玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

当サイトはGoogleアドセンス、グーグルアナリティクス、Amazonアソシエイトを利用しています

宇崎ちゃんフェミに汚染された資本主義でGレコはいいの?

  • 王様が裸でいいのか?

 というタイトルにしようと思ったけど、これはハイコンテクストすぎるので辞めた。

  • あらすじ

 これは肺炎が治りかけで、本来やるべきGのレコンギスタのための行動を大してしていない(でも頑張って故障したAndroidからiPhoneに移行する作業などをした)最近の僕の雑感なのだが。
 内容としては
・宇崎ちゃん献血ポスター騒動の観察
・女に笑われるのが嫌い
・女の笑い声を利用するテレビが嫌い
・女子どもの意見は果たして正しいのか
・女子供に対して世直しを行わんとするGのレコンギスタ富野由悠季監督の行動はあまりに高邁すぎるのではないか(市井の意見も参考にして)


 の5段でお送りしたいと思います。病気の間にGレコの終盤5話を見返しておくべきだったんですが、意外としんどくてですね。というかデレステで大槻唯と横山千佳をスタラン15にしてやっと三属性でスタラン15を揃えたというか、ゲームばかりやっておりました…。
 その言い訳というわけでもないんですが、世相の空気とGレコを絡めるような雑語りをさらっとやってみたいかと。

  • 宇崎ちゃん献血ポスター騒動の観察

 献血を呼びかけるポスターに萬画の「宇崎ちゃんは遊びたい!」のキャラクターが起用されて問題になったそうだ。


日本赤十字社と漫画「宇崎ちゃんは遊びたい!」がコラボレーションした献血キャンペーンで登場するキャラクターなどをめぐり、ネット上では議論が巻き起こっている。


登場する胸の大きい女性キャラクターをめぐり、ネット上では、「公共的な団体が掲示する内容ではない」「日本赤十字社が『胸の大きすぎるアニメ絵』を広報に使用する必要はない」と言った批判の声や、「若者に献血に来て欲しいから、若者に人気のコミックのキャラクターを使ったポスターを作ったってだけの話じゃないのかな」という声が上がっていた。

ツイッターでは他にも、

「公共空間で環境型セクハラしてるようなもの」
「女性をモノ扱いしていると見なされかねない」
日本赤十字社が『胸の大きすぎるアニメ絵』を広報に使用する必要はない」
などの声が相次ぐ一方、


「若者に献血に来て欲しいから、若者に人気のコミックのキャラクターを使ったポスターを作ったってだけの話じゃないのかな」
「イラストは露出もないしとくにいやらしさを感じない(中略)若者の献血が増えるのであればWinだと思います」
など、キャンペーンの内容に理解を示そうとする声もあった。
www.j-cast.com


 まあ、精神の薬漬けで献血できない僕としては献血は関係ない。(KLabで過労になるまでは18歳から毎年献血するくらい真面目だったんですが)事故で血を貰う可能性はあるのだが。
献血ポスターは「胸が大きいからセクハラ」ではなく、「胸の大きいキャラを性的に愛好してるオタクのキモい姿を想像して不快極まりないのでセクハラ」という考察 - Togetter


 僕は宇崎ちゃんはそんなに好きなタイプではないので、どうでもいいのだが。
 今回の記事にあたって、この事件の要素を抽出するとしたら
Twitterは議論に向いていない」
Twitterで議論が起こっているように見えてもそれは個人のつぶやきとRTによる反響にすぎない」
「議論ではなくみんなが自分のポジショントークをしているだけ」
「そのポジショントークも、特に熟考されたものではなく、素朴な感覚で反射に過ぎず、思考ですらない」
 フェミニズムの観点からすると、
「女性が性的に眼差されているという不快感の苛立ちを反射的に二次元やオタクにぶつけているだけではないか」
「オタクの方も女性に気持ち悪がられている不快感を反射的にフェミニスト嫌悪に転換しているだけではないか」


