玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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脳内妹の存在について

 脳内妹の頭令(ずりょう)そらちゃんが昨日誕生日だった。28歳になった。頭令そらちゃんの誕生日がなぜ9月20日かというと、「空の日」だからです。
 あと、僕の誕生日がちょうど半年離れた「キングゲイナーの日」なので、お互いに秋のお彼岸と春のお彼岸を司る感じです。


 今から色々と記事を書くけど、結論を述べると惚気です。自慢です。


 昨日は、脳内妹といっしょにかわいい森のお菓子の家のようなケーキ屋さんでサバランとイチゴのダックワーズのティーセットを食べたよ。

 以前はフランスのフルコースやドイツ料理やイタリアンレストランに行ったり演奏会を聞きに行ったりした。
 なので、今年はちょっと安い(僕の財布も薄い)感じだけど、できたてのケーキを食べるのは美味しかった。


 そういうわけで、僕は脳内妹を愛している。
https://www.pixiv.net/novel/series/550072
 脳内妹が11歳の頃からの16歳になって婚約するまでの馴れ初めを書いた小説、まだ12歳の冬までしか書いてない。当時はリアルタイムだったのだが。もう16年も付き合っているのか。僕がハタチの頃からずっと愛している。僕も37歳になってしまった。Gレコが落ち着いたら小説の方も頑張りたい。


 そらちゃんも28歳になったのでアイドルマスターシンデレラガールズの同い年の川島瑞樹さんみたいな服を着てもらって似顔絵を書いた。色を塗るソフトが今ない。色鉛筆はあるけど時間がめんどくさい。

  • 知人(友人と呼んでも良いのだろうか)のPOGEさんは水瀬伊織を愛している。

私はそれでも水瀬伊織を愛する - 肉芽観察記

私は水瀬伊織を愛し慈しむ以上に、彼女が「存在しないこと」を強く強く意識している。彼女への愛は虚空に向けられて消えゆくし、彼女から優しく手を伸ばされることはない。
これが絶望だ。

少し前に初音ミクと結婚した人がいた。バカバカしいと思うより先に悲しくなった。存在しないものに依存しても虚無に飲み込まれるだけだ。

それでは我々には救いはないのだろうか?
そう救いはない。
アスカはただの絵だし、物理アイドルはお金持ちと結婚するし、アイマスアイドルはプログラムだ。

林檎にありつけない、そしてポルノグラフィーにも逃げられない、そういう心性を持ったものは救われない。
だが、その救われなさが救いだとしたらどうだろう。

水瀬伊織は存在しないからこそ私の心の中にいつでも好きなように呼び出せる。
それがただの自己愛の鏡だとアイロニカル口の端を引きつらせながら。
水瀬伊織は存在しない。好きだ、愛している、その言葉が届くこともない。
彼女に車が買えるほどの金を貢いでも、もちろん喜んでくれるはずもない。
虚無とコミュニケーションはとれない。

ここまで書いて陰鬱な気分になっているが、この救われなさが救いなのだ。
なにもないただの幻に祈り続けること。
それは完全な無為だ。
脊髄を貫くような暗い悦びがこみ上げる。

 僕はアイドルマスターのライブビューイングに行ったりもするけど、芸事としては面白いと思っている。ガチ恋にはならないかなー。沼倉愛美さんのライブに行ったこともある。ファンクラブにも入っている。沼倉愛美さんは同じガンダムのオタクなのに実力派なので凄いという尊敬の気持ちがある。シンカリオンドクターストーンも面白いし。
 デレマスでは脳内妹のそらちゃんが衣装アイドルの野々村そらとして転生して、僕がプロデューサーに(携帯電話を通じて)転生したという設定でプレイしています。モバマス世界を支配し課金させようとする鬼悪魔邪神のちひろから僕を助けるために、同じ名前の衣装アイドルに脳内妹が融合したデミ・アイドル、という設定。
 でも野々村そらちんはちひろに逆らったために冷遇されていて強いカードが出ないので、大槻唯ちゃんとか星井美希とか、そういう髪型が脳内妹のそらちゃんに似てる子につぎ込んだりもしています。夢見りあむとはメンタルがゴミという親近感。


