玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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現代アニメ批判1/4 報われるために商品化するキャラクター

 このネタは実は輪るピングドラム劇場版と劇場版Gのレコンギスタの最終的な感想を書いた後に書く予定だったのですが。テレビ版と劇場版の比較が、非常に時間がかかっている。
 なので僕が悪いのだが。

  • ノレドが報われて欲しい

 Gのレコンギスタ劇場版で一番印象的に改変されたのは恋心ですが。(戦術的にはもっと大規模に改変された所もあります。フォトントルピードのリアクションやマックナイフとの死闘以外にも)
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 キャラクターが報われて欲しい、恋愛が成就してほしい、そういう感覚は、実は僕はあまり重視していない。
 もちろん、因果応報というのは社会規範と共に、多くの人の心理的な価値判断として内面化されているのだろうということは分かる。


 因果応報というと、「悪いことをしたキャラクターが罰せられないことが不満」というご意見も散見します。


 しかし、僕はキャラクターが報われて欲しいという感情を主としてアニメや映画を見る事を意図的に避けようとしているところがあります。
 理由として、人生とは「そのキャラクターの人生のごく一部しか描いていないアニメの中での恋愛や作戦などの成功がうまくいった、という程度で報われたとは言えない」という考えを持っているからです。高校生くらいの恋愛なんて成就する方が珍しいし、ラブコメという恋愛を主軸にしたジャンルにおいても、複数いるヒロインが一人の主人公に見初められて、恋愛が成就したヒロイン以外は報われない負けヒロインというレッテルを貼られる、というのもかわいそうだと思う。物語が終わっても人生という冒険は続く。
 もちろん、創作物、物語、小説、漫画、アニメのキャラクターの人生は読者や視聴者にとって、その切り取られて描かれたごく一部分しか見えないものだ。なので、それがキャラクターの全てのように思われる、というのも、鑑賞関係の構造から導き出される感情としてはそれほど異常な反応でない、とも了承している。


 しかし、キャラクターが報われるとか幸せになることがアニメ作品で重要なことなのだろうか?あるいは、現実の人生も報われたかどうかの判断は難しいのでは?とりあえず現実の人生の報いについては仏ではない僕はよくわからないので考えないものとする。


 僕はキャラクターにとって不幸なことは恋愛や目標が成功せず報われないことより、そのキャラクターが物語という虚構の中でいい役を演じることができないこと、あるいはそのキャラクターがいることで物語がつまらなくなること、だと思う。


 感情移入型(自己投影型)の創作と俯瞰型の創作の議論は昔からある。


 個々のキャラクターが魅力的だからおもしろい、キャラクターを応援したい、キャラクターに萌える、というのと、
 キャラクターが優れた物語を構成する一部になっている、キャラクターが重要な役割を演じる、キャラクターが不幸になることで役割を果たすこともある、というのと。


 僕はキャラクターが報われるかどうかを意図的に避けようとしている、と先に書いた。


 が、同時に、魅力的なキャラクターというパーツと、優れた物語という全体のどちらが重要かと言うと、それは両方とも重要だとも思う。いや、当たり前の話ではあるのだが。


 なので、Gのレコンギスタの劇場版でノレド・ナグさんが報われたかどうかは、個人的にはどうでもよいし、映画評論としてハッキリどちらがよかったと判定する能力も僕にはないと思うし、まあ、テレビ版と映画ではちがうよねくらいにしか思えない。(メディアやテンポが違うので)


  • アイドルとしてのキャラクター

 キャラクターが魅力的であるというのは大事だと思うが、僕はキャラクターが報われることに対しては大して重要に思っていない。


 なぜなら、物語、特にアニメのキャラクターは存在しないからです。


 存在しないものが幸せになろうが、現実世界においてはなんの影響もない。なぜなら存在しないから。そのように僕はキャラクターの幸不幸は大して重要ではないと思おうとしている面もある。


 しかし、「創作キャラクターの幸不幸が重要ではないと思おうとしている」と意図的に考えなければ「キャラクターが報われて欲しい」という感情に流されがちということも自覚しているので、そういう行動や言葉遣いをしている。


 ヒト脳にとって「魅力的な実在の人物」と「魅力的なキャラクター」の区別がどのようになっているのかは、僕は専門家ではないのでわからないのだが。
 やはり本能的にヒト型をしたものに対する好き嫌いは発生するわけで、魅力的なキャラクターにも、魅力的な実在の人物と同じように幸せになってほしいものだ、と思うことは自然に発生しやすいものだ。


