玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。旧玖足手帖から記事・ブクマを引き継ぎました。


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アイドルマスター劇場版 感想4 鏡の映画演出法〜 前編 春香がリーダーでプロデューサー!

長くなりそうなので結論を述べる。
まず、演出面において、誰が見てもわかるとおり、劇場版THE IDOLM@STER 輝きの向こう側へ!は「鏡」の使い方が効果的だった。
その全編に配置されている鏡のメタファーは映画の構成としても効果的であると同時に、アイマス的でもあり、コフート心理学的でもある。
他人を映し鏡にして自己愛を充たす――汎用適応技術研究


もう一つ。ストーリーを見ると、この話は、リーダーに任命された天海春香がアイドルでありながらプロデューサーの役割を引き受けるまでの悩みを描いた話である。
そこに、プロデューサーとアイドルの鏡像(あるいは写像)関係がある。


結論終わり。時間のない人は一を聞いて十を知ってください。


THE IDOLM@STER輝きの向こう側へ!は実に色んな内容を持った映画なので、前回までの感想でも書ききれなかったし、他の感想ブログさんもたくさんある。とりあえず、今回は鏡像関係という要素に注目して書いてみよう。
だが、鏡の関係という一要素に注目するだけでも、この映画は実に多くの関係性を連結しているので、一次元の文章に書くことは非常に難しい。そのため、まとまりのない文章になるだろうが、ご了承ください。
鏡による印象の連結という事自体が非常に映画的なトリックだし、映画自体が鏡とレンズとスクリーンによる写像である。(←この文章も鏡面的です)
だから、鏡について語ることは映画について語ることですし、その演出について書くことは、私みたいな富野由悠季の映画とかが好きな演出ファンにとって実に「映画の話をしてるなー」という充実感が得られると思うので、書きます。


まず

  • なぜ、春香がリーダーに選ばれたのか?

色んなブログで考察されていることですが。身も蓋もないことを言うと、「ゲームとアニメのメディアの違いを理解せよ!」ということです。そして、これはゲームのTHE IDOLM@STER(特にゲーム版2シナリオ)のアニメ版映画という事です。
ゲームはプレイヤーが主人公兼没個性的なプロデューサーを自分の分身として操作し、アイドルキャラクターを見て楽しむメディアです。その時、自分自身であるプロデューサーの姿は見えない。人は自分自身の姿を直接見ることはできない。
対して、アニメ版は赤羽根プロデューサーを含めて、アイドルも社長も記者もファンも、みんなスクリーンや画面に映るキャラクターとして見つめられる存在です。それを観客や視聴者が見て楽しむメディアです。その時、自分自身の分身であるプロデューサーが映画全編で主張すると、どうでしょうか。自分自身が映っている映画を見ても、きっと全然新鮮味が無くて面白くないでしょう。いや、むしろ不快感があるかもしれない。ただでさえ映画は鏡のようなもので鑑賞する人それぞれによって印象が変わるものだから、「主人公はあなた自身です」のように、鏡を突き付けられるような映画だったら不愉快かもしれん。
(この点、TVアニメ版THE IDOLM@STERはトリッキーな1話でプロデューサーをまずキャラクターとして顔のあるプロデューサーではなく、キャラクターを見つめる顔のないカメラマンとして登場させる技法を使っているので、錦織敦史監督以下、アニメ版THE IDOLM@STERのスタッフは非常にメディアの違いに自覚的と言える)


あと、もっと身も蓋もないことを言えば、赤羽根プロデューサーには華が無い。いや、マジンガーZを見事に操った兜甲児を演じた赤羽根健治氏が俳優として華が無いって言ってるんじゃなくて、この映画はアイドル映画であり、アイドルの華を見せるメディアだということです。
アイドルには華がある。だから、プロデューサーを主人公としてたくさん出すより、アイドルの出番を増やした方が楽しい映画になります。


