玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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ルーヴルへ行くでもスタンド能力でも岸辺露伴は負けてない!逃げるな!批評者!

 前回の記事で「岸辺露伴 ルーヴルへ行く」について書いた。
nuryouguda.hatenablog.com



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 ここら辺で言及されたり、病院に行く金を貸してもらったり、すぱんくtheはにーさんには恩がある。


 しかし…

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 この『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』は、「スタンド使いである岸辺露伴の敗北」であり「漫画家である岸辺露伴の勝利」を描いてる作品なんですよね。

だが それが逆に脳内妹の夫(つまり僕)の逆鱗に触れた!


 おいおいおいおい、あの岸辺露伴がスタンドバトルで負けただって?バカなことを言うんじゃあない!
 岸辺露伴の方がずっと凄いんだ!! 強いんだ!! 岸辺露伴は負けていない!!人を死なせても自分は死なせなかった!! 戦い抜いた!! 守り抜いた!


 というわけで、今回の記事は完全にジャンケン小僧のウザがらみです。

映画ノベライズ 岸辺露伴 ルーヴルへ行く (集英社オレンジ文庫)


  • 記憶とスタンド

 ジョジョの奇妙な冒険 第6部「ストーン・オーシャン」のネタバレですけど、敵スタンド「ホワイト・スネイク」は攻撃した相手から、その情報がつまったDiscを抜き取って、相手の本体を空っぽにする能力がある。
 
リアルアクションヒーローズ ジョジョの奇妙な冒険 ホワイト・スネイク (RAH エンリコ・プッチ 初回購入特典商品)


 抜き取るのは「記憶のディスク」と「スタンド能力のディスク」の2枚です。


 まあ、原作を読んだ人にはもうこの一言で、この記事のオチはバレていると思うんですが。


岸辺露伴 ルーヴルへ行く (ジャンプコミックスDIGITAL)


 荒木飛呂彦先生の思想では人には「記憶」と「スタンド能力」の二種類の情報がある。そして、「岸辺露伴ルーヴルへ行く」の原作によると「記憶」は「肉体」に刻み込まれている、ということになっている。
 「肉体」に「記憶」が刻まれているので、「先祖からの血の繋がりで作られた肉体には先祖の記憶や過去の罪も、自覚していなくても刻み込まれている」という設定。
(「岸辺露伴は動かない」シリーズの「D・N・A」でも「記憶」は「肉体」の「遺伝子」に刻み込まれているし、それは「ヘブンズ・ドアー」で読むことができるけど、娘に現れた「尻尾の形として見えるスタンド能力」の「心の形」は「遺伝ではない」と設定されている)


 「肉体」に対して、「スタンド能力」は「魂のビジョン」とか「生命エネルギーが作り出す、パワーあるヴィジョン」とか「心の形」とか言われている。そして、それは「記憶&肉体」とは「別」、という設定。


 まあ、実在しない超能力であるスタンド能力の設定トークもオタクっぽくて微妙な話なんだけど。

超像可動 「ジョジョの奇妙な冒険」第四部29・岸辺露伴&ヘブンズ・ドアー(荒木飛呂彦指定カラー)


 

  • スタンド能力は肉体より上位

 まあ、身体に作用するスタンド能力とか、格闘戦をアシストするスタンド能力もあるんだけど、「ルーヴルへ行く」でのヘブンズ・ドアーが「記憶を全て消す」という命令を書き込んだけど、それは「肉体の記憶を消す」、ということであって、岸辺露伴の魂のビジョンであるヘブンズ・ドアーは別のディスクなので、それは消滅しない。
 つまり、岸辺露伴は自分の先祖代々の肉体の情報、自分の人生の記憶の全てを失っても「岸辺露伴というアイデンティティ≒ヘブンズ・ドアー」は消滅しない、という「確信」を持っていたということだ。
 岸辺露伴本人はホワイト・スネイクの事は知らないと思うし、「岸辺露伴は動かない」は「ジョジョの奇妙な冒険」と微妙に矛盾する描写も多々ある。
(「第4部ダイヤモンドは砕けない」での岸辺露伴は20歳の時に虹村形兆の「矢」によってスタンド能力を得たけど、「岸辺露伴 ルーヴルへ行く」では少年時代からスタンド使いだったという矛盾した描写もあるし、年齢の設定もずれている)
 岸辺露伴は「肉体の記憶」と「心や魂のスタンド能力」がホワイト・スネイクが抜き取るディスクでは別のディスクになるということは知らないかもしれないけど、荒木飛呂彦先生の設定としては、「スタンド能力」は「遺伝ではない」ということになっている。まあ、親類縁者がスタンドの影響を受けたらスタンド能力に目覚めるという矛盾した描写もあるけど、それは…、ジョジョの奇妙な冒険は序盤から矛盾しているので…。(シーザーのことです)


