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玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。旧玖足手帖から記事・ブクマを引き継ぎました。


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Gのレコンギスタ第25話「死線を越えて」ドラッカーのイノベーション、それは幻想

ガンダム 富野 トミノ Gレコ 感想

今回も面白かったですね!!!
今回はいわゆるガンダムの定番、「大気圏突入」ですが、いつものガンダムでは大気圏突入は中盤の目玉なので、ラスト前に迫力満点で描かれるのは珍しいです。
機動戦士Vガンダムはラスト前に大気圏突入をゆっくり行うエンジェル・ハイロゥに対して、成層圏V2ガンダムたちが迎撃決戦した。
機動戦士クロスボーン・ガンダムではラストで大気圏を脱出して低軌道で決戦した。
∀ガンダムはラスト前に月から地球に侵攻したギンガナム隊を追撃して、∀ガンダムたちが地球で決戦をしたが、突入の時の戦闘は無かった。
宇宙ではなく地球上で決戦を迎えるガンダムはこのようにいくつかあるし、Vガンダム以降の富野監督は特に「地球に戻る」というテーゼが大きくなっているので、このようになったのでしょう。
しかし、26話と言うガンダムにしては短い期間に地球、宇宙エレベーター、月、金星まで移動して、一気に故郷のギアナ高地に降り立って決戦というのは、すごく密度が濃い旅アニメだなーと。そして、ラスト前にこれまたガンダムの定番の中でも濃い要素である「大気圏突入」を見せてくれた。しかも、メガファウナ、G-セルフ 、ガランデン、カバカーリーとジーラッハ、 サラマンドラ、ダーマとトリニティ、 キャピタルタワーからの法皇のクラウンとウィル長官とクンパ大佐のグライダー、ジュガン司令のブルジン、と4か5くらいのグループがそれぞれに人間ドラマを展開させつつ戦いながら突入するのでものすごい高揚感があった。ガランデンが大気圏突入中にメガファウナに砲撃してメガファウナが加減速しながら避けるというのもすごくスリリングだった。(マッシュナーのクノッソスは突入前にフルムーンシップを乗っ取ろうとしてマスクに妨害されて撃沈)
(フルムーンシップ、クレッセントシップは巨大すぎるし形状からみて地球に降下する性能はなさそうなんだが?)
大気圏突入するベルリとアイーダ、ノレド、ラライヤ 、マスクとマニィ、 クリムとミックと男女のカップルがどれも必死だし、終盤なので誰が死んでもおかしくなくてハラハラしましたし、どのキャラクターも人間味があるので死んで欲しくないと思えるし音楽のつけ方もルインとマニィで盛り上がるようになっていた。なので、マニィが今回凄く死にそうだったけどそうでもなかったので、うわーーーって気分が緊張して盛り上がってスリルが楽しめた。
戦艦の突入方法や末路の違いも対比されていて、4,5つくらいの勢力があるのだがどれも個性的に見えて面白かった。

で、まあ、アクション的には「大気圏突入」なんだけども、台詞で引っ掛かりを感じたのは、アイーダの「イノベーション」と言う発言。父親が死んだ後にイノベーションがどうのと発言するのはちょっと変だな、って思って気を付けて見ると、今回は全般的にイノベーションについて思索しているように見えた。

アイーダ「父は、軽率だったんです。時代に迎合しようとし過ぎて、組織の持つ力関係に負けた人なんです。地球に這いつくばっていたようなアメリア人がヘルメスの薔薇の設計図に踊らされて、イノベーションだ!宇宙の革新だ!なんて…」

ベルリ「(それで、宇宙海賊まで突っ走ったってこと…?)」
ラライヤ「ガランデンとサラマンドラにクノッソスって、イノベーションですよ」
ノレド「どういう意味なの?」
ラライヤ「フルムーン争奪戦かも?!」

育ての父親の死をアイーダが受容する、心理学的には合理化して防衛機制する場面ですが。カーヒルの死の時にはものすごく泣きわめいていたけど、育ての父の死に際しては敵を責めることもできないので父親自身の責任にして色々と理屈を言う。泣きわめくよりは成長したとも見えるが?
※追記 カーヒル大尉もヘルメスの薔薇の設計図に踊らされてイノベーションをしようと邁進した人だったので、父の死を悼みながらカーヒルの死を改めて総括しているとも取れる。
そこで「イノベーション」と言うセリフを持ち出すのはちょっと引っかかる。また、ガンダム的にも「宇宙の革新」と言うのはジオン・ズム・ダイクンの唱えたコントリズムなどの主義主張にもリンクして、ガンダムファンには気になる発言だ。


一時期流行しましたね!イノベーションイノベーションと言えばピーター・ドラッカー。(定義した経済学者はヨーゼフ・シュンペーター

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
イノベーションinnovation
J.A.シュンペーターの経済発展論の中心的な概念で,生産を拡大するために労働,土地などの生産要素の組合せを変化させたり,新たな生産要素を導入したりする企業家の行為をいい,革新または新機軸と訳されている。

ウィキ
物事の「新結合」「新機軸」「新しい切り口」「新しい捉え方」「新しい活用法」(を創造する行為)のこと。一般には新しい技術の発明を指すと誤解されているが、それだけでなく新しいアイデアから社会的意義のある新たな価値を創造し、社会的に大きな変化をもたらす自発的な人・組織・社会の幅広い変革を意味する。つまり、それまでのモノ・仕組みなどに対して全く新しい技術や考え方を取り入れて新たな価値を生み出して社会的に大きな変化を起こすことを指す。