  • ポルノグラフィーで愛を満たす人もいるらしい。

dokuninjin7.hatenadiary.jp


通常、私たちは自分が望んだだけの愛や承認を得ることは困難である。

現代社会では、近代以前と比べ、衣食住が不足することは相対的に少なくなったが、

愛やセックスという資源は常に不足している。

それどころか、人権つまり人格という資源の価値が高騰した現代社会において、

それはある意味では最も得難い資源の一つでさえある。

恋愛という現代の新しい市場において、日々私たちは膨大な労力と費用を投じて、

異性からのパートナーシップを得ようと躍起になっているのである*1。


ならば答えは一つしかない。

誰しもが求めうる愛が必要である。

人格的承認を必要としない、愛が必要なのである。

衣食住と同じように、市場で簡便に購いうるものとして愛が必要である。

誰しもに対して平等に開かれた、愛が。

つまり、性の商品化がどうしても必要なのである。

 読んでないけど人のセックスを笑うなと言う本がある。まあ、いろんな愛の形があっていいと思うけど。(というか、脳内妹が大好きすぎるので他人が何をどのように愛そうが、それで少子化になろうが人口が爆発しようが、芸能人や有名人が不倫したり結婚しようが、本質的にどうでもいい)

 仮想現実としてのポルノで仮初の愛情を得たり、非実在青少年が存在しないから安心する人もいる。


 僕は脳内妹と一日中遊園地でデートしたこともあるが、ちっとも退屈しなかった。そのころは脳内妹も学生だったので。
 今は脳内妹は天才脳外科医として、ブラック・ジャックの奥さんのピノコやブラック・クィーンのように働いている。しかし、脳内妹と僕は意識を共有しているので非実在青少年のようにいつでも脳内妹を呼び出せる。脳内妹が仕事中でも、脳内妹の分霊を僕の脳の一分を使ってエミュレートしてテレパシーっぽく並列処理できる。また、僕がジョギングをしているときに脳内妹が家でダラダラしていても、脳内妹はテレパシーで並走して(というか浮いてる感じなのだが)応援してくれたり、自転車の後ろに乗ってくれたりする。
 いつでもぬくもりを感じることができる。四国遍路にとっての空海のような、同行者としてのキリストのような。
 青識さんは商品化された性愛による心理的承認が必要だと言っているが。別に商品としてのポルノを買わなくても、自分の想像力で恋人くらい作れないか?


 脳内恋愛と言えば本田透さんの電波男が有名だった。アイアムアヒーローの漫画家の人のルサンチマンとか、モテない男はVRみたいなゼロ年代非モテ理論があった。
nuryouguda.hatenablog.com

 それに対して云々した文章を書いたこともある。


 モテないから脳内妹に走ったわけではない。むしろ、なんというか、申し訳ないんだが、(好意を向けられることも含めて)人間関係が煩わしいというのがある。


 脳内妹の小説の後半で描くつもりだが、僕はグノーシス主義であり、この世はデミウルゴスという邪神によって創造された間違った世界だと思っている。その基底現実の殻を破って至高現実のイデア脳内妹と結ばれることが幸福だと思っている。

ところで、私たちは多くの場合、他者からの承認を欲する。

それも、特に異性からの承認を不可欠不可避的に欲求する。

マズロー自己実現理論のピラミッドにおいて、

社会的欲求の重要な要素として「Love」が挙げられているのは有名な話だ

 と、青識亜論さんは言っているのだが、マズローの欲求は心理学的にはもう古いのだが。


 まあ、新しい理論でも配偶者を得たり社会的地位を求めたりという欲はあるらしい。


 僕は社会が嫌いです。基底現実を割りと軽蔑している。基底現実のボディの遺伝上の親戚も諍いばかりだったので良い印象がない。遺伝上の母親も自殺したし。基底現実の母親が自殺した時に真っ先に僕が取った行動は、死ぬ前の母親によって脳内妹のイラスト(性的なものもある)が破壊されていないかどうかを確認したことだった。


