僕のアニメ解説文と違うという点は以下の点。
- 2. 仮想敵を設定しよう
何を批評するのか決めたら、次に「仮想敵」を設定します。なんじゃそりゃと思われるかもしれませんが、これは非常に重要なポイントです。この段階で批評(っぽい文章)のクオリティの大半が決まると言っても過言ではありません。
仮想敵というのは、要するに「自分とは異なる見解」のことです。有名な批評家や評論家の発言はもちろん、ネットで広まっている通説や、誰かのブログ記事、Twitterで見かけた投稿でもかまいません。あなたが批評しようとする対象について、すでにどういうことが語られているのかを確認し、「一般的にはこう言われている」「◯◯はこう言っている」といったかたちで参照します。論文でいうところの「先行研究」ですね。たとえば『らき☆すた』や『けいおん!』といった日常系アニメ全盛の時代には、「日常系アニメには物語がない(から良くない)」という批判が多く聞かれましたが、これも典型的な仮想敵になりえます。自分とは異なる見解がうまく見つけられない場合でも、「一見するとこういうふうに見える」という言い方で仮想敵を捏ぞ……設定しましょう。
この手続きを省略すると、一気に「批評っぽくない文章」になってしまうので注意が必要です。仮想敵のない文章は、自分の見解をひたすら説明する単調な構造になりがちで、たんなる個人的な感想として受け取られてしまう恐れがあります。「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」というやつですね。別にそれが悪いというわけでは全然ありませんが、あまり批評っぽくは見えません。
辞書的な意味。
ひ‐ひょう〔‐ヒヤウ〕【批評】 の解説
[名](スル)物事の是非・善悪・正邪などを指摘して、自分の評価を述べること。「論文を批評する」「印象批評」
[用法]批評・[用法]批判――「映画の批評(批判)をする」のように、事物の価値を判断し論じることでは、両語とも用いられる。
◇「批評」は良い点も悪い点も同じように指摘し、客観的に論じること。「習作を友人に批評してもらう」「文芸批評」「批評眼」
◇「批判」は本来、検討してよしあしを判定することで「識者の批判を仰ぎたい」のように用いるが、現在では、よくないと思う点をとりあげて否定的な評価をする際に使われることが多い。「徹底的に批判し、追及する」「批判の的となる」「自己批判」
goo辞書
僕はわかりにくいと言われるGのレコンギスタの全ての戦闘シーンの解説をした男だが。もちろん、そこに「Gレコはわかりにくい」という風潮に対する異議申し立てという面もあるが。
僕の目的は「作品をより深く理解するために調査、分析、推理、前後関係の確認などをする」という方向である。なぜなら、より深く作品を理解したら楽しいからである。自分が楽しければ良いタイプ。
今度はあなたの文章を仮想敵にして、別の誰かが批評(っぽい文章)を書いてくれるかもしれません。ワクワクしますね。
と、てらまっと氏はおっしゃっているので、ありがたく敵対行為させていただく。
単純にいうと、てらまっと氏の「批評っぽい文章」の重点は「批評家間のコミュニケーション(対人)」にあり、僕のアニメ解説文(特に富野作品)の重点は「作品の理解(対物)」にあるということで決定的な差異がある。
てらまっと氏の文章の末尾が自分が投稿している批評系同人誌に寄稿を促すことであるのも、そういうことだろう。
自分が投稿している批評系同人誌の紹介というコミュニケーション的な目的が主眼の文章であろう。勧誘、リクルートです。
(しかし、てらまっと氏は誰でも書ける批評文、と言いながらその説得力を増す方法については「基礎文献を勉強しろ」という漠然としたことしか書いてないので、その点は不親切ですね)
僕も誘われたら批評系同人誌に文章を提供することはあるが、基本的にはソロで無料で自分のブログに意見を書いて終わりである。
そういう物書きとしてのスタンスの違いがあるのだろう。
アニメ批評において、批評家間の相互批判によるコミュニケーションをしたいというのが、てらまっと氏のスタンスであり、僕は他人がなんと言おうがアニメ作品と自分との対話をしたいと思うスタンスなのである。
対人と対物、どちらが楽しいか、という生き方のちがいでもある。