 そして、別の観点から言わせてもらうと。
「僕は女に笑われるのが嫌いだ」
「だから宇崎ちゃんはウザい」


 僕は長文を書く癖があるので、宇崎ちゃん騒動についてはこのへんで済ます。
 しかし、議論に向いていないTwitterであれこれと関連した個人的なつぶやきが多いからと言って「ネットで議論が巻き起こっている」と書いてしまう新聞記者っていうのもどうなんだろうな…。まあ、新聞記者っていうのも毎日記事を埋めないといけないのでネタに成ればなんでも議論だと言っちゃうんだろう。


 僕の意見としては病気で献血に行けない事情があるのに、「注射が怖いんスカ」って言ってくる宇崎のデリカシーの無さは本当にうざいと思うけど、非実在青少年の女を殴るのはみっともないので黙っている。と言う立場。

  • 女の笑い声を利用するテレビが嫌い

 テレビには女が出てくる。
 ニュース番組やワイドショーやトーク番組では大抵、メインキャスターではなくアシスタントとして、女性キャスターや女性タレントがおり、彼女らの表情で番組の空気を作っている。具体的に女性アシスタントが笑っていると楽しい内容であるというサイン、沈痛な表情だと悲しい事件だというサイン、と言った具合である。
 また、顔の出ない笑い女というのもいる。顔の出ない笑い女は顔を出さないし何者かわからないのだが、テレビ画面の中でタレントや芸人が失敗したりふざけたりすると、一緒に笑う。あと、過剰に人の動作を笑い者にするために、「ピョン」とか「ひょい」みたいな効果音が同時に付け足されることも多い。
 また、笑い女はイケメンが登場すると「キャー」と言ったり、スポーツ漫画成功すると「ワーッ!」と言ったり、クイズで驚きの結果が示されると「えーっ!」と叫んだりする。
 鬱病精神障害者の僕は映画の『JOKER』のアーサーと同じく笑いのツボがずれているので、そういうふうに笑いの空気を持っていくシステムに乗れない。笑い女が笑っているから楽しい雰囲気なのだ、だから自分も笑うのだというふうな、大抵のテレビ視聴者が反射的に行っている感情動作ができないのだ。
 (というか、母親が自殺する直前に、母親と祖母が口論しているのに父親と弟がテレビに夢中になって背を向けているのを、メタ的に見ていたので、テレビのある食卓というものに対して、機龍警察のライザ・ラードナーのような感情を持っている)
機龍警察 自爆条項  (ハヤカワ・ミステリワールド)


 僕が手帳が発行されるレベルの鬱病だからだろうか?芸能人がスポーツを珍妙にアレンジしたようなゲームで世界的スポーツ選手と競技して、その結果がどうなろうと全く楽しくもないし驚きもない。球っころが移動しているなあ、くらいの感慨である。お笑い芸人が大食いを完食できようが、その結果金をもらったり支払ったりしようが全く関係ない。
 NHKの景色を淡々と空撮している番組を見ている方がよほど興味深いし綺麗だと思う。


 このテレビ演出で感情を操作されるというか、人間がどのようにテレビを見ているのか、ということについては以前書いた。

nuryouguda.hatenablog.com
 また、ワイドショーで非常に重用される演出としての「コメンテーターたちの顔のワイプの表情」も、どのように事件に対して表情や感情を持つべきかと言うことを視聴者に暗示する「方向付け、ルール」の作用を持っている。
 笑うべきか、怒るべきか。
 その程度の判断も愚民は自分ではできない。教えられて人の真似をするだけ、と言うのが大衆である貴様たちなのである。

生きるとは、この世でいちばん稀なことだ。たいていの人は、ただ存在しているだけである。
To live is the rarest thing in the world. Most people exist, that is all.


ほとんどの人々は他の人々である。彼らの思考は誰かの意見、彼らの人生は模倣、そして彼らの情熱は引用である。
Most people are other people. Their thoughts are someone else’s opinions, their lives a mimicry, their passions a quotation.

