玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

当サイトはGoogleアドセンス、グーグルアナリティクス、Amazonアソシエイトを利用しています

俺が死んでも悲しむな。生きてる間にチヤホヤしてくれ

※このエントリーには宗教的な内容が含まれています。


 漫画家の鳥山明先生と女優のTARAKOさんが死んだ。それはいい。人は死ぬ。人以外の生き物も基本的に死ぬ。甲殻類のロブスターは生体としては不死らしいが美味しいので人間に狩られて死ぬ。ウィルスは生物ではないらしい。無残、無残。


 確かに鳥山明先生もTARAKOさんもアニメ・マンガの分野で偉大な業績を残した人だ。それはいい!


 だが、僕が気に食わないのは訃報を受けてから「あの人はあんなに素晴らしい人だった」とか「あの人のおかげで助かった、進歩した」とか「ご冥福をお祈り申し上げます」などと言う言葉がSNSで飛び交うことだ。


 人は死ぬ。必ず一回くらいは死ぬ。その死に直面した時、僕ができることは、その人を思いながら酒を一杯飲むことくらいだ。


(実際、マルチメディア展開している芸能人や漫画家やアニメ業界の人の葬式にファンが押しかけても迷惑だし、出崎統監督が亡くなった時も「トムスの人も忙しいだろうしなー」と連絡を渋って墓参りをしなかった。まあ、出崎統はああいう人なので、別に墓参りをしても関係ないって言うか、やっぱり風に向けて一献、酒を飲むしかないと思う。いや、僕はアル中なのでキッカケがあるとかなり無限に(肝臓が分解したのと同じくらい)酒を飲むんだけど。)


 人は死ぬ。いつかは分からないが必ず死ぬ。僕の母親も自殺して死んでいる。その他にも僕と同人誌の企画をしていた最中にはるしにゃんが自殺したり、友人知人が自殺している。人口削減論者でも周りの人が自死することが続くと、多少は反省する。
 

 そして、死んだ人間は答えることがない。応えることがない人に対して言葉をつらつらと言って褒めたり感謝したりすることに、僕は意味を感じない。
 なので、基本的に僕は有名人の訃報にはSNSであまり反応しないようにしている。酒は飲む。


 まあ、動機としては分かる。


 一つには、有名人の死去はSNSでインプレッション稼ぎに利用できるムーブメントになる。


 また、有名人の死去は他人のインプレッションとは逆に、本人にインパクトを与え、その為に何らかの反応を示したいと思ってしまいがちだ。


 そういうわけで、有名人がなくなると「冥福をお祈りいたします」とか、生前の功績について思い出したように語る言葉が連打されるのだが。


 まあ、ある意味、ショック反応であろう。大きな存在の人が死ぬ。死ぬということはその人が何か大きな仕事をするということよりも、もう、これ以降は二度と何の仕事もできないことが決定されるということであるので、非常なショックを受ける。
 そういうわけで、偉大な人の訃報を受けると、人はそのショックを受け入れるため、やわらげるため、生前の偉業を讃えたり冥福を祈ったり、反射的な自己防衛行動をする。


 しかし、僕は死んでから褒められても全く嬉しくないが。なぜなら死んでいるので。


 僕の冥福は誰も祈らなくてもいいよ。僕は外道だからね。そもそも僕は死後の世界というものに懐疑的だし、もしそれがあったとしても、死んだ後に幸せになっても大して嬉しくない気がする。


 自殺した母親の葬式で坊主に「皆さんのお祈りによって、浄土に生まれ変わった魂が仏様に近づく」と説法されて、ぶち殺そうかと思った。
 なんで世の中のしんどさに潰されて自殺した魂が死後も仏に近づくというメリトクラシーのレースに参加して頑張らないといけないのか。死んだ後はがんばらなくていいだろ。飯も食わないでいいくらい死んでるんだから。


 まあ、僕は数回過労で臨死体験をしており、三途の川に行ったところ脳内妹に「かわいい私が傍らにいるのに、私を見ずに死ぬのは私に失礼であろう」と、脅され、かわいい妹を見るために生き返ることを強制されて今現在こうしている。うちの妹、平気で冥界や辺獄に下ってきて蘇生術式をかけてくるからな。かなりの霊格。まあ、本人は「愛する人が死んだらやだなーって気持ちー」と軽く言っているのだが。軽く三途の川まで来る方がおかしいからね。本当に正体がわからん女だ。