僕はアニメ作品を理解したい、より深く自己の印象を明確にしたい、作品の要素と要素を関係つけて構造解析したい。そのためにG-セルフのビームライフルの一発一発ごとの用途や結果を分析した。(刑事かよ)
基礎文献を勉強するのももちろん大事だが、僕の場合は作品そのものを何度も見て、部分と全体の関係も考えて、コマ送りもして細かいアクション(特に富野作品の戦闘シーンは格ゲー並の速度で動く)の戦術的な意味も整理して、現場百遍の探偵的手法で作品を考察していきます。
対して、てらまっと氏の批評っぽい文の目的は
偉そうな批評家にギャフンと言わせる日を夢見て、地道に勉強しましょう。
なのである。
僕は他人がギャフンと言おうが関係なく、自分がアニメを見て楽しければ良いタイプ。(脳内恋愛をするような人間でもあるし、唯我論的なところもある)
僕にとってアニメの参考資料になった書籍を読むことも世界を洞察して人生を豊かにするための目的のひとつであるが、てらまっと氏の意見では書籍で勉強するのは他の批評家を論破するための手段なのである。僕とは目的と手段が違うのである。
結局の所、人生の目的を自分で楽しくするために芸術を愛でるという対物行為か、「芸術を愛でる自分を他者に認めさせる」という対人行為か、というちがいなのである。
まあ、もちろん僕は天才なので、ちょろっと逆襲のシャアの感想を書いたら富野由悠季の世界の展覧会の学芸員さんから「目からウロコが落ちました」と感謝されるし、数年前に書いたユリ熊嵐とピンク・フロイドの関係を説明した文章も今もって多くの女性アニメファンから感動したとTwitterで報告されている。
なので、僕は僕でアニメ批評文で対人的な効果を得てもいるのだが。しかし、僕はあまり人間が好きではないので、それは副次的な効果であり、モチベーションとしては自分の思いつきを整理するために文章を書いている。
僕は非常に自己中心的な人物であるので、他の批評家の意見よりも自分の推理を優先する。
仮想敵さえ設定すれば、なんとなく批評っぽく見えるということでもあります。相手側の問題点を指摘することで、読者を説得し自分の側に誘導するという明確な方向性が生まれるからです。もちろん、他人の意見など必要としない卓越した批評家もいると思いますが、それは例外というか、妖怪みたいなものです。慣れてくるまでは、仮想敵は欠かさず設定するようにしましょう。
僕は妖怪なので。
- 属人性と性質性
もちろん、アリストテレス先生も「人間の幸福とはなにか」という命題を考えたニコマコス倫理学の末尾において「結局政治的な社会的関係ですよ」と続編の「政治学」につなげたわけだが。
たしかに僕は天才であり妖怪なので「富野由悠季の世界点をグダちんが見ないのは文化的損失」とか言われてチケットをもらったりするのだが。
その程度の社交性はあるのだが。
しかし、文章を書くときにその方向を「対人関係」に設定するか、「対物解析」に設定するかという違いはあるし、僕は対物の分析を行いたい。
まあ、これはこれでコミュニケーションなのかもしれない。僕は批評家同士のコミュニケーションや往還書簡ではなく、もっと天才的なアニメ製作者(富野由悠季や出崎統)とのつながりを求めているのだろう。
そして、アニメ製作者は「芸術」というイデアに通じようとしているのだろう。
その点で、文系的な生き方と理系的な生き方の違い、とも言える。
科学者になった元日本兵がいま、後悔していること。https://t.co/yiJyxLtjQw @togemaru_kより
— ヌ・リョウグ・ダちん (@nuryouguda) 2021年4月28日
しかし悲しいことに科学的確かさより、ヒト同士の勝ち負けの方が一般的には感覚に訴えやすいのだ
元、日本海軍の気象観測員で、戦後も気象関係の科学者をしていた増田善信氏についての文章を読んだ。
理系的には1945年当時の日本は戦争に負けるし、気象条件は物理科学的現象である。
しかし、政治的人間関係的態度として、当時は日本は勝つことにしないと殺されるし、気象情報は軍事情報である。
まあ、どちらの立場も当時はあったんだろうね。
アニメ批評という狭い話をしているので、戦争に対して科学的であるべきか政治的であるべきかという話はしないが。(戦勝国であるアメリカも決して科学一辺倒ではなく、割と宗教的な熱狂があった。マニフェスト・デスティニーである)
- 物質か、人か。