これで分かりましたね。
アイドルプロデュースゲームをアニメにする、アイドルの出番を増やす、という条件を満たす技法として、「アイドルにプロデューサーをさせればいい」という事です。実に論理的だ。同時に、コロンブスの卵的な発想の工夫があります。
だから、劇場版では春香がリーダーと言う名のプロデューサーになるのです。
アイドルとして華のある春香がプロデューサー役を兼ねると、アイドルプロデュースというアイマスらしい物語を描きながら、エンターテインメント作品として華を減じることもない。(もちろん、前半の楽しいシーンが好きで中盤のシリアスシーンはリズムが合わない、と言う人もいるのですが)
で、そのリーダーという役割に対して春香が迷い、自覚し、行動するところにドラマが発生するので、単なるショー映画ではなくストーリー作品と言う風にもなってる。
ミステリの文脈で考えると、無自覚な主人公が事件を追うにつれて自分が事件に深く関わっていることに気づく、夢野久作ドグラ・マグラみたいな叙述トリックみたいな映画ともいえる。春香は自分がアイドルだと思ってたけど、実はプロデューサーの役割を期待されて実行していた、って言う。(ホラーではないが)


もう一つ例え話をすると、アニメの赤羽根Pは「女子校の新任男性教諭」としてデザインされたそうです。なので、今回の劇場版は、「担任の赤羽根先生が春香をライブの文化祭実行委員長にしてクラスのまとめ役をさせる話」と言える。(もちろんそれだけではない)


で、テレビアニメ版も割とそういう部分があって、担任の先生っぽい赤羽根プロデューサーはプロデューサーとしているんだけど、彼は主人公ではない。あくまで、アイドルの輝きをサポートする人。で、アニメ版は765プロが弱小プロダクションから売れていくという大きな流れがありつつ、各話でスポットの当たるアイドルのそれぞれが主人公役のバトンを繋いでいく、という構造だった。で、TVアニメ版では最終的にやっぱり春香がメイン主人公かなー、と言う風のルート選択だった。(春香の主人公性については次項に回して今回は書かない)
また、TVアニメ版の後半でも春香がアイドルでありつつ、プロデューサーっぽい役割をやろうとして、他のアイドルと団結とか合同練習をしようと苦心して、アイドルとプロデューサー役の二重の役割に苦しむ話だった。TVアニメ版はそこで他のアイドルも春香の気持ちに気づいて、春香も仲間たちの気持ちに気づいて、改めて団結した。
で、劇場版ではテレビ版の成長を踏まえて、アイドルたちが自分でセルフプロデュースや自己管理をできるようになって、さて、どう話を作ろうか、と言う状態。


他のブログさんも考察していて、

  • 絆と成長を描く為のリーダー春香


この作品はプロデューサーの視点で語られてきた物語であり、今回敢えてプロデューサーを「蚊帳の外」に出す必要性があったのではないか。
テーマである絆と成長を描く為に。


絆の中心にいたから春香がリーダーとなり、この事はまた、プロデューサーからアイドル12人を切り離す意味合いもありました。
語り部の遷移ですね。
「今後の問題の処理は全て春香に一任する」という意味合いで、プロデューサーが一歩後ろ、輪の外に自ら出た行為を示していた。
絆と成長の物語 「劇場版 THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!」 感想 - アニメな日々、漫画な月日

まあ、赤羽根プロデューサーは映画として華のないライブの裏方仕事とか、アイドルがアイドル同士で問題を解決するためのサポートして、彼女たちの親やスクールとの調整作業を海外研修の準備と同時に頑張っていたとは思う。ただ、映画として描かれるのは、赤羽根Pの仕事ではなく、アイドルとアイドルの人間同士のドラマである。
そして、人間ドラマを描くにあたり、やはりライブの成功に向けて実務的なリアリズムを担う赤羽根プロデューサーよりも、ライブを成功させる当事者としてのアイドルの心情的な部分を描いたほうが映画らしい心理描写の盛り上げになる。


これが映画を外側から作る視点で、春香がリーダーになるべき(語り手がプロデューサーから春香に移動すべき)必要条件。


その鏡合わせの関係として、映画の中のキャラクターからの春香がリーダーとして十分と言う条件も語られている。
これが高木順二朗社長と善澤記者とのやり取りで、モロ出ている。
高木社長はプロデューサーよりももっとメタ的なキャラクターで、何より顔が出ない人だし、ある意味天の声と言うか、作り手の声を投影しやすい人です。
そして、彼と通じ合っている芸能レポーターの善澤記者もメタ的な人物です。(というか、THE IDOLM@STERは女性アイドルを描くアニメなので、男性キャラは割とメタ的な役割を持つことが多いのですが)