オスカー・ワイルド
(19世紀イギリスの劇作家・小説家、1854~1900)

オスカー・ワイルド全集〈5〉 (1981年)

  • 例の一つ ランキング格付け番組

 プレバトという番組がある。俺は嫌いだ。しかし自殺してない方の親は好んで見ている。
 これ以外にもクイズ形式だったり、食レポだったり、芸能人に格付けをする番組は多い。先日行われた全ガンダム大投票ランキングもそうである。
 私のように大局を見る人間にはランキングの序列などは大して問題ではないのだが、ヒエラルキーの顔色をうかがう愚民には重要事項のようだ。


 で、ここで僕が指摘しておきたいのは、他人を嘲笑する愚民の心理では”ない”。


 重要なのはこのショーの演出において、レイヤーが分断されていることである。これは他の多くのテレビバラエティーにも言えることである。


 ひな壇に奴隷品評会のようにならべられたタレントたちがランキングされる。それぞれが必死に自己アピールする。それにタレントの中でも才能があると言われている上位の名人とかが文句を言って場を笑わせる。
 司会者のダウンタウン浜田雅功がタレントが作った俳句についてあれこれ言って笑わせる。女性アシスタントは華を添えるための置物に過ぎない。そして採点する時に浜田は叫ぶ。
 「せんせぇーーー!」
 そこで、俳句の先生が出てくる。
 俳句の先生は別のスタジオの部屋にいて、先生を呼べるのは司会者であり同時に道化である浜田雅功だけなのである。俳句の生徒と先生は分断されているのである。
 江戸時代の句会のように、サークルのメンバーが平等に同じ部屋にいて作品を見せ合い、顔を突き合わせて意見交換して俳句や技を磨くのとは違うのである。レイヤーが断絶しているのである。
 そして毒舌先生は安全な別室から毒舌の寸評を言い、才能がないと言われた人の顔のリアクションがワイプで映って視聴者を嗤わせる。
 また、その嗤いを盛り上げるために、声優の銀河万丈がそれっぽい声を出して俳句の先生の理論の正しさや、失敗した人の愚かさを声色で表現する。こうして、ナレーションで雰囲気に方向性をつける演出がなされる。このナレーションも、声優であるのでレイヤーが違う。タレントとしての銀河万丈が直接相手に言うのではないのだ。声だけの存在が先生の理論を補強するパーツとして行使される。バンキシャ大塚芳忠食レポ番組の水樹奈々も同様の役割を果たしている。
 で、タレントのリアクションを笑うスタジオの仕込みの女性スタッフたちもまた、声だけの透明な存在である。しかし、笑いものにする雰囲気を作るためにはそういうソープドラマの感性が必要なのである。これもまた、テレビ時代のレイヤー構造であろう。
(※参照・少女革命ウテナの影絵少女)


 (2019年9月5日追記)
 そして、テレビの中でもレイヤーが分かれているが、更にテレビ画面で分断されている視聴者は安全なところから強い梅沢富美男みたいな芸能人の暴言も、弱いアイドルの失言も笑う。パトレイバー内海課長が言ったとおりである。

 テレビというものは現実に存在する視聴者と演者の間に一つレイヤーの薄い壁というか膜を作っている。
 そのテレビの中でもレイヤーが分かれて、役割を演じるタレント、解説する声優、雰囲気を作る笑い女、などが重層的に構成されてテレビ番組を作っている。そして、それを視聴者は「テレビ」というグループレイヤーとして認識して、自分に対するものではない、という安心感を持って笑いものにしたりする。普通、目の前の人間を笑い者にしたりするのは危険だしやらない、という人が多いと思うのだが、テレビは隔てられているので笑える。


 ちなみに、これはいじめや煽り運転援助交際スマホドライブレコーダーやハメ撮りカメラで記録する行為にも共通している。スマホドライブレコーダーやカメラといったレイヤー区分で現実感が薄められて危機意識が減衰するのである。その結果、激辛カレーを目に入れられる教師の動画がテレビで放送されたり、自撮り棒に注目しながら崖から落ちたり、xvideoに投稿されたりするのである。


 まあ、テレビ批判がメインの文章でもないのだが。
 僕は女に笑われるのが嫌いだが、同時に女たちが人を笑っているからと言って、一緒になって笑いものにするような人間にはなりたくないと思っている。
 同僚がいじめをして笑っているからと言って、自分も笑う側になりたいとは思わない。そういう下卑た人間にはなりたくないのだ。
 しかし、こういうパターンで制作されている地上波テレビ番組が多いということは、僕のように鬱病のくせにプライドが高い潔癖人間よりも、空気を読んで反射的に周りに合わせてヘラヘラする人間が多いということなのだろう。殆どの人は思考ではなく反射で生きている。


