玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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TVアニメ版CLANNAD最終回22回「影二つ」

まー、美少女アニメを何本も見てもアレなので、(時間が無いので)今期は京アニCLANNADに厳選して見ていました。ef - a tale of memories. は面白かったけど。
終わり?22回で?本当に?
本当なんだから仕方がないだろう
と、思わず長谷川裕一っぽくなってしまったが。4クールに換算すると44話だから、ガンダム43話とどっこいどっこいで、つまり、打ち切り。
エエーッ!
いや、まあ、グラナダとサイド3に攻め込む、と言う順当なトーナメント形式を廃してア・バオア・クーで一気に仕上げたと言うのは、シナリオを定型から外す、と言う効果になって、あのラストシーンともなったので、一概に打ち切り、というか放送短縮が悪いと言うわけでもないか。ガンダムXもテンポが良くなったし。
バルディオスには悪い事をしたが。映画を見たらいいのか?
そうだ!
映画を見よう!
というわけで、アニメ版CLANNAD劇場版CLANNADから入りました。というか、劇場版見たさにゲームを1週間でクリアした。感動した。一ノ瀬ことみちゃんが好きでしたよ。伊吹風子のしつこさに戦慄したよ。
つーか、出崎統公式ファンクラブhttp://www.toshima.ne.jp/~styou/の掲示板が劇場版公開の時に荒れたんだが。

京アニCLANNAD 投稿者:みさき
投稿日:2007年10月 6日(土)20時08分6秒


劇場版とアニメ版両方を見ての感想です。映画とTVアニメと異なるメディアであり尺も違うので比較は出来ないと思いますが、やはり京アニと比較すると劇場版はかなり見劣りしてしまいますね。京アニはその作画力は言うまでもなく凄いのですが、なんといっても演出が神がかっている。運動描写など多少違和感を感じるところもありますが、今の調子でいけば石原立也監督なら名作に仕上げてくれることでしょう。
両者の違いはなんなのか?予算やスタッフ、尺やメディアの違いもありますが、決定的な違いはCLANNADという作品に対する理解の深さでしょう。石原監督は忙しいなか原作をプレイされて話をよく考察・理解されているように感じます。対して出崎さんの解釈は違和感があります。両者のPVを見ればそれは一目瞭然で・・・
京アニ「お連れしましょう。この街の願いの叶う場所へ」
劇場版「あなたは大切なひとを亡くしたことがありますか?」
↑そうじゃないだろ
このことからも劇場版がテーマを取り違えていることが分かりますね。



オープニング見ろ! 投稿者:LAD
投稿日:2007年10月10日(水)02時12分50秒


出崎監督流「人と人との繋がり」を唱えるのは結構ですけど、わざわざ『クラナド』と言う作品に埋め込むのはどうかとおもいますけどねぇ?
主人公と父親の関係性が違ければ、主人公の悪友のその後も違うし、在りもしない先生がいれば、その上物語の重要な位置付けにある「幻想世界」が、あんなお粗末なモノにされちゃって、結末も中途半端に終わられちゃぁ納得いかないでしょう。それ、『クラナド』じゃ無いじゃんって…そんな思いの人沢山居るんじゃないデスカ?原作をクリアした人なら分かると思いマスガ、一話云々じゃなくてTVアニメのオープニングは、すべてを語っている感ないですか?



その通り! 投稿者:LAD支持
投稿日:2007年10月10日(水)15時26分26秒


確かに出崎流「人と人との繋がり」には違和感ありますね。正直言って主人公と父親の関係、渚の両親、春原といった主要人物の立ち位置を変えてしまった理由がわかりません。監督なりの解釈といった意見が出ていますが、だったらオリジナル作品でやればいいじゃないですか。わざわざ評価の高い原作を改変する必要なんかないですよね?
特に劇場版の「幻想世界」は明らかに原作を理解していない。あの世界では汐の存在が鍵となるのに曖昧な描写でごまかされていました。あれじゃあ幻想世界の意味がないですよ。ホントに原作を理解したうえでの解釈なのか疑問ですね。


むー 投稿者:通りすがり
投稿日:2007年10月12日(金)15時14分8秒


いろいろ見てると原作ファンは原作ゲームに含まれるすべての要素
エピソードでも登場人物でも印象的な明台詞でもいいんだけど
そういったものすべてが入ってることを映画に望んでるみたいなんだけど


つまりクラナドもAIRも原作ゲームは
たった90分ないし120分程度の内容しかないと解釈していいんでしょうか??
それとも数分毎に切り替わるダイジェストのような映画をお望みなんでしょうか


映画のよしあしの問題はさておいて
いろんな掲示板で原作ファンの感想をよんでいてその点が気になりました


「だってあの重要なエピソードがないんだもん」
という批判もよく眼にしますが、
映画の中で贅肉になるところはバッサリ切ってしまうのが
監督やプロデューサーの仕事です


