをきっかけとしてルツィアを愛するという事を自覚した、という構成。


こうやって、2回目を読んで整理してみると、小説の構成、心理変化の理由付け、としてはソリッドにしっかりしてるし、伏線を伏線とも気付かせないような文体の組み立て方も上手いと思う。
ただ、やはり構成がソリッド(精密できっちり固く詰まっている感じ)だけど、キャラクターがソリッドな構成やラストまでの一本の筋やSFアイディアを補強する思想を台詞として垂れるための器官として感じられ、人物としての魅力には、やはり乏しいと、僕は感じるね。ルツィアもジョンもシェパードもみな、伊藤計劃の分身で、地の文を補強する器官としての役割を果たしていて、個人としての魅力に乏しいと言わざるを得ない。
まあ、これは10日間で書かれた小説だし、キャラクターも少ないし、ワンアイディアSFとかテーマムービーという短編としてのまとまりが重視で、人間ドラマはスパイス程度、という感じだろう。もちろん、死んだり殺されたり、っていうのはスパイスとして味が濃いので、全体のバランスとしては悪くないだけど。
(小説に対して匂いや味を感じるのは共感覚的かな?(笑))


しかし、やっぱり文句も付けたいね。楽しんで読めたし、会話のテンポも衒学的でありながらユーモアやセンスもあってカッコよく、面白く読めたんだが。こうして構造解析して結局「親のトラウマをきっかけに死に取りつかれた男」という風に要約しちゃうと、がっかり感もある。親のトラウマは分かりやすいトリックの動機なんだけど、あんまり好きじゃねーんダよなー。個人的に親との関係自体が好きでないという趣味もあるんだけど。
癌患者だからって雑な仕事しやがって、っていう気分もある。
まー、だいたいの読者にとって、親との関係はオーガニック的な、自分という生体に密着した感覚だから、残酷さとか切実さを表現するスパイスとして使用するのは効果的だと思うんだけど、やっぱりね、「たくさんの人をぶっ殺す」という物語ではもうひとひねり欲しかったかな。
かなり精巧な理屈を述べている小説なのに、「大切な人の死は他の大勢の人の死よりも重大」「愛しているから」っていうテーゼが自明の物として屈託なく使われてるのは、ちょっと萎える。愛ももっと相対的なものだと思うな。


あるいは、伊藤計劃自身が死にゆく人だったんで、「死んでしまう自分の死を大事にして欲しい」っていう深層心理があったのかもしれないけど、やっぱり僕は僕なので、伊藤さんの死は所詮伊藤さん一人の物だと思う。伊藤さんが一回死んだくらいで小説の評価を甘くするほど僕は優しくない。


あるいは、「凡庸な個人的事情が動機であろうとも、連鎖的な虐殺はたくさん殺せる」という虐殺の威力を示したい、ということだろうか?こっちの方がしっくりくるかな。アイヒマン的な。
凡庸な言語学者、映画とピザしか趣味のないボンクラ軍人の気まぐれでも、人は簡単にたくさん死ぬ。人は簡単に死ぬからねー。っていう、人の死の軽いバカバカしさを描いている所は、面白かった。僕は筒井康隆が好きだし。


そういう、人が簡単に死ぬ、っていう事が全体の雰囲気に流れている虐殺器官において、ヒロインはやっぱり生き生きと生の魅力にあふれた女ではいけなかったんだろうな。
死の影が全編を覆っている小説だから、ヒロインも陰りを持ってないと。


ただ、性の輝きを持つ女性が、ヤク中で自分を誘拐した上官とセックスしながら撃ち殺されるインドの少女兵士(すっゲーエロい)くらいしかいないので、死の影を照らす光が無く、ちょっと対照技法が足りなかったかな、って気がする。やっぱり、死を演出するにはそれと同じくらい生の輝きがないとつまらないんだよね。その点、伝説巨神イデオンは登場人物が最期まで全身で生きようとしてるのに全員死んで、最高だったなー。(出たよ、富野信者の他の作品の批判に混ぜた富野賞賛)
美学として、やっぱり死と同じくらい生への執着も描いて欲しかったな。


それに、ルツィアは割と言ってる事が平坦で、そして最後まで優等生的模範的な倫理観の普通の人だったから、やっぱり僕は魅力を感じませんでした。死に対する能動性もあまりなかったしなあ。
まあ、ラストの主人公の動機を補強するためのイベントのフラグとしては機能してたけど。