いよいよ来週23日に第3話までのイベント上映が迫っているGのレコンギスタですが。
先週9日に第1話の冒頭10分間が公開され、ガンダム展やインターネット、各種アニメ雑誌の富野監督インタビューなどで設定資料などが先行開示されております。
なので、本稿ではガンダムエース2010年12月号、およびニュータイプ エース Vol.1 2011年 10月号に掲載された富野監督による未完の小説で「ガンダム Gのレコンギスタ」の原案小説となった「はじめたいキャピタルGの物語」(全8p)を読み返し、4年でどのような変化があったのか考えてみた。
「はじめたいキャピタルGの物語」では謎のモビルスーツGを鹵獲して、Gから出てきたアイーダと主人公が対面するまでを描いている。なので、1話のBパートの途中くらいまでであろう。
- 用意したもの
・ガンダムエース2010年12月号
・ガンダムエース2014年8、9月号
GUNDAM A (ガンダムエース) 2014年 09月号 [雑誌]
- 出版社/メーカー: KADOKAWA
- 発売日: 2014/07/26
- メディア: 雑誌
- この商品を含むブログ (3件) を見る
・TVBros8月2日号
・月刊ニュータイプ2014年9月号
・日経エンタテインメント2014年9月号
・トイズアップ003号
・Gのレコンギスタ冒頭10分https://www.g-reco.net/
・(映像の原則2011年改訂版42P目)(2話以降の内容と推定される1ページの脚本)
- 共通点
4年も経ったのだから大きな変化があるだろうと思ったのだが、ほとんどプロットは共通していたのが意外だった。細かい設定もほぼ「キャピタルG」に1文だけ記述されて忘れていたものがGレコに引き継がれていた。
・キャピタル・タワーの名称
宇宙エレベーターを「キャピタル・タワー」と呼称し、「キャピタル」という組織が運行し保守点検を「キャピタル・ガード」が担っているのも共通。キャピタルと言う人類資本がキーワードと言うのは既に4年前から固まっていた様子。
・主人公たちのシチュエーション
ベルリたちが身を投じる状況は「キャピタルGの物語」によれば
エリートが集まるキャピタル・タワーのメンテナンス要員の養成専門高校は、成績が上位十番で卒業できればキャピタル・ガードの士官大学に入れる
今日から明日にかけて宇宙で卒業記念の実習演習をする61人。
で、ベルリはその中で2学年特進した17歳直前の少年で、ベルリにとっては全員が先輩。クラスの人数は60人よりも減っていたような印象があるが、ほぼ同じような状況。
宇宙に張り出した作業用マン・マシーン(アニメではモビルスーツ・レクテン)で演習作業をするのが卒業実習と言うのも、小説版から引き継がれている。コックピットが宇宙の方を向いているとはアニメ版では印象的だが、小説では明記されていない。しかし、海賊軍の襲撃を受けた主人公が「コックピットハッチを閉めておいて起動していないふりをする」と機転を利かせているので外側からハッチが見れるように設置されていたと推察できる。
・レクテンのアーム
小説版では「二本足歩行と二本ともう二本のアームが装備」と表現されていたので昆虫のようなシルエットを想像していたのだが、アニメ版でベルリが乗り込んだ作業用モビルスーツのレクテンはシンプルなジムとASIMOを組み合わせたようなデザイン。で、もう二本のアームは外付けのアタッチメントとして装備されるようだ。
・リギルドセンチュリー
リギルドセンチュリーと言う名称は「はじめたいキャピタルGの物語」には出てこないが、キャピタル・タワーについて
宇宙エレベータは、前の世紀のころに三基建設されていたのだが、宇宙世紀のあいだに破壊されたり、残った一基も崩壊寸前だったのを、前世紀の”干渉期”に修復されて、それが正常に運用されるようになったことを記念して、現在は、人類史に新しいメッキをしようという意味の呼称がつけられていた。
と表現されている。リギルドとは「再メッキ」。キャピタルGの物語の時点では世界観がふわふわしていたので、読みこぼしていたが、一文の中でもしっかりと世界観のアイディアを盛っていた。
・フォトンバッテリー=キャピタル資源
