玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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東映版地球へ…

http://www.style.fm/as/13_special/mini_070618a.shtml
http://www.style.fm/as/13_special/mini_070619a.shtml
http://www.style.fm/as/13_special/mini_070620a.shtml
恩地日出夫監督の傷だらけの天使はスゲエ好きだったなあ。コンビーフを真似して食ったりした。
んで、ストーリー的にはいろいろ惜しいと思った。どこからが原作で、どこからがアニメなのかよくわからんので、うまいこと書けないので書かん。ガンダムと同時期の古典SFインスパイアモノなんだなーとは思った。
連載中の作品に映画で結末をつけたのは勇気があっていいとおもう。
アニメーションとしても、ガンダムと同時期で、色々と手探りで技法を作り出していたんだなあと思った。
だから、外しちゃってる所も在る。
今は常識的になっている所もある。
独り善がりな所も在る。
やっぱり、宇宙船は貝だとダメだよ。機能が見えないと。そもそも、劇中では拾い物なんだから、もっと急造な感じじゃないと。
ともあれ、地球側のメカニックも当時の時代らしく、機能ではなく雰囲気優先のデザインで、ミュウの珍妙な宇宙船とドッコいどっこいだから、今の目線で見ると、まあ、どっちもどっち。
監督がアニメではなく、映画を撮ろうという姿勢は富野信者的にもいいのだが、やはり、アニメをツールとして使いこなした上で映画を撮って欲しいとは思う。
実写のフィーリングが、当時の萬画アニメしかしらないスタッフに新しいアイディアを提供した部分もあるので、全否定はしないが。
冒頭のジョミー・マーキス・シンが日常の着替えや歯磨きをするシーンは、実写の感覚でやると傷だらけの天使のオープニングのような感じで自然なのだろうが、やはり、痛痛しい。
よく動くのが、逆に痛痛しい。
1コマ打ちで滑らかにぬめぬめと動くのが、気持悪い。しかも、普通なら着替えやら飯を食うって言うのは、ダラダラと十分くらいかけてやるものなのだが、アニメの冒頭で1分くらいで済まそうと思うから、昔のディズニーのアニメの用にあわただしい物になる。
これは、今のCGアニメと同じく、作り手がアニメーションと言うツールを使いこなせていない問題なんだな。
他にも、異様にフルアニメーションするくせにいきなり中のコマを抜いてパラパラ萬画になったりするところもあって戸惑った。
超能力描写も大友克洋以前ですねえ。
絵柄も古いよなあ。なんか、美少年って言う感じじゃなくてなんかマッチョくせえ。劇画チック。
でも、顔の書き方とか、瞳の感じは古い漫画って言う感じだ。射的の的じゃないんだから。
つーか、こないだのテレビ版地球へ…と比べたらいかんよな。
結城信輝は美しすぎる・・・
結城信輝は、筋肉も在りつつ、美少年でして、いいねえ。大好き。
テレビ版地球へ…の衣装デザインが敵味方陣営で区別がつきにくいという出渕裕のセンス問題について考えていたが、映画マンは押しなべてステロタイプなSF全身タイツにベルトと言う感じだったので、まー、それよりゃあましかなーと。
でも、巻末広告の夏への扉の絵は素晴らしかったなあ。今度見よう。
ただ、基本的なキャラクターデザインはやっぱり原作でしっかりしているし、劇場版で端折られていてもテレビ版でみんな活躍していたので分かりました。
声優は、テレビ版よりも大分男らしい感じ。男性キャストが多い。
シロエが神谷明で熱血漢ゆえの探究心という感じでした。トォニィはアムロかー。パンフレットでジョミーをやりたかったと言う古谷徹はやっぱり主人公厨だなあ。
しかし、ジョナ・マツカはなぜか薬師丸ひろ子・・・。
薬師丸ひろ子はプロデューサーがねじ込んだのかー。いやー。ダメダメでしたねー。あれじゃあ、マツカを女の子にした方がまだ魅力的だったよ。全然ホモ臭くない。
秋吉久美子も棒読みだったなあ。
グランド・マザーの岸田今日子もマザー・イライザの池田昌子もよかったのだが、コンピューターを別人にする、と言うのは分かりにくかったです。
うーん。でも、コンピューターにも階層がある、というのが映画版で、テレビ版はネットワークだと言う設計思想の違いかなー。