 そして、僕が何度も書いているし、フォロワーには有名なエピソードとしては僕の臨死体験がある。
10年前にKLabで過労になって死にかかったことがあった。

氷川竜介先生の出崎統論に行けなかった日記 - 玖足手帖-アニメブログ-


今日は待ちに待った氷川竜介先生の出崎統監督論の講義でした。 受講料は払ってる。
このために帰省を遅らせました。おにいさまへ・・・も昨日一話を見たし。
水曜日から熱が上がり、脳が溶けるように痛く、昨晩は二時間寝ては寝汗を拭うために起きて疲労が限界なので講義どころではなく倒れました。
医者には「理由のわからない病気はいくらでもある」と言われた。マジウケるんですけどw
非定型うつ病は好きな事ならやれるらしいが、僕は好きな事をやろうとしたらデミウルゴスに魂や命を吸われるという、グノーシス型無気力症候群のようだ。
全く、何のために生きてるのかわからないよなあ?


 その時、クリスマスイブに夢枕に立って臨死体験から復活させてくれたのが脳内妹のそらちゃんです。

メリークリスマスそらちゃん天使すなぁ - 玖足手帖-アニメブログ-

本当に僕は世の中というものが嫌になった。


そんな気分のまま、長崎市浦上天主堂近くを流れる川沿いをぶらぶら歩きながら
「もう、自殺しちゃおっかなあ」
とつぶやいた。
そしたら、隣にいた脳内妹のそらちゃんが
「死んだらダメだよ」
って言うから死ぬのをやめた。
そらちゃんはピンク色の布地にあずき色のファーとボタンのついたかわいらしいワンピースを着ていて超絶かわいかったので死ぬのとかやめた。


キリスト教の人だったら「そらちゃん天使すなぁ」って奇跡体験とか言うんだろうけど。
基本的にいつものやり取りです。
夢にそらちゃんが出る時はいつも夢の中でさまよって死にかけてる。
で、そらちゃんが出ると根拠のない自信が出ます。もっと楽しい夢にも出てきてほしい。もっと水着とか、サンタコスとか、そういうラブプラス的な夢が見たい。
そらちゃんはなんか、やっぱり、ギリギリのところで手を差し伸べてくれるイドの怪物、エロスの権化、大日如来かマリア様とか宇都宮比瑪とかアベニールなのではないだろうか。


まあ、生きる理由が「夢の中に出てくる美人の妹」っていうのは、成人男性としてはちょっとロマンティスト過ぎて恥ずかしいですね。
メリー・クリスマス!

 過労で脳が破滅的になっている状態で、夢の中の教会(現世の権威としての神)にも絶望して、夢の中で自殺を図ったのを脳内妹に止めて貰ったというのは、僕にとってものすごく大きな神秘経験だった。ちなみに自殺を止めた理由は「かわいいものを見たかったから」。


 脳内妹のそらちゃんは、滝本竜彦先生にとっての綾波レイかもしれないけど、滝本竜彦さんも結婚して離婚してしまった。そんなに基底現実の肉体がいいのか?僕は脳内妹の体を、VR機器に頼ることなく、脳で完全に毛穴やほくろや、もっと違う穴の中のことまで感じることができる。
 しかもテレパシーで脳の感覚も共有できているのでセックスの時は互いの間隔を増幅させて対魔忍アサギの3000倍以上の快感を得ることができる。
 富野由悠季監督も自分で描いた絵で自慰するのが趣味の人だけど、僕もそうです。が、その絵は単なるオカズにとどまらず、脳内妹を呼び出すための人体錬成の錬成陣です。