 そして、これは僕が個人的に考えていることなので、特に読者の方は重視しなくてもいいのだが。


「キャラクタービジネス」が現在のアニメーション界隈では重要視されているのではないか?という仮説です。


 キャラクターIPとか言われる。


 ここで、「フィクションIP」ではなく「キャラクターIP」「キャラクタービジネス」と言われることが象徴的だと思う。

www.bandainamco.co.jp


「IP軸戦略」は、エンターテインメント分野において多彩な事業領域と豊富なノウハウを持つバンダイナムコグループの強みです。 IPの世界観や特性を活かし、最適なタイミングで、最適な商品・サービスとして、最適な地域に向けて提供することにより、IP価値の最大化をはかること、それが「IP軸戦略」です。
バンダイナムコグループは、「IP軸戦略」の進化と浸透・拡大に取り組むことで、事業の最大化はもちろん、長期的なIP価値の最大化に向けIPの可能性を拡大することを目指しています。


*IP:Intellectual Property の略で、キャラクターなどの知的財産のことを指します。

 大きな企業に育ったバンダイさんの公式サイトでも「ストーリーではなくキャラクターが財産」と表記されている。


 多分、ディズニーとかもそうだと思う。


 これは、まあ、視聴者の感覚とはまた別の都合だとも思うのだが。
 「本社のIPであるキャラクターをパクった」と裁判を起こすことは容易だが、「本社のIPのようなストーリーがパクられた」と裁判を起こすのは難しそうだ。(コナミとか、ゲームシステム部分の特許でサイゲームズに裁判を起こしているようだが)


 すごく雑に言ってしまえば、キャラクターは記号で視覚的に明らかな単体なのでパクられていると主張しやすいが、ストーリーや世界観はキャラクターやその行動やその周囲の環境など多くのファクターが絡んでいるために、明らかな個別のもの、とは主張しにくい。


 (というか、探偵小説など海外の翻訳小説の構造をパクって日本風にしたものなどがヒットしたりした江戸川乱歩やらの事例があってなあなあになってきたという歴史がある。ラブクラフトなどシェアワールドという物もある。その他、オマージュやインスピレーションやパロディやパスティーシュは比較的、立件しにくい。異世界転生のストーリーが多くても、それの権利をナルニア国物語とかマーク・トウェインが独占するということにはあまりならない)


 おっと、話が裁判沙汰とか横道にそれてしまった。


 話を戻すと、大手エンターテインメント会社が言うように「キャラクターIP」は商材になるということです。
 もちろん、キャラクターたちが活躍する作品としてパッケージ化されたストーリーや物語やゲームも商品になるんですが。


 キャラクター単体も、今のIPビジネスではアイドルのように商品として扱われるのです。
 むしろ、現実的な肉体を持っている実在人間アイドルより、疲労やメンタルヘルスや同時性問題に囚われないキャラクターの方が商品として、はるかに便利ともいえます。
 (僕はアイドルマスターのオタクで元KLab社員なので、キャラクタービジネスにずぶずぶと言われたらその通りなんだけど。それくらいキャラクタービジネスを見ていると、商品として扱われているということも多々、見てはいる。関係ないけど この間、夢の中で女性になってシンデレラガールズの人気ユニットLippsのコラボ化粧品やコラボアパレルを買っていた。俺はギャルになりたいのか?)


 昔のキャラクタービジネスは、「ロボット」「怪獣」「ヒーロー」が主だったと思うのですが。ガンダム、マジンガー、ゲッター、ゴジラ、ガメラ、仮面ライダー、ウルトラマンとか。
 ここ最近は「美少女プラモデル」という商品が結構(ガレージキットに比べて)廉価で出来のいいものが出ていたり、アクリルスタンドとかも売れている。


 もちろん、セーラームーンとか魔女っ子アニメとかキューティーハニーとかカードキャプターさくらとか前世紀にも美少女キャラクターのビジネスモデルはあったんですが。


 それらは技術の発展が現在より劣っていたからか顧客の年齢層の問題か、キャラクターそのものよりも「なりきり変身セット」などのコラボグッズの商品展開の方が多かったように思える。
 ロボット物はプラモデルや超合金が主な商品展開だったように思えるが。
 仮面ライダーも変身ベルトや自転車が多く、フィギュアが商品展開されるようになったのは比較的近年かもしれない。(キン肉マン消しゴムとかもあったけど)


