玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q 15年ぶりに僕たちのエヴァが帰ってきた!

上映後、観客が口々に「庵野やっちゃったね」「庵野殺したい」「庵野殺す」って言ってた。これだよ!この殺伐とした空気こそ僕たちのエヴァだよ!


僕は今でこそ富野ファンだけど、放送当時中学2年生で碇シンジ君と同じ年齢で、エヴァにて付き合ってきたオタクだ。
20代ではパチンコはあまりやらず、ブロガーとしてエヴァンゲリオンを見直したりして、
エヴァンゲリオン感想目次 - 玖足手帖-アニメ&創作-
ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破ではブロガーとしてたくさんのはてブを頂いたりもした。
そういうエヴァファンの中高生部門の中核を担ってきた自覚はある。


でもヱヴァンゲリヲン新劇場版は序、破、で「普通のエンターテインメントになってしまった」という声も聞かれ、私自身、金曜ロードショーヱヴァンゲリヲン新劇場版 序、ヱヴァンゲリヲン新劇場版 破を見て「絵は綺麗になったけど、台詞の尖ったプログレッシブっぽいセンスは90年代に比べると鈍ったな」と思って、ちょっと醒めた部分も出てきた。ヱヴァ破のシンジさんがゼロ年代ラノベアニメ主人公のような、わかりやすく健全な主人公してて、「あー、やっぱり俺も三十路だし、若い10代のファンがエヴァのメインになりつつあるし、もう俺は良いかなー」って。


そんな私だから、今回のヱヴァンゲリヲン Qは「昔好きだった人が違う路線になって、昔の名前で出ています、っていう舞台を客席の隅っこで見よう」という、あんまり楽しみにしてなかったけど、「中学生の頃の思い出の義理があるから、まあ見るだけ見るか」という気分だった。


その程度の低いモチベーションで行ったのだが、そこに有ったのは「14年ぶりに帰ってきたエヴァンゲリオン」だった。
庵野やっちゃったね」「庵野殺したい」「庵野殺す」
そうだよ、これだよ!
このわけのわからない、この自家パロディ、このめんどくささ、このヘンテコSF、このコミュ障、このモヤモヤ感、これがエヴァーだ!


暴力的な戦闘アニメーションと、意味不明な絵や、意味はあるんだろうけどたくさん書きこみすぎて理解できないカットに振り回されたんだけども、それも含めて「ああ、俺は今、エヴァンゲリオンを見ている!」と若返った気分を味わえた。久しぶりに「ぼくたちのエヴァまつり」が蘇った。「東映」のロゴも自覚的だったし。東映まんがまつりだよ!


以下、ネタバレ











  • ハッキリ言って、登場人物がクズです!

序、破、までのコミュニケーションをやっていこうと言う態度がいきなりなくなりました。

旧作と比べると、ミサトがシンジを説教したりシンジに憤慨する時のニュアンス・態度が微妙に変化している点に注意。ミサトはシンジをビンタせず、シンジがいない時に壁を殴った。確かにミサトは命令をする立場だが、“大人から命令される立場であり、自己承認に飢えた心的傾向を持っているシンジ”に対して旧作よりは理解ある態度・共感的な態度をとっている。
新劇場版ヱヴァから、シンジの未来を想像する(ネタバレ注意!) - シロクマの屑籠

これがいきなり、全然シンジとコミュニケーションしない、葛城艦長になってて。コミュニケーション以前に最低限の情報共有も情報開示も指示も出来てない。
葛城ミサトさん、酷くなってましたねー。
謎の存在になってしまった碇シンジというキーマンに対して「何もしないで」ってしか言ってない。
多分加持さんが死んだからだと思うんだけど。どうなんですかね。
でも、だからと言って、やっぱりヴィレは本当に組織としてクズです。SFアニメとして、格好は良いんだけど。
しかしながら、旧盤のネルフもクズ組織だったので、「俺たちのクズが帰って来た!」という喜びもあります。やっぱり、上手くシンジとコミュニケーションを取れるミサトさんより自分の勝手な都合やトラウマをシンジ君に押し付けて、プライベートな恨みと戦闘指揮を混同して、わけがわからない事になってるミサトさんの方がミサトさんだ!って思う。


