玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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少し落ち着いた。

「『カイザル(皇帝)か、しからずんば無』を標榜している野望家が、カイザルになれないならば、彼はそれについて絶望する。だが、その真の意味は別の所にある。
 彼はカイザルになれなかったために、自分自身であることに絶えられないのである。だから彼は本当は自分がカイザルになれなかったことに絶望しているのではなく、カイザルになれなかった自分自身について絶望しているのである。
・・・この自己が今では彼にとって耐えがたいものなのである。・・・カイザルになれなかった自己自身から逃れられないことが、彼には耐えられないのである。」(死に至る病
あの賞も酷いよな。2等だと分かったらネロは絶望しなかっただろうに。
1等になる可能性を全く失ったと感じることが絶望なのである。
もし、ネロがこうだったとして、
「一つの可能性。それがあれば絶望者は息を吹き返し、蘇生する。」
「ここで可能性を見出すのに、人間の空想の力だけでまにあうこともある。だが最後には、神にとってはいっさいが可能であるということのみが救いとなる。そのときはじめて信仰が問題になる。」
そして、
「神にとっては一切が可能である.すなわち人間がぎりぎりのところまで追いつめられて,いかなる可能性も存在しなくなるときにでも,神にとっては救済が可能なのである.その神の可能性を信じること,神による救済を信じることが信仰である.
信じるものは,可能性という,絶望にたいする永遠に確かな解毒剤を所有している 」
だとすれば、ネロは最後の一瞬救われたのであろうかね?
わかんねえよな。死に至る病を書いたのはキルケゴールを超越したアンチ・クリマクスという仮想人格的キリスト者だし。
わかんないね。
会えないと想っていたパトラッシュと会えたのは救いなのか、絵を見れたのは救いなのか、そのショックで死んでしまったのか、わかんねえなあ。無神論者でリアリストにもなりきれない僕には分かりませええん。
その揺らぎが名作性なのかねえ。∀ガンダムのラストとか。
ガンダムに結びつけるようになったら感想ではなくなるな。考察になってしまう。もーやめ。
なんだかよく分からないが、いろいろ感情がゆらいで右往左往させられたのは面白かったです。名作を一朝一夕に判断するのは無理です。よくわかんないです。それゆえにりありてぃです。
*1
と、しておこう。

*1:たとえば、今51話を見返してみたが、ここらへんのネロはデスノート並にうそつきだ。ブラフ吐きまくり。 初見では分からなかったけど、ポールに「クリスマスにはお兄ちゃんが戻ってくるから会える」と言われた後の言い回しとか、アロアが「財布を拾ったお礼でネロを養ってくれるかもしれない」と言った後のネロのそんなわけないだろう、と眉毛だけで一瞬言う表情とそのあと「家に帰らないとおじいさんが待っている気がする」との発言。その後逃げるようにコゼツ家から走り出し、転倒までする。そんで家は出る。たまらん。こまい演出がたまらん。ディスコミュニケーションぶりがたまらん。ネロはネロしか見てないからこうなってるんだな。うひょう!語るとキリがない。