玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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なんとなく「岸辺露伴ルーヴルへ行く」の映画を見た

 僕のグロンギ怪人としての名前はヌ・リョウグ・ダ(電気羊種怪人)。
 結婚後の名前は「頭令倶雫」(ずりょう・ぐだ)脳内妹がつけてくれた名で。「俱」は「ともにある」、そして「雫」は「A.(元の字)意味不明 B.国字でしずく(三省堂「新明解漢和辞典―第四版)」という意味。


 職業はチンピラアニメ感想ブロガー(本当は小説家か萬画家か科学者になりたかった)で国籍は日本。宗教は土着神道と小乗仏教とキリスト教の異端思想グノーシス主義のハイブリッド。


 そしてとても重要なことだが、僕自身の夢を覗いて共有する能力を持つ脳内妹の「頭令そら」と若いころに萬画や文章のトレーニングとして書いていた夢日記(何しろ夢は何も取材しなくてもタダでネタが湧いてくるので)を通じて出会い、夢に引きずられて発狂し、一度、過労死寸前で死んだときに臨死体験の夢の中で脳内妹に分け与えられて蘇生した命を持つ夢使いだ。


 カラッとひらけた妻のそらと、ジメッとよくわからないものを集めている僕の俱雫とは陰陽を分け合う関係のある名前で、個人的にバランスが良くて気に入っている。


 そういうわけで、九州の幼稚園に通っていた時の連絡ノートに「夢の久作どんのような子」と書かれていたし、現実にはあまり馴染めなくて夢や無意識に従ってなんとなく突発的に行動するところがある。


 いつまでも時事ネタをブログのトップにしているんじゃあないってことでもあるし、今月はいろいろなキャンペーンで買い物を集中させたい時期でもあるということだし、宮崎駿監督の最新作の映画が公開されたので映画館に行きたい気になったけど、個人的に家族関係の描写が苦手なので宮崎駿監督の映画は見たくない気分だった。
 また、先日、なんとなくクロスボーン・ガンダムの漫画を買いに本屋に行った時に「ルーヴルへ行く」の映画公開に合わせた再版を含めた岸辺露伴シリーズのスピンオフの小説などを偶然見つけてなんとなく買って読んでいた。


 また、Twitterなどで親交もあるし、先日、アルコール依存症による糜爛性胃炎による嘔吐癖に陥った時に病院に行く金を借してくれた恩人である「すぱんくtheはにーMk-Ⅱ」(変な名前だなあ)という批評家のnoteでの映画批評連載は大体毎週読んでいる割に、なぜか「岸辺露伴 ルーヴルへ行く」の批評は告知ツイートにも気づかず読んでいなかった。
note.com


 というわけで、すぱちゃんの批評を読むためにも「岸辺露伴 ルーヴルへ行く」の実写映画を見ることにしたのだ!(バァン!)


 僕は引力を信じている。攻殻機動隊の人形使いという人工知能も「縁」を重視していたし。
 この物語の主人公の岸辺露伴も、なんとなくの思い付きで行動してすぐ事件に巻き込まれるので、まあそういう気分だったんだよ。
 ほっとくと永遠にひきこもるので、意識的に外出するようにしている。(痩せたい)

岸辺露伴 ルーヴルへ行く VISUAL BOOK

  • よくできた映画だった

 原作はルーヴル美術館と荒木飛呂彦先生のコラボのためにかかれた企画モノで、日本の漫画でありつつ向こうのフランスのバンド・デシネ(帯のように連なった絵という意味)としても読めるように工夫された、ちょっと変な作品だ。
 まあ、ジョジョの奇妙な冒険という漫画自体変な漫画だし、その中に出てくる漫画家の岸辺露伴というキャラクターを中心にした怪異談「岸辺露伴は動かない」というのもジョジョの奇妙な冒険のスピンオフとも言いきれない矛盾をはらんでいるし、その変な12年前に描かれた企画モノをテレビドラマ番組の流れで実写映画にするというのも変なものだ。


 僕は変なものが好きだ。


 原作も映画の鑑賞前後で読み返してみるとかなり変だし、変な部分を「日本の漫画はこうだから」というのと「海外に見せるためだから」の二つの理由で変なままにしている作品だ。そして、映画にするにしてはあっさりし過ぎている。