あと、クズとしては、ストーリー構成、世界観もクズです。
ヴィレとかネルフはあの日常経済がなさそうな世界で、どうやって衣食住をまかなって、軍事行動をやってるのか、どこから資金や労働力や資材が出てるのか、全く謎です。序のヤシマ作戦が割とそこら辺のリアルさを描いて、地に足の着いた世界観なのかと思わせてたので、落差が大きいです。




まあ、死んじゃった人々の残したものをツギハギしてるんだろうなー、っていうのはシンジ君が着ていた服などから類推できるんだけど、それはそれで露悪的で気持ち悪いです。
SFとしても、物語の時間軸、映画の中の時間経過の描き方としても、すごく粗が多いです。
ロンギヌスの槍だろうがカシウスの槍だろうが、そんな用語がたくさん出てきても、理解できないし理解するつもりも、理解するために支払う労力もありませんし、映画としても理解させる気分がなさそうな感じで情報を詰め込みまくりです。
ミサトさんも鈴原サクラも渚カヲル君も冬月もアヤナミ式波・アスカ・ラングレーも世界観の断片を不完全に言うだけで、碇シンジや観客に理解させようという意欲が無いです。


でも、それがエヴァンゲリオンなんだよ!


TV版の新世紀エヴァンゲリオンも1話の戦闘機の描き方とか、すごくリアルだったし、「空も飛べない」「電源ケーブルで動く」という「地に足の着いたリアルロボットアニメ」として、描いていた。そこから終盤の宗教的な雰囲気に突き落とされ、わけのわからない精神的問題にこだわって登場人物がわけがわからなくなって、制作状況もひっ迫し、アニメーションとしても破たんした。
それでもファンの熱意と制作側の思惑もあり、映画でもう一度リアルな、精神世界ではない、キチンとしたエンディングをやろうとした。でも、やっぱり気持ち悪いエンディングになった。


この落差!
この高低差を感じる時、「ああ、俺はエヴァンゲリオンを見てるなー」って思います。


まどか☆マギカとか、あと、ヱヴァンゲリヲン:破とか、説明台詞が分かりやすく多くて「台詞にセンスがねえなー」「ストーリーや設定を説明消化するための台詞や展開が多くて、ドラマとして活きてないなー」って思う所があった。
でも、「まー、”最近のアニメ”ってのはここまで説明しないといけないのかなー」「パチンコからは言ったらいと名エヴァファンもいるし、”最近のファン”に向けてやるには、こういうエヴァの台詞、演出になるのかなー」って思ってもいた。


だがしかし


新しく入ったファンも昔からのエヴァファンも、特撮ファンも、トップをねらえ!ファンもふしぎの海のナディアファンも、皆まとめて「興味を惹かせるだけ引いて、突き放す」という庵野秀明の露悪的な性格の悪さ、ぐちゃぐちゃにしてやるんだ!!!!という態度がすごかった。


これだよ、これがエヴァンゲリオンなんだよ、これはアニメではない、エヴァである!


アニメーションとしてのストーリーの構造とか、時間経過とか映像の原則とか、そういうのはどうでも良いんだよ!世界なんかどうでも良いって、前話でシンジさんも言ってただろ!アニメとしては破綻してるけど、エヴァンゲリオンとしては非常にエヴァンゲリオンだから、これはこれで良いんだよ!!!!!これがエヴァンゲリオンなんだよ!!!!!あああああ!あの時の感覚がみなぎってきたああああああああああっ!!!!
(まあ、俺も30歳になったし、平日は仕事だし、今日は2回目は行きませんでしたけど、9時まで寝た。)


やっぱ、こういうキチガイ、っぽい、プログレっぽい、ピンク・フロイドシド・バレットLSDをキメて発狂しながらも天才的発想を建築学の論理性で強引かつ精緻に構成した楽曲のような、キレてるのにデキが良いっていうすれすれの所を行くってのは、本当にエヴァンゲリオンらしさだなーって思った。


まあ、カヲル君が例によっていつも通りの死に方をするとか、シンジ君を例によって精神的に追い詰めるためとか、そういう理由で過去のエヴァンゲリオンをなぞる様な要素もあったりして、そのせいで「シナリオのために登場人物の行動が変になってる」っていう部分はすごくある。
結局、冬月はあの将棋によってシンジ君にヒトの温かみを伝えたかったのか、シンジ君に嫌な世界の情報を教えて補完計画に突き落とす道具にしたかったのか、よくわかんねーです。
シンジ君がエヴァンゲリオン13号機でやった行動も、動機とか目的も分からないし、カヲル君はもっと上手くやれたっぽいのにああいう風になっちゃったのは作り手の作為を感じて、そこは気持ち悪いなーって思う。


それに対して、やっぱり見終わった後に観客の声に耳をすませば、劇場からは「渚カヲルはああいう風に扱うべきキャラじゃないし、あんなふうにした庵野は許せない」「庵野殺す」「庵野死すべし」という声がいくつか聞こえた。


でも、庵野秀明ってもともとそういう奴だったしなあ。
ナディアの頃からわけわからん事を叫んでたし。


エヴァ、新旧のファンの違いについて庵野インタビュー(don't be) - 玖足手帖-アニメ&創作-
↑で、庵野秀明朝日新聞のインタビューでファンを批判した事を紹介したが。

僕が「娯楽」としてつくったものを、その域を越えて「依存の対象」とする人が多かった。

そういう人々を増長させたことに、責任をとりたかったんです。

作品自体を娯楽の域に戻したかった。

ただ、今はそれ(現実逃避するオタクへの批判)をテーマにするのは引っ込めています。

そういう人々は言っても変わらない。やっても仕方ないことが、よく分かりました。

新作のファンは旧作のファンと質が違う。どう違うかは言えませんが。
庵野秀明「娯楽の域をこえてエヴァに依存するオタクには、もう何を言っても無駄な事が分かった」 : 2のまとめR

庵野はおたくなので、おたくへの同族嫌悪がすごい。

貞本義行少年エースエヴァンゲリオンの1巻の庵野インタビューを引用しよう。

シンジは、他人との接触をこわがっています。

自分はいらない人間なんだと一方的に思い込み、かといって自殺もできない、臆病な少年です。

ミサトは、他人との接触を可能な限り軽くしています。

二人とも、傷つくことが極端にこわいのです。

二人とも、いわゆる、物語の主人公としては積極さに欠け、不適当だと思われます。

だが、あえて彼らを主人公としました。

「生きていくことは、変化していくことだ」と云われます。

私はこの物語が終局を迎えた時、世界も、彼らも、変わって欲しい、という願いを込めて、この作品を始めました。

それが、私の正直な『気分』だったからです。

そして、シンジとミサトは互いに同族嫌悪を繰り返す関係だった。
(この点では最近、さめパさんが詳しい
『エヴァ』テレビ版感想:12話 なぜミサトは苛立っていたのか - さめたパスタとぬるいコーラ )

庵野秀明的にはそういうオタクどもの増長がしんどかった。

なんでか。

シンジが「僕はここにいていいんだ」と言うに至る物語は、同時に庵野秀明が「庵野秀明ここにあり」と言う気分を込めたフィルムだったからだ。すごく個人的なものだったんだね。最初は。

『新世紀 エヴァンゲリオン』には、4年間壊れたまま何もできなかった自分の、全てが込められています。

新世紀エヴァンゲリオン (1) (カドカワコミックス・エース)

新世紀エヴァンゲリオン (1) (カドカワコミックス・エース)

少年エース版1巻、庵野秀明

それをオタクが「庵野がオタクはここにいていいんだと言ってくれた!」と感じて、庵野に依存した。
庵野は「僕がここにいるんだ!」と言う側にいたかったのに、
信者から「庵野さんは僕らにいていいって言ってくれる」って言われてしまう側に立たされてしまって、
庵野さん的には「いや、それは話が違う。居ていいのは僕であってお前ではない」という気分に成って、劇場版EOEではああいう映画に成ってしまったのだ。


庵野秀明はすごく「自分が救われたいマン」だと思うんだけども。同時に「ウルトラ演出マン」でもあるので、「自分で自分を救おう」というオナニー作品が、アニメファンに「これは私を救ってくれるアニメだ!」っていう風に飛びつかれてしまった。
それで、庵野さんはしんどくなって「ええい!俺に依存するな!俺に依存していいのは俺だけだ!お前らは帰れ!!!」ってキレた。
んで、最近は「娯楽に戻します」って言ってたので、僕も「庵野さんも丸くなったなあ」「新劇場版はまっとうなエンターテインメントとして、今度こそ普通に仕上げるのかな?」って思ったし、「放送当時のファンではなく、新しい世代のファン、ライトオタクに向けた分かりやすい娯楽にしたてるのかな」って思った。
それはそれで、ちょっとさびしかったんだけど、それもアリかなーって思った。



そしたら、このQですよ。

「レイとシンジを取り込んだまま凍結されるエヴァ初号機。」
「廃棄される要塞都市。幽閉されるネルフ関係者。」
「ドグマへと投下されるエヴァ6号機。胎動するエヴァ8号機とそのパイロット。」
「ついに集う、運命を仕組まれた子供達。」
「果たして、生きる事を望む人々の物語は、どこへ続くのか?。」
「さぁ〜て。この次も。サービス、サービスゥ!。」
『次回 ヱヴァンゲリヲン新劇場版 Q Quickening』
嘘予告じゃん。
マリ、胎動してなかったじゃん!!!!普通にアスカの援護パイロットしてたじゃん!!!!!
運命を仕組まれた子供たち、集ってたのか?あのしっちゃかめっちゃかの戦闘で集ったと言えるのか?


いや、まあ、多分、失われた14年間の間にあったサードインパクトがそういう内容だったから、「この予告を聞いただけで分かれ!」「察しろ!」という庵野さんの気持ちなんだと思う。だから、それは「そうですね」って配慮してあげなくてはいかん。そうしなければこれは破綻するからだ。


あと、Qの予告が完全に嘘予告になったのは、東日本大震災の影響も多いかもしれない。
庵野秀明渚カヲルのモデルにしたほどのイケメンの幾原邦彦ですら、輪るピングドラム東日本大震災に影響されたと言ってた。津波描写などの自己規制もいろんなアニメでありましたからねー。おたくで、核実験とかの映像を見たりアニメにしたりするのが大好きな庵野さんにとって「犠牲者の気持ちに配慮しろ」って言われるのは不本意だったと思う。「うるせー!津波も爆発も原子力も人類の絶滅もアニメでは大して珍しくなんかねえんだ!全員死ね!」って気持ちもあったんじゃないかなー。
と、同時に「やっぱり全員殺しちゃうと自分も傷ついてしまう」という気分もあったと思う。
だから、サードインパクトの大災害は描かないけど、サードインパクトは起こった。
その代わり、大災害自体は描かないけど起こして、その後の滅んだ所を描く。そのために徹底的に滅ぼす!という意志を感じた。
旧作から、エヴァンゲリオンには「みんな死んじゃえ」ってハルマゲドンな気分があって、それは20世紀末のロストジェネレーションの気分でもあり、

さて、(id:p_shirokuma)さんといえばLASなんですけれども、あ、LASというのはラブラブアスカシンジの略なんですけれどもエヴァンゲリオンを語るには、まず、ノストラダムスの予言と、それ以前の70年代から続く高度経済成長を語らねばなりません。高度経済成長は、公害と、そして都市の郊外へのスプロールをひきおこしながら、しかし万人が豊かになり、ツケを将来に回ることによって、無限の未来を人に予感させる時代でした。そういう時代は何時か急に終わりを告げるのではないかという漠然とした不安が、ノストラダムスの大予言に代表される終末論をブームにしました。オウム真理教もその一派です。オウム事件エヴァンゲリオンのテレビ放映が同じ年なのも偶然ではないです。そういう70年代からの空気感が煮詰まって、決算前に蜂起したのがその95年〜99年だったんです。
完全自殺マニュアルと宮台さんの本は、同じそのどうしようもない現実に対応する若者の姿をとらえていて、そしてその適応を、「新しい時代に適応した進化」のように誉めそやしてる。

でも実際はそうじゃなかった。今から考えると、その可適応してる“透明な若者”は普通に病気です。病気でした。
ロスジェネ心理学を読んだよ - orangestarの日記

っていうロスジェネ心理学でもあり、
碇シンジ・アスカ・ミサトや庵野秀明の幼児期の見捨てられ体験から来るアダルトチルドレン的「自分を大事にできないから他人も大事にしない」という感覚である。
だから、シンジ君は「死にたい」と同時に「みんな死んじゃえ」っていう抑圧された怒りはある。破でも「父さんも大事な人を失えばいいんだ!」とか有った。
僕は加藤智大と同い年の精神疾患患者だからそこら辺は感じられるなあ。「自殺したいなら人を撒きこまずに死ね」って加藤事件の時に被害者の友人が言ってたけど、いや、「自殺したいからこそ、他人が死んでもどうでも良いんだよ」って思う。
まあ、今回のシンジ君は事件後の加藤のように「やっちゃったけど反省した」と言う風に悔いて「やり直せるならやりなおしたい」という境地。前回、「世界なんかどうでも良い!綾波を助ける!」って言い放ってやりきった後に、本当にどうでも良い状態になってしまった世界と、ダメになってしまった綾波を見て反省、賢者モードになってる。
ミサトさんもノリノリで「行きなさいシンジ君、誰のためでもない、自分自身の願いをかなえるために!」とかサードインパクトを推奨してたのに、いざインパクトが起こってしまえば賢者モードになって冷たく。
この「発射した後の身勝手な空しさ」という感覚はすごくエヴァンゲリオンらしいです。
「全員死ね!」って気分と「もう一度会いたいと思った」という気分の二律背反が同時存在してるのがスゴイエヴァ感。


ここら辺は東日本大震災以降の気分なのか、シンジ君の気分なのか、庵野さんの気分なのかよくわからんのだが、そういうのが入り混じってグダグダになってるのもエヴァらしいのかなあ、っていう了解の仕方はした。



そういうわけで、ファンの側も庵野さんや製作者側の微妙な壊れっぷりを察して、想いやってやらなくてはいけない。そういうめんどくささを強いられる作品がヱヴァQだった。
そのめんどくささと言う点においては、新作のライトなファンも旧作からのディープなファンも、等しく微妙な気持ちになるだろうが!!!!


むしろ、新作から入ったファンの方が落とされた衝撃はでかいんじゃないかなー。旧作からのファンは、庵野の落としっぷりには割と慣れてる所もあるし・・・。ほら、ナディアのドラマCDとか映画もかなりひどい落とし方をしたじゃないですか・・・。アレは本当に酷かった・・・。魔法学園LUNAR!は面白かったけど。





だから、これがエヴァなんだよ!
(追記:
序、破のエンタメ路線を否定するんじゃなくて、むしろ序、破のエンタメ路線もTVのバトルアクション編に相当する”客寄せパート”であり、そこで寄せた客を一気に突き落とす所も含めて、エヴァなんだよ!)


「最近のアニメでは、規制が強いし、ファンに受けるために描けない」とか
「このアニメはこういう内容にすべきと言うファンの気持ちに配慮しなければ」とか
「娯楽芸能なんだから、大衆に見せて恥ずかしくないものにしなければ」とか


そういうルールなんかどうでも良いんだよ!
エヴァエヴァなんだ!


と言う事を、ヱヴァ:破の初号機覚醒シーンよりも、Qの全体の狂った感じを通して、実感しました。
いやー、こういう元気さは良いと思います。
そして、「一生懸命精密な砂の城を作ったのに、それを自分で蹴りを入れてぶち壊しにする」っていうのもthe END OF EVANGELIONのあのシーンで感じた「やっちゃった感」であり、それ以前のテレビ版から何回もエヴァはやらかしてるので、「やっちゃった感」を楽しむのが好きなファンとしてはとても良かったと思います。
「やっちゃった後の虚無感」とか、そこら辺も良いなあ。男が射精した後の虚脱感。
「射精したけど何にもならなかったんだ」っていうあの独特のクソみたいな感覚。ヱヴァンゲリヲン新劇場版 Qのラストのシンジ君のあの脱力感、本当に分かるし、女のアスカには一生分かってもらえねーんだろーなー。っていう感覚もすごく良い。
やっぱエヴァはオナニーしてナンボ。

今回、シンジ君の周りでいろんな大事件や大戦闘が勃発したと言うのに、シンジ君は精神的には「綾波を助けたかったけど、助けられなかった」という所から一歩も動いてないのがすごかった。ここまで何にもしない主人公は珍しい。破で主人公をやりまくった余韻が抜けきってなくて、その時点で時が止まってる。
それが「14年後」という世界観の中で浮きまくってるシンジ君のクソガキぶりでさらに強調されてグレート。
サードインパクトをリセットするためにカヲルと一緒にロンギヌスの槍を抜きに行くのも、カヲルの情報やゲンドウのシナリオに流されているだけで、自分からは全然動いてない。で、カヲルに「やっぱりやめよう」って言われたのに自分からはやめようとしないで、勢いに任せた惰性のまま、頑固に行動しているように見えて、やっぱり何にも動かないまま、ダメになっていく所が実にシンジ君だ。
で、結局「周りの人に言われるままにやったし、僕は僕なりに頑張ったのに、何でクソみたいな結果しかないんだ!」っていじけて責任転嫁と同時に自己嫌悪で停止モードになる所が「あーシンジ君だ。俺はシンジ君を見ている」という懐かしい感覚に陥った。僕も気分変調症で人格障害パニック障害だから、ああいう風なメンヘラ状態になる事はよくある。だからこのクソ感覚はクソなんだけど共感できる。
普通、リメイクものとか、過去作品を美化するものだし、「綺麗なやり直し」にするような物だが、やっぱりシンジ君はこういうクソなのがシンジ君だ。
あと、『「綺麗なやり直し」をしようと言う行為自体がクソ』という、ループ物に対するアンチテーゼも打ち出してて、それも面白かった。最近ループ物が流行ってましたしねー。まあ、イデオンからして世界のループをやってるんだけど。
精神年齢の高くなったアスカが「やり直しなんか聞かねえんだよ、ガキ。このクソったれの世界でクソを垂れて行くしかねえんだ」「男ならあたしを助けてよ」みたいな事を云ってるのが、すごいロックでした。すごい現実を直視したうえで怒ってる感じでした。


でも、そんなアスカの言葉に耳を貸さず、14年前と同じ感覚で空回ってる所がシンジだし、「おれは現実なんか見ない!」「おれは俺の好きなことしかやらぬ!」というのがシンジ君らしい上に庵野らしい。
14年前と言えばエヴァンゲリオンリバイバルあたりでハッスルしてた高校1年生の僕だし、あの時のアニメばっかり見てた馬鹿だった青春を思い出せてよかった。あの頃から一歩も成長していない、僕のダメな部分を実感できて、うわーっ!僕はダメだ!ダメなんだーっ!っていう不快感と同時に、カタルシス。自分の嫌な部分をさらけ出して、「どうだ、俺ってこんなに糞だろう!でも、これが俺なんだよ!」って叫ぶのはメンヘラが良くやる行為で、本当に共感できますね!クソなんですけど気持ちいいんですよ、でも躁状態の後から気持ち悪くなって賢者モードになって鬱になって停止します。普通に双極性障害ですね。わかるわかる。
このシンジ君のクズっぷりはワビサビの境地だ。渋い。
この微妙な、「うわ、微妙」という気持ちがエヴァだよなあ。

  • あと、カヲル

渚カヲルエヴァ 以降の舞HiME等の設定喋り石田彰 キャラも取り込んで実にいい石田だった。アイドルマスター ゼノグラシアのカラスみたいに設定を言うだけ言って死ぬ所が実に石田だった。
渚カヲルはもっと上手く振る舞えばシンジを止めて死なずに済んだかもしれないのに、やっぱり死ぬのがカヲル君らしかった。そして、無駄に設定を言うだけ言って退場する所などが実に石田キャラだった。
これはある種の様式美。


近年のホモキャラを総括したようなホモでもあった。連弾とかなー。坂道のアポロンか。天体観測もホモ様式としてかなりレベルが高いですよねえ。うん。ホモは様式。
もちろん、将棋を差す冬月とシンジも3月のライオン的なロマンを感じた。ホモは伝統と格式。
そういうホモ感覚はアスカやマリにはわかってもらえねーんだろーなー。本を読まないアヤナミレイはアンポンタンでしたねー。





  • 母性から回避するヱヴァ

あ、式波アスカ・ラングレー大尉、生理ないんだ。へぇーっ!エヴァの呪いって究極のアンチエイジングですねぇーっ!!!
ほら、弐拾弐話の惣流・アスカ・ラングレーって生理痛とか、母になる女の体になる事で、自分の母親の惣流・キョウコ・ツェッペリンの魂を宿すエヴァ弐号機とのシンクロ率が下がったし、
女としての加持さんの取り合いからミサトとの家族ごっこが崩壊して、
加持さんが死んだ事をシンジから雑に告げられて失恋して、
使徒に母親とのトラウマをえぐられて精神崩壊した。


でも、ヱヴァQではアスカは14年間14歳の体のままだし、生理ないっぽい。
加持さんへの愛情はヱヴァ序、破を通じて存在しない。アスカのめんどくささが脱臭されてる。
弐号機が母親という要素も無くなってて、「どうして道具に心なんてあるのよ」という葛藤もなくなり、マリとアスカは普通に2号機を交換してる。まあ、ビーストモードをアスカの方が上手く操ってると言うのは、アスカらしくて本命ヒロインの面目躍如という嬉しさはあった。
だからマリとも性別を越えたパートナーシップが出来てる。
テレビ版のアスカは男子生徒にモテて、その男性からの視線に敏感で、自覚してて、それで大人のセックスをやりたがって、そういう女としての生存競争、生存戦略から女同士の関係にはすごく冷淡で、綾波ともミサトとも「女同士は分かり合えない」というギスギス感をやってた。
洞木ヒカリは良い子なんだけどモテ女というタイプでもないし、他の男子とくっつくので、アスカはヒカリにはライバル心を持ってなかったっぽい。だから仲良かったのかもしれないけど、拾九話でトウジがぶっ壊れた後にヒカリを心配するような女の友情は描かれなかったなあ。そこが庵野監督のセックス観らしいっちゃらしいんだけど。
で、新劇場版ではヒカリとアスカの関係はほとんどなくて、アスカはマリと傭兵コンビ。
マリはアスカに代わって加持との関係を持っていた少女だが、真希波・マリ・イラストリアス加持リョウジに対して恋愛感情はない。「自分の目的に大人を利用する」って言ってた。その目的も失われた14年で消化したかもしれん。


アスカと加持を取り合ったミサトも14年経ってそれなりに達観し、女盛りを過ぎ、セックスの要素が多少薄れた。あんなに碇司令べったりだった赤木リツコも碇を離れてミサトの副長に収まってる。パンフレットで山口由里子さんは「リツコは女を捨てられない人」って言ってたけど、髪を切った事でのモードチェンジもあったし、加齢もあったし、ゲンドウへの言動が無くて恋心が薄れてる感じがした。


つまり、アスカとマリは生理が無い14歳のままで、ミサトとリツコは四十路で、一番色恋に熱中する妊娠適齢期のキャラがいないわけですよ。ヒカリは死んでる。
まあ、40代以降の女性の林真理子的性愛をエヴァンゲリオンで描かれたら、また赤木ナオコばあさんの再来として非常に気まずくなりそうで、それはそれで良いんだが、今のところ、それは無かった。


妊娠適齢期のメスであるキャラは脇役には居るんだけど、脇役の鈴原サクラ役の沢城みゆきは、近年の沢城みゆきには珍しい沢城みゆきだったなー、っていう面白さはあるけど、ノーチラス号の船員くらいのポジションだし脇役だし、あんまり色恋沙汰に発展しそうな気配はない。
レズの24歳から30代後半になった伊吹マヤ嬢は「これだから若い男は!」と言った一言で恋愛から遠ざかりましたね。


そして、旧作のエヴァンゲリオンで最強にして最狂の母性を発揮し、世界中の生命を自分の身に宿す生命の種、全人類の母親として宇宙に旅立ったエヴァンゲリオン初号機こと碇ユイの母性が今回、少ない。
碇ユイが旧姓綾波ユイで、綾波シリーズだったという名字変更で、綾波要素を強めて母性が減ってる。
初号機とシンジの絡みは今回すごく少なかったし。
大人しくエンジンなんかしてるような人じゃないんですけどねえ、ユイさんって。まあ、ユイさんは出たら世界を崩壊させるので、それは最終回のシン・エヴァンゲリオン劇場版に持ち越しなんだろうけど。
でも、Qはテレビ版拾九話の続きなので、弐拾話をやるとしたら、母親に取り込まれたシンジのサルベージという糞めんどくさくて恥ずかしい母親との気まずい関係を描くものになりそうなものを、弐拾話をやらなくて一気に弐拾四話のカヲシンホモエピソードまで飛びましたからね。
破で綾波レイを通じてゲンドウにテレパシーを飛ばした碇ユイと言う女、母親は今回沈黙していて、どうなることやら。


2号機、8号機も「母親を宿している」という要素が無く、13号機は母親要素がないどころかホモだし。
欠番機体は普通にヴィレとNERVの戦闘で壊れたんだろうけど。Mark.6は月面のもう一つのリリス(アダム)を使っての自律型機体で、やっぱり母親要素は薄い。


母親とのめんどくさい関係を旧版からのエヴァンゲリオンに比べて、かなり意図的に回避していると思う14年だ。
母親とのめんどくささは、やっぱりブレンパワードの方がうまく描いていたと思う。


母親との関係でアスカやリツコや、現実のいろんな女性がメンヘラになってるし、加藤智大世代のキレるチルドレンたちも母親に取り込まれたひ弱な男性なんだが、今回のQは母性のディストピアを回避しましたね。その代わり地球は滅ぼして釣り合いは取りましたけど。
シンでどうなりますかね。おかん。ほんと、おかんはロボットアニメの天敵ですよ。オカンが出てきた途端にドラえもんのび太の冒険もオカンに怒られて終わるし、ポケットモンスタールギア爆誕もオカンに説教されて終わりますし。オカンはマジやばい。エヴァンゲリオンとかこういうオナニーしてる所をオカンに見つかったら本と気まずいし、おかんはキレるし、最悪。オカン要素はマジでヤバい。


みやむーが母親になって強くなった、っていう事がパンフレットで宮村優子に対する緒方恵美の言葉で語られてて、「女性が強い」って書いてあるけど、「母の強さ」とか「やがて母になるであろう少女の強さ」は感じられなくて、アスカ大尉の強さや葛城大佐の強さは「母は強し」とはまた違った強さだと思う。母性に繋がる少女という点ではやっぱりブレンパワードの宇都宮比瑪の方がそうだ。
ラストのアスカの「またあたしを助けてくれないの」って言うのは、まあ、アスカに蹴られると言う事は「ありがとうございます!」って感じで魅力を感じたが、式波大尉は生理が無いので「安全にセックスできるお姫様」という微妙なキャラクターだ。
まあ、「セーフセックスできる二次元キャラ」はアスカの魅力ではあるし、アニメキャラの持ち味だし、女性だって生理が無くて肌が若いままで、しかも腕力は男以上ってのは理想に感じると思う。だからそれは良いとは思うんだけど。


でも、母との関係をこじらせて、生理痛でイライラしてメンヘラになって、「子供なんか、絶対要らないのに!」ってトイレでキレたり風呂場でキレるのもアスカのアスカとしてのかなりでかい要素だったと思う。女の子の生理は大事。
今回、それを無くして、強制的にアスカを強くしちゃった事の落とし前をシン・エヴァンゲリオン劇場版でどうつけるか、注目です。


  • まとめ

男はオナニーorホモ
女は生理なしor閉経
これがヱヴァQだ。
虚構の虐殺やバトルはあっても、巧妙にセックスを回避した安全に痛い二次元アニメーション。
実にエヴァンゲリオンらしいじゃないか。


さて、弐拾話の加持とミサトのセックスが無くなったので、最終回こそセックスできるのかというのが鍵になると思います。
このままオナニーで終わるのか、サービスサービス!



  • ここまで4時間も28キロバイトも記事を書いて来て説得力無いけど

庵野さんと言う他人達が作った作品に対して「あーだこーだ」「どうして俺の理想を作ってくれないんだ」って起こるのはさすがに30代にもなったらみっともないと思うので、僕も小島アジコさんには及びませんが自分の小説を書こうと思いますし、艦隊戦の描写などはヱヴァQからパクって行きたいと思います。
他山の石としたい。


やはり、決着は自分の手で着けなくては。


  • 追記

ゲンドウについて
うっかり書き忘れたが、ユイに会いたいだけで他人を怖がっていた旧ゲンドウから「リリンの王」として第一使徒と第壱拾参使徒とゼーレを殲滅した碇ゲンドウの父性が強まってます。母性の描写は弱まってるけど逆に父は強く。
さて、次回どうなるか。
企画段階で「父親を描くんだ!」と言って母性の描写の方が大きくなって失敗したのがTV版の庵野さんだが、今度こそ父親を描けるのか?

  • さらに追記

アヤナミレイについて
3人目の異物感は旧よりQの方が上手く描けていて、課題を消化した感じはある。その分、アヤナミレイの万物の母=リリスとしての母性が無くなり、「空っぽのアンポンタン・ポカン」になってしまったのは、今後を見守りたい。