 まあ、多分僕は死んだら脳内妹の背後霊という内なのか後ろなのかよくわからない存在になることが内定しているので、別に他の人は僕の冥福を祈らなくてもいいですよ。僕はアホなのですぐに滑落しやすい山に遊びに行くので。クレヨンしんちゃんの作者の臼井義人さんとかなー。


 僕以外の人が死んだ後に冥界でどういう道筋を辿るかは僕は知らない。魂ごとに違った道がある気がする。知らない冥福について祈ることは個人的には無責任で無意味だと思っている。色んな宗教的な教えが死後の世界について言及しているが、どれも不確定だし、死んだ後に幸せになってもあんまり意味がないと思う。



 だから僕の主張は明確で、「生きている間に褒めたりチヤホヤしたりしよう」ってことなんだ。生きている間に相手の事を十分に褒めて愛していれば、死んだ後も後悔はない。
 死んでから褒めなくてはいけないと思うのは、結局、生きている間に褒めるのが足りなかったのではないかという不安や後悔、申し訳なさなのではないだろうか。
 僕は死んでから感謝されるよりは生きているうちに金を貸してもらった方が嬉しいです。


 まあ、生きているうちにチヤホヤしたり金銭の授受があるとめんどくさいことになることもあるので、死んでから言葉だけで冥福を祈る方が楽ではあるんだが。


 人生五十年、下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり。


 というわけで多少の個体差があっても人間は百年弱でだいたい死ぬ。死ぬことがわかっているんだから、本人が嬉しく思える生存中に褒めてチヤホヤするほうが効率よく褒められるのではないかと思うのだ。死んでから本人がいないし伝わらないのに、褒めるのは後悔だと思う。


 というわけで、僕は今、82才になる富野由悠季監督のファンであるのだが、9年前のGのレコンギスタのテレビ版の頃にも既に富野監督が死ぬかもしれないと思い、「監督は誰よりも早くスタジオに入り、誰よりも遅くスタジオに残っていると聞き及びます。しかし、監督が死ぬと企画が崩壊しますので、ちゃんと寝てください」というお便りを贈り、Gのレコンラジオという当時のネットラジオに採用された。BD最終巻の特典CDにも採用された。しかも同じ回に2回も。
ガンダム Gのレコンギスタ [レンタル落ち] 全9巻セット [マーケットプレイスDVDセット商品]


 「富野監督が死んだらみんなが困る」という僕の言葉についてノレド・ナグ役の寿美菜子さんに「グダちんさんは攻めますねー」って言われたんだけど、いや、マジで70過ぎたらいつ死んでもおかしくないからな!(憧れの神崎美月さんの声優である寿美菜子さんに「グダちん」って呼んでいただいたことは身に余る誉です)
 本当に富野監督よりも若いアニメ関係者が亡くなるととてもつらい。


 同時に、富野監督は10年前からいつ死んでもおかしくないのにずっと仕事をしているので、常に、毎日目覚めたら監督が死ぬのではないかと思っている。(本人は迷惑だろうけど)(僕もメタボリックシンドローム予備軍でダイエットのために急峻な山に出かけて死にやすかったりする。山には危険が多いが、運動不足も体に悪い)


 2年前は富野監督の80歳の傘寿だったのでGのレコンギスタ劇場版全5部作完成という偉業を讃える意味も込めて、おこめ券数万円を贈呈したのだが、僕みたいな貧乏な無職が個人でできる推し活はそれくらいだ。文化功労者に制定された富野監督は非課税の年金300万円弱をもらえるのだが、富野監督ほどの偉人に対してはちょっと日本国は少なすぎるのではないかと思う。(同時に制定された唐十郎さんや加山雄三さんや大島弓子さんも)
 神社くらい立ててもいいと思うんだが。(京都人はとりあえず神社を建てたがる。奈良県民は大仏)



 そういうわけで僕は富野監督が幸運にも80代まで生存なさってくれているので推し活と言うか褒めをしているのだが。まあ、個人から数万円のおこめ券をもらっても富野監督レベルの偉人の家計には大して影響はないと思うんだけど、おこめ券は米以外の食糧とも交換できるし、生物である限り食い物をもらって嫌な人は少ないだろう。