フォトンバッテリーは地球上で使われているエネルギー資源だと、震災前の原作で明記してある。フォトンバッテリーについて、インタビューでは「震災以降のエネルギー問題を意識して」みたいに言われることが多かったので、今回読み返して意外に思えた。まあ、ロボットの動力源はロボットアニメにいつも付きまとう問題だし、ガンダムシリーズのように木星まで燃料のヘリウム3を取りに行く木星船団が出てこない世界観とするなら、それ以外の何かを動力にする、って言うのは簡単に発想されるべきものだ。(ガンダムSEEDのように原子力なのは夢が無い。00のGNドライブは木星の抗重力化で20年かけて作られるらしいが、Gレコはそういう話でもない)
また、フォトンバッテリー宇宙エレベーターの上の方で受け渡され、下り線のゴンドラだけに搭載されていて、海賊部隊が下り線のゴンドラに搭載されたそれを強奪しようと作戦を仕掛けてきたというのも同じ。宇宙エレベーターの上端で太陽エネルギーを利用して発生させたバッテリーと言う点では、フォトンバッテリーは機動戦士ガンダム00の太陽光発電に似ているが、ガンダム00のように流体や電磁波で送電しているというよりは、バッテリーと言う形に固形化して、キャピタルタワーを中心に輸送しているようす。
ちなみに、Gのレコンギスタの世界観ではキャピタルテリトリィの南米アマゾン川流域の近く以外にはろくに自然が残っていないし人口も十億人以下とのことだが「はじめたいキャピタルGの物語」では宇宙エレベーターのゴンドラだけが物語空間として描かれた短編なので、外の世界の描写はない。
・キャピタル以外の国家
ただし、自然が無いなら無いでGレコの世界にはキャピタルテリトリィの北方のアメリア合衆国や、大西洋を挟んだゴンドワン大陸にも人が住んでいる。
「はじめたいキャピタルGの物語」でも「アメリアやゴンドワンの宇宙軍で過粒子砲(ビーム・ライフル)が正式採用が始まっている」というキャピタル・ガードの職員のセリフが入っている。なので、大雑把な世界観はすでにこの頃から富野監督の中には出来ていたと推察される。
また、アイーダに対して「海賊だと自称しているのだが、貴様たちはアメリア群直轄の独立部隊なんだろう?」と尋問するセリフもあり、そのような関係性もすでに決定していたと想像できる。
「トワサンガ」や「ヘルメスの薔薇」は追加された舞台装置っぽい。
・タブー
Gのレコンギスタの世界観では「宇宙世紀の技術を発展させることはタブー」とされていて、これも震災以降の科学技術に対する批判的な想像力として今年の富野インタビューで述べられている。また、小説版にはなかったスコード教の宗教の説法で「聖なるタブーが人生を豊かにしてくれる」と言われている。が、小説版にもタブーはある。
小説版では「宇宙エレベーターの軌道上にある中継ポイントや上下するゴンドラの位置や高度は時刻表で分かるが、部外者は天体観測をしようというものはいない。それは地球人類に刷り込まれているタブーにもよる」というような表現に成っている。一文だけで「宇宙世紀の技術を発展させてはいけない」とか宗教とは違う書き方だが、とりあえず「キャピタルGの物語」の時点で「タブー」によってタワーは支えられているというアイディアは書いてある。
実際問題、脆弱なほっそいケーブル(太くしたら自重で崩壊する)数本に支えられて宇宙を往還する宇宙エレベーターは地上から観測されて弾道ミサイルでも撃ち込まれたら一瞬で崩壊する。それをさせないために「タブーを設定する」って言うアイディアはエレベーターのある世界観に必要なものの逆算としてすぐ思いつくのだろう。Gレコのスコード教はそれをさらに具体化させたものと考えられる。
ガンダム00では「軌道エレベーターを守るためにその周囲に常にMSが飛行して監視して軍事基地化している」と言う設定で、モビルスーツというものを登場させる方便に使っていた。
・鞭
小説版でもコブ付きの皮鞭で教官は実習生たちに制裁を加えている
- 相違点
・キャラ名
主人公の名前がベリル・ゼナムからベルリ・ゼナムに変更されている。
ベリルと言えば鉱物やセーラームーンの敵である。なので、ベルリに変更されたのはSEO対策としての面もあろう。映像の原則では「ベルリィ」と1ページだけ表記されていた。