 なので、「肉体の過去の記憶」を利用して「攻撃」してくる「この世で最も黒い絵」は、「肉体の記憶を全て消す」という命令を自分に書き込んだ「ヘブンズ・ドアー」という「魂のスタンド能力」によって無効化される。というわけで、岸辺露伴はスタンドバトルでも勝ってます
 むしろ、「肉体の記憶」しか持たない一般人では記憶を全て消したら「死んだのと同じ」(ウェザー・リポートに対するプッチ神父)になるけど、「肉体の記憶」の他に「スタンド能力」を持っている岸辺露伴だからこそ、生還できたと言える。
(記憶を操作するスタンド能力では第6部の「ジェイル・ハウス・ロック」もあるけど、これも意志の力で打倒される)


 それによって「黒い絵」のある倉庫から岸辺露伴は脱出することができた。


 岸辺露伴は「記憶を全て消す」と書き込む前に、「顔の文字をこすれ」という命令を左手に書き込んでいた。「記憶を全て消す」状態の岸辺露伴は当然文字も読めないはずなんだけど、それは文字というより、「ヘブンズ・ドアーが書いた魂の命令」なので、それに従って岸辺露伴は「顔の文字」である「記憶を全て消す」という命令を消去して、記憶を取り戻す。


 また、「ヘブンズ・ドアーが書き込んだ命令を岸辺露伴本人が訂正できるのか?」という疑問もあるけど、どうも原作では匂わせ程度の描写だけど、「記憶を全て消す」と書いた「顔の文字」は、岸辺露伴が「黒い絵」を指でこすって「最も黒く邪悪な黒の顔料」を自分の爪に染み込ませて、それを使って書いたようにも見える。
 つまり、「黒い絵の顔料」で書いた「命令」は「ヘブンズ・ドアーそのもので書いた魂の命令」とは違って物理的なもので、外部のものなので、手でこすると岸辺露伴の顔から排除できる。


 その点で、「黒い顔料」にも「ヘブンズ・ドアー」は勝利しているんだ!


 つまり、「物理的な黒い顔料」や「肉体や先祖の記憶」よりも、「岸辺露伴個人の魂、自我、意志」が勝利するという人間賛歌は命の賛歌が描かれている!
(「ザ・ラン」では「肉体に神が宿った者からは逃げるしかない」という側面も描かれているのだが)


  • 自分の命への信頼

 「自分の記憶を全て消す 何もかも」を自分に「命令」した状態では、自分自身がその後どうなるのかわからないだろうし、岸辺露伴自身にも「顔の文字をこすれ」以上の詳細な「命令」を書き込む余裕はなかった。


 というわけで、漫画よりもむしろ映画の方で象徴的に描かれていたというか描写されていたというか、「記憶を全て消す」状態での、つまり赤ちゃんに近い岸辺露伴が真っ暗な地下の倉庫から外へ階段を這って登って脱出するのは、明らかに「出生」のメタファーだ。


 岸辺露伴は「自分の記憶を全て消す」状態でも、「自分は確実に生きようとするだろう」という「自分に対する確信」を持っていたのだろう。(博打かもしれないけど)


 記憶を失った岸辺露伴は「黒い絵」に引かれて見てしまい、再度攻撃される可能性もあった気がするが、本能的に生きるために「黒い絵」を無視して脱出した。


 岸辺露伴は赤ちゃんになっても、自分の人生を取り戻すために生まれ直しすることができる男!自分が復活することを確信して自分の記憶を赤ちゃんまで戻すことができる意志の力!(先祖の遺伝子の記憶も全てなくしているので、むしろ赤ちゃんよりももっと純粋で儚い命そのもの)


 それに、「黒い絵」のモデルの藤倉奈々瀬は岸辺露伴の遠い先祖である。そして、「黒い絵」を描いた山村仁左右衛門の妻でもあるので、奈々瀬を描いた「この世で最も黒く、邪悪な絵」から出て来た奈々瀬の幽霊に岸辺露伴が触れていたら、「グレイトフル・デッド」の「直」と同じ威力で岸辺露伴を破壊していたことは確実。