高木社長と善澤記者は居酒屋たるき亭でこう言います。(細かい言い回しはうろ覚え)

善澤「彼女たちはもうあの事(Pの海外研修)は知っているのかな?」
高木「どうかなあ。伝えるタイミングは彼に一任しているからね」
善澤「このことで彼女たちに要らない動揺を与えないかな?」
高木「これまでも多くの試練を乗り越えてきた彼女たちだ」
善澤「新人の面倒を見させるのもそのためかい?」
高木「さあねえ」
善澤「お前はいつもはぐらかすな」

ここで、音無小鳥さんの妄想劇場で演出的にもはぐらかしてるんですが、思いっきり映画そのものへの自己言及をしてる説明セリフなんだよな!説明セリフが現実的でメタ的すぎるので、ピヨちゃんの妄想劇場でバランスを取らないといけない。


つまり、GREEアイドルマスターミリオンライブ!からゲストキャラクターを呼ぶという、映画の外側の大人の事情で決まったことに対して、作品の中の高木社長ははぐらかしながらも「アイドルたちに動揺と試練を与えて成長させるため」って明言している。
この二重構造もなかなか映画のトリックって感じで実に面白い。
まー、765プロの財政では半分素人のアイドルスクール候補生しかバックダンサーとして雇えなかったという事情もあるんだろうけど、高木社長は同時に「新人との交流を利用してアイドルをさらに成長させよう」という腹づもりです。高木社長はゲームの段階から「P(プレイヤー、プロデューサー)に目標設定を与える」という半分ゲームシステムと同化したメタプレイヤーというか、メタなキャラクターなんですが。今回の劇場版でもそういう天の声というか作品の方向性を作る役割を担っている。
ゲーム原作だし、試練を与えるってのは、ある意味、ダンガンロンパのクロマクみたいなキャラなんですが、それが悪辣なゲームデザイナーとかバトルロワイヤル系のボスとか神とか概念ではなく、中小芸能プロ社長の高木順二朗という一人の人間のオッサンの意志、というバランス感覚が面白い。
GREEアイマスからのゲストキャラのバンダイナムコゲームスとかアニメ制作スタッフとかリアルなプロデューサーとか監督とか、多くの人の利害とか方針とか沢山の意志を「高木社長の一存」というキャラクターに擬人化して落とし込んでストーリーにアレンジしてるのが面白いなーと。
アイマスにおける「団結」の意義 前編 : アイマスタジアム
高木社長もリアルな製作者の鏡というか写像としての効果を持ってるなー。アイマスの映画は一本の映画としてもすごく面白い人間ドラマなんだが、その人間ドラマに試練を与える「大人の事情で決まった辛いこと」は、多くの大人が関わっている。
錦織監督、脚本の郄橋龍也氏、演出の高雄統子氏だけでなく、バンナム坂上陽三プロデューサー、石原章弘ディレクター(監修)、その他のバンダイナムコゲームスGREEA-1 Picturesなど会社組織のいろんな人の意見や利害、ニコニコ動画制作者の潮流やファン、プレイヤープロデューサーの気持ちとか、色んな人の思いが絡んでいる。全くのアニメのオリジナル展開ではなく、ゲームのTHE IDOLM@STER2のプロデューサーの海外研修の筋書とかGREEのミリオンライブ!のキャラクターとかをアレンジせねばならん。
そういうメタ的に絡まったところを、「高木社長の方針」の一言で説得力を持たせるのは映画のディレクションとして見事だし、高木社長は便利なキャラクターだと思う。最初のアーケードのゲームでも高木社長が「今のブームはこれだ!」って言う度にパラメーターが変わったしな…。
そう言う現実っぽい要素を薄める妄想劇場の音無小鳥さんもホント、便利なキャラクターだし、同時に劇場サービスの「お約束ネタ」ノルマの消化にもなってて上手い。やっぱ、小鳥さんはこれをやらんとなあ。