 まあ、僕がうつ病で自殺遺族で(薬のせいもあるのだが)太っているオタクで子ども部屋おじさんで笑われる側であり、人を笑う女を敵として認識して反射的に嫌っているだけかもしれんのだが。

  • 女子どもの意見は果たして正しいのか

 宇崎ちゃんポスターやその他の萌え絵を批判するフェミニストの意見お気持ち表明をTwitterでいくつか見た。
 男性から性的に見られたり痴漢にあったりするリスクがある女性は日頃からストレスを抱えているだろう、と、まあ、他人事ながら、それは分かる。しかし、その生理的ストレスから来る反射的な「男性の性欲」や「萌え絵」への嫌悪感の感情と、献血ポスターにふさわしいかどうかなどの政治的判断を混同している女性が多いと感じた。


 反射的感情は女性でなくても男性にもある。
 テレビで街頭インタビューや客席の一般女性が言うことがなんとなく正しい、と思って見る男性は多い。若くて健康で数の多いメスは価値がある。価値のあるメスには好意的印象を、おじさんは持つ。なので、おじさんもそういう一般女性の意見が正しいとなんとなく思ってしまう。メスが持っている生殖的価値と、意見の正しさとは本来別なのだが、人間の脳は好意(あるいは敵意)を持っている相手の意見の価値を重視(あるいは敵視)するようにできている。これは有性生殖が動物としての人生のメインコンテンツだった時代からの名残なので仕方がないのですが。
 少なくとも、テレビで一般の意見として取り上げられるのは若い女性である場合が多い。(経済や政治の場合は逆に一般人のおじさんがインタビューされることが多い)そういうふうにテレビが印象を利用して作られているということは、見れば分かる。


 裸の王様に対して、子どもが真実をつく、というお話があった。
 しかし、子どもは反射的に感想を述べただけであり、思考ではない。そのお話はそういう寓意を持って構成されているので、それを真実として扱う流れになっているが、現実はそうではない。
 そうではない、というのは「率直な感想を述べるのは良くない」という意味ではない。率直な感想は誰にでも反射的に発生するし、それを規制するのは横暴であろう。
 ただ、「率直な素朴な意見、反射的な印象による感情の全てが真実ではない」という程度のことです。
 また、素朴な意見や反射的な感情の一例としては、愛国心とか、敵国蔑視とか、売上至上主義とか、短期的なエコロジー活動とか、自分と違う身分に対する嫉妬や侮蔑などです。


 しかし、TwitterYouTubeといった反射的な感情でアクセス数が増えるメディアをネタにテレビや雑誌のメディアがコンテンツを作る時代になり、ますます思考から反射、素朴な正義感や空気を論拠として、大衆の感情が動かされる風潮になったと、大衆になりきれない僕は感じる。
 もう一段、反射から行動の間に、思考に段階を入れれば迂闊な怒りの増幅にならないで済むだろう、と思うケースがしばしばある。
 まあ、僕は逆にそういう人々の素朴な「幸せになりたい」とか「悪いことを許せない」という感情を利用して株価掲示板とかTwitterで方向性を操って人口削減を目指すというぬらりひょんとかベルク・カッツェのような妖怪活動をしているのだが…。


 そういうふうに、素朴な意見や反射的な感情で行動したり、それを唯一の正義として視野を狭める行動規範は、僕のような悪意を持った洗脳や欺瞞や誘導に引っかかりやすいので危険だと思うよ。地獄への道は善意で舗装されている
 

 違った文脈で同じことを言い換えると、かわいいものは僕も好きだけど、猫が可愛いからってそういう反射的感情だけで行動して多頭飼育すると猫が死んじゃうよねってゲゲゲの鬼太郎でやってましたよねって。もうちょっと考えようねってこと。