アイーダの苗字も、キャピタルGの物語では「クロノス」であるが、Gレコの公式サイトでは「レイハントン」と表記されたが、その後「アイーダ・スルガン」に訂正されている。ネーミングにはギリギリまで紆余曲折があった模様。その他、2011年版映像の原則ではラライヤがいったんライヤになっているがアニメではラライヤ・マンディに補正されている。(これが本名かは謎)「キャピタルGの物語」ではラライヤの名前をアイーダが一言だけ言うが、Gレコでは「ラライヤ・マンディ」と言う名前は彼女が記憶喪失に成ったので彼女を保護したキャピタル・ガードのデレンセン大尉が便宜上つけた仮の名前。なので、ラライヤとアイーダに面識があるのかは、アニメ版Gレコではまだ謎。その他、ルイン先輩の名前が出たのは映像の原則で、「キャピタルGの物語」の時点では名無しの先輩の中の一人で登場していない。マニィ・アンバサダは映像の原則ではマニニィと表記されていたが、ルインのガールフレンドと言うのはこの時点で決定していた。
ノレドの名前はキャピタルGの物語、映像の原則、Gレコで変更はない。ノレド・ナグとの苗字はアニメ版が初出。
本稿ではアニメ版を決定稿とみなしてアニメ版の表記を主とする。
・宇宙エレベーターのデザイン
キャピタルGではエレベーターを上昇するものを「ゴンドラ」と呼称していたが。G-レコでは直径60mの球状のクラウンと呼ばれる物を4〜6個連結したものがキャピタル・タワーを上昇する。
また、「はじめたいキャピタルGの物語」の富野監督の直筆初期スケッチでは、キャピタル・タワーは12本のケーブルを1セットとする2路線がキャピタル・タワーとしていたが、Gのレコンギスタでは正三角形に配置された3本のケーブルをクラウンが掴んで移動するのが4路線に変更され、デザインも洗練された。
・キャピタルタワーの機能
中継ポートをアニメ版では「ナット」と呼称変更している。アニメ版ではナットは144個+アルファ(宇宙世紀時代のキャピタルタワー建設前に敷設されたかわいそうなナットの分)。宇宙エレベーターは静止軌道までが3万6千キロ、カウンターウェイトまでが10万キロの長さ。(富野監督によるとキャピタル・タワーは8万キロらしい)
「はじめたいキャピタルGの物語」では中継ポートの間の距離は1000Kmらしいので、単純計算で中継ポートは約80〜100だったが、アニメ版では1.5〜2倍に増えている。
ただし、中継ポートのナットが高度にかかわりなくタワーと軌道を同期させているのは「特殊な磁場」によると「はじめたいキャピタルGの物語」の時点で明記してあり、アニメ版では「ミノフスキーマグネットレイフィールド」と明言された。
「キャピタルGの物語」でも「iフィールド」と明記してある。しかし、「キャピタルGの物語」では「宇宙エレベーターは地球の自転や公転などの外力の干渉をを相殺するために2重螺旋構造を取り、その螺旋が交差する点にケーブルを中空に保持させるためにiフィールドを発生させる中継基地が設置されている」って成っていたんだが。二重らせんは平面的に見たら交差するようだが立体的には完全に等間隔なので、交差する点などはない。そう言うわけで、キャピタル・タワーは当初のトミノデザインから大きく変更して2重螺旋のデザインをオミットしているようだ。らせん状にねじれていても、宇宙エレベーター自体が数万キロと言う長大な長さなので、肉眼では螺旋状であることは認識できなさそう。(肉眼で螺旋だと認識できるくらいねじれていたら中の人が回転しまくって大変)
・マンマシーンからモビルスーツへ
ガンダムの宇宙世紀3世紀を舞台にしたガイア・ギアの設定であるマンマシーンからモビルスーツに変えたのはテレビシリーズでガンダムシリーズと言う路線にはっきりと決めたからであろう。
ちなみに、ガイア・ギアのマンマシーンは戦闘機に変形したり翼を持つものが多かったのだが、G-セルフはコアファイターを内蔵していて、G-アルケインは戦闘機に変形する。また、量産型モビルスーツも翼を持つものが多い。キャピタル・タワーのクラウンにミノフスキーフライトが実用されているので、実際にモビルスーツに翼が必要なのかは謎だが。(事実Vガンダムのガンイージは翼が無くても飛行していた)翼で滑空した方が燃費は向上するのだろう。