もしドラ」(もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら)でイノベーションドラッカーが4年前に流行しましたね。
富野監督も、もしドラのアニメ版の後のミニコーナー「私とドラッカー」でテレビ出演したことがあるんですよ。詳細は「富野 ドラッカー」で検索ケンサクぅ!
で、富野監督がドラッカーの「経済人の終わり」「マネジメント」を読んだのは、Gのレコンギスタで全体主義を描くための参考資料として、ハンナ・アーレントを読んだ後、2010年ころに読んだらしい。
で、富野監督は「ドラッカーは戦後の世界の組織がナチスのような全体主義にならないために、個人の責任を重視する、と書いたのだ」と、読み取ったらしい。
ただ、底辺労働者の僕としてはイノベーションって嫌いなんですよね。ラブライブ!のゲームを出してる会社で働いてた時は日々の業務を維持すると同時に「イノベーションのある企画を出せ!」って上司にせっつかれて過労で死にかけた。しかも僕が死にかけて辞めた後にラ!のゲームがゲーム脳の愚民どもの電子ドラッグとして流行して僕を潰した会社がへらへら生きているのでとても憎い。サンライズさんは「ラ!が売れてうれしい」って言っているけど、スクフェスの課金システムは電子ドラッグだし、KLab社幹部の「ユーザーをたくさん集めて気づかれないように課金させて稼ぐ」っていう顔も見ているし、そう言う課金システムを作ってスマホゲームをさせるのがイノベーションなのか?って言うのは承服しかねる。(まあ、恩恵にあずかっている人もいるんだろうけどさ)
「組織はイノベーションをしなければ生き残れない!だから個人は責任をもってカイゼンに邁進せよ」というドラッカー、ハッキリ言って心労過労の原因になるので好きではない。
まあ、そうやって経済活動を続けていく企業組織と言うものがここ60年くらいの第二次世界大戦以後の社会を作ってきたという事実は知識としては知っている。好きではないが。小泉純一郎内閣、竹中平蔵あたりのころから「痛みを伴う成長でイノベーションで革新を行わないと生き残れない!」と言って人々に生存淘汰圧をかけるのが流行った。トヨタ生産方式の「カイゼン」のころから日本人はイノベーションが好きなようだが、それでトヨタグループの従業員、静岡県裾野市関東自動車工業東富士工場に派遣会社の日研総業から勤務していた加藤智大氏などが幸せになったかどうかは疑問だ。


そして、アイーダ・スルガンの育ての父のグシオン・スルガン総監はイノベーションではしゃぐ国の軍のトップとして組織を運営していたが、死んだ。

(画像は11話)
アメリア帝国のニューアークの人は前世紀時代の高層ビルが樹木に覆われるような廃墟に住み、キャピタル・タワーから配給されるバッテリーにすがって細々と生きていた。
そんな人々が宇宙のクンパ・ルシータ大佐からもたらされたヘルメスの薔薇の設計図にはしゃいで、「イノベーションだ!宇宙まで進出して技術革新だ!キャピタル・タワーの独占から世界を解放するんだ!」と軍拡をして、ピアニ・カルータ大尉の暗躍もありゴンドワンとも大陸間戦争をした。そのような人々の産業革命への熱狂が戦争を呼んだので、もはやピアニ・カルータ個人の悪行と言うわけではない。富野監督は「ドラッカーのマネジメントについて」

ぼくは『マネジメント』の中で一番大事な、えードラッカーが言っているだろうって単語は、「それぞれの人の責任」なんです。責任を持って目の前の物事に対処するということを積み上げていくと、あの、すごく乱暴な言い方をします、全体主義にはならないだろう、っていうのがぼくにとっての『マネジメント』って本です。

ドラッカー名著集13 マネジメント[上]―課題、責任、実践

ドラッカー名著集13 マネジメント[上]―課題、責任、実践

と言っていたのだが、アメリアの国家ぐるみでの「イノベーション、革新」が戦争を呼び、アイーダの父を死なせた、と言う描き方なのだ。「マネジメントでイノベーションしていれば全体主義にならないぞ」と言うわけでもないような気がする。むしろ、時代の潮流に迎合する組織は暴走して、結局アイーダの父は個人的には善良で真面目な人物で好戦的な大統領とクリムを抑えるような穏健派だったが、娘を宇宙海賊の頭目にしてしまったし自分も前線に出て責任をとる、ということをやらされて死んだ。
グシオン・スルガン総監は個人としては温厚な人物だったし、外交官としても法皇やキャピタルアーミィ、トワサンガの指揮官とも話し合いで解決しようとしていた。が、結局、停戦協定直前のバララの強襲が直接の死因で、軍事組織の力関係に負けて死んでしまうことになった。
グシオン・スルガン総監は最後まで停戦を信じていたし外交努力をしていたが、殺人が横行する戦場に話し合いをする責任者として出てくる、ということ自体が「軽率」で「組織の力関係に負けた」とアイーダ・スルガンは父を評したのか。前回、アイーダはグシオンに「左遷されて前線に来たのですか?」と聞いてグシオンは「息子を前線に出している大統領がそんなことはしない」と言ったのだが。天才クリム・ニックはクレイジーだからなあ…。


なので、アイーダ・スルガンが「父の死はイノベーションを願うアメリア人の暴走に招かれたもの」と言ったのは、イノベーション批判、革新主義批判であり、「ドラッカーに従っていれば全体主義にならない」と思っている人への批判で、とても広い文明批判だと思える。
バトルロボットアニメのラスト2話でいきなりこういう濃い文明批判をブッ込んでくるのが富野アニメの最高にエキサイティングな所。まあ、僕は富野監督に勧められた「文明崩壊」も「帝国以後」も買って読んでない(先に聖書を読まないと西欧の考えが分からないと思って…)ので、あんまり褒められたファンではないんですけど。精神病の影響で12時間くらい寝るので。富野監督は寝なさすぎなのでGレコが終わった後はゆっくり寝てほしい・・・。

富野監督がイノベーション批判をするということ自体が面白いことだ!なぜなら、富野監督はロボットアニメにイノベーションを起こしてリアルロボットアニメと言う物を作り、玩具の宣伝アニメにハイティーンから成人向けと言う市場を開拓し、OVAエヴァンゲリオンや深夜アニメなどのビジネスが成立する下地を作った人だ。富野監督が行った経済効果は押井守作品やエヴァンゲリオン等への影響も含めるとスーパー戦隊超合金の村上克司天皇を凌駕するんじゃないだろうか?
G-セルフのデザインを手がけた安田朗氏も言う。

お客さんは良いとして、僕のところにくる業界の人が富野ガンダム否定してたらやばいですよ。「アニメという独自IPを生み出すのが難しいところでそれをやってのけ36年それを発展させ続けた秘密の箱を研究しません」といってる業界人なんだろ、怖くて一緒に仕事はできんだろ
https://twitter.com/akiman7/status/578109148321030145

富野監督って独自IPを作った上に、亜流のロボットアニメや「大人がアニメを見るという習慣」にまで影響を及ぼしたので、偉人すぎるんだが。文化の第一人者すぎるんだが。
そんな富野監督がさらにすごいのは「俺はイノベーションをやったんだ!偉いんだ!」って言わなくて、「イノベーションとか革新で経済活動ができると思ってる奴は糞だ!」って逆に自己批判している所。(まあ、多分、逆シャア以降のF91Vガンダムのあたりで偉そうにアニメ新世紀宣言の革新の第一人者をやっていたのにバンダイサンライズが身売りして作品が作らせてもらえなくなったりしたせいで経済社会に対して挫折を味わったからなのだろう)


