玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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夏コミで頒布したガンダム Gのレコンギスタの批評公開 #Gレコ

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こちらに寄稿したGレコ感想が割と好評だったのだが、通販とかもあまりやってないらしいし冬コミも終わったので減価償却したと判断し、ブログで公開してもいいかとサークル編集長の失われた何かの おはぎ氏に問い合わせたところ、許可をいただいたので公開してネットで広く知らしめたい。


以下本文

「脱ガンダムと王子革命 Gのレコンギスタは子ども向けアニメである」

■不完全な王子 ベルリ・ゼナム

 この物語の主人公ベルリ・ゼナムは亡国の王子である。しかし、『機動戦士ガンダム』のシャア・アズナブルや他の富野作品の王子様たちに比べると、ベルリは何も王子らしいことをしていない。産みの親の家の再興を図るであろう姉の元から去り、育ての親が運行するキャピタル・タワーを守るキャピタル・ガードに戻ることも無かった。作中最強のモビルスーツを操り、最高の技量を持つパイロットでもあった。が、その力をアムロ・レイやキング・ゲイナーや迫水王のように大衆に見せることなく、最終回でも戦場の片隅で数機のMSとマシン戦をしただけである。ベルリ・ゼナム、彼はいったい何者だったのか。
 富野由悠季監督のアニメでは王子と姫が登場することが非常に多い。初監督作の『海のトリトン』からして亡国の王子であったし、富野由悠季監督は思想面でも「如何に大衆を導くか」と言う貴族主義的なテーマを描くことが多い。そのような富野作品の系譜から見ると、ベルリ・ゼナムはあまりにも無責任なラストを迎えたと言える。王子として不完全だ。もともと『Gのレコンギスタ』という作品は初期案は双子の姉弟がクロノス家を巡る冒険をする王子と姫の物語として企画された。それがなぜこのようになったのか。なぜベルリは王でもなく騎士でもなく、ただの冒険者となり王子様の役割を放棄したのか。
 その高貴なるものの価値というか王子様が欠如している最終回になった事に対して、富野由悠季監督自身も考えていた。一部引用する。
「なんでこうもベルリは跳ねないんだろうとずっと考えてたんだけど、そういうことか……。(中略)初恋の人がお姉さんだって知ったときに、ベルリは委縮しちゃったんでしょ?(中略)(これまでの作品では)アニメのキャラだということで、全部を絵空事で済ませることができた。でも『G-レコ』の場合は、文化論までを含めたリアリティのある世界観を構築しようとしたので、セックスの縛りが出てきてしまったんです。(中略)最終回のラスト、ベルリがシャンクで富士山に登り、ひとりで世界を横断するぞっていう爽快感のあるシーンが今ひとつ盛り上がらないのも、セックスの部分を解消させないまま旅立たせてるからなんでしょう。こいつはアイーダのことを引きずったままなんだな、という匂いがある。ベルリがノレドと一緒に旅立つというのはあまりにもハッピーエンド過ぎて嫌だったんだけど、むしろそうしたほうがよかったのかもしれませんね。(中略)ディズニーアニメでも最後はお姫様と王子様がキスするでしょ?あれはセックスと貼りついているんですよ。それを約束事で済ますことは簡単だけど、そのお約束は芸能にとって大事なことで、そこが無視されるとやっぱり物足りないんですよ。(後略)」(ガンダムエース2015年6月号付属『Gのレコンギスタ パーフェクトパックブック』)
 つまり、富野監督自身、「Gレコに盛り上がりが欠けるのは王子様が欠けているからだ」と認めている。物語における王子様とは何だろうか。それは武勇において問題を解決し国を平らかにするもの、あるいはお姫様を見いだし結婚をすることで互いの国を発展させたり進歩させるものだ。高貴なるものの結婚、物語の主人公の恋、個人的なセックスは組織や国や物語の他の登場人物の集団という公(おおやけ)と連結している。だからこそ盛り上がるのだ。富野監督は多くの姫の悲恋であったり、ヒロインを娶る主人公を描いてきた。だから物語効果としての王子様とお姫様の恋が重要だということは分かっているはずだ。分かっているのに、なぜ『Gのレコンギスタ』はそれをしなかったのか。いくつかの問題がある。