・「キャピタル・アーミィ」の追加。これについてはノレドがはっきりと「なにそれ?」と違和感を表明している。作中での秘密組織に属するものであろう。が、それを女子高生にうっかり言ってしまう程度の守秘義務なのであるから正式発表も目前の組織であろう。
・キャピタルタワーに乗り組んだ人たち
「はじめたいキャピタルGの物語」では「このゴンドラは(61人の)実習生を中心にして、ツアー観光の客やキャピタルの人事異動に関わるスタッフが登場していても、百人といないはず」と表現されていたが、アニメ版ではツアー観光の客がもう少したくさん乗っているように表現されていた。ベルリたち実習生と同じフロアーにも数十人がいて、その上の情級客車には上流階級っぽい人たちが数十人乗っていた。と、見える。
なので、これはキャピタルタワーの運行の観光資源としての豊かさの描写の追加だと思える。同時にアイーダのG-セルフが人質にする上り線ゴンドラの人の価値を増しているんだろう。
また、セントフラワー学園(小説版ではフラワー学園)のチアガールたちは宇宙エレベーターに乗り込んでいない。彼女たちは宇宙エレベーターの地上ターミナル駅に進入して、そこで踊って発進するゴンドラを送り出す、と言う描写。だがアニメ版ではノレドもマニィたちもクラウンに乗り込んでそこで踊ってクラウンの中を上下に暴れまわる。その事で、むしろ小説版に有った宇宙エレベーターの閉塞感みたいなのがかなり軽減されているし、宇宙エレベーターのクラウンの直径60メートルっていうスケール感も想像できるしアニメとして楽しい。
ノレドがエレベーターに乗り込んだ、という変更からもわかるようにアニメ版は小説版よりも格段に活劇としての要素が高まっている。富野監督も頑張って構成を推敲した!
また、小説版とは違ってラライヤもすでに同じクラウンに乗っているので、アニメ1話で既に若者たちが集合していて、ドラマチックに高まっているし、ノレドとラライヤのガールミーツガールも冒頭10分で劇的に行われていて楽しい。ちなみに、「映像の原則」によればラライヤもチアガール部に入部するかもしれないらしいが…?踊れるのか?また、映像の原則によるとノレドは勝手に侵入して踊った罰で3日間独房に入れられていたらしい。でも、元気っ子なので全く反省せずに出たとたんに踊る。元気だなー。
階層社会と言うのは一般の人々が軽視できる存在がある社会ということです。では、この場合のクンタラとはどういう立場の人か……それははるか昔に”食料”となった人たちのことです。つまり文明が衰退していく時期にそういう時代もあったということです。そうした設定は劇中では描きません。でも描かないからこそ、クンタラというネーミングにこだわり・・・・・・(後略)
とキャラクターを生み出すためにクンタラと言う設定が必要であったということを語っている。
小説版では
クンタラたちもベリルたちキャピタル・テリトリーの住人なのだが、キャピタルの中で軽い仕事をやらされている階層の事で、階層が低いというよりは、クンタラはクンタラというしかない扱いを受けていた。
それでもクンタラからベリルたちの専門高校に入学してくる生徒たちは、おしなべて出来がよくて、今回の先輩たちの中にも数人はいた。
とだけ述べられている。これは作中のベリルがクンタラについて持っている知識がこの程度ということだろう。
で、食料になった人々、と言う設定がいつ発想されたのかと言うのはよくわからない。だが、「被差別階級だがタブーを破る元気な少女のノレド」を発想するために富野監督が「クンタラ」を必要としたのなら、劇中や文中では明記しないが、アイディアとしては「何故差別されるのか」という理由程度は頭の中に持っていたのだと察している。
・読後感と視聴感
アニメではベルリが最初にレクテンに乗り込んだが、小説版では最後にモビルスーツの指呼点検をさせられる。これは小説版ではGの攻撃の時に「ベリルが先輩に取り残された」という表現か、「ベリルが先輩に一番面倒な仕事を押し付けられてる」ということで、アニメではサクサクスピードを増すための改変かな。
小説版ではベリル以外の養成学校のキャラクターには名前が無いし、終始「出来の良いベリルが教官や先輩にやっかみを持たれている」という印象があるのだが、アニメでは教官のデレンセン大尉は鞭を振るいながらもあだち去りをしたりラライヤを気遣ったりしているし、ルイン先輩も優しそうだし、女の子もいるので暖かな印象に成っている。