で、合宿中の取材で、善澤記者はド直球で春香さんに「どうしてリーダーに選ばれたと思う?」って聞いて、春香さんは「プロデューサーさんの近くにいたからかも(のヮの)」って冗談で笑うわけで、全然リーダーとして自覚してない。
それを受けて、善澤記者は「春香ちゃんは時々面白いねえ。でも、そういうとこが大事なこともあるよ」って言う。
自分がリーダーになったことに対して、春香さんは「プロデューサーと物理的に距離が近かったから偶然指名されただけかなー」って、何となく学級委員に選ばれたり授業で当てられた普通の女の子みたいな(あんまり物を考えてない)認識なのに、社長と通じ合ってる大人の善澤記者は「プロデューサーに近い役割を受け持つことが大事なこともあるんだよ」と、映画の前半で春香に正解を教えている。
でも、春香さんはモヤモヤーっとしかものを考えない子なので、それを聞いても(のヮの)って顔でボケーってしてる。これを見て、ほんと春香がかわいく見えた。テレビ版26話で成長した!って言ってもやっぱり春香さんは根っこの部分でフラフラーっとしてて物事を自覚的に考えないし、アイドルアワード受賞式でも何にもない所でこけるドジを見せてる。足元が固まってない。
やっぱり、成長してアイドルの賞を受賞して実績を積んでも春香は春香なんだよ。あー、春香は春香だなー。一言で言うとドジで間抜け。だが、爆発力とポテンシャルは高くて、だからこそ主人公らしいって言う、エースをねらえ!とかトップをねらえ!セーラームーンみたいな女性主人公らしい主人公なのだ。
劇場版2週目公開特典マンガ0巻で、映画のストーリーが始まる前日譚で春香は「アイドルアワードの受賞は天海春香じゃなくて765プロ全員名義にできませんか?」と、素っ頓狂なことを言う。そんで、ライバルの美希に「春香は春香」「765プロの一員だけど、天海春香でもあるんだよ」って説教される。
もう、天海春香はトップアイドルとしての自覚が無い。っていうか、基本的に「周りの皆と団結!」「みんないっしょに!」っていう風に周りは見てるけど「自分が周りからどう見られてるか」っていう自己認識が全然できてない。だからすぐこける。お菓子作りが特技だけど砂糖と塩を間違えたりすぐにこぼす。
あー、春香はドジだなーよしよしよしよし!いやしんぼめ!ってかわいいですね。


アニメ版の春香はそこら辺、周りの仲間を気にしてサポートして元気づける、天然アイドルとしての一面と同時に、自分のことをあんまり考えてないバカな反面、無心になると天才型アイドルの星井美希を軽くミュージカルのオーディションでぶっちぎるほどの全力ポテンシャルを発揮する超天才アイドルとしての両面が描かれている。
すっごい主人公っぽい。ガイナックスアニメ主人公の系譜で言うと、タカヤ・ノリコみたいな。C3部のゆらも周りに振り回される癖に無心になると個人スキルで無敵と言う点ではそういう系統かなー?エヴァのシンジ君も周りに振り回される癖に思い詰めると世界を滅ぼすタイプ。やっぱ、錦織監督のTHE IDOLM@STERガイナックスアニメの系譜なのかなー。


美希は天才だけど、モテギャル系でもあるので、周りから自分がどう見られているかって言う他者からの評価には春香よりは自覚的。エヴァのアスカとかトップのユングみたいなタイプですね。ゲームのアイマスはどの子を選んでも主人公になるような、ギャルゲーのシナリオですが、アニメのアイマスは全員を描くんで主人公タイプの春香と美希も性格が描き分けられてます。