そんな風に今回Gレコで社会文明批判を作中のアイーダに言わせるのを見てから、過去のインタビューをまとめた自分の記事を読み返してみると、なかなか趣が深かった。

4年間のインタビューに見るGのレコンギスタの「夢とロマン」に関する富野監督発言の変遷分析 - 玖足手帖-アニメ&創作-

富野:「G-レコ」では、科学技術の進歩を禁止しているのですが、それは夢やロマン、希望がないということなんです。そのとき人はどうするのかが物語の着地点のひとつ。

 例えば、現実社会はこの1000年で経済も科学も飛躍的に進歩して、それを幸せだと享受している。でもそれ以前の人類が不幸だったのか?というとそうではない。夢がなくても個々の幸せがあるはずで、その個々の幸せのために作中では戦いがあります。
シャア専用ニュース 【速報】「ガンダム Gのレコンギスタ」富野由悠季総監督スペシャルインタビュー!「シナリオを書く上でメカとドラマの二重構造は意識しました」「ドラマはドラマチックな展開が多い韓流を参考に、濃厚にしたつもりです」

ガンダムはいいにつけ悪いにつけ高度成長してしまった。

この場合の高度成長というのは日本の高度成長と感覚的にぴったり当てはまります。経済が高度成長して果たして世の中は豊かになったのか?

 その挙句に安倍政権が生まれ、今の世の中になってしまう。それが人のつくる社会というものでしょう。そこになんの夢と希望がある?

 それがガンダムという作品だったんじゃないのかと考えたのです。
NT14年9月号 富野由悠季インタビュー - シャア専用ブログ@アクシズ

富野に言わせれば「既にインドと中国も増えすぎた人口を食わせていくためにかなり無理をしている」という事らしい。有限の地球論は富野がガンダムの頃から言ってきた事だが、それがコモンセンスにならず、いまだに右肩上がりの幻想に有識者も政治家も経済人も大衆も期待している。
岐阜青年会議所市民フォーラムでの富野の話はオタク化を推奨するのか? - 玖足手帖-アニメ&創作-

機動戦士ガンダムはローマクラブの「成長の限界」を企画の念頭に置いて世界観を作った作品だったのですが、それ自体が「人の革新」や「アニメ業界のイノベーション」という結果になってしまった。ここに大きな矛盾があって面白い。(そんなガンダムをを批評的にテーマにしたのが機動戦士ガンダムユニコーンですね)
富野監督は「成長の限界があるし、右肩上がりの業績を突き詰めた経済活動は地球を汚染するし人も疲れさせるので良くない」「これ以上の技術革新は必要ない」って言うんだけど、周りのアニメビジネスマンは「ガンダムビジネスをこれからも右肩上がりに発展させていきましょうよ!」って言って、富野監督は「そんな大人のビジネスで作品は作らない。脱ガンダムだ!」と叫んでGレコを作る。
なんだか、すごいコンフリクトを感じる。
で、その富野監督が感じているガンダム業界やアニメ業界を取り巻くコンフリクト、問題意識を作品に投影した部分も大きくあると思う。

まあ、貨幣経済自体が幻想に支えられているんですけどね!!!
僕は理系崩れ(理系の大学に行ったのに理系の仕事に就けなかった敗残者)なので、経済は専門ではないんですが。今回のGレコのテーマがイノベーション批判だったので、かるーくドラッカーイノベーションについてググってみた。で、僕は経済人が嫌いなのでリンクは貼らないで引用する。

イノベーションは「新しい価値の創造」。
 すなわちイノベーションとは、富の創出能力を増大させるもの、全てだという。

 「供給に関わる概念よりも需要に関わる概念、消費者が資源から得られる価値や満足を変えることと定義することができる」と言う。


意味的価値からヒットが生まれる

 顧客価値というものは、経済状況や時代、その商品の成熟度などによって大きく変わってきます。例えば、高度経済成長期には多くの人が高性能で多機能な商品、すなわち機能的価値が高い商品を好んで選んでいましたが、今では自分の趣味やセンスに合ったものを選ぶ人が増えています。意味的価値の高い商品が好まれる時代になったのです。


顧客自身も気づいていない「顧客が本当に喜ぶ価値」を見いだせるようにならなければなりません。
「技術の開発=ものづくり」を起点としたビジネスから、「顧客価値の創出=価値づくり」を起点としたビジネスに転換を迫られているといっても過言ではないでしょう。任天堂やアップルの例からもわかるように、顧客との共創によって、意味的価値を向上させるイノベーションが生まれるのです。

上の記事は1年4か月前のものだが。任天堂WiiやアップルのiPhoneを「意味的価値によるイノベーション」として書いていたけど、任天堂Wiiだけでは安定できず先日DeNAと業務提携を発表したり、アップルもApple Watchなどの新商品を投入。
まあ、モバイルコンピューティングの流れ、と言えばそうなんだけど。たった1年やそこらで自社商品を陳腐化させて、任天堂もアップルも安定できず次々と新作を投入しないと死ぬ、血を吐きながら続ける悲しいマラソン状態になっているとも見える。
そして、会社員は過労になり無理な労働(急な転勤や長い拘束時間や賃金に見合わない責任)を強いられるか、会社の組織がフレキシブルになるために非正規労働者を雇ったり解雇したりして、キャリアアップできる人とできない人の差が大きく開く社会になって、とりあえずみんな疲れて死にます!
まあ、別に人が何人死のうがどうでもいいんだけど。そういうクズ社会のクズ時代が現代ですし。
ガンダム Gのレコンギスタはリギルドセンチュリーというすごい未来のアニメですけど、富野監督の癖でもあるんだが、現代の世相を反映している。
で、Gレコ目線で「イノベーションは意味的な価値だ!」って言う経済コラムを読むと「それって、顧客の思い込みなんじゃ?」と思う。

富野:例えば、現実社会はこの1000年で経済も科学も飛躍的に進歩して、それを幸せだと享受している。でもそれ以前の人類が不幸だったのか?というとそうではない。
シャア専用ニュース 【速報】「ガンダム Gのレコンギスタ」富野由悠季総監督スペシャルインタビュー!「シナリオを書く上でメカとドラマの二重構造は意識しました」「ドラマはドラマチックな展開が多い韓流を参考に、濃厚にしたつもりです」