■近親相姦の問題点

 富野監督は気付いていないだろうが、まず大前提としてベルリ・ゼナムがアイーダ・スルガンに恋をしたことが問題だ。このベルリの恋は『Gのレコンギスタ』という作品のストーリーラインの骨子である。ここでなぜベルリがアイーダに一目惚れをしたのかを考えてみたい。
 第1話においてベルリ・ゼナムはアイーダ・スルガンとすれ違った時に一目惚れしたと示される。ベルリがなぜアイーダを好きになったのかは劇中では明言されていない。「ガンダムエース2015年6月号」付属「Gのレコンギスタ パーフェクトパックブック」の第1話のあらすじでは、「その美しさにベルリは心を奪われ、一目惚れしてしまう。」と、ある。また、アイーダの髪の毛の香りにベルリが惹かれたような回想シーンが第2話にある。アイーダの美しさと良い香りに生理的にベルリは惹かれたようだ。これは初恋の描き方としては良い。だが、近親相姦の描き方としてはどうだろうか。自分と同じような匂いと容姿を持つ相手への好意を持つというのは、近親相姦の文脈では他者への愛ではなく「自己愛」に近いものと解釈できる。
 つまり、ベルリ・ゼナムがアイーダ・スルガンにぞっこんだったのは「周りを見ずに自分のことばかり考えている」ということだと解釈できる。ベルリ・ゼナムはただでさえ飛び級生で天才で自己愛が強い。そんな主人公が恋を知ったのは自分に(匂いが)似た姉だという。これは大人になるための初恋と言うより子どもっぽい同族意識に見える。
 その問題点については富野監督も自覚していて、「アニメージュ2015年4月号」で富野監督は「(ベルリとアイーダの)二人が出会った時、立場の違いによる問題がもっと明確に見えなくてはいけなかったんです。いずれ仲良くまとまるという予定調和が透けて見えていたので、キャラクターが弾まなかったんです。本当はこんなこと、評論家が言うことでしょうが、当事者が言っちゃいました」と語っている。仲良くまとまる予定調和が演出によるものなのかどうかはわからないが、近親相姦として考えると、「同族の姉なら受け入れてくれるだろう」という安心感や甘えみたいなものがベルリの恋心に本能的にあったのではないだろうか。それは恋愛物語におけるセックスの「女に俺は受け入れてもらえるのかどうか」というドキドキする醍醐味を殺してしまっている。
 『Gのレコンギスタ』はアイーダ・スルガンが主導してベルリ・ゼナムが助けてメガファウナという船に乗るメンバーが地球のキャピタル・テリトリィやカリブ海から衛星軌道、月、金星と広い世界を見に行く社会見学的なストーリーだ。富野監督も「でも『G-レコ』の場合は、文化論までを含めたリアリティのある世界観を構築しようとしたので、セックスの縛りが出てきてしまったんです」と語っている。しかし、リアリティのある世界観でセックスの縛りがある物語であるにもかかわらず、ベルリとアイーダの間の関係がスリリングな恋愛の駆け引きではなく「姉弟の馴れ合い」で「仲良くまとまる予定調和」という狭いものだったので、せっかくの広い舞台設定が生かされていない。
 一目惚れした宇宙海賊の女を追って海賊船に乗り込む、という序盤では惚れっぽく情熱的だったベルリだが、メガファウナに乗り込んだ後はあまり恋愛感情を表に出したりしなかった。第10話「テリトリィ脱出」で「恋を知ったんだ」と言ってアイーダガンダムで助ける事はあったが、だからと言ってアイーダを自分のものにしようという熱情は感じられない。恋愛感情がカーヒル・セイント大尉を殺してしまった事への負い目に潰され、恋愛的アプローチを避けていた。腰が引けていたのだ。そして、トワサンガにおいてアイーダが姉だと告げられるとベルリは苛立って戦闘を一回してしまうが、その程度で発散されたと言えばその程度なのだ。その後は「弟として姉を支える」という位置に収まってしまい、恋愛感情の昇華は描かれない。