だから、この映画は自覚が全然ない春香が自覚を持って行動するまでの話と言えます。
また、それは少女少年漫画の王道の「自分では自覚してないけどすごい才能を持った主人公がその力に気づいて仲間と共にトップを目指す」って展開にマッチしてて、実に春香らしいの。
多分、他の765プロのメンバーはみんなもうちょっと自分と周囲の関係について考えている。
美希以外にも水瀬伊織はお嬢様だし「周りを見返したい!」という動機でアイドルになったので自分の魅力に自覚的。兄を見返したいという点では我那覇響君も同様。菊地真くんも「男っぽく見られる自分」に悩んでからそう言う路線のアイドルとして自覚して開き直った。萩原雪歩も「男の人や周りが苦手で引いてしまう弱い自分」を自覚してがんばった。高槻やよい765プロでは年少だが家系の苦しい家族の長女として自分の立場をいろいろ考えてるし頑張った。双海亜美真美も双子で小学生時代は変わりばんこで子役タレントをやってたので互いに互いを見て、見られることに自覚的。如月千早も重い過去を見つめ直して歌という確固とした自分の才能を自覚してその道を行く。年長組の三浦あずささん、四条貴音さんも一見何を考えているか分からないボケた所があるが常識や規範意識は結構しっかりしている。秋月律子嬢はしっかりしていてアイドルしてたが高卒で即座にプロデューサーに就職。
そんな765メンバーに比べて、テレビ版26話を使ってもやっぱり一番自己像が曖昧なまま来たのが春香なのだ。何しろ、もう、9年も「天海春香17歳!高校2年生です!トップアイドル目指してます!」ってやってるので。
で、王道主人公としては「自覚のない奴が自覚する」ってのが一番燃えるので、春香が主人公でいいのだ。(春香の主人公性については次項に回したいが、重要なので今回も書く)
そんな無自覚主人公らしい春香なんだが、前述のとおり秘めた個人ポテンシャルは高い。だから、自分で認めてなくても他の765プロメンバーも春香を認めている。
同時に、春香はプロデューサーがミスった時にちょっとしたキャラメルで元気づけてあげたり、千早がスランプになった時も率先して助けに行ったり、「周りを笑顔にするアイドル」と言う点でも強い。また、自覚や自信が曖昧であんまり自分を大事にしないからテレビ版終盤みたいにヘロヘロになることもあるが、自己中心的ではない分、周りをよく見ているという点で、リーダーとしての才能もある。


ここで、賢くかわいくなんでもできちゃう輝くダイヤモンドのような水瀬伊織ちゃんの方がリーダーとして相応しいんじゃないの?と言う疑問も浮かぶ。自覚の足りない奴が主人公になるのはドラマとしては盛り上がるが、現実的に考えた場合、自己像が明確な人の方がいいんじゃないか?と。

ちょっと前に読んだ日経新聞の記事で、「革新的リーダーの条件」というものがあった。
高坂 穂乃果と革新的リーダーに求められる5つの条件 - まっつねのアニメとか作画とか
第一の条件が前例踏襲や先入観を排す「自由な精神」

第二の条件は「率先垂範」まず自分がやること。
第三の条件、「人間的魅力」
第4の条件それは明確な「ビジョン」です。
最後の第五の条件「修羅場」の経験
「資質に恵まれても磨かなければ光らない。困難な場に身を置いて

自らそれを打開することで資質は開花する」

ラブライブ!高坂穂乃果は明確なビジョンと修羅場の経験が足りなかったので、1期の終盤で迷走したり、ぬるい最終回に成ったりした。
天海春香はどうだろうか?
多分、「アリーナライブ」とか「トップアイドル」っていうビジョンはラブライブ!高坂穂乃果よりは持っているだろう。だが、前述したように春香は自己像がモヤモヤしている。それに比べたら水瀬伊織星井美希の方がビジョンや「自分がステージに立った時のイメージ」「周りからどう見られているか」をきちんと持っている。
また、菊地真君や三浦あずささんは意外と常識人だし情に篤いしサポーターとして頼りになるだろう。


だが、前述のまっつねさんと日経新聞のリーダーの条件の最後の条件「修羅場」を考えてみよう。
これは単に「経験値」とは言えないのではないだろうか?
私は、まあ、社会からドロップアウトした人間でここでこうやってアニメ感想ブログを書くことくらいしかできないので、あまりリーダー論をぶち上げる資格は無いのだが。劇場版アイドルマスターに無理やり当てはめて考える。
「修羅場」とは「痛み」である。と。