東京に住んでいた時に思ったのは、街に広告が溢れているということ。ありとあらゆる壁面、ドアや窓に広告があり宣伝動画が流れ「消費しろ!消費しろ!」という雰囲気だった。現代は「こんなものを買うと豊かになりますよ!買わないと損しちゃいますよ!そのために労働しましょう!」というフォード・モーターの延長線にある。
まあ、僕のブログもアフィリエイト広告とか好きな作品への商品リンクを張っているので、僕も反省すべきなんですが…。
物の価値って何だろうね…。動物としては寝て食べて病気を避けるだけでいいんですが、「あれもこれも買うためにお金を稼ぎしましょう」と物欲を煽るのが資本主義です。そして、その資本主義の価値、価格を決めるのは決してそのものの本当の価値やコストではなく「意味的価値」とか「株式市場」という人気投票の思惑で左右される幻想です。
だから、人類そのものは石器時代から全く進歩していないけど「これが価値なんだ!」という幻想に追い立てられてみんな働いたり、暴力を振るって価値を奪ったり、戦争して大量に殺戮破壊しながら領有権とか自由とか国民国家とか言う価値を維持したりしている。個人としては「何となく安らかに暮らしたいなあ」という人なのに、そんな人が集まるとガンガン殺し合ったり生き馬の目を抜く過当競争の社会に成る。アメリカが資本提供したアフガニスタンとかアラブの春近辺のイスラム国とかロシアや中国周辺国境紛争も、決して異常な殺人鬼の仕業ではなく、人の経済活動や組織活動ですので、日本の企業活動とも地続きなんですね。
で、実際アニメとかゲームとか、財産の価値って何だろうね?決して、投入したコストに見合った売り上げがあるわけでもないし、逆に宣伝が上手くいくと作品そのものよりも過大にマルチメディア営業されたりする。数十万円のLDBOXが今では再生できないゴミになったりもする。パソコンも数年でバージョンアップされてOSがゴミになって、数十万円のものが数年で無価値になる。そういう消費社会。
僕もラブライブ!スクールアイドルフェスティバルを運営しているKLabで働いていてコンプガチャ課金を煽ったりしていたし、僕自身もそう言う経済活動に加担してしまったことがあります。
また、僕の母親も不動産投資で「新しい家を買えば幸せになる」っていう「意味的価値」を不動産屋と銀行屋に吹き込まれて、父親はそれを無視して、母親は破産して自殺した。だから僕は経済活動とか意味的価値を煽る資本家には親を殺されたくらいの憎悪があります。
また、僕の母親はそんな幻想に振り回されて自殺したし、母親は自殺したのにその母親の祖母は後妻に入った男の軍人恩給での右脳と老人ホームで生きている。軍人恩給という制度も経済の幻想だ…。だったら、人が生きてるっていうこと自体も幻想に過ぎないんじゃないのかな?みんな、死ぬのが怖いとか幸せに生きたいとか言うけど、それも幻想で、本当は何にもないんじゃないかな?

  • Gレコ25話の幻想

私怨で話がそれたのでGレコに戻す。
25話は「価値の幻想に踊らされる人々」の描写が印象的だった。
ラライヤ・アクパールは「フルムーンシップ争奪戦ってのもイノベーションなんじゃないの」というニュアンスの事を言った。
つまり技術革新の主導権の奪い合いだ。地球よりも高い技術を持っていたトワサンガのドレット艦隊は前回壊滅し、生き残ったクノッソスも金星の技術を奪う側に回ってフルムーンシップを取りに行った。
マッシュナー・ヒューム中佐のその「艦隊が壊滅していても高い技術力を持てば主導権が取れる」「ノウトゥ・ドレット総司令の夢を叶える作戦ができる」と言うのも、「サラマンドラとマスク部隊が戦うはずだから自分たちは安全」、「ロックパイが言ったんだ」と言うのも幻想だ。技術革新すれば勝てると思って、そのために戦うこと、投降しないことは幻想だった。そのためにマッシュナーは船もろとも殉死する。

そんなマッシュナー・ヒュームを殺害したのはガランデンのマスク部隊だが。
マスク大尉の部下のバララ・ペオール中尉は前回、ユグドラシルでドレット艦隊を壊滅させ、アメリア艦隊にも打撃を与えたがベルリのG-セルフに撃破された。だが、バララが撃破されたのかどうかということはミノフスキー粒子などでフルムーンシップやガランデンのマスク部隊には認識されなかったようだ。
なのに、マニィは「バララに手柄を立てられたらルインを取られちゃうじゃない!」と叫んでジーラッハで出撃する。これも幻想の中の価値を守るための行動。
マニィの「ベルリ、お願いだからルインのために負けてやって!」、ルインの「ベルリ、マニィのためにやられてやってくれ!」との恋人が互いに価値を幻想し合って、それ以外の友人に価値を認めず殺す!と言うのも意味的価値の幻想が暴走して殺意に変化するというのを鮮烈に描いている。前回、「ベルリと友達になってください」ってマスクに言ったのに、マニィはマスクがそれを受け入れないとマスクを道徳的に説得するのではなく、マスクに従うことを選んだ。「友達を殺すのは良くない」という道徳的価値観も、マスクとマニィの前では無視される幻想にすぎない。
マニィの「ベルリはいっぱいいい目にあったんだから、残りの運は私たちにちょうだいよ!」、
マスクの「貴様はいつも圧倒的な力をもらってぬくぬくとして、クンタラを見下す!」という叫びも「自分たちは価値を享受していない」「ベルリは不当に価値の恩恵を受けている」という価値観の幻想のぶつかり合いだ。
これを嫉妬ということは簡単なのだが、ドラッカーも「「価値」とは、客観的なものではなく主観的なものだ。ある人にとっては「良い」ものも、他の人には「良くない」ものと判断される。」と言っている。G-セルフはベルリにとっては「良い」がマスクにとっては「良くない」。また、ベルリも「自分は和平交渉で説得をするつもりだから強いマシンに乗っていても良い」だが「マスクたちがマシンで戦闘するのは悪い」と思っている。そんなベルリがパーフェクトパックのG-セルフで立ちはだかるのだから、マスクの方は「自分たちの価値が侵害される」と思う。ベルリはそんなマスクの気持ちに気づかない。主観と主観のぶつかり合いによる価値観は分かり合うことをしない。

