玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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気になったこと

ターンエーの癒しで書いたあった。
Vガンの制作は曲がりなりにもまっとうできたはずだが、ラストカットが狭い絵になってたのを撮影部に謝られたと言うのが富野由悠季のトラウマになっていたそうだが。たしかに、ブツギれな感じだったな。
カテジナ・ルースシャクティの別れのシーンまでのコンテのリズムは完璧に美しかったのだが。最後の最後に息切れを起こしたのだろうか。
最終回の作品コンセプトが「現実に対する僕の恨みつらみを込めたものになって、作品として終わらせるという物にはなっていなかった。」
と、富野は言い、事実その直後に耳鳴りと眩暈を発症しうつ病になっていくのだが。
無責任な視聴者の立場では、Vガンダムは非常に面白い、と言うか壮大な物語になっていて素晴らしいと思ったのだが。
病気で邪念に囚われていても、富野由悠季のイマジネーションは素晴らしいんだな。
現実に対する恨み、つらみ、と言うのは嫌なやつは皆星になってしまえ!というイデオンからのそれなのかなあ。
でも、シャクティカテジナさんは地球に戻れたよな。
なんでだろう?小説版ではサイキッカーも人間だから地球に魂を惹かれた、と言う事なんだが。
(じゃあ、小説版ではリーンホースは生存してるかもしれないのか?)
あと、気になったこととしては、エンジェル・ハィロゥとの決戦が成層圏アンデス山脈で行なわれた、と言う事は戦闘空域の立体的な広さを感じて、さすがトミノだなあという感じでいいんだけども。
やはり、最終回2話で、エンジェルハイロウの波動を受けた地球の他の地域の人の描写が無かった、というのも局地戦でしかない物に見えるという印象になってしまっていて残念。Vガンダムの最終決戦はまさに人類の命運をかけたもののハズなのに。Zガンダムのラストもそうだが、富野の悪いクセなのだろうか?戦場の演出がハイテンションになっていくとそれ以外の地域が見えなくなる。
アニメのラストでカサレリアが平和になったことは示されるんだが。他の地域は目覚められたのだろうか?
カテジナさんがウーイッグを目指しているので、ウーイッグは活動しているんだろうけど。描写はなかったよな。
それと、宇宙戦国時代の他の政庁がどのようなリアクションをしていたのかと言うのも見たかった。というのは贅沢か。それを入れたらテンポが崩れるかな。
でもあれだ。
戦争をしている当事者だけの視界だと、世界的な決戦といわれても狭いものに見えてしまうんだなあ。
人類を全て眠らせるとか、それを破壊するとか言っても、やってることは小さな独立国と、連邦軍の一派閥とゲリラの連合による局地戦に過ぎないし。

エヴァンゲリオンサードインパクトで、LCLになる人類が悲鳴と十字架だけで描写されてすまされたために、一見した印象としては内輪のシンジ君の話だけに見えたとか。そんな感じ。
Gガンダムのラストは上手い事世界大戦と内輪もめをリンクさせてたなあ。
一年戦争のラストは、アフリカ戦線とかもあったんだが、上手いこと視聴者の視線をア・バオア・クーに収斂させてたと思う。
もうちょっと他の地域の点描があっても良かったと思う。カサレリアのバーツラフが息子を心配するとか。やっぱテンポの問題か?
ガンダムSEEDと違って要素を奇跡的に詰め込みすぎだからな。これ以上入れる余地はないか。