天海春香は他人の痛みを自分の痛みのように感じることができる子なのだ。他の子が困っていると、本当に自分も一緒になって困る。春香は自己像が曖昧だ、と前述したが、だからこそ他人に自分を重ねる特質が強い。個性が無いからこそ、誰とでも合う。
これはリーダーとして、特に精神的なものが求められるアイドルのリーダーとして大事な性格なんじゃないだろうか?
実務面は律子やプロデューサーや小鳥さんがフォローしてるし、方針は社長が決めている。だが、精神的な象徴的リーダーというのも大事で、それを求められたから、今回春香がリーダーになったんだと思う。

765プロのライブに、なぜ今、リーダーが必要だったのだろう。
今までの活動において、それが必要な様子はあまり無かったはず。
象徴としての春香が描かれることはあっても、それ以上ではない。


リーダーシップというものは、個々人の持つ能力だと思っていた。
その組織において御旗の印となり、ゴールへと導く原動力の役目。
言わば才能の一つであり、限られた人のみに備わっている資質と。


しかし、それは果たして個人に依存してしまう能力なのだろうか。
組織を違えてもリーダーシップを発揮し続けられる人は、希有だ。
リーダーシップとは個人の能力ではなく、組織の機能だと言える。


春香の迷いはそこだった。皆を導かなければならないと考えてた。
リーダーとして考えねばならないこと。やらなきゃならないこと。
そういうものを考えた結果、迷いや躊躇いに悩んでしまっていた。

(中略)


主従関係性と捉えれば、個々人の「どうしたいか」なんて不要だ。
組織自発性と捉えれば、個々人の「どうしたいか」が必要となる。
メンバー内における自ら考える自分の目標と責任の醸成と行動力。


春香に必要だったのは、能力ではなく象徴。いつもの春香の姿だ。
765プロのアイドル達における行動様式としてのロールモデル
春香が春香らしくあるということは、それはもう765プロの姿。


目的や考え方は、人それぞれでいい。自分の理想を追い求めよう。
牽引力である必要は無い。己の足で進まねば意味が無いのだから。
行動する意思、視線の方向、歩む速度、センターを担う春香の姿。
春香を容(カタチ)作るモノ、M@STERPIECE。(劇場版アイドルマスターについて):この動画は、ご覧のユーザーの皆様が応援しています。 - ブロマガ


最近、NHKの100分 de 名著というテレビ番組を見ている。
http://www.nhk-ondemand.jp/program/P201200086200000/
今月のテーマはエーリヒ・フロムの「愛するということ」だ。そこで、フロムの「自由からの逃走」の思想も紹介されていて、そこで

人は自分の成長と自己実現が阻まれるとき、一種の危機に陥る。
この危機は人に対する攻撃性や権威への従属と自己の自由を否定する権威主義に向かうことになる。
生産的な生活と人間の幸福と成長を願う人道主義的倫理を信奉するとき、人は幸福になれるとした。

と聞いた。


それを765プロに当てはめてみると、何でもできちゃう天才の水瀬伊織ちゃんが「出来る私に合わせてついて来い」ってやると、ファシズム的サディスティック権威主義的組織になる。
(あるいは、美希だと「ミキはできるけど、みんなができないのはよくわかんないな」ってまとめ役を放棄しそう。ていうか美希はハニーとしてのプロデューサーが大好きなので、プロデューサーの代理役みたいなリーダーは絶対にやりたがらないだろう)
(同様に、年長者の三浦あずささんや四条貴音が引っ張っていく、と言うのもみんなで団結していくために試練を乗り越えるという765プロの方針には合わない。劇場版では、あずささんは常識的に進行を指示する役割、貴音は「まこと、〜〜です」という一言で物事の価値基準を引き締めるという役割を持っていて、ある意味これもリーダー性なのだが、「みんなを自分と同じく重視する」という三銃士みたいな価値観とは違う)

おそらく、伊織自身も自分がリーダーになったら「なんでできないのよ!」と権威を振りかざしたり仕切りたがる癖があると自覚してるから、リーダーを春香に譲って、参謀的立場に自分を置いたうえで、妥協型の真やマゾヒスティックな雪歩とも同列になってチーム全体の成功を優先した。これまでの伊織(テレビ版だけでなくドラマCDとか)を見ると、伊織がリーダーになると増長する。(そこがかわいい所でもあるのだが)
だから、劇場版の伊織は割と自分をセーブして「竜宮小町のリーダーは伊織」だけど、「765プロのアリーナライブのリーダーは春香」というレベルに自分を置いている。
新人の北沢志保が望んでいたリーダーは実力を持って君臨して的確に指示するドライで権威的なリーダーだったようだ。