ストーリー的には、原作と並行していたので、あんまりどっちがどっちかと言うのはやっぱり分からない。
ただ、惑星ナスカで踊り狂うのは東映っぽい、健全なお祭と言う感じでしたね。
しかし、全体的に色調が暗い。未来世界も30年近く前の未来世界だから。テレビ版では未来世界だからこそ、インテリアに植物や青空を人工的に取り入れてるなあ。
ヒロインになりうる女性キャラクターがカリナしかいないというのはどうしようもねえな。
テレビ版はいっぱい女の子が増えてよかったです。やっぱり女の子が多いと華やぐもん。
しかし、テレビ版のジョミーは誰ともくっつかないんだな。
映画版のジョミーはカリナを失ったり、自分もボロボロになったりする分、戦う理由付けがテレビ版よりも大分分かりやすかったです。
テレビ版は、そこら辺がソルジャー・ブルーの見せ場に振り分けられていたのかな?
でも、テレビ版のジョミーはなんだかしっかりしないでよくわからない奴と言う印象だったので、映画版の方が男らしいというか、勢いというかパトスがあってよいです。


それで、僕としてはやっぱり、気持悪い話だなあと思いました。
祖先によって計画付けられた生存競争という大枠も割と気持悪いんですけど、それは風の谷のナウシカの原作版とかにも似たモチーフはあるし、まあ、SF的にはありです。
ただ、そういうのよりも、暗喩の部分が気持悪かった。
ミュウが若者の象徴と竹宮惠子先生が言いながら、それも植え付けられたものだといってみたり、気持悪い。
つーか、超能力がある=体制に反逆、というのも変な話だよなあ。便利に使おうよ。
というわけで、けっこう粗があったなあ。


それよりも、やっぱり僕は母性の恐ろしさが気持悪いと思ってしまう。
http://homepage3.nifty.com/manga/manga/9803con1.htm
こちらで、

 人々を支配して管理する者だか物だかが登場するわけではない『生物都市』を管理社会モノに分類するのはやや無理がありますが、先にあげたコンピュータかあさんの人間支配が描いてある作品と『生物都市』は、同類です。

 管理ってのはそもそも管理する側の主体があるはずなんですが、すべてを包みこんでしまう母性的な支配は、管理の主体が無くってもかまわないわけです。状態としては男性的な支配とはぜんぜん違いますが、そこで支配されている人らにとっては自立的な行動を束縛されてるという点で同じです。

 だから『生物都市』は、『地球へ…』『火の鳥』などの、支配の主体が母なるコンピュータとして登場する作品群とおなじ位相にある作品と考えていいわけです。管理する側の主体さえ消してしまったという意味ではむしろそれを純粋にしたといってもよい。

と仰ってるのは、なるほどなーって言う感じです。
でも、映画版では最後に男性型のコンピューターというか計画者のコピーが出てきて、管理者としての目的を父親的に語るので、そこら辺がアンバランスで変な印象だ。
つまり、母親から巣立つために戦っていたのに、母親は父親の支配を受けていた!と言う風に見えてなんだか落ち着かない。
で、父親は子どもの事なんか割とどうでもいい。
そんで、子どもである人類はわやくちゃになっちゃって原始に帰ってしまうのだが。
結局のところ、ある程度まで復興したら戦争を起こして自然状態に返そうと言う計画?
うーん。それはそれで変なの。
なんだか、色々とアンバランスに見えるんだよなあ。
キース・アニアンがミュウの発生に早いうちから疑問を抱いて、それが物語の縦軸になっているのはテレビ版に比べて良い構成だと思ったけど。