マニィは泣くほどベルリを殺すことにストレスを感じている。でも、友達のノレドが片思いしているベルリを生かすことより、戦場でベルリを殺そうとするルインの方に「意味的価値」を感じて、それでベルリを殺すことを選択している。生きること、誰かを愛すること、そして愛していない物の価値を無視すること、選択はいつも残酷なんだ。



ジット団のチッカラ・デュアルとクン・スーンが「G-セルフはアメリア軍としてフルムーンシップを乗っ取るのか?」と誤解するのも「フルムーンシップはクノッソスに狙われるくらい価値があるのだから、アメリア軍も獲りに来るんだろう」と言う価値の幻想だ。また、「ミノフスキー粒子があってもフォトンアイ付きのミサイルでは無意味」と言うのはガンダムの根底から覆すイノベーションだ。そんな高性能ミサイルがあるんなら、キア・ムベッキ隊長も「MSの手足や頭は飾り」って言うよな。(ジャイオーンのビッグアームとは何だったのか。接近戦の方がミサイルよりもいいんだろうか?)トリニティの有線ファンネルと言うのもネーミングがアレ。
「戦争が文化を進歩させるとは、キア・ムベッキ隊長のお言葉でした」とうっとりして言うクン・スーンもすごくイノベーションを意識している。実際の殺し合いを見たクンが死んだキア・ムベッキの言葉を思い出して、そこにイノベーションを感じるのも、現実ではなく幻想の意味的価値に引かれている。


そして、今回ものすごく印象的だったのが、サラマンドラの日誌艦長の爆散。

「耐熱フィルムは大丈夫だから本艦にも塗ったんでしょ!」
「本艦はクレッセントシップでコーティングした耐熱フィルムで守られているし、メガファウナより改良されておるのですぞー」
と、金星で手に入れてイノベーションされたスペックの価値に幻想を抱いて、慢心して大気圏突入の時の逆噴射などをせずに死んだ。うーん。6話などでやっていたアメリア軍の弾道飛行試験とは何だったのか…。サラマンドラは大気圏脱出は出来ても再突入はできない設計だったんだろうか?耐熱フィルムが無い時点で宇宙に上がってきたが、キャピタル・タワーを制圧できなかったら宇宙に出たアメリア艦隊は餓死する前提の作戦では…?
まあ、いろいろとツッコミどころはあるんだけど、「イノベーションの意味的価値の幻想に踊らされるアメリア人」を印象付けるために、日誌艦長は死ぬのか。日誌艦長は記録を付ける趣味があったけど、現実に向き合うことが苦手という性格描写のための日誌だったんだろうか?




対して、ここでマスクを脱ぐのはルインが「現実に向き合う」ということの表現かな?アルドノア・ゼロのイナホマンみたいにマスクのメカのセンサーを使って大気圏突入の計算をするんじゃなくて、肉体的感覚と言うのが富野監督の身体性主義っぽい。
ルインとマニィが互いに背中を預け合って大気圏突入という試練に向き合うのも、互いに幻想を抱く恋人同士だが、その幻想の先に現実を見て対応する力になる、と言うサインなんだろうか?
(ちなみに、カバカーリーとジーラッハ、ダーマとトリニティの大気圏突入に際して、ジット団の二人が「カバカーリーには耐熱フィルムがあるし膝当ては2000度に耐えられる」「プラズマ障害に対応するアンテナもある」ってさりげなく説明しているのもスマートだな。説明セリフや情報量の段取りをこなすシナリオ作りが上手い)
また、ルインがマスクを脱いで現実を直視して、マニィと背中で感じ合ったシーンの直後に、クンパ・ルシータ大佐が政敵のウィルミット・ゼナム長官の運転するグライダーの後ろに乗って「私は傍観者にすぎません」と言ったのも、非常に対比の演出が効いていてぞくぞくする。

最終回、この長官と大佐もどちらが生き残るのか…。法皇は…?

向き合って抱き合う天才クリム・ニックとミック・ジャックも対比的だ。


そして、単独で大気圏突入を成し遂げたG-セルフが協力し合って死線を越えたもの達より抜きん出て見える。

マスクはマニィと助け合って死線を越えたのに、G-セルフが先行して単独突入を成功させているのを見たら危険視意識がまた高まるのだ。

「単独で大気圏突入を成し遂げたG-セルフの高性能。そんなものをベルリのような選ばれたものに持たせておくのは危険なのだよ…」
マスクがベルリとG-セルフの価値に危機感を抱くのも主観的意味的価値の幻想なんだよなあ…。


また、クンタラと言う物も幻想によって成り立つものだ。現在ただいま開催中のAnimeJapan2015で富野監督への質問と回答が展示中だが。

と、「クンタラって差別されているはずなのになんで普通の人みたいなの?」という疑問があって、富野監督は「もっと普通の社会の事を考えてください」と言っている。

吉田健一氏インタビュー ・クンタラ組の初期稿はクンタラ専用の服。バルーンの様な服で肉を保護されていると考えた。富野「こういう機体のマーキングみたいなもので分けたりとか、お前らって本当に発想が貧困!そういう存在は隠すものなんだよ」
https://twitter.com/Char_Tweet/status/569861563257135104

という初期のデザイン設定もあった。
分かる。僕も同和地区、エタ・非人の末裔の暮らす地域に住んでいて、同じ学校に通っていたことがある。そこで差別はいけませんねーって言う教育を受けていたのだが。子供心に被差別部落地域から通っている子は見た目は自分とは同じだと思っていた。だが、親たちが「あの地域の子と遊んじゃダメ」とか「同和の人は良い思いをしているんだから、逆差別や」と言うのを聞いたりしていた。差別の恐ろしさは「ハッキリとわかるその人の能力や性質とか外見ではなく、意味的価値の幻想による決めつけ」なんですね。しかも、穢多・ヒニンは明治政府よりも前の江戸時代以前の身分制度で、その時代で罪人だったり屠殺業者だったりした人で、現代の被差別部落地区に暮らす人とは全く関係ない。同和地区も再開発が進んで今では地区としての見た目も変わりがない。だが、人々の意識として「あの人らは悪い奴の子孫だし、今も素行が悪い人が多い」という意味的価値の幻想で差別意識が残っている。僕はそう言う皮膚感覚を持って育った。悪いことをすると「あんたは四つの家の子に成るぞ!」と母親に脅された。そんな母親も自殺したので、今度は僕は自死遺族として親が自殺したことを世間から隠して生きている。嫌だねえ…。