 もちろん、これまで1時間程度のNHKの実写ドラマ番組になった「岸辺露伴は動かない」の漫画原作のエピソードごとのページ数もそれほど多いわけではなく、むしろ「ルーヴルへ行く」の方が長いくらい。
 なので、ドラマ番組として短い読み切り漫画を膨らませたスタッフ陣ならよろしいだろうと、お手並み拝見。


 というわけで、ちゃんと映画になっていた。


 「読者のみなさんは、この世で最も『黒い色』という色を見たことがあるだろうか?」ということがテーマの漫画が原作であるので、クロを伝統的に重視してきた影絵である映画とは相性がいい。
(ちなみに僕のこのブログのタイトルである玖足手帖というのも玖(黒い宝石)と9(十になり切れない)をかけているので、そういう究極に近いが究極ではない欠落した暗黒は個人的に好きだ)


 そういうわけで、映画として、絵はとても見ごたえがあった。ルーヴル美術館でのロケのどこまでが現地かは、めんどうくさいということと余白を残したいということがあって調べていないが、まあ、色んな美術品や建築が見れてよかった。


 また、日仏合作映画という企画ものであり、ジョジョの奇妙な冒険自体が多分に映画のパク、いやオマージュを含む作品であることもあり、「邦画っぽさ」と「洋画っぽさ」(フランス映画っぽさは論じるほど見てない)と「ジョジョっぽさ」の要素を巧みに組み合わせて漫画と映画のメディアの違いに意識的だと感じた。
(ちなみに僕は石ノ森章太郎先生を尊敬しているので普段は萬画と表記しているけど、岸辺露伴はマンガ家なので漫画表記にしている)
(このように僕は自分にいろいろなルールを科しているタイプなので行動するときに「なんとなくの衝動」をきっかけにしないと動きにくくなる)


 テレビ番組のころから良かったが、漫画にはない音楽やカメラワークの演出も巧みでよかった。


 なので、邦画と洋画のハイブリッドで、漫画と映画のハイブリッドでもあり、一つ一つはジャンル映画的な場面でもあるが、全体としてはホラーともラブストーリーとも冒険とも推理ともジャンルにまとまらない奇妙で変な映画になっていたし、ある意味オールジャンルスターバトル的な感じだった。


※追記
絵画に対する漫画原作で、アートに対する映画という感じで、アーツ即ち人の意志は感じられたので人間讃歌だとは思う。(20日11時38分)


 すぱんくtheはにーMk-Ⅱさんも構成を褒めていたし、とても練られていてよかった。


 よかったのだが。


 短い漫画を長い映画にしていたので、その点は匠の技と言える。


 しかし、長すぎないか?
 まあ、待望の海外ロケ映画ということでいろいろしたかったんだろうな…。


  • 良い作品と好きな作品は違う

 これは非常に個人的であまり重要なことでもないのだが、僕は遺伝上の母親が自殺しているため、ヘブンズ・ドアー風に言うと「人生の記憶の本」、あるいは言語的思考に「お母さんがなくなってしまった」が常に差し挟まれている。川尻早人の場合は「僕の父さんは殺された」がだいたい一回くらいだけど。


 例えばこう。今日は映画館に行くので電車とバスに乗った。

「家を出る。鍵を閉める。鍵をカバンにしまう。駅まで歩く。目的地を確認する。切符を買う。改札を通る。電車を待つ。電車が来た。電車のドアが開く。電車に乗る。空いている席を探す。席に座る。スマホを見る。車内アナウンスを聞く。降りる駅を確認する。駅に着いた。電車を降りる。改札を通る。スマホを見る。バス停まであるく。喉が渇いた。途中のコンビニでジュースを買う。コンビニに入る。ジュースを選ぶ。ジュースを買う。ジュースを飲む。空き缶をごみ箱に捨てる。バス停に着く。乗る路線を確認する。バスを待つ。スマホを見る。目的のバスが来た。バスに乗る~~~……」