 荒木飛呂彦先生の作品での女性の描写はちょっとまあ、その、アレな部分もあるんですけど…。


 原作の岸辺露伴は少年時代に自分の漫画原稿、つまり自分の魂のビジョンを藤倉奈々瀬に否定されて切られたことで、奈々瀬への初恋の「慕情」を捨てて自分を「切る」決断ができたと述懐している。


 つまり、遠い先祖であり初恋の相手であり、ハッキリ言ってしまえば「母親」のメタファーである奈々瀬を描いた「子宮」のメタファーのような真っ暗な「Z-13倉庫」から岸辺露伴は臍の緒のような「肉体の記憶」を自分で切って、血のつながりから脱却して、自分の力で生まれ直しをして、自分の命を自分で獲得する男だということだ!


 母親と決別して自分の命、自分の魂は自分のものだと確信して自分の縁を切るのが岸辺露伴の強烈な自我、エゴということだ。(まあ、そういう風に仕向けたのも奈々瀬の幽霊の仕込みでもあるんだけど)


 というわけで、岸辺露伴は「顔の文字をこすれ」という「命令」以外のスタンド能力も、記憶も何もかもなくした赤ちゃん以下の純粋な生命、肉体になっても「生きようとするために子宮から脱出する本能の力」も持っているわけで。スタンドバトルだけでなく、純粋な生命力としても岸辺露伴は「黒い絵」に勝っています。


 血の繋がりの記憶を全て断ち切って、自分の生命力だけを頼りに、岸辺露伴は自分の未来の生存を勝ち取った!
(また、「黒い絵」が呼び寄せる過去の先祖の死者の幽霊たちは「死」しか情報がないのでヘブンズ・ドアーでも新しく書き込めないけど、岸辺露伴は現在を生きているので未来に向けて新しい「命令」を自分に書き込むことができる、という点でも命の賛歌です)



 そういう風に、僕は岸辺露伴は勝っていると思いたいオタクなので、すぱんくさんの「岸辺露伴はスタンドバトルで負けている」という解釈とは違うなあって思うんですけど。


 でも、それは原作やストーン・オーシャンのディスクの設定を知っているから「肉体の記憶と自我は違う」と言えるわけで、実写映画だけ見たら「自分が一生懸命取材してきた記憶の情報も全て消さざるを得ないほど追い込まれた」という見方になるのは当然だと思う。というか、すぱんくさんも原作のことは分かっていると思うんだけど、映画批評として原作を参照しないルールや、映画批評としてスッキリまとめるためには原作との細かい違いを云々するより、映画で描かれた泉京香のメッセージ性を以って映画を語る方を選んだんだろうなって。


(ただ、僕の個人的な事情によって、僕は家族とのつながりを肯定的に解釈するより、個人として切り離れたいという見方をします。ジョニィ・ジョースターが父親に認められた時、もうすでに彼は次の戦場に向かっている)


  • 原作と映画のメディアの違い

 まあ、その、先祖に作られた肉体の記憶と自分の魂であるスタンドは違う、っていう荒木飛呂彦先生のジョジョの奇妙な冒険の世界観の設定とか、原作ファンしか知らんし。「なんか映画をやってんなー」という気持ちで映画だけ見た人からしたら、そんな細かい設定は知らんし。
 NHKで放送された「岸辺露伴は動かない」のドラマでも「ヘブンズ・ドアー」は「スタンド」ではなく「ギフト」と表現されている。


 それに、一般的感覚では「母親が息子の幽霊に会ったら死ぬ」とか、「岸辺露伴がおばあちゃんの幽霊に触れたら死ぬ」という原作での「家族を否定する価値観」はあんまり受け入れにくいと思う。


 いや、岸辺露伴のおばあちゃんは偏屈な性格だけど、「触れたら死ぬ」ってほど悪人でもないので。でも、ジョジョの奇妙な冒険の世界観では幽霊は理不尽だし、理不尽なものに触れたら生前におばあちゃんとの関係がよくても悪くても、先祖の罪がつながって死ぬのだが。原作の「岸辺露伴ルーヴルへ行く」でも藤倉奈々瀬の言動は割と支離滅裂と言うか、矛盾が多い。幽霊なので。


 理不尽に死ぬ(テキトーなトリックで読者を無理やり納得させる)って言うのが割とジョジョではあるんだけど。(いや、虹を見ただけで体はカタツムリにはならんし、マイマイカブリはどこから来たんだよ…)


 一応、この映画版の「岸辺露伴ルーヴルへ行く」は一般公開された独立した映画作品でもあるのだからね?