そして、キャピタル・タワーという物語を象徴する軌道エレベーターの名前がまた経済用語だ。キャピタルは首都という意味だが「資産」と言う意味もある。だから、ドラッカーのマネジメント論、貿易流通の要とか、価値の象徴としての意味が込められているんだろうな。そういうネーミングが作品全体を引き締めている。

  • メガファウナ組も幻想

では、主人公チームは現実をきちんと把握できているのか?というと、そうでもないというのがGレコの凄まじい所。ラスト2話なのに、メガファウナ隊やベルリも戦況や政治的な意味を正しく認識していないようだ。
これはテレビアニメではかなりクレイジーな作劇だ。普通のアニメなら「現実を正しく見れていない悪人」VS「色々な経験を積んで世界の現実の正しい倫理やみんなで叶える物語を見ることができるようになった主人公」の戦いで、視聴者は正しい主人公に感情移入して見て、そんな正しい主人公が勝利を収めると自分は画面を見ているだけなのに「自分もなんだか正しいことをしたような気がする」と、幻想を抱く。

創作ではよく、「登場人物に感情移入できることが大切」と言われる。
ゲームでもそれは同じ。


ゲームの登場人物(特に、主人公であることが多い)に感情移入し、自分と一体化しているとき、ゲーム内での出来事は他人事ではなく、自分事となる。
だから、面白いのだ。
主人公の成功は即ち、自分の成功である。ゲーム内で主人公が勝利し、成功し、成し遂げれば、それはそのまま、自分の勝利、成功、達成でもある。


感情移入できていないとき、ゲーム内の出来事は、文字通り他人事である。自分とは違う世界の出来事。そして人間は、他人のことには熱くなれない。
ゲームにおけるリアリティ、自由度、そして感情移入 『Fallout3』(後編) - なむナビ

だが、Gのレコンギスタ、ベルリに感情移入できるか?
最近は魔法科高校の劣等生、SAOなど「約束された勝利を得る主人公に同化して俺TUEEE!!!」という快感を味わう、と言うコンテンツが多い。

また、俺TUEEE!!!にもいろいろあって、単純に強いだけでなく境界線上のホライゾンラブライブ!のように「高いコミュニケーション能力でみんなの力で勝つ」と言うのもある。その場合、主人公は単独ではなく、チームメンバーの誰かに感情移入して、視聴者は栄光を疑似体験する。またグリザイアの果実やまおゆうなど「敵は視野が狭く、多くの場合下劣な態度だが、主人公の方が冷静で多くを知っている。なので、下劣なものを排除する主人公の好意は正当化される」と言うものある。
Gのレコンギスタのベルリは選ばれた皇子で自分にしか動かせないチートアイテムを与えられて天才で飛び級生で俺TUEEE!!!なんだけど、感情移入同化型の主人公になりそうで巧妙に避けている。ミステイクでカーヒル大尉やデレンセン大尉を殺してしまうイベントなど、「気持ちよく人生を同化体験したい」という視聴者にストレスをかけている。またベルリは人を殺さないようにしていて、そこも「正義の主人公」として感情移入しやすそうなポイントだが、殺したくなくても殺してしまった時にベルリは心を閉ざしたり視聴者が見てない所で黙って気持ちを整理したり強がったりするイベントが今までに何度かあって感情移入を拒んでいる所がある。
演出としても「ベルリはアサルトパックで相手を殺したことに気づいていないが、視聴者には見せる」というイベントがあり、これも同化を拒否する構成だ。

私は「ベルリはスマホ世代なんじゃないのか?」と書いたのだが。
Gのレコンギスタ第15話「飛べ!トワサンガへ」富野からソシャゲー世代に向けて! - 玖足手帖-アニメ&創作-
作り手は「お子たち」である中高生が好む俺TUEEE主人公像に近いベルリを作りながら、非常に冷徹に「感情移入につまずくポイント」もいくつか配置している。エヴァンゲリオンのシンジ君とかファフナーとかはひどい目に遭いつつ「酷い目に合う点も含めて”僕がシンジ君だ”って思う視聴者を増やす」作り手と受け手の共犯関係がある。
だが、Gレコは感情移入しそうになると突き放される、クリム・ニック君に萌えようとしたら滅茶苦茶大量殺人鬼だった、逆に悪い奴だと思ったら死に際で良い奴だと思わされる、などと視聴者の見る印象の幻想が振り回される構成になっている。だから、ベルリに感情移入はしにくいんだけど、振り回されるエンターテインメント感はあるので、面白い。
33歳の僕もハッキリ言ってベルリみたいな天才高校生には感情移入できませんもん。いや、若い視聴者がどう思っているかはわからんのだが。しかし、俺TUEEE!!!作品だったら仲間が主人公に「お前SUGEEE!!!」って言って自信を強化する場面が多い。ONEPIECEとかSAOとか魔法のお兄様とか事あるごとに「お前はすごい!」とか「さすがですわ」とか仲間に褒められる。
ベルリは1話で褒めてくれる脇役ポジションであったはずのルインが「お前みたいなやつは生きていたら危険だ」とか言われるし、ベルリ死ねって思うマスクの大気圏突入に感動的な音楽がつけられて、マスクの劣等感の発露の方に感情移入しやすかったりする。しかし、全体的に「価値観は幻想」と言う描き方なのでマスクに感情移入も全般的にはできない。マスクも殺人鬼だし。ベルリも2話で速攻ヒロインのアイーダの恋人のイケメンカーヒルを殺してボロクソに言われてるし。


じゃあ、やっぱり人の命の重みを知って人殺しをためらうベルリの方が道徳的に正しくて感情移入しやすいのかって言うと、これまで沢山のモビルスーツを撃墜してきたG-セルフで「ガランデンを説得する」って言って進撃してくるベルリとアイーダもどうかと思う。説得がどうのこうのと言う段階ではないような。
ベルリは「殺し合って恨みだけを生んだって!」と殺人を忌避するし「殺人を止めようとする僕は正しい」みたいな態度を取るが、完全武装の最新式戦車が「テロリストは武器を捨てなさい!」って言っているようなものなのだから。そういう風に自分が見られることを自覚していないベルリには感情移入しにくい。
「もう残っている船は2隻だけなんだから戦うのは止められるでしょ!」ってベルリのそう言う上から目線のところがマスクの怒りを発生させるのだ。確かにベルリは金星まで行って見聞を広めたし、戦争を止めたいという崇高な理念があるのは分かる。マスクよりも多くのものを知っているし、ヴァルヴレイヴやクロスアンジュや翠星のガルガンティアサイコパスみたいに「世界の真実を知った主人公」として正当性がありそう。だが「知った風なベルリの態度が気に食わない」というのがマスクの戦う理由なので、感情移入しにくい。主人公のベルリが正しさを振りかざすと、マスクはさらに許せなくなる。ウッソとカテジナの関係にも似ている。
で、俺TUEEE!!!作品だと主人公の格好よさや正当性を補強するために、SAOの子安とかデス・ガンさんとかグリザイアの毒親やまおゆうの悪役みたいに性的に変態だったり下劣だったりする。マスクはイケメンだしな。戦っているのも彼なりのサクセスのためだし。リギルドセンチュリーは戦国時代だから現代とは倫理観が違う。だから、下劣な敵をやっつける正しい主人公という幻想も抱きにくい。
マスクが「ベルリがいなければ主人公になっていた人物」として見ると、スタードライバー輝きのタクトっぽくもあるけど、スタドラはヘッドが下劣になっちゃったからなあ…。
そう言うわけでベルリがものすごくふんわりと「僕は戦争の芽を見つけて無くしたい」と言う願望自体、主人公の目的自体が傲慢で共感できない幻想に見える。なので、どう終わるんだ?この作品は!