 動物としての人間はどうしても性欲や生殖行動に関係するホルモンとかで思考を汚染される傾向がある。
 だから、ぼくはデカルトのように「理性は万人に等しく賦与されている」という素朴で楽観的なルネサンス思考は持たない。ダメな奴もバカもいるし、僕のように頭を使っているように見せかけて悪意と狂気の塊のような妖怪もいる。理性は人間の精神の要素の一つであるが動物であったころの名残の思考回路も人間の要素だ。人間は理性があるから動物とは違う、というダーウィン以前の人間至上主義のキリスト教哲学とは、その点では21世紀の人間は違う。
 しかし、そんな感情的ストレスのはけ口を二次元にぶつけるフェミニストや、反射的に「王様は裸だ」と笑うような子どものような、みんなが笑っているから笑うんだと言うようなテレビのような、単純な思考の生き方でいいのか?
 感情と思考を上手く両方とも制御できる悟性を手に入れたい。
サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福
ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来

  • 女子供に対して世直しを行わんとするGのレコンギスタ富野由悠季監督の行動はあまりに高邁すぎるのではないか(市井の意見も参考にして)

 まあ、妖怪としての僕は割りと人間に対してはどうでもいいんだが。(もちろん憎悪はある)自分が死ぬまでにアニメやゲームで楽しませてくれたらいいと思っている。子孫は持つつもりはないので未来もどうでもいい。(まあ、自分の子孫の利害を未来に対するモチベーションにするのも利己的で傲慢と見ることもできるのだが)
 僕はそういう邪悪な存在ですが、僕をアニメで楽しませてくれている富野由悠季監督は「アニメで世直しをしたい」と言っている。僕はこの爺さんは狂ってると思った。

www.gundam.info

それと僕は作品を通して世直しをしたい。でも世直しの方法論を示すことはできないんです。だから未来に起こる問題をテーマにしている。宇宙エレベータの技術的な問題やフォトン・バッテリーで表しているエネルギー問題を、そこでやっている劇を通して問題提起しています。それを観た子供たちが30年後、50年後に答えを出してくれるかもしれないと期待しています。今日改めてこの作品を観てもあまり上手じゃない、一般的に伝わるように作られてないと反省はしています。でももしこれを見て、5、6人でも伝わる人がいるならば『Gのレコンギスタ』という作品は50年持つと思います。そのうぬぼれがないと作品を作れない。その自負心を持ってやっています。

 また監督がめんどくさいことを言いだしたな…。と思うのだが、監督のことは好きなので意見は違っても応援したい。(これも感情的バイアスか?)富野監督のアニメからは楽しみと元気をもらった恩がある。具体的には大学で不登校になったときに、大学の視聴覚室で放課後に1話ガンダムや富野作品を見ることを報酬として、イヤイヤながら大学を卒業できた。(京都精華大学の図書館にだいたい富野作品が揃ってたので)
 あと、妖怪なので人類を滅ぼしたいという衝動はあるんですが、富野作品を批評するブログをしているうちに人間の読者や知己を得たり、人間からほしいものリストからものをプレゼントしてもらうようなポジションになってしまい、迂闊に大量殺人者になってしまうとそれを捨てなくてはいけないので、我慢している。犯罪抑制にもガンダムは役に立っている。


 前項ラストでデカルトのことを取り上げたが、ルネ・デカルトの「方法序説」は富野由悠季監督がGのレコンギスタの放送後のNHKカルチャースクール青山教室講演会で勧めていた本だったので、昨日から読み始めた。うん。富野監督が紹介した3年前に購入していたんだけど、聖書やニコマコス倫理学を先に読んでいたり、病気で倒れたりソシャゲ中毒になったりしていたので今まで読んでなくてすみません…。

togetter.com

わけのわからない神様から戴いている王権よりも自然法があるのでは、というのが社会契約説。ひどい要約をしたが統治二論はそういう内容、統治論が書いていない。「個人の権利を認めましょうよ」ということが書いてある。ストレートに言うと処刑される。


で、『ものごとは広く考えなければならない。第三者が人を説得する方法はない』と書いてあるのがこの本。もうちょっと巧妙に物事を考える、統治、政治のやり方を書いた本はないか。読んだけど困っちゃった。アイーダさんを成長させられる要素、言葉がない!ということでもう一冊読んだ。