 あと、漫画は「どういう怪奇現象が起きているのかって言う解説」を「文字」で書いて読者に納得させるメディアだけど、録画媒体が販売されるまで巻き戻しができない一発勝負に流れる映画だと、「怪奇現象の理由」を説明するのは非常に難しく、直感的にわかるようにしなくてはならず、そのために「最も黒く邪悪な絵」も原作の「蜘蛛の糸を伸ばすように誘う女」ではなく、「いかにもホラー映画に出てきそうな見てはいけない(リングの貞子的な)怪異」みたいな黒髪の女として描かれているわけで。「漫画原作とは違うけど、映画の文脈を知っている映画ファンならそういうホラー的な意味を感じそうな絵」に翻案されているわけで。


 また、岸辺露伴を攻撃するのも、一般的な価値観では親愛の対象であるおばあちゃんやおじいちゃんの幽霊や初恋の相手であってはいけないので、山村仁左右衛門のサムライアックス的な幽霊に変換されているし。


(荒木飛呂彦先生の作風だと、本来は親愛の対象である肉親や先祖や思い出の女性がいきなり理不尽な攻撃をしてくるのがショッキングな展開として盛り上がるんだけど、そこは一般的な映画の価値観とは違うわけで)


 そういうわけで、映画版では原作ファンに向けて「この映画ではおばあちゃんは敵ではないですよ」というサインとして、フランスに来た時の岸辺露伴はおばあちゃんがつけていたようなサングラスをしている。そういう目くばせはしている。そのせいもあって、「黒い絵」が生まれた経緯もちょっと丁寧すぎるくらい嚙み砕いて描写して説明している。(単に時代劇っぽいことをしたかっただけかもしれないけど)



 というわけで、メディアの違いや視点によって、岸辺露伴が勝ったか負けたかの判定も変わるし、DIO風に言えば「作品の批評に強弱はない。漫画には漫画の、映画には映画の、文脈がある」。


  • バトル漫画じゃない

 というか、ジョジョの奇妙な冒険の作風だし、「岸辺露伴は動かない」シリーズでも多用されているけど、「攻撃」を受けている!というバトル漫画的な雰囲気が原作にはある。


 「攻撃」を受けて、それにどう対処して勝利するかって言うバトル漫画文脈が荒木飛呂彦先生の作風としてはある。(ハッピーエンドなラブストーリーの「D・N・A」は別冊マーガレットに掲載されたので「攻撃」の要素は比較的少ない)


 そういうわけで、一般映画公開の実写版「岸辺露伴ルーヴルへ行く」はホラーともサスペンスとも冒険とも時代劇とも洋画とも邦画ともジャンル分けがつかない、ふわっとした雰囲気の映画なのでバトル漫画文脈での「攻撃に対しての勝利」の価値観は減っている。
 映画ではあんまり「攻撃」というセリフは出てきてないように思えた。(全部のセリフは一回しか見てないので覚えてないけど)


 というか泉京香という女性キャラクターが添付されているので、原作よりもより一層、女性的な(バトル漫画文脈ではない)ニュアンスが増えているし、その結果として「幽霊は攻撃以外の意図でも出てくる」と補足されているわけで。
 それはまた、原作の「岸辺露伴が単独でルーヴルへ行く」とは違って「岸辺露伴が女性編集者の泉京香とルーヴルへ行く」という状況の違いでもあるし、ソロ戦闘とグループ行動の違いでもあるわけで。単純に映画の方が一般受けを狙って翻案している、とも言いにくい。岸辺露伴は単独行動するときは主人公になるけど、パーティメンバーになったら、どっちかというと攻撃役は仗助とかに譲ってサポート役に回りやすい能力だし(前衛にも後衛にもなれるので便利ではある)。
 実写ドラマの流れとして泉京香を出すんなら、「岸辺露伴は原作通り助かるけど、じゃあ泉はどうやって助かるのか」って補足は必要だし。



 なので、この文章も、「男の子のバトル漫画って勝ったとか負けたとか、強いとか弱いとか、くだらないことにこだわるよね」という話でもある。



  • ほしい物リスト。

https://www.amazon.co.jp/registry/wishlist/6FXSDSAVKI1Z
↑グダちん用


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