富野アニメと富野小説のこの暖かさやドライ&ウェットの差はいつも通りかな。
・セックス描写と性格描写
「はじめたいキャピタルGの物語」では宇宙に出たベリルのチンチンが縮み上がって下腹部に埋没した感じで”これでは気力がわかないぞ”と思ったり、”女子はチンチンが無いのにどうやって気力を支えるんだろう?”と、よくわからないセックス哲学をベリルが考えるので、富野小説版らしく、ちょっと神経質で変に内向的で体のオーガニック的な内部を思考する主人公と言う感じだ。
アニメの冒頭10分ではまだ描かれていないが、Gを鹵獲してアイーダがゴンドラの中で尋問を受けている時に、彼女との出会いを受けて「人の出会いって言うのは、別れの始まりって言うじゃないですか…」とか妙な連想を言葉にしてしまうので、繊細な性格のようだ。また、小説と言う媒体からベリルが色々と内面の台詞で進行していく、半分一人称的小説なのだが。アニメ版のベルリは顔の表情が富野監督のスケッチのベリルとは違っていて明朗な雰囲気だ。優等生で親がキャピタルの要職に就いているため、学校の中で浮いてしまうしやっかみを受けるから、目立ちすぎてさらに反感を買ったりしないように感情などを出さないように気を付けている、というのが小説版の性格だ。
だがアニメではクラスメートや教官殿や隣の女子校の会話やG-セルフを見た時のリアクションなど、格段に外交的に外に開いた性格に変化している。これもまたアニメと小説の媒体の違いでもあるし、富野監督の理詰めのSFで軌道エレベーターを描くより、「元気のGだ!ベルリとアイーダの冒険はすごいぞ!」という冒険話を描くようにしようという演出方針の転換でもあろう。これは震災の影響かもしれないし、単に富野監督が「公に見せる物語にするには」と考え直しただけかもしれない。
あと、セックスの描写だが、男の子がチンチンが縮み上がって云々って頭の中で考えるより、隣にチアガールがいる方がよっぽど性的だ。富野監督は最近のインタビューでは「女性の持つ復元力を描きたい」と仰っていた。
小説版でも「チンチンが無いのに気力を支える女子」という所でそれを空想していたのだが、空想ではなく隣にいる女性たちとの関係で冒険していく、って言う方がよっぽど明るくて健全だと思います。アニメで自分のチンチンがどうこうと言う主人公はちょっと引きますからね。エヴァンゲリオンのマグマダイバーの回とか旧劇場版とか。
でもガールフレンドのいない奴のことも考えてやれ!
- まとめ
アニメ化に際して、全体的に宇宙エレベーターの設定論やその周りの文化社会論を小説として説くと言うよりは、圧倒的に活劇にしようという意志を以って演出が練り直されている。
しかし、ミノフスキー物理学を流用した宇宙エレベーターという基本的な設定やキャピタル、アメリア、ゴンドワンの国家関係は4年前の「はじめたいキャピタルGの物語」で既に明記されていた。
なので、骨子の部分はかなりしっかりと4,5年前から構想されているものだが、それを見せる演出の仕方としては非常に臨機応変に練り直されている。監督がワンピースを読み直したり、あきまんのメカデザインと吉田健一さんのキャラクターデザインを朗らかで明るいものにしているのも、ダークでリアルなディストピアな未来SFよりは朗らかな未来冒険話にするぞ!という意思を感じる。メカデザインで参加している形部一平さんが基本的にはアニメ以外のデザイナーの仕事をメインにしていてスニーカーなどのデザインもしているので、そういうアニメ的な想像力だけでない温かみや人に寄り添った感じをSFの世界観に取り込もうとするディレクションの意図を感じる。
また、10話以降の登場するサブキャラクターの役者さんの声を富野監督が非常に気に入って、そのバイプレイヤーを当て書きで創作しているって言うのも「芸能感覚」なんだな。
そこには富野監督が自分の小説や創作の内省的な面や性格や癖を自覚的に調節している作家としての富野由悠季と演出家としての富野監督のせめぎあいみたいなものがある。
というわけで、やっぱり富野アニメと富野小説の読み比べは色々と面白いのです。