だが、志保と鏡のように似ていた実力主義水瀬伊織は自身でそれを否定する。志保が「何で天海さんがリーダーなんですか」と言った時、伊織は「それは言ってほしくない言葉だわ」とさえぎった。ここが重要。
本稿では人間関係の鏡像性について書くつもりでまだ書けていないのだが、春香の鏡の話をするより先に伊織と志保の鏡像関係になった。
おそらく、志保は過去の伊織なんだよ。
過去の自分を見つめ直す、って言うのはTV版の20話の千早回や終盤の春香にスポットが当たる回でも描かれたポイントで、そう言う路線なんだろうけど。
今回後輩として登場したミリオンライブ!出身のバックダンサー組の7人は、割と765プロの面々の過去の面影とか共通点を持ってる。765プロの先輩を小さくして経験を無くした感じ。
北沢志保はストイックな努力家でみんなライバルと思ってるけど、ぬいぐるみが好きって言うのは伊織に似ている。だから、伊織は志保がいつも一人って事にすぐ気づくし、声をかける。そして、志保が伊織の代わりに(むしろ志保がプロ意識の高い伊織の真似をし過ぎて)春香と衝突する役をして、それを見た伊織は「昔の自分みたいじゃない」って思って、志保を叱ることができる。(ストイック気質は千早にも似ているんだが、千早は後述する理由で春香ラブなので、後輩には構ってやらない所がある)
読書家の七尾百合子がぽーっとしたところがあるってのは、三浦あずささんとの練習で共通点が確認できる。
ダンスが下手で年少で内気な箱崎梨花と望月杏奈は、やよいや、ブロガーでポエマーの雪歩と共通しているし、星梨花の世間離れしたお嬢様気質は貴音に近いかもしれない。(お泊り会の時の萩原邸のメンツである)
大阪人の横山奈緒が元気でダンスが得意ってのは亜美真美や方言キャラの我那覇響くんと似ている。
同じくダンス得意組の佐竹美奈子はダンスが得意ということだけでなく、常識や場の流れに妥協するタイプという事で菊地真君に近い。劇場版の真はキャピキャピいう事もなく、けっこう調整役とかサポート役みたいな発言が多い。


で、一番の問題児の矢吹可奈と春香はすごく似ているし、共通点も強調して描かれている。


そんな風に、似た者同士の関係性が描かれてる映画なんだが。
鏡像関係と言うよりは双子関係なのかな。

3.自分に似た対象を介して自己愛を充たす(双子自己対象体験)
 コフートは、ここまで挙げた[1.他人を映し鏡にして自己愛を充たす]と[2.理想の対象を通して自己愛を充たす]を重要視していたけれども、亡くなるちょっと前になって、もう一種類の自己愛の充たし方を付け加えた。それがここで紹介する[3.自分とよく似た対象を通して自己愛を充たす]だ。

 
 近親憎悪のようなことが起こらない限り、自分自身によく似た相手や、似たような境遇を抱えたような相手と一体感が感じられた時も、自己愛が充たされて心強くなるんじゃないの?というわけだ。


 また、学童期〜思春期にかけては、自分とよく似た境遇や才能を持った仲間と出会い、つるむことによって[3.自分とよく似た対象を通して自己愛を充たす]が仲間内で成立しやすい。勉強であれ、悪戯であれ、趣味であれ、仲間同士との間でこの自己愛の充たし合いが成立していれば、仲間内での共同作業や切磋琢磨がうまくいきやすくなり、共通した困難(例えば受験勉強、スポーツ大会のような)にも立ち向かいやすくなる。
自分に似た対象を介して自己愛を充たす――汎用適応技術研究

まー、私は学者じゃないので、コフートやエーリッヒ・フロムの学説を参考にはしても、割と用語の使い方はアバウトなので、鏡と双子の明確な区別はつけてない。
劇場版アイドルマスターも映画作品であって、論文じゃないしね。
まあ、「似た人の気持ちは分かりやすいよね」って言う話です。