まあ、コンピューターが母親のメタファーと言うのは分かりやすすぎるし、そもそもコンピューターは道具にしか過ぎないので、割とどうでもいい。道具の使い方を忘れた人類はダメなので、ダメになって当然です。



むしろ、もっと気持悪いと思ったのは、
テレビ版では兄妹だったフィシスがキースの直接的な母になっているのが気持悪かった。
確かに、フィシスの行動は母親のなせる業だと考えれば、すっきりするが、恐ろしくもある。
コンピューターに疑問を抱いていたキース・アニアンがジョミーを殺したのはマザーコンピューターの命令に従っただけではなく、母親を巡る恋敵だったからかもしれない。と思うとまた怖い。


一番怖かったのは、「ジョミーは母さんよりもフィシスを愛している」というトォニィ。
これが結局、ラストシーンにも繋がってくると思うんだけど、凄く怖いなあ。
どれが原作なのかは分からないんですけど、テレビ版はトオニィがジョミーの義理の孫で、そこら辺はすっきりしてたし、世代交代と言う展でも上手く行ってる。
しかし、映画版の設定はきつい・・・。
地球へ…のキャラクターはマザーコンピューターの支配だけではなく、母親の思い出に固執したり、そのわりに記憶を成人になる時に消したり、消すというくせに子供の時は暖かい家庭を偽装したり、なんだか奇妙にマザコン的な価値観で彩られているわけですが。
トオニイは自然出産児を作るという父親のイデオロギーと娘の狂信で造られた子どもな訳で、これはジョミーがバイオロイドだと言う杜撰さなのかもしれない。
その結果、カリナは愛情を子どもに向けすぎて自爆するし、トオニィも母親を父親に利用されたと思いながらも父親に利用される事で自意識を保とうとしてて、凄く痛痛しい。
それで、ジョミーも子どものまま父親になったものの私怨とイデオロギーに閉じこもったまま戦って死ぬ。トオニイは人とのつながりを失って、仲間の孤児とともに旅に出るしかない。
すごく恐ろしく救いの無い話です。
SF的な闘争よりも、こう言う小さな家庭がすれ違って崩れる方がリアルに怖い。
でも、ここら辺の心情を、果たして製作側はどれだけ自覚して造っていたのか?と言う事がわからん。
これだけ気持の悪いメタファーが散りばめられてるのに、「大宇宙の愛のドラマ!」とか言って、ダ・カーポも愛を歌い上げるわけですよ。
まあ、宇宙戦艦ヤマトの愛がはやっていた時代だったわけですが、僕は愛なんて言うものは口だけのものと分かっているので、もっと求め合いたいです。
一人だけでは嫌だ!お前だけでは無理だ!と求め合わないで上っ面だけ愛を語っても、その奥には母性による侵食と父親に対する恨みと生まれた事に対する罪悪感が渦巻いている。
やっぱり、僕は生命って本当に気持ちが悪いと思います。
父親にとっては排泄物が他人の体の中で変質した物が子どもだし、母親にとっては癌細胞に近い肉芽で外部端末です。
そもそも、人間が生まれるという現象そのものが、僕にとって気持悪くてたまりません。
でも、人工子宮や培養人類はそれ以上に気持悪いし危険だし、何よりそこまでして作る意味も価値もありません。
だから、まあ、気持悪いまま仕方なくヘラヘラ生きて死ぬしかねーんだよなー。


でも、やっぱり母性という物は怖いので、脳内妹とイチャイチャしたいです。




と、いうわけで。




やはり、原作に当たらないといかんか・・・。
まあ、死ななくて金と時間があったら読む事があるでしょう。



つーか、植民惑星で安定できてるんなら、地球なんてどうでも良いじゃん。
これもマザコンなのかなあ?