TVアニメを見てサブヒロインの多さに驚いているんですが
あの数のヒロインを映画の尺で過不足なく動かせるとは思いません
どんな重要なエピソードでも贅肉になるなら最初からないほうがいいのです




愛って包容力じゃないの? 投稿者:エアリエス
投稿日:2007年10月12日(金)23時12分6秒


通りすがりさんが言っていた「あの重要なエピソードがない」という批判は僕も確かに見ますね。僕が「固定観念」だと言ってしまう理由はそこにあるんだと思います。
その「重要なエピソード」が切られてしまうということに対するショックは確かに共感はできますが、現実問題としては「そのエピソードに至るまでのエピソードも全てやるのか?」という壁があるのを考えてないんじゃないかと思います。
その「重要なエピソード」をなんとか入れたとしても、原作を知っているものはそれを理解することはできても、初めてそれを見る人はそこにいくまでのいきさつまったく理解することなく、それこそ「わけがわからない」で終わってしまうわけです。


僕としては、原作どおりのもので「ちょっと急ぎ足でわけがわからなかった」と初見者に言われるよりは、多少改変してしまっているとしても「原作とは少し違うらしいけど、面白い映画だった」といわれたほうがファンとしては嬉しいですね。


どんちゃんさんの言われたことはよく理解できます。
ですが、一ファンの視点としては、現実問題としてはそう「まったく違うもの」ではなかったと思います。
本当に作品を愛する気持ちがあるのならば「このエピソードがない」とか「キャラクターの性格がなんか違う」とかそういう顰蹙ばかりではなくて「でも、こういうシーンは原作と同じくらい面白かった」とか「こういう展開もありかな」と思えるのではないでしょうか?







中途半端に公式設定入れんなヤ 投稿者:さちあれ
投稿日:2007年10月22日(月)19時28分52秒


(出崎)監督はCLANNADの原作を最後までやったの?


原作をやらずにあらすじだけ見て映画作ったんなら
原作を侮辱してる、ちゅーかプロ意識に欠けてるね。


そんなんじゃアッチの監督に一生勝てねーわな!!!


ま、実際原作をある程度してアノ映画作ったんなら
涙がでちゃうね。
かわいそすぎて!!!




悪口か? 投稿者:石原
投稿日:2008年 2月20日(水)01時49分24秒


よく「CLANNAD」がユーザーから評価されるとき、狙った泣きではないという話をよく聞きます。誰かが死んじゃうからかわいそうだ、という泣きではなく、最後によかったねって思える感動を与えてくれる。


ゲームだとプレイヤーのタイミングでシナリオを読み進めていける。たとえば、いいセリフがあれば何度も反芻して「いいシーンやな」って感じで、次へ進めるわけですが、アニメではそれができないんです。なるべく僕自身でも納得できるようなタイミングでと思ってつくっていますが……難しいなと感じながらやってます(笑) 。


「みなさん、これ泣けるでしょ、泣きましょうよ」って演出は僕にはできないし、したくない。今回、演出さんに言っているのは、悲しい泣きよりも「よかったね」っていう感じで感動できるといいなと。


シリアスばかりだとつまらない。「CLANNAD」のテーマはまじめですが、だからといって作品自体が、堅苦しく重いものではなくて、おもしろおかしいことばを使いつつ、重たいテーマを伝えたいですね。若い人の中には働いたら負けかなと思っているような方もいるみたいですけど(笑)。やっぱり人間働かなきゃダメですよ。働いてちゃんと家族を養って。そう言うと、なんだかすごくおもしろくなさそうな作品に聞こえますか?(笑)。でも、それは本当なんです。「CLANNAD」の原作者が、よくこのような物語をつくろうとしたなと思います。その勇気がすごい。だってゲームって遊びじゃないですか、遊びの中でこんなリアルでシリアスなシーンなんて見たくないじゃないですか。おそらく原作者が大事だと思って入れたんでしょう。


魅力的なかわいい女の子がいっぱい出てきて一見、萌えアニメに見えます。そういう見方も確かにできると思いますが、それだけではない。非常に深いテーマももっているので、そのあたりに期待しつつ最後までご覧ください。

えーと、私見ですが。
仏教的には私見しかないが。
五蘊皆空。閑話休題


京都アニメーションCLANNADはやっぱり、テレビと言うメディアなので、ライトファン向けに徹したなーって言う印象。
高校時代だけだし。
幻想世界も渚の夢でしたー的なあつかい?
わりと常識で許容範囲。
それでも、まー、わかんなーいって言うブロガーも多かったんで、クラナドはやっぱり変な話なんだよなあ。あははは。
でも、一応原作ファン向けにもなんとかアフターストーリーで出てきたっぽい要素を人気に応じてハメこんではいたよね。
坂上智代藤林杏藤林椋春原芽衣を一気に片付けたのは素晴らしい構成能力だ。ヒロインたちがそれを踏まえて友人になったのもまあ、いいかな。と。
(ハーレムものとしては嫉妬がうすいのはファンタジー臭いが、まあ、岡崎とことみがボンクラだったのでよかったのか)
そんで、まー、「よかったね」っていう話にもなった。段取りはちゃんとしてたと思う。
うん。よかったんじゃない?


でも、劇メーション(意図的に意味違い)としては出崎統の劇場版アニメーションの方がわけのわからない求心力は在ったし、岡崎朋也の告白シーンも打ち上げとか日直とかの段取りイベントのない、劇場版の「劇はじまる→惚れる。劇終わる→抱きしめて告白」と言う方が欲情にまみれた男として共感できたなあ。
劇の盛り上がりと、部活動の共同作業の盛り上がりと、幻想世界の因縁の盛り上がりと、若い男女の情愛の盛り上がりが一気に共振したような。
あそこはマジで感動した。やっぱ、告白は勢いだよ。速力が武器だ。
私見ですがね。


オイディプス王とかで罪の意識をひつこく強調するよりは、いきなり出てくる前の古河秋生に溜めが欲しかったが、ライトファンのアニメファン向けなので、父親視点よりは子ども視点優先か。判断の問題。


っていうか、原作ファンは何故、そんなに幻想世界が好きなのか。それがわからん。
いや、僕の友人にもかなりの鍵っ子がいるが、彼はそんなに幻想設定がどうこううるさく言う男ではなく、むしろ出崎映画の熱さが好きと言う男だが。あと、ガンバが好きな男だが。
だから、鍵厨の全てが設定マニアとは言わないのだが。
でも、俺はゲームをやったときは、「街」とか「幻想世界」とか「輪廻転生」とか言うのはとりあえず個別の恋愛シミュレーションに一本の縦筋を通すための方便に近い物かなーって思って、半分無視してた。
翼人伝説もわりとどうでも・・・。
でも、原作ファンはオカルトな部分が好きなのかなあ?
やっぱり、現実には救いがないと思っているオタクにとっては、オカルトのような存在し得ない救いしか、救いとしか認識できないのか。


クラナドのゲームをやってておもったのは、っていうか、美少女ゲームとかで流行っているのをものすごく浅くさらって思うのは、なんというか、ユーザーの無力感をゲームの中で慰撫して万能感に換えるシステムが魅力なんだろーなーって思う。
ほら、古河渚が死ぬじゃないですか。
でも、オカルトなゲームを進めてがんばって行くと、ドラゴンボールが集まって生き返るねん。ユーザー頑張った!
岡崎朋也とか春原陽平の挫折とかもそーいう無力感を共感に変える作用だよね。
まー、僕もそう言う無力感は在るから、結構それは泣けたりするんだけども。
イチイチ女に言う事じゃねーヨ。
京アニクラナドではバスケットボール編の方がすっきりした印象。
朋也の物語はあそこで完結して、渚のナイトに徹した方がかっこいいんだが、そこは変えられなかったか。
というか、美少女アニメにおいて男主人公がイケメンすぎたら感情移入できなくなるからな。モテてるけど、気付かないとか。告白しても、二人が幸せになったら「渚はオレの嫁」という層の反発を受けるしな。
岡崎は良い奴だと思うけど。俺は。


まあ、俺は二次元美少女よりは脳内妹がいるんで、二次元の美少女にたいしては三次元の女性と同じく、結構引いた目線でいるから、余裕をこいてるのかもしれないが。
(というか、三次元女性の性器って、自分の物と雰囲気的にあまり変わりませんね。欲情しない。脳内妹はもう、極限までの女性概念だからなあ。エロ過ぎる。)
っていうか、基底現実と脳内世界を行き来する脳内恋愛人間として言うと、二つの世界をまたにかけても、ダメな奴はダメだよ。
だから、俺は脳内妹に毎日お尻を叩かれているし、毎晩お尻を叩いてるんだよ。うひひ。


と、考えると出崎版蔵等の方が酷い話だよな。無力感を突き詰めている。
「無気力→彼女ゲット→幸せ→この幸せは彼女の力で俺は無力→彼女死亡→俺無力→オヤジ土下座→ロックンローラー緑川光→合宿→彼岸の桜→エンド→だんごだんごだんごごんた」
さすが、出崎統は「サビシイ奴等のために作りました」って言うだけの事はあるジジイだ。ロックンローラーだ。樹木希林の旦那だ。


つーか、考察厨涙目だろうなー。
そこら辺はDVD補完ですかね?AIRのsummer編出ましたしね。
でも、22話かー。
うーん。
やっぱり、時代は泣きゲーよりも日常アニメ?

京アニは空気を読んだ。


ゾリオン野球楽しみです。