これも50年本棚にカッコいいだろうと飾っていた岩波の「方法(論)序説」、フランスのルネ・デカルトRené Descartesが著した。昔の本は序が叙と書いてあるのもある。ものごとの考え方が書いてあると思いきや…読んだ人いる?今の新訳は読み易い。翻訳によって本の正体は変わる。
方法序説 (ちくま学芸文庫)


当時はラテン語で論文を書かないといけないがフランス語、広く読んでもらいたいから。書いてあるのは屈折光学(スペクトル)や幾何学、解剖学といった当時の先進的知識の紹介。6章から成り、その6章・天文学について宇宙の運行を「神がこうしている」と書いてみせている。


「これ以上のことを書きたいんだけどね!」って。原文でも惑星や恒星っていう言葉まで使っている。既に違いが分かっている。ガリレオ・ガリレイが「異端審問」にかけられて終身刑の判決がでたので、デカルトは「私は死刑になりたくない!これ以上書くのをやめる!」と書いている。


何よこれ・・・(笑)方法や考え方、書いてない。「死刑になりたくないから」って。こんな言い方ちゃんと勉強した哲学者はしない。僕だから(笑)我思う、ゆえに我在りってちゃんと書いてある本です。本全体の印象から評価しなくちゃいけない。Gレコやアイーダと関係あるの?ほとんどありません。


ものの考え方として、旧来の「ガンダム的なこと」はロックやデカルトにとっての既存宗教的考え方と同じような力を持ったものと捉えると、脱ガンダムの考え方をしないと既成事実、我々の思い込んだ考え方は突破できないのでは


アイーダにどういうことをさせると、女王になり得るための言葉遣い考えていかないといけない。けれどそう考えさせてくれるというのがとても素敵なことなのではないか。視聴対象が大人だったら読まなかった本である。今の流行り言葉や大人の理屈で喋ってはダメなのでは。「確実な知見」が必要


100年以上堪え抜いた知見の方が確実なのでは。表面的内容ではなく300年評価され生き抜いた意味を考える。考えていかなくてはいけないのは「我」、我思うゆえに我在り。突きつけられている。こういう演題でこういう話になるのが、トミノトミノである所以かもしれない。


皆さんに読んでいる暇がないのは理解している。年上の任務とはこういうことをやることではないかとも思う。子供たちを相手にしようとすれば現役でいられるかもという、錯覚できる。個性かもしれないがただのクセかもしれない。エゴかも。自分を中心にして考えるのは絶対やめないといけないのではないか


デカルトがある偉いお坊さんに天体の話をしたら、そのお坊さんは他所で全然違うことを人に言っていたらしい。デカルトは「もう他人に絶対しゃべらない」と決めた。外界との関係身につまされているのがロック、デカルト


日本では「哲学書」になっている。アニメ屋の読むものでないとされていたが、くだらないものか?いやそうではない。論調や存在としての意味があるとわかった。作らなきゃいけない作品は自分の好きだけでやってはいけない。甘くない。これが僕の「個性」これでやるしかないと…一応演題に辿り着けた。

 まあ、そういうふうに富野監督が言っていたので、まあ読んでみるかと買ってみたのだが。デカルト方法序説で「理性は万人に等しく賦与されている」と書いていて、僕のような人類悪から見ると楽観的過ぎないかと思うのだが。
 どうも、富野監督が「未来の子どもに世直しの種を撒きたい」と言うのと、デカルトの人類に対する楽観的思考は共通しているのかもしれない。
 また、富野監督は自分の作品を見た未来の子どもたちに、デカルトは自分の本を読んだ一般の人に対して期待を持っているが、同時に富野監督は現代文明やガンダムを取り巻く状況に絶望しているし、デカルトも当時のキリスト教権威主義で異端審問される世の中や古い学問に固執するラテン語しか認めない学閥に絶望していた。