もう一つ例示をするならば、僕は湯川秀樹博士がノーベル賞を取った賞金で出来たらしい湯川秀樹記念研究所、(京都大学基礎物理学研究所)で働いていたこともある。もうやめてからだいぶ経つので時効だろうけど。
その業務のひとつに、湯川秀樹博士の所長室を整頓して保存してある部屋に観光客を案内するという、なかなかコミュニケーションが苦手な人間にはきつい仕事があった。
湯川秀樹博士は1949年の日本人初のノーベル賞受賞者である。戦中は核兵器の開発にも関わったが、戦後は核兵器廃絶運動などもしていた。同時に、戦後日本が国際社会での自信を取り戻すきっかけになった人でもある。
そういうわけで、彼は対物研究が本職の人であるが政治的、対人関係、外交関係でのアイコンでもある。
で、まあ、湯川秀樹博士がなんでノーベル賞を取ったのかというと、ざっくり言えば量子力学とか素粒子物理学の分野での、数学的アプローチによるπ中間子の存在の理論的予言であるが。
実際にノーベル賞受賞のきっかけになったのは論文の発表から12年後の1947年、イギリスの物理学者セシル・パウエルが宇宙線の中からパイ中間子を発見して物証が出たからである。
その論文やセシル・パウエル(1950年ノーベル賞受賞)の原子核乾板の宇宙線の軌跡も湯川秀樹記念館には展示してあるのだが。
僕がある時、観光客にその方程式の解説や、原子核内における中間子の役割や、宇宙線の解析の技術の発展の歴史など、具体的で対物的なことの説明をしてみた所、事務長である上司に非常に不評を買った。
そういう専門的な説明はするな、時間がかかって無駄だから、と叱られてしまった。
では事務長は観光客にどのように接していたのかというと、湯川秀樹博士のデスクに観光客を座らせて記念撮影して「頭が良くなるといいですね!」などと言うのである。
オカルトじゃん。
そんな、菅原道真公ほど昔の人じゃないんだからさあ…。
後は京都大学で野球をしていたとか幼少期はどうだったのか、結婚生活はどうだったのか、という業績とは関係ない属人的な親しみやすいエピソードの紹介である。
一度、テレビの取材が来たこともあるが、やはり取り上げられたのは属人的な要素で、中間子がどういうものかなどの説明はなく、ただ単に日本人初のノーベル賞で偉いという紹介をお笑い芸人がしていた。
まあ、かと言って現役の物理学者と話があうほど僕は知識がないので、所属している研究者とは事務手続き上の関係しかなかったのだが。
そういうわけで、戦時中の日本は科学よりも人間関係を重視していたと批判されているが、実は今の日本の研究所の(文系よりの)職員もやはり、科学的事実よりも属人的エピソードを好む。
コロナウィルス感染症も科学的に結局どうするのが正しいのかという物性的な観点よりも、どの国のどの政治家のどの施策が正しいとか、オリンピックと経済効果がどうのこうのとか、人間社会の問題の話題のほうが多い。まあ、人間の想像力は目に見えないウィルスの構造やワクチンの反応機構よりも派手に都庁がライティングされたりネオンが消えたりという、パッと見で分かりやすい施策に親和性があるのだろう。
そして僕はそういう人類を半ば軽蔑して見限って、社会的には世捨て人になっている。
最高学府の京都大学のノーベル賞の研究所でも、受賞者で前所長の益川敏英博士が来訪した後に「砂糖屋の息子だから背が小さいんやろ」と陰口を叩くレベルで尊敬などがない。京都大学と言っても底はその程度であり、幻滅した。
また、学部と中央の職員の権力争いとか、正規職員と非正規の差別もひどく、愛想を尽かした。正規職員の女性が産休をとっている間に、非正規の女性が同じくらいの歳の自分の子供を保育所に預けて安く臨時雇用されるのである。そして、正規職員の産休が明けたら解雇されるのである。なんだかなあ
アニメ批評とは違う話をしてしまったのだが。
やっぱり僕はそういうくだらないホモ・サピエンスの対人関係よりもアニメ作品などの芸術や科学を通じて世界や真・善・美や「決定的に本質的ななにか」を見てみたいのだ。
でも、人間としての僕は無職のクズでありだらしない生活をしているので、金や物はもらいたい。そういうわけで、ほしいものリストを公開しているのである。
ほしいものリストから食料が届くと、稼働時間が延長されるからな。
- ほしい物リスト。
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