 まあ、その、造形物としてキャラクターを模した商品が出ている、と言うだけでなく、キャラクター(登場人物)自体が、その活躍の舞台であるストーリーよりも商材として目立っているような傾向が近年、見られる。


 ガンダムのアムロやシャアのコラボとか、ストーリーと全然関係ないけど、とりあえず赤くしてジオンのマークを付けたら売れたりする。


 というわけで、商品展開をするスポンサーの要請としても、ストーリーの巧拙よりも、キャラクターのアイドル的な好悪を重視する作品作りになるのはある意味で必然。


(また、全然別のジャンルだけど将棋の藤井聡太さんやスポーツ選手が注目されてても、別に飛車の使い方とかバットの持ち方はあんまり商品にならない気が…。いや、その競技をやっている人は注目するんだろうけど。アイドル的に有名人を見ている人はその具体的行動より記録とか容姿に着目しているような…)


 変に文章が長くなるのが僕の悪い癖だが、アニメのキャラクターも、ストーリーの中でのパーツとしての役割としてより、キャラクター自身が好かれるかどうかが商品の売れ行きを左右する。そういう意味で、アニメのキャラクターはもはや芸能界を舞台にした作品以外でも、アイドルのように扱われているのであろうと思う。


  • 売れるキャラクターと売れない奴

 もちろん、人類最古と言われるギルガメシュ叙事詩や救世主を描いた聖書やトロイヤ戦争やアーサー王伝説や戦国時代の武将など、多数の人が参加している物語から、キャラクター性の強い人をピックアップして注目させるのは昔からあるので、別に最近のアニメだけが悪いわけじゃないんだけど。


 キャラクタービジネスとして、物語ではなくキャラクターが商材になる傾向はある。
 鬼滅の刃の炭治郎のごくごく一般的な服の模様とかも商材になる。


 そういう記号的な部分から、「売り物になるアイドルとしてのキャラクターの魅力を高めるために、世界観ではなくキャラクターを強調する」という創作手法が用いられることが最近、増えたと思う。


 それ自体はそれほど悪い事ではない。ラブコメとかの正妻戦争とか、読者が「自分は○○ちゃん派~」とか言って応援するのも楽しみ方の一つだと思う。


 きらら四コマ萬画原作からの美少女アニメやプリキュアとかアイドルアニメ、ソシャゲ原作アニメも「このキャラクターを好きになって楽しんでくださいねー」という態度で作られているようで、それは商品展開としても、作品の楽しみ方としても、一致していて楽しい。


 しかしながら、厳しいことを言うと、人間の愛は有限です。


 脇役の全員にいたるまで、公平に好きになることは非常に難しい。


 きららアニメやメンバーが決まっているプリキュアやアイドルアニメでは「この範囲のキャラクターを好きになればいいのだな」とだいたい見当がつく。


 問題は戦争ロボットアニメや群像劇です。いや、ジャンプ萬画原作の部活スポーツアニメとかでは群像劇でも各学校ごとに仕切られていたり、そういう整理の工夫はある。


 戦争ロボットアニメや異世界とはいえ国の存亡を左右する話の場合、登場人物が日常系きららアニメとは違って多くなる。
 必然的に「売れる、アイドル的な、商品になるので視聴者に好かれて欲しいメインキャラクター」と「こいつは死んでもいいし不幸になってもいいモッブキャラクター」と「不幸になることで印象付けたいキャラクター」の差異が発生します。


 結論から言うと、僕はそれが嫌なんだよ。
「視聴者が応援したくなる、商品になる、アイドル的な人気キャラクター」と、「そういう人気者の添え物や人気者の行動のパーツとして使い捨てられるモッブキャラクター」と、「わかりやすい悪役」でキャラクターの存在の重み、すなわち人権が商業主義によって区分けされるのがどうにも好きになれない。


 なので、「このキャラクターが幸せになってほしい!」「このキャラクターは今はかわいそうだけどハッピーエンドになってほしい!」「このキャラクターが好きだから報われて欲しい!」「こいつは気持ち悪い悪役!」というムーブメントにもイマイチ同乗できない。


 僕はキャラクターは世界という舞台の中で役割を果たせばいいと思っている。もっと言えば、僕が好きなキャラクターは数多ある創作物のうちの数人で、新作アニメごとに好きなキャラクターを増やすには歳を取りすぎた。
 なので、別にメインキャラクターも脇役も、割とどっちもどうでもいいというか、心理的な重みは変わらないのだが。


 しかし、キャラクタービジネス先行タイプのアニメは「このキャラクターがどうなるか心配ですよね?」という興味の印象付けを重視する。
 最近(でもないか?)のSNSでも人気キャラクターが幸せになってほしい、報われて欲しい、という意見を多く見る。そういう風に一喜一憂するのも一つの楽しみ方だと了解はしている。


 でも、僕のような本当に愛するキャラクターが極々少数(まあ、オリキャラの脳内妹なんだけど)に絞られているタイプの高齢オタクにとっては、メインキャラクターもモブキャラクターも等しくどうでもいい。


 むしろ、メインキャラクターのわかりやすい幸不幸についてもどうでもいいと思うので、逆に、作品の構造上、メインキャラクターを盛り上げるための道具として使い捨てられる脇役の方に同情してしまう。だって、僕にとってはメインも脇役も等しいので。


 僕自身もキレる17歳世代だったり、親から加藤智大のようなエリート教育方針を押し付けられつつ宮崎勤のような犯罪者予備軍と言われたり、その親も僕の稼ぎが少ないからと言って自殺したり、それでもオタクをやめないというクソみたいな人生を送っている。


 そうすると、キラキラと商材になるアイドルメインキャラクターより、クソみたいに殺される脇役のことの方を同情的に考えてしまう。
 考えてしまうのだが、キャラクター商品としての作品は脇役についてほとんどバックボーンも語らない。だって、そっちに時間や労力を割いても売り上げに影響しないから。


 そうするとどうなるのかというと、アイドルメインキャラクターが活躍しても、そもそも応援していないしどうでもいいし、クソみたいな扱いをされる脇役も気にかけても作品自体がそれらを重視していないし、
 結果としてパサパサの乾いたサンドイッチを食べるような、つまらなさを感じる。


 むしろ、商品になるメインキャラクターばかり飾り立てて、それ以外の数万、数億のつまらないキャラクターを雑に扱っている作風に嫌悪感すら覚える。だって、僕みたいな無職って人類の歴史においては雑に殺される側の脇役だからね。


 だから、「商材になるキャラクターが報われて欲しい!」みたいな話を聞くと
「まあ、僕は報われない側だけど」って勝手に気分が悪くなる。


 作画の力の入れ方を見ても、売れるキャラクターと売り物にはならないけど舞台装置として設置されてるキャラクターの描き方の差を見て、学芸会の主役の子と木の役をしている子のような差別を感じていやになる。(これは僕がいじめられっ子の発想だからですが)



 まあ、そういうひがみ根性を抜きにしても、メインキャラクターが報われるかどうかを気にして、メインキャラクターに注目して応援する鑑賞方法と、
 どのキャラクターも作品世界の部品に過ぎないと思ってフラットに見る鑑賞方法では違うよね、と言う感じです。
 個人的にはメインキャラクターを盛り立てるためにその周辺の社会情勢を反映したキャラクターの描写が雑なのは、広めの作品世界の描写としてはあんまり出来が良くないなあ、と思うところもある。まあ、そういう作品ごとのリアリティレベルは、視聴者が自分で脳みその中でチューニングすべきなんだろうな、とは思うけど。天才バカボンと魔法使いサリーの倫理レベルは違うし。


  • Gレコについての補記

 まあ、Gのレコンギスタのドラマとしてはノレドがベルリと同行するかどうかについては、ノレドが報われたとも思わないんだけど。(旅に同行した結果、ベルリに愛想をつかして他の男に走るって言うことも十分想定できる)
 主人公の男性と恋愛が成就することで彼女の人生が報われるのかと言うと、それはそれで疑問ではある。
 が、まあ、二次創作の盛り上がりは作品の人気になるということもあるし、ベルリが一人で旅をするというより、ベルノレが観光名所を巡って世界旅行するっていうジャンルが産まれたのは、まあ、いいことなんじゃないの?とは思う。Gレコという作品が9年くらい経っても愛されるのは富野由悠季ファンの僕としても好ましい。
 キャラクターの幸不幸はどうでもいい、と言いつつ、やはり富野由悠季監督のことは好きなので、富野由悠季監督の作品が愛されるきっかけが増えるのは好ましいと思う。
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  • 続く

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  • ほしい物リスト。

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↑グダちん用


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