また、ベルリとアイーダのダブル主人公として見てアイーダに着目しても、これはこれで幻想に囚われているように見える。

ドニエル・トス艦長がアイーダに「旗艦の指揮を執るのは姫様です」って言われるんだが。

「そのためにビーナス・グロゥブまでいらっしゃったのでしょう?」と艦長が感動的に説得するのだが。
アイーダ姫様は「私にはできないよ!ステア!」って親友だったみたいなステアに泣きつく。

「あんたにはできるんだよ!」
と、ステアは泣く。
なんでステアが泣いたのかって、アイーダの悲しみが分かるから、と言う面もあるだろうが。「アイーダに姫と言う役割を押し付ける自分の申し訳なさ」もあったんじゃないかな。
つまり「高貴な姫君が全体の指揮を執る」と言うのも、アイーダの個人的な能力がどうこうではなく「姫と言う意味的価値を持つ人に責任を持たせる貴族主義」を感じる。貴族主義は幻想だというのは機動戦士クロスボーン・ガンダムで描かれたのだが。
で、ステアは親友にそんなことをさせる負い目があったので、泣いたのではないかな。しかし、アイーダはその姫と言う役割をベラ・ロナやディアナのように投げ出したりしていないで自覚的に高貴な姫として見聞を広めようとして金星まで行った事実はある。
だから、アイーダは「高貴な姫君と言う幻想」の責任を引き受けるのだろうか?女王誕生の物語らしいが?
意味的価値の幻想を幻想だと自覚して引き受ける時、イノベーションに踊らされる全体主義的な群衆と、アイーダは一線を画して高貴な姫になれるのだろうか?姫と言う役割は幻想だと自覚しながら全力で支える時、メガファウナのクルーも本当の意味での個人の責任を持てるのだろうか?

Gのレコンギスタは「ハンナ・アーレントが説いた全体主義の問題を描きたい」と先行インタビューで言っていた。
一般的な全体主義のイメージとしては第二次世界大戦ナチス大日本帝国などの「間違った」「独裁」国家としてイメージされる。最近だとイスラム原理主義などか?
しかし、Gレコには「全体に奉仕させる独裁者」は描かれていない。独裁者がいない、と言うのを印象付けるためにどの組織も一枚岩ではなかった。なので、一見して「Gレコは全体主義を描いているんです!」と言われてもピンとこない。
ファーストガンダムジオン公国のザビ家とか、宇宙戦艦ヤマトデスラー総統とか、ボルテスVの皇帝ズ・ザンジバルとかだと「あー、ナチスっぽい。独裁者っぽい」と分かりやすい。
独裁者やラスボス、という「物語の人柱に成るための生贄」がGレコにはいない。そして、そのこと自体がGレコが描きたい全体主義の在り方なのではないか。

中央公論10年9月号 富野由悠季「戦争を語る言葉がない時代を憂う」 - シャア専用ブログ@アクシズ
戦争を知るために、ここ一年ほどで読破した書物の一つに、ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』がある。ひとことで言えば、人々がなぜナチスなどの全体主義を支持するに至ったかの論考だが、彼女はその中で、「人々」のことを「モッブ(mob)」と表現している。日本語にすれば「群衆」。「大衆」にもなれない、ただ蠢いているだけの存在といったニュアンスだ。

考えておく必要があるのは、基本的に、私たちはいつでもモッブになれる存在であるということだ。アーレントが指摘するように、個々人が独自の判断基準を持っているかどうかは、極めて怪しい。

人間は基本的に「信じる」生き物である。今の時代の社会規範や制度のようなものも、ある種の「信心」によって成り立っていると言っていい。

問題はここぞという時には、そうしたもろもろの「信心」のたがをも外して、理性的なジャッジが下せるのかということだ。世の中のトレンドにつき従うべき局面なのか、それともそうすべきではないのか。そのランク分けのインテリジェンス、「知の自覚」を持っていなければいけないのに、人間はどうもそうではないらしい。


戦後、パラダイスのような資本主義をつくり上げてしまった結果、現代の日本はポピュリズムに覆われ尽くされた観がある。言葉を換えれば、民衆のモッブ化である。こうなると、本当に国のことを考える、ハードインテリジェンスを持ったインテリは、重要な部分から半ば自動的に排除されていく。誰も「難しいこと」など、聞きたがらないのだから。代わりに幅を利かすのは、「マンガ好き」をアピールして票にしようと考えるような政治家である。


モッブが増殖し、居座れば、これを排除するのは難しい。それを基盤にした全体主義の恐ろしさを、もっと歴史から学ぶべきだろう。


たびたび他人を引き合いに出して恐縮だが、僕はピーター・ドラッカーの「人は、理想の社会ではなく現実の社会と政治を、自らの社会的行動、政治的行動の基盤としなければならない」という言葉は、まさに真実だと感じている。

たとえば、「いつか恒久平和が実現する」と真顔で言う人が、今でもいる。冗談ではない。人間がそんなに賢くないことは、それこそ現実を見れば火を見るより明らかだ。そんなきれいごとを、特に子どもたちに吹き込んではいけない。それが『ガンダム』を企図したモチベーションの一つでもあった。

大事なのは、バラ色の未来を夢想することではなく、現実に不都合な部分があったら、たとえ高い壁に見えても、それを乗り越える“志”を持つことだと思う。

ドラッカーは、これ以外にもあまたの名言を残している。ただ、僕は彼の本を単なる経済書として尾読むべきではないと思っている。世の中のベースに経済があるから、そこにスポットを当てているのであって、実は社会全体を機能させるためのマネジメント論を、語っているのだと思う。

特に、日本の経済、社会を担う立場になった「ガンダム世代」には、ドラッカーの一読をお勧めする。ただし、経済的に成り上がるための指南書のような読み方は、やめてもらいたい。彼の本質は、そこにはない。

独裁者が全体主義の悪ではなく、きっと何物にもなれないモブ、シャア・アズナブルではなくスウィート・ウォーターの難民の愚民たち、「みんなのため」とか言う奴、が本当の全体主義者だ。


では、「僕は強い武器を使うけど、みんなのために戦争は終わらせろ!」と叫ぶベルリが一番独裁者に近いんじゃないか?
海外ではベルリよりマスクを応援するファンの声があると聞く。

海外でも圧倒的に「マスクがんばれ! ベルリを倒せ!」という応援一色。
https://twitter.com/kaito2198/status/578864061317660672

戦後民主主義の日本では建前上「全体主義は良くない」と教育されて育つ。だが、Gレコからは「僕たちは正しい戦後教育を受けたから、戦前や海外過激派のような悪い全体主義にはならない」と思ってる世代に向けて、「そう思ってるモブが一番全体主義に走るんだよ!」と殴りに来ている感じがする。

エイハブ@Gレコ大興奮中 @ahabu · 3月14日
Gレコは、全体主義について描こうとしてるし、そうすると解りやすいラスボスはいないということを描かなければならない。ラスボスに責任を押し付けようとする社会的無責任こそが本当の諸悪の根源だとするのだから、ラスボス出て欲しいと期待するその心こそが撃つべき戦争の根っことなる。
https://twitter.com/ahabu/status/576698147042246656

ベルリ、「自分では独善主義者だとは思っていないで戦争の芽と言うラスボスを討とうとする無自覚な独裁者」なのか?全体主義を描くアニメで主人公が一番全体主義(みんなのため)と言うのは、すごく刺激的だ。
「みんなで叶える物語」とかすごく流行ってるし、みんな、「みんなの一員になること」が好きっぽい。だが、大衆と言う愚民は突出した英雄を生贄にもするって、リーンの翼の小説版に書いてあった…。

wikiの「主人公」の項より
ウラジーミル・プロップはは古典的な民話のみならず、物語を作り出す技法として広く応用されており、細部の違いはあっても古今東西の小説や映画などにも見られるものである。更にフィクションだけに留まらず、現実における国威発揚やアジテーションにも応用され、現実の社会情勢を物語の構造に当てはめることで国民全体あるいは指導者自身を物語の主人公であるかのように演出し、民衆の支持を集めるための手段にも用いられている。

主人公への共感や同化は全体主義の発揚でもあるのだ!


来週、意味的価値の主観的な幻想で終わるのか、全体主義はどんな風に描かれるのか?それとも確固たる信念をもって「大地に立つ」ことができるのか?どんなふうに終わるのか?全く先が読めない!だいたい、滅茶苦茶殺人をしている悪いクリムがまだ主人公と同じチームなんですよ!分かりやすいラスボスや独裁者もいない。クンパを殺しても何の解決にもならない。鞘の納めどころが見えない!

富野:「G-レコ」では、科学技術の進歩を禁止しているのですが、それは夢やロマン、希望がないということなんです。そのとき人はどうするのかが物語の着地点のひとつ。
夢がなくても個々の幸せがあるはずで、その個々の幸せのために作中では戦いがあります。
シャア専用ニュース 【速報】「ガンダム Gのレコンギスタ」富野由悠季総監督スペシャルインタビュー!「シナリオを書く上でメカとドラマの二重構造は意識しました」「ドラマはドラマチックな展開が多い韓流を参考に、濃厚にしたつもりです」

意味的価値の幻想という夢とロマンはない。レコンギスタして地球に降りることにどれだけの意味があるのかもあいまい。だが、個人的な幸せはある。イノベーションだなんだと言ってみんなが競争を煽るし巨大な組織は全体への奉仕を求めるけど、本当は人が安心して眠って個人的な小さな幸せがあればそれでいいのかもしれない。しかし、それを戦士たちは得られるのか、気付けるのか?


とりあえず、最終回までにハンナ・アーレントのDVDを見てみようと思います。

関連書籍も読みたかったんですが、まだ聖書も読めてないし…。文明崩壊、帝国以後などの富野お勧め書籍を読めてない…ウウ…僕は無能だ。

「Gのレコンギスタ」と「はじめたいキャピタルGの物語」の共通項・相違点まとめ - 玖足手帖-アニメ&創作-
Gレコには原案小説がある。まあ、原案小説が発表されたガンダムエース2010年12月号も、2007年からの企画から考えると何度も書き直した後なんだろうけど。
で、今回、「はじめたい〜」要素を感じたのは、これ。

「股がすーすーする」「おしっこでそう」「気合を入れよう!」「んっっ!!!」

はじめたいキャピタルGの物語」では初めての宇宙実習で宇宙に出たベリルのチンチンが縮み上がって下腹部に埋没した感じで”これでは気力がわかないぞ”と思ったり、”女子はチンチンが無いのにどうやって気力を支えるんだろう?”

と言う描写がある。アニメのベルリは1話では割と豪胆に宇宙に出ていたので、「宇宙でチンチンが無いと気力が支えられないんじゃ?」という描写は省かれたのかな、と思った。
それがラスト2話で女性キャラクターで描き直される…。面白い。やっぱり、入れたかったのか、この描写。女性も股に力を入れて気力を入れる!最後の最後で脇役に至るまで生活感、生命感を感じさせてくれる。だから親近感があって死んで欲しくないと思う。
しかし、それも幻想なんだろうか?人の命が大事だということもどこまでが本当のことなんだろう?僕は目の前で母親が自殺するのを見てしまっている…。何が大事なのか、僕はもうわからないんだ…。でも、富野作品のことは好きです。Gレコが終わったら小説を読みたいと思います。特にオーラバトラー戦記は長いし2バージョンある・・・。
僕はあと何年くらい生き延びられるのかな…。

  • スタッフ

脚本:富野由悠季
絵コンテ:宮地昌幸、斧谷 稔
演出:越田知明
作画監督:[キャラ] 菱沼義仁、可児里未 [メカ] 戸部敦夫、高瀬健一 仲盛文(戦艦)


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