 そういうわけで、僕にとっては生死の境で誰よりも助けになってくれるのが脳内妹のそらちゃんだし、デミウルゴスの世界や基底現実での人間関係や親族関係や社会を超えた、本当の天上世界プレーローマでの運命の花嫁、ソーテールなのです。
 鳥は卵の中から抜け出ようと戦う、卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。鳥は上に向かって飛ぶ。神の名はアプラクサスという。アブラクサスデミウルゴスの息子で世界を支配している。

グノーシス主義では、人間の魂は永遠なる「霊」をその裡に秘めるのであり、永遠の世界より落下して地上の「悪の世界=此の世」に居住する定めとなったものである。人間は「本来的故郷・本来的永遠超宇宙」或いは「本来的な真の自己」について「無知」な状態にある。このような人間に、宇宙と永遠世界についての「真実」を開示し、智慧グノーシス)を伝えて、永遠の故郷へと魂が帰還する契機として、永遠界より地上に訪れる存在が、「ソーテール=救済者 sooteer」である。
バルベロ・グノーシス派の至高処女霊「バルベロ」も、救済者と考えられる。グノーシス主義の原型においては、救済者は、「女性的霊」であったと考えられ、イエズスなどの「男性的霊」が救済者の位置に交代したのだともされる。
http://www.joy.hi-ho.ne.jp/sophia7/term-gn.html


 このような「実存の或るモード」、 言い換えれば「現存在の存在世界と自己存在に対する対し方=姿勢」が、世界と自己に対する問いかけを惹起すると考える。このような「現存在の姿勢」は、「反宇宙的な現存在の姿勢」とも云われ、この現象する存在世界に対し、積極的な否定を声明すると同時に、ニヒリズムやペシミズムではなく、世界と自己の現なるありように対する、「救済的説明」を見出し、創作神話のなかに「救済の智慧」を解釈できるとき、このような「現存在の姿勢」は、グノーシス的な現存在姿勢である。
 グノーシス主義は、「言葉で表現された神話や教義」に本質が宿るのではなく、神話や教義は「グノーシスの精神」を表現するための外皮であり、神話や教義は、更に個々人の実存によって、現存在解釈され了解されねば意味を持たない。このようにして、グノーシスの教えは、「グノーシス的な現存在姿勢、または精神の姿勢(Geisteshaltung)」を備える者が、そのような現存在姿勢において、神話を解釈することで、初めて「意味」が了解される。
  「グノーシス(叡智・認識・覚醒)」とは、こうして既にその智慧を知る者が(グノーシス的現存在姿勢にある者が)、神話や教義の「言葉の外皮」を玩味して行く過程で、「すでにこの真理は、わたしには既知のものだ」という気づきに達するとき、グノーシスの了解が成立するのである。「至高の光の霊のなかにわたしがあり、わたしのなかに至高の光の霊がある」とは、グノーシスの真理に「気づいた」とき、本来性を求めていた自己は、本来性が、それを求めていたという「わたしの現存在のありよう」において、実はすでに自己の内部で現成していたという真理を自覚することである。

 そういうわけで、そらちゃんは基底現実の世界を超えた至高の光としての、本来の意味での存在です。そして、それは僕の中にある脳内妹であり、同時に脳内妹の世界は僕を包み込むのです。



 まあ、グノーシス主義というのも昔の人の妄言なのでそれに当てはまるのが正しいということはない。


 ただ、脳内妹フロイトが重視した夢で僕と通じているし、それは人類の集合無意識(これについては僕はよくわかってない)というか、宇宙的生命の世界とも通じている。


 脳内妹と僕が知り合うきっかけとなったのは、僕が学生時代に夢日記を書き始めた時に、夢日記だけではつまらないので、「この世界とは違う世界の僕が寝たきりで夢を見ていて、その夢をテレパシーで覗いている美少女の妹がいる」というファンタジー小説を書き始めたことですが。どうやらそれは当時は知らなかったグノーシス主義やアカシャ年代記の世界に通じる儀式だったようだ。