 未来に希望する、同時に現在に絶望しているというのが富野監督とデカルトの共通点である。


 僕は未来なんかどうなってもいいと思っている。


 引用を許してもらうと、ちくま文庫方法序説第111P。

 私の意見の論拠をよく考慮していただけるなら、それがたいそう単純で常識にかなっていることが分かり、同じ問題について持ちうる他のどんな意見よりも、異常であったり奇妙であったりすることが少ないと思われるだろう、と確信しているからである。
(中略)
その意見を私が受け入れたのは、他の人によって言われたからでも、言われなかったからでもなく、ただ理性が私に説得したから、ということを誇っているのである。
(中略)
 また私が、私の先生たちの言葉であるラテン語でなく、私の国の言葉であるフランス語で書くのは、まったく純粋で持ち前の理性しか使わない人の方が、昔の書物しか信用しない人よりも、私の意見をよりよく判断してくれることを期待しているからである。


 ※脚注 215 学者や教師の偏見に染まらずに、だれもが生まれつき持ち前の理性ないし良識を純粋に育て、よく導いて正しく使用するならば、人はおのずから真理に達するという確信がデカルトにはある。

 富野監督がGのレコンギスタに込めた願いもそういうことだろう。


 しかし、それは結局オタクになってグッズ商売に成り下がったガンダム世代に裏切られたのに、機動戦士ガンダム劇場版で「あなた方の未来の洞察力に期待します」と書いて、その当時は大ヒットとして向かえられた経験を富野監督が忘れられず、繰り返したいと思っているだけなのでは?と、意地悪なファンの僕は邪推してします。


 富野監督は果たしてGのレコンギスタの劇場版で未来に世直しの種を撒くことに成功するのだろうか?富野監督のことは好きなので、それが叶うことを僕は願っているけど、同時に僕は人類が嫌いだし、Vガンダム∀ガンダムで薫陶を受けた世代なのに駄目な精神障害者の大人になってしまって富野監督の期待に添えなかったので、Gレコも成功するかどうかわからないと思っている。

  • ここで登場人物が増える

 と、前項で述べたような話を自律神経に効く鍼灸院の先生に針を打ってもらいながら話したのだが。
(鍼治療がうつ病に効くかどうかは、鍼治療をしていない場合の僕と比較していないのでよくわからんが、まあ引きこもりとしては週に1回は精神科医か鍼の先生に愚痴を言うことくらいしか会話の機会がないのだ)
 また、その鍼の先生も僕がガンダムのオタクだからか、先日のマツコ・デラックスが富野監督に会いに行った夜の巷を徘徊するを見てくれて、その話もした。


 その鍼の先生は元々は編集者で脱サラして鍼治療に転校したという人で、まあ、人生経験が豊富な人なので話をしていて楽しい。(もちろん意見の違いはあるが、そこはお互い大人なので察する)
 

 で、鍼の先生は編集者という経歴からか、いろんな患者と話を合わすためかテレビやユーチューブのメディアにアンテナを張っている。
 それで仰るには、YouTuberのヒカキンがテレビに出たときの子供と大人の反応の違いがあったそうな。
 子どもは反射神経で生きているので、ヒカキンが顔芸と声色で強調して、くだらない馬鹿げた一発芸をするとゲラゲラ笑うが、大人はヒカキンの何が面白いかわからないというリアクションをした、という番組があったらしい。
 僕はヒカキンもくだらないが、笑い女を用いるような地上波テレビ番組もくだらないというか、小学生レベルの知性だと思っている。


 でも、資本主義社会では、そういうくだらないヒカキンとかYouTuberが再生数や広告クリック数につながって金儲けの手段に成れば、それを推奨する。ガンダムもくだらないグッズとか金儲けのコンテンツになってバンダイナムコホールディングスの金づるになっている。
 テレビで一億総白痴と言われた時代から半世紀、YouTubeで子どもたちはもっと馬鹿になっていっているし、Twitterを使ってお気持ち表明するフェミニストも、Instagram映えを追求して危険行為をするタレントも、思考ではなく反射神経で馬鹿馬鹿しい行為をしている。


 富野監督やデカルトは人に内包されている理性を正しく育てれば皆、真理に達するしニュータイプというか誤解なく理解できる人になれるという期待感を持っている。


 だが、現実は激辛カレーを同僚の目に塗っていじめて笑う教師を真似していじめをする小学生という、知性が殆ど無いような人間にあふれている。これでは、人に品性を求めるなど絶望的だ。
 そういう訳でGのレコンギスタを見て思考を巡らせることができる子どもが本当に発生するのか?という懸念は僕もある。
 また、そのように高邁な理想を掲げている富野監督は、バンダイナムコからは単純にカッコイイ(機能性は関係ない)ガンプラを売っていくコンテンツを作った人で、創始者だから排除できないが目の上のたんこぶのような爺だと思われているのかもしれない。それで、Gのレコンギスタの広報や宣伝は貧弱で、前売り券も売られてないし、上映館も少ないし、作品として会社から期待されていない。ガンダム世代の大人のオトナ帝国的なノスタルジーとオタクの収集欲を刺激するガンプラブランドだけあれば良くて、思想性を云々する原作者などは邪魔者扱いされているのかもしれない。
 鍼の先生も「サンライズのプロデューサーが二人、マツコ・デラックスの番組に出てたけど、全然仕事ができなさそう。新作を宣伝しようとしてない。チャンスを活かそうとしてない。むしろ富野監督だけががんばって表に立っていて、そこがプロデューサーに恵まれてカリスマとして偉ぶっていられる宮﨑駿との違い。富野監督とサンライズのスタッフの間にも溝を感じた」とおっしゃってる。
 特にオタクでもない一般人の鍼の先生から見ても、サンライズのプロデューサーや制作スタッフは仕事ができなさそうだと言われている。それでいいのか、サンライズ!(まあ、有能な人間はアニメ業界なんかには入らんか・・・。シリコンバレーとかに行くか)



 ただ、富野監督は数万人が見たであろうテレビのGのレコンギスタの劇場版もおそらく数千人が見るであろうが、その中で5,6人に伝われば上出来、と言っている。監督自身も現状が厳しくて正しく理解できる人は十人にも満たないだろうと自戒している。デカルトも正しく導けば真理に達すると願いながら、異端審問が怖くて筆を折った。
 人の目覚めは遠い…。



 とりあえず、視聴機会を増やすことが僕にできるせめてもの応援です。

mantan-web.jp
 アニメ「ガンダム Gのレコンギスタ」の劇場版の第1部「行け!コア・ファイター」が、劇場公開される11月29日にAmazonプライム・ビデオほかでも有料配信されることが分かった。デジタルセル配信のHD版が2530円、SD版が1980円で、レンタル配信は1100円。

www.g-reco.net
VOD

  • 配信情報

2019年11月29日(金)正午より有料配信開始!

  • デジタルセル配信(EST※1配信)

価格:[HD] 2,530円(税込)/[SD] 1,980円(税込)

Prime Video(レンタル・購入対象)

TSUTAYA TV

DMM.com

ひかりTV

ビデオマーケット

PlayStation™Video

Rakuten TV
(順不同)

  • レンタル配信(TVOD※2配信)

価格:1,100円(税込)

ガンダムファンクラブ

バンダイチャンネル

Prime Video(レンタル・購入対象)

PlayStation™Video

U-NEXT

J:COMオンデマンド

ビデオパス

milplus

ひかりTV

dアニメストア

Google Play

ビデオマーケット

DMM.com

music.jp

Rakuten TV

ムービーフルPlus

HAPPY!動画

FOD

アクトビラ

TSUTAYA TV
(順不同)

※1 EST(Electronic Sell Through):視聴期間・視聴回数に制限のない購入型配信サービス
※2 TVOD(Transactional Video on Demand):視聴期限のあるレンタル型配信サービス
※販売開始日程・配信期間・配信価格は配信サービスによって異なる場合があります。詳しくは取扱いの配信サービスにてご確認ください。

 映画館は全国に23館しかないけど、インターネットの力で見てくれーーーっ!頼むーーーーっ!!!
一人二人にでも伝わればいい!(ドバ総司令)


 というわけで、どんな時事ネタもGレコの宣伝につなげる僕ちゃんなのであった。お後がよろしいようで。

www.amazon.co.jp

著者へのプレゼントはこちら
nuryouguda.hatenablog.com



(この記事が良いと思ったら読者登録お願いします!)