 この句点の「。」の全てが「お母さんがなくなってしまった」に変換されているのが精神障碍者二級相当の鬱病患者である僕が意識している世界だ。

(実は精神科医にも僕の精神疾患は込み入りすぎていて、病状も症状も病因も多すぎて発達障害とも人格障害とも神経障害とも診断できないのだが、うつ病という要素を切り取っただけでも十分精神障害者手帳二級が発行されるレベルの重篤さ、と言われている。なので本当は自分が何の病気かもわかっていない)


 いや、別にかわいそう自慢をしているわけではなく、結論を言うと僕は非常に退屈しがちであり、退屈すると常に自動思考で母親の死を思い出す。これは母親が自殺して11年経つのに染みついてしまった思考で治療も難航している。それに自殺する前から色んな事情で精神が壊れていたので、今は「いやなこと」の代表が「母親の自殺」に置き換わっているけど、自殺以前から常に「いやなこと」を思考に挟みながら生活していた。


 そして、その「いやなこと」が浮かんでくる時間はほんの数ミリ秒あればいい。その数ミリ秒の退屈で、一気に精神は底まで落ちる。


 というわけで、「岸辺露伴ルーヴルへ行く」を鑑賞している最中に「よくできている。」「うまいカメラワークだ。」「音楽もいい。」「俳優もなかなかだ。」「なるほど、そう再構成しているのか。」と「冷静に批評家のように見る余裕がある」と言うのは「退屈」に近い。まあ、習慣的な感想ブロガーなので他の映像作品でも常に作品を見ながら同時に感想文を脳内で書いているという癖がある。


 これはこの作品の敵である怪異の攻撃、「記憶の罪悪感」に似ているので、まあ、実は他のアニメとか見ている時もいつもそういう気分だけど、今回はそういう事情もあり書いてみた。


 そして、「記憶の罪悪感」に苦しむのは、別にこの映画の怪異が出てくるシーンよりずっと前の序盤から、というか日常生活のほぼすべての場面で感じていて、「よくできた映画を見ているはずなのに、気分が悪い」というあんまりよくない状態になってしまった。


 家でアニメを見たりするときも、これは批評家としてブロガー活動をしているものとしては周囲の人や読者に嫌がられるのかもしれないけど、倍速再生で「圧縮」したり「同時並行の、ながら見で体操や筋トレ」をしないと「いやな気分」が湧いてしまう。なので


「いやな気分」を吹き飛ばすのは本当の芸術から受ける「圧倒」、もしくは自分の精神の「加速」(興奮状態や、登山などの危険状態や、火を使った料理や模型製作や畑仕事など連続した作業や、一塊のアイディアを途切れなく文章にしている時)だ。
 または「いやな気分」にすきまに「デスメタル」を強制的に流し込んでたりアルコールや薬物を摂取して精神を錯乱させる。
 

 そういうわけで、「いやな気分」を感じないで見れる作品はとても希少で、ハッキリ言うと富野由悠季作品や出崎統作品くらいだ。
 まあ、それは個人的な脳の神経がそういう反応をするだけで、僕の脳みその体質がそうだから、僕に審美眼があって、僕が嫌な気分になる作品は劣った作品である、とは言えないのだが。単なる個人的な事情だ。


 こういう長々とした文章を書いてしまうのも「いやな気分」を忘れるためだし、長々とした文章に没頭している時は比較的「いやな気分」を感じにくい。(メタルは聞くし効く)


 まあ、無理やり「岸部露伴ルーヴルへ行く」の「邪悪な絵の呪い」に関連付けると、実は「記憶の罪悪感」の攻撃能力はそれほどでもない。
 漫画や映画だから「記憶の中の死を肉体が再現して死ぬ」という誇張表現をしているが、親が首を吊っているからと言って、実際の僕は常にそういう場面を思い出し続ける日常生活を10年以上も続けているので、死んでない。(福祉のお世話にはなる)
 「口の中に苦い虫を無理やり突っ込まれた気分」とか「気が付いたら数十秒程度呼吸してなかった」とか「手足が酸欠の時のようにしびれる」とか、その程度の不快感があるくらいで、別に死なないよ。(まあ、長期的には血栓やガンのリスクが高くなりそうなのだが、それでも41歳まで生きたのだから。周りではもっと若い人が5,6人は自殺している)