■去勢されたベルリ

 ベルリとアイーダが姉弟だと第16話「ベルリの戦争」で二人は聞かされるのだが、その直前の第14話「宇宙、モビルスーツ戦」においてベルリはアイーダからアプローチされる。しかし、ベルリはいまいち弾けきっていない。アイーダの勝負服を見ても、ベルリはラライヤも褒めて、アイーダに「ついでに褒めたでしょう」と言われる始末。アイーダアイーダでベルリに「ラライヤを好きなんでしょ?」と言う。アイーダがベルリを挑発したようにも聞こえるセリフだが、ベルリはラライヤを評して「きちんと育てられた人じゃないですか」と朴念仁のように言う。また、ここでベルリがラライヤを好きになる展開も潰されていて、ベルリはラライヤに対して「きちんと育てられた人」以上の好意を見せることはない。そして、直後にラライヤに惚れてアピールしまくるリンゴ・ロン・ジャマノッタが仲間に加わるのでラライヤはベルリのヒロインにはならない。逆に言えばベルリの恋心がラライヤに向かわないように去勢されている。
 第14話ではラストにアイーダがベルリに「今日の見事な戦い方で知りました。あなたは立派な戦士です!」と最大級の賛辞をする。好きな女性に評価されたのにベルリは喜びを押し殺して睨むような顔で、「人をおだてたって、早々乗れるものじゃありませんよ?おだてには…乗りません…!」と、素直に喜ばない。
 そのせいでベルリに片思いをしているノレド・ナグさんが「男をやれって言われてんだろ!うれしがってやりな!」と、フォローすることになってしまう。これはどうにも弾まない。せっかく褒められたのに、ベルリは「僕がここに帰って来られたのも、みんながいてくれて、メガファウナがあったからです!だったらやることはやってみせます!」とアイーダへの恋愛感情でうれしがるのではなく、「メガファウナのみんな」に意識を向けて、戦うことに意欲を見せる。
 そして、第15話「飛べ!トワサンガヘ」ではアイーダに褒められて舞い上がったのか、ベルリは無自覚にアサルトパックの遠距離狙撃で敵兵を殺傷する。「これは牽制なんだ!誰も死ぬなよ!」など怒涛の言い訳で暴力を正当化している。この時点のベルリはアイーダが姉と知る直前なので一番調子に乗っている所だが、アイーダへの恋愛感情を戦闘行為に転化させてしまっている。これは『Gのレコンギスタ』を戦闘ロボットアクションものとして見ると戦いを盛り上げていていいのだが、ラブストーリーとしては恋愛以外のことに主人公が注力しているようで盛り下がる。一目惚れで動くベルリなのに、いつの間にか恋する少年ではなく「ガンダムのパイロット」という役割になってしまい、性的には去勢されたように見える。これは富野監督が見る現代の少年の恋愛観を反映させたものなのだろうか。
 また、そもそも近親相姦を富野監督が描くつもりがあったのかどうかも疑問だ。近親相姦タブーで視聴者を驚かせたいなら、作り手はそれを隠すべきだが、富野監督は事前のインタビューでバラしている。「ニュータイプ2014年9月号」で富野監督は「エンタメにするために韓国ドラマお得意の設定まで使ってみせる。(中略)主人公が年上のヒロインを好きになっちゃうけど、実は姉ちゃんだった……というベタな展開に、(中略)アニメだって芸能なんだから文句あるかって(笑)」と得意げに語っていた。が、開始前にそういう「設定」をバラしてしまったら韓国ドラマのように視聴者が毎週ハラハラしたり突然知らされたことに登場人物と同じく驚いたりできない。また、それは作り手の方の問題でもあって、事前インタビューでバラしたせいで緊張感がなくなり、終了後に富野監督は「いずれ仲良くまとまるという予定調和が透けて見えていた」と反省する結果になったのだろう。近親相姦をしたがるベルリの性欲とか弟に愛されたアイーダのリアクションなどの問題について、作り手は掘り下げていない。子ども向けに見せたいからなのか本格的な近親相姦願望は描かれなかったと思える。アイーダがベルリの姉だったということは、「韓国ドラマお得意の設定」レベルの借り物の賑やかし程度で、ドラマやテーマのレベルまで昇華されていなかったと思える。もっと近親相姦に悩む展開なら韓国ドラマのようにウェットに情感が感じられただろう。しかし、『Gレコ』は最初のラブストーリーではなく、未来世界を描くSFになってしまい恋愛心情は薄れた。ベルリはアイーダが姉だと知る前から、ベルリは決定的な間違いを犯さないように去勢されていたようだ。「パーフェクトパックブック」のインタビューでも富野監督は「理が勝ちすぎて、感情移入できる物語になっていない」と自己反省している。結局ベルリとアイーダが姉弟だった設定はセックスの情感ではなく理屈レベルの設定だったのだろう。