で、ここでは「修羅場を修羅場として認識するリーダーの条件」として「他人の痛みに共感する能力」で、それは春香ならではの物、と言いたい。
で、春香はあんまり個性や自我が強くなくて、765プロのメンバーとして能力的にも年齢的にも真ん中くらいのセンターだから、後輩にも仲間にも共感や気配りしやすい人物でリーダーに選ばれた、としたい。個性が強くないから、プロデューサーの投影の器にもなりやすいし、他のメンバーとも共感しやすい、っていう話ですね。(あんまり好きじゃないんだが)子どもに共感する能力としての母性本能の話にも近い。


こういうと、「春香はグレートマザー」って話で終わりそうなんだが、そうはならない所がこの映画の面白い所なんですよ!


で、ちょっと前のフロムの「愛するということ」Die Kunst des Liebens(The Art of Loving)の話に戻るんだが、そこでは

愛する技術は、先天的に備わっているものではなく、習得することで獲得できるとする。

と言う理論なのだ。


前述したように「春香は自己像が曖昧で自覚が足りないドジっ娘」なのだ。春香が共感能力が高いのも春香に自覚や自我が薄いという特質から来ていると述べた。
だが、フロムの理論は「愛する技術は習得するものだ」と言っている。


自我が薄いからこそ人を愛する才能を先天的に持っている春香が、リーダーとして一皮むけるために、愛について自覚的に能動的になるのだ!
という矛盾の克服がこの映画のいくつかのテーマの一つ。
そのことについて「鏡を見るように自分自身(に似た奴)と向き合って特訓しよう!」と言うコンフリクトが映画のカタルシスを産んでいるんですね。


自覚や自惚れが足りない春香が「プロデューサー役を引き受けて後輩のケアをしよう」と「自覚」するのがこの映画の一番の感情的盛り上がりだ。
テレビ版で千早を「ほっとかないよ!」って言った時の春香はまだ自覚的に動いてはいなかったように思える。母性本能と直感と感覚と仲間意識で「千早ちゃんを助けなきゃ!」って漠然と思って突き進んだのだ。それは美しい感情だったが、「自覚的に助ける」という行動ではなかった。千早のために「約束」を作詞しようというのや千早の家に行くのもプロデューサーや仲間の後押しがあったから。
春香が個人でリーダーとしての愛を自覚し自分に気づくのが、今回の劇場版なのだ。


  • 後篇へ続く

なんか、日付がまた変わりそうだし、「何で春香がリーダーだと映画が面白いのかな」という前提条件を書くだけで糞長くなったので、続く。
映画の中で使われた鏡の演出技法の説明は全然できなかったな…。うん。
まあ、心理学的に言えば、僕も映画を愛することで忘我状態に成ろうとしてるんだろうねー。寂しいからブログなんか書いてるんだろうね。

人間は孤立感から逃れるために、「祝祭的な興奮状態」「集団等への同調」「創造的な活動」といった方法をとるが、完全な答えは人間どうしの一体化、他者との融合、すなわち「愛」にある。
自分以外の人間と融合したいというこの欲望は、人間の最も強い欲望である。
エーリッヒ・フロム『愛するということ』を83ツイートで読む : 八嶋聡ブログ

 残念ながら、間近な人物を理想化自己対象として体験出来るチャンスに恵まれない人が世の中にはかなり存在している。その欠乏を埋めるかのように、メディアコンテンツの向こう側には沢山の理想化自己対象が登場し、“商品としてパッケージ化され、販売されている”。
自己愛を充たしてくれる対象を「自己対象」と呼ぶ――汎用適応技術研究


僕自身は無職の屑で家庭は崩壊して失声症社会恐怖障害で社会不適合者で自己愛は完全に崩壊しているし、日常的に会話する相手も頭の中にしかいないという最悪な人間なんだが、やっぱり映画や虚構の話をしているとなんか元気が出るというか、自己愛が補強されますね。
うーん。やっぱり現実逃避なのかなー。
でも、アニメの話をするのは楽しいし、声に出してこのブログを音読すると喉が痛くなるので、やっぱり文字で書く方がスピード出るし、自分の頭の整理にもなるし。
やりたいようにやらせてもらう。