 富野監督からは「散財をさせてごめんなさいね」というお返事をいただいたので、米寿までは大人しくしているけど、あと6年間、お互いに生きているのかはよくわからない。



 それに僕は富野監督が好きすぎるように周りから見えているようで、しばしば「お前、富野監督が死んだらどうするんだ。お前は生きて行けるのか」などと問われる。


 いや、まあ、無職の精神障碍者でアルコール中毒気味の僕があと何年生きられるのかって言うのも結構、微妙なところなんですが。先日は精液に血が混じっていたし。気持ちよく射精したのに血が混じっていると割とビビる。
 一応、富野監督の知識は膨大なので、おすすめ書籍を読んでそれをもとに富野作品を解釈しつつ菩提を弔うことになるんだろうなあと思っている。とりあえず富野監督が海のトリトンを監督するにあたって読み漁ったであろう児童文学の研究書を買いました。積んでるけど。

児童文学の教科書


 あと、進化人類学とかアーレントまでの西洋哲学も積んでいる。儒教系も履修すべきなのだがなかなか手が回らない。



 確かに人が死ぬのは悲しい、ショックだ。だが、人は必ず死ぬ。だから人が死んだときに後悔しないように常日頃から好きな人の事は生きている間にチヤホヤして美点を語っていくのがいいと思う。


 まあ、死んだ人の美点を語り継ぐというのも、歴史を紡ぐことになるので、まったくの無意味ともいえないのだが。


 とりあえず、他人は死ぬし自分が死んだ後の事はよくわからんのだが、瞬間瞬間を後悔しないように必死に生きることが大事だと平成が教えてくれた。
 そう、死ぬのは必然なので畢竟、悲しくはない。しかし、後悔が残るかどうかは自分の行いによって変わる。相手が死んだときに後悔しない、自分に恥じない生き方を常にすることこそが、廻りまわって他の人が自分の死に対して納得してくれるかどうかになるのだと思う。


 いや、まあ、ほとんどの宗教や思想は死というよく分らんが確実にある絶対的なものに振り回されている印象があり、死に対して全く動じない精神を作るのも、結構な労力だと思うので、大変なのです。



 というわけで、僕が生きているうちに欲しいものリストから僕に食品を送ってくれてもいいんですけど、僕が死んだらAmazonアカウントやら欲しいものリストはどうなるんでしょうね?まあ、僕は死んだ後の事については責任を持つつもりはないんですけど!クレジットカードやサブスクリプションは死亡と同時に解約してほしいものだが。
 でも、結局はなるようにしかならんだろう。



 というわけで、死生観を語ったと思いきや「読者さんからもらったレトルト食品が残り30袋くらいまで減ったなー」という餓鬼道でございます。
 僕はねずみ男だよ。

  • 今日あったいいこと

 人が死ぬのは悲しいというのは当然のことだが、かと言って悲しい事ばかりだとやっていけない。
 今日は京都市の広沢の池を一周する形で遍照寺山を登山した。

風光明媚。



山紫水明とは京都のためにある言葉だ。




 人の命は尽きるとも、美しい山河花鳥風月は数千年くらいは残ったりする。



 あと、今日は山に行くぞーって思っていたら途中でなんか道に倒れて嘔吐している人がいたので登山に備えて持っていたビニール袋とタオルを与えておいた。救急車は他の人が呼んでくれた。
 どういう状態で倒れていたのか知らないが、まあ、登山するときは自分でケガに対策するためにタオルやビニール袋やガムテープは複数持っているようにしている。
 著名人は死んでしまったが、僕がちょっと施した人が死んでなかったら、少しうれしいかな。
 まあ、だいたいそんなかんじだ。


  • Amazonほしい物リスト。

https://www.amazon.co.jp/registry/wishlist/6FXSDSAVKI1Z
↑グダちん用


 著者へのプレゼントはこちら。


匿名で住所を伏せてプレゼントを送るための、つかいかた
nuryouguda.hatenablog.com
 このブログは最後まで無料で読むことができますが、物を送り付けて著者に恩を売ることもできます。個人情報は破棄するので、クラウドファンディングサイトのように物をくれた人を特に優遇することはないです。
 

note.com
noteでは金銭のサポートができます。はてなブログの有料記事はあんまり売れてません。



(この記事が良いと思ったら読者登録お願いします!)