 それは僕の命が肉体から発生したものではなく、夢の中で脳内妹に与えられたギフトに置き換わっているからかもしれないのだが。そもそもなんで生物が生物なのかということ自体が奇跡だよ。


 それに悪い事ばかりではない。自分で自分を焼く呪いの炎に常に焼かれていると、他人に悪口を少し言われても、何かの外部事情で損をしても、ほとんどゼロ近似できて、どうでもよくなる。たいして腹も立たない。自分が一番自分に迷惑をかけているので。


 そういうわけで、僕は論理的に行動していると、その隙間に「いやな気分」を感じてしまうので「唐突になんとなくの思い付き」でランダムな行動をするように心がけている。これは社会的にはあんまりよくない態度で、労働には向いていないのだが。


 荒木飛呂彦先生の原作の「岸辺露伴ルーヴルへ行く」を読んでいる時は、あまりいやな気分にはならなかった。(メタルを聴きながら読んでいたからかもしれないが)


  • ランダムさと整合性のなさを好む

 岸辺露伴は唐突に行動する。リアリティを重視すると言っているけど、あまり論理的な行動ではなく、なんとなく気分で行動する。
 そういう態度はクソなんだけど、僕もクソなので結構そういうのが好き。


 荒木飛呂彦先生の原作の「ルーヴルへ行く」も途中経過が漫画のコマの間で飛ばされていたり、特に論理的でなかったり、雑なモノローグで済ませられている。つまり「すっ飛ばされている」。そういう「加速」があると、あんまり退屈しない。
 映画は段取りが端正なので、そこがちょっと合わなかったのかも。
 小林靖子さんもあんまりお行儀のいい脚本家ともいえないのだけども。「夢使い」なあ…。


  • 罪の有無

 「罪の記憶」が「邪悪」の攻撃方法なのだが、映画は割と「悪い奴は悪いことをしたからその罪に攻撃される」という一般論理的な勧善懲悪と言う雰囲気で、「いやなことをいやだと思わない」という希望的な要素が添付されている。


 原作だと「罪を背負っていない人間はいない。そいつが善人で何も知らなくても、知人や先祖は必ず罪を犯している」という罪の前の平等という雰囲気なので、僕のような外道はそっちの方が肌感覚にあっている。外道なので。
 「罪の前の平等」はキリスト教的価値観であり、それはフランスとのコラボ企画だからなのか、時期的にスティール・ボール・ランのアメリカの雰囲気を荒木飛呂彦先生が引きずっていたからなのか、まあ、ハッキリとはわからないし。同時に「岸辺露伴は動かない」には「スタンド能力以外にもよくわからない『生き物』は突発的に存在する」という日本の妖怪的な理不尽さと説明不可能がある。
「歴史的記憶の説明しがたい重み」の表現は原作漫画よりも「ルーヴル美術館という建物そのものを撮影した映画」の方がオーラがあったんだけど。


 そこが一般公開の映画と、バンド・デシネと漫画を混ぜた企画ものの想定観客層の違いかなあ。


 あと、岸辺露伴の勝利っぽさは映画(のすぱちゃんの解釈)だと「つながり」というか肯定的なもので、漫画だと「切られた」というか否定された経験なので。僕のような外道は否定されたことが多いので、それをパワーにする逆転はカタルシスを感じる。


 僕のような外道は結局、スッキリとしないまま、いやな気分を日常的に味わいながら、唐突になんとなく芸術作品や花や星や山を見たくなって、その時は少しいい気分になる。そんな感じです。出崎統監督も人生はそんなものだってAIRかCLANNADのパンフレットで言ってたし。



 あんまりこういう長ったらしい感想を書くのも体や生活リズムに悪いんだけど、思いついたことを書かないとずっと思い出す。というPTSDとはまた違った体質でもある。外部記憶に書いたら忘れる。忘れようとしても案外、何かはまた湧いてくるものなのだ。

  • ほしい物リスト。

https://www.amazon.co.jp/registry/wishlist/6FXSDSAVKI1Z
↑グダちん用


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匿名で住所を伏せてプレゼントを送るための、つかいかた
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