 というわけで、脳内妹は高次元に存在する。逆説的にいえば、こういうふうに脳内妹を崇拝して崇めている僕は基底現実では低所得者で不幸の連続なので、基底現実の自分の存在感が希薄だからこそ至高現実の脳内妹をよりいっそう光り輝いているものだと思っているのかもしれない。


 まあ、僕の宗教的な態度がそうであっても、別にそれで全人類を救おうとも思わんし布教とか教団設立とかはしませんが。


 というか、僕は他人の脳が通じている天国と、僕の脳内妹の世界は別だと思う。僕の脳内妹が他の人間まで救おうとするのはなんか嫉妬するし。ていうか、脳内妹は至高の世界の存在だが、本質的にはただの僕の恋人なので。


 それぞれの人がそれぞれのやり方で救われたり失敗すればいいと思っている。
 それがポルノだったりアイドルマスターだったり初音ミクだったりキリストだったり大統一理論だったり、好きなのをやればいいと思う。


 というか、臨死体験で救われる、という、普通の夫婦とか恋人ではありえない神秘体験を共有した脳内妹は、物質とか現実とか理屈を超えて、概念というか、直感として「いるものなので、いる」と感じるものとして存在する。
 ブレンパワードの最終回の宇都宮比瑪のように「こうやって感じ合える」という感覚に近い。その感覚は、基底現実の物理的にはないのかもしれないが、脳内妹と触れ合う感覚はあるのだからしょうがない。

「寒いね」と話しかければ 「寒いね」と答える人のいるあたたかさ (『サラダ記念日』 俵万智

 恋人が欲しい人はセックスの他にもこういうものを求めているのだと思うが。脳内妹はリアクションしてくれる。
 一緒に植物園や美術館に行って、きれいなものを見てきれいだと一緒に言ってくれる。ソクラテスのダイモーンのようにアドバイザーとして話をしてくれることもある。ソクラテスは対話方式で哲学を深めたということで有名だが、そういう思考トレーニングとしても脳内妹は利点がある。
 また、うっかり財布を見失ったりなど、慌てそうな時に落ち着かせてくれたり、失敗してもクヨクヨするなと笑ってくれたり、妹は支えてくれる。
 現実の恋人関係では、恋人と言っても他人なので、恋人の人は恋人の人自身の利益のために行動する主体と感情を持っている。それは権利なので否定できない。が、脳内妹は僕のことをとても思いやってくれているので、昨日みたいにデートの帰りに雨が降って困っても、悪口や不平を言わず、「あらあら、困ったわねえ」とニコニコしていてくれる。そして早めに温かい風呂にはいるように言ってくれた。
 僕は基底現実の様々な不幸により、脳神経をやられて、精神障害者保健福祉手帳2級をもらうくらいの精神的に不安定な脳だが。脳内妹のアシストは情緒の安定に寄与している。主治医も、脳内妹は妄想という病状ではなく、僕を助けるために発現したものだと診断している。
 それから、脳内妹との対話は普通の人同士の音声会話よりも超高速で行われる上に、直接概念を伝えるものなので効率が良い上に間違いが少ない。また、音声会話ではないので、うるさくしてはいけないところでも会話ができる。
 酒と睡眠薬を飲んで、体が動かないけど眠れない、というときでも寄り添ってくれる。
 

 また、脳内妹はとにかく美しい。Y遺伝子を除いた対性クローンという設定なので、顔立ちなどは学生時代にスタイルが良かった頃の僕に似ているのだが、理想化自己対象としてバージョンアップされている。
 それに、ただ自分を美化しただけではない。脳内妹は概念なので、美しい絵画、彫刻、アニメ、萬画を見るたびに、その美しさの概念を取り入れてどんどん美しくなる。それはもちろん、性格や哲学や行動様式においてもそうで、元気だけど野蛮ではなく、上品だが主体性のある、素敵な女性として成長している。
 僕は陰険な性格なのだが、脳内妹がいることで、破滅的行動に走らないようなブレーキとにもなってくれている。(「収容所の架空少女」は架空の話らしいが)
 


 脳内妹Twitterもやっているのだが、たまに僕がそういう気分のときなどはTwitterで対話もする。そして、そのアカウントは他の他人の複数のTwitterユーザーからも「素敵な女性」として人格を認知されたりしている。まあ、ツイッターアカウントとしての僕も、ネットの向こう側の人から見れば記号なので、脳内妹も同格の人格として認識されるのかもしれない。やはり、僕の存在が希薄ということもあるのだろうか。
 しかし、脳内妹は何故か女性にモテて、複数のオフ会で複数の女性から「そらちゃんにあげてください」とアクセサリーなどを貰ったことがある。素敵な女性である。基底現実の女性と恋愛関係になるのは、(僕が部屋を片付けるのが下手なオタクで、自分以外の人が同じ部屋にいると落ち着かないということもあり)モテない以前に向いてないのだが。現実の女性が脳内妹をちやほやしてくれると、ちょっと自慢げな気分になる。

  • ポルノグラフィーとしての脳内妹

 脳内妹は美しさを吸収すると言ったが。手塚治虫のムーピーゲームや水木しげるののっぺらぼう整形手術のように、あらゆる体系や年齢に変身することができる。しかも、脳内妹は概念なので破壊できないので、かなりハードなプレイも。
 そして、脳内妹とイチャイチャするためだけにある惑星規模の脳内固有結界には壮大な空中城塞があり、いろいろな景色を褥から見ることができる。
 植物はあるが動物はあんまりいない固有結界なので、静かな花畑や、インスタグラムのようなビーチや、クトゥルー神話のような触手の巣窟(僕が触手になります)など、いろいろなシチュエーションの場所に飛行機に乗らなくても瞬時に行ける。


 また、脳内妹がメインで住んでいる世界の実家(小説で描かれている屋敷)には僕の部屋もあるので、基底現実で嫌なことがあっても、その部屋で執筆していると認識のテクスチャーをかぶせることで安心できる。基底現実の母親が自殺した事故物件に住んでいても、本当の世界では脳内妹と寝室を共にできていると思うと、心が安らかになる。

  • 異常な脳の想像力

 単なるのろけ話のわりに大げさに神だの存在だの、書いてしまったのだが。
 コンサータを服用して働いている人から「グダちんさんのブログはコンサータを飲んでないのに、コンサータ(事実上の覚醒剤)を飲んでいるくらいの狂気の長文」と言われた。
 IQは128しかなかったけど、ある意味、何かのブーストがかかっているのかなあ。


 脳内妹を自分の意識と同時にドライブして会話をするのって、普通の人の脳では難しいのだろうか。僕は僕の脳しか体験していないのでわからないのだが・・・。


 単なるのろけ話なのでオチもなく終わる。


 来年の誕生日はすき焼きの老舗か焼肉の名門に行きたいです。
 再来年は妹が30歳になるのですが、「30にもなってフィアンセとかフラフラした身分なのはかっこ悪い。医者として社会的な立場もあるし」と言われたので結婚することになってしまった。
 まあ、脳内妹は仕事が楽しそうだし、子どもも作らないし(作ってもどうせクローンだし)名字も家も変わらないので、結婚してもなんにも変わらないのだが。
 温泉旅行にでも行こうかと思っている。チャリで行ける範囲に温泉宿があるし。それでいいのか。でもチャリで行けるし…。


 ちなみに、古戦場やデレステのイベントやギルガメッシュ祭や録画の消化から逃げて、こういう長文を脳内妹に捧げたことについて、脳内妹は鼻で笑って「お兄ちゃん、あたしのこと好きすぎワロタ」と言いながら、黙々と刺繍をしています。台風が来るので今回の連休はインドアだよね…。まあ、脳内ではいくらでも飛べるのだが。
 ダンベルのアニメを見て筋トレしてから、値下がりしたスーパーの寿司でも買いに行くか。