■無自覚なベルリ

 そして、一番ひどいのはベルリのノレドに対する態度だ。結論から言うとベルリが最終回のラストにノレドにチュチュミィを渡して去ったのがひどい。最初からノレドはベルリへの好意を隠していなかった。富野監督作品において幼馴染の恋が成就しないのは慣例だが、結局ベルリ・ゼナムは自分にくっついてきているノレド・ナグをどう思っていたのか?せめて別れるなら別れるで、顔を見てきちんと振ってやれよ、と思う。ベルリのアイーダとの恋愛は去勢されているが、自分に好意を寄せるノレドに対しては非常に無自覚だ。恋愛ものや青春ものとして『Gレコ』を見るなら「自覚的に失恋する」という事と「自覚的に振る」ということが主人公の成長に重要ではないかと思う。しかし、ベルリはノレドを振るという事から逃げた。なので、富士山に登って世界一周を目指すベルリのシーンは「アイーダにまだ未練がある」というのと、「まだノレドと決着していない」という情けなさがある。というか、ベルリは悪者になりたくない、いい子ちゃんの坊やでしかないんだな、と思う。悪者になりたくないので自覚的にノレドを振るという、∀ガンダムの最終回でロラン・セアックがやったような大人っぽい儀礼はしない。
 それ以前からベルリは、カットシー編隊やモラン隊の兵士を殺害した皮膚感覚を持ちながら「殺してない」と言い訳をしたり、デレンセン大尉を殺害した後に「あれは大尉じゃなかった」と感覚で分かっていることを理性で誤魔化したり、自覚的に行動して罪を背負う事を避ける行動が多かった。
 『Gのレコンギスタ』のBDの解説書などで「ベルリは不殺」と書かれていることが多いが、フィルムを見るとどうも殺さないように自覚しているというよりは、雑に無自覚に殺している。ベルリは反射神経には優れているが自覚する知力には乏しいようだ。特に自分の罪への覚悟は薄いように見える。ベルリが自覚的に殺害したのはロックパイぐらいなのではないだろうか。バララ・ペオールのユグドラシルやマスクのカバカーリーを撃破する際にも、自分で暴力を振るうという自覚は薄く、「相手の暴力を止めさせる」という受動的なニュアンスが強い。金星に行った後も自分で何かをしたいというのではなく、「姉さんには宇宙にある海の夢といったものを見つけ出してほしいんです」と言っている。
 そんなベルリであるからノレドを自覚的に振るというのは出来なかったのだろう。

■恋する人々についての補足

 そんな風に、ベルリ・ゼナムはアイーダとの近親相姦的な恋愛に腰が引けていて、ラライヤに対しても去勢されていて、ノレドに対しては無自覚で失恋することも無かった。では『Gのレコンギスタ』はラブストーリーが描かれていないのか?と言うと、それは違う。主人公のベルリ・ゼナムの恋愛は不完全だが、ライバルのルイン・リーを巡るマニィ・アンバサダとバララ・ペオールの三角関係の描写は素晴らしかったし、クリム・ニックとミック・ジャック、マッシュナー・ヒュームとロックパイ・ゲティのカップルは濃厚だった。クン・スーンはキア・ムベッキ・ジュニアを妊娠している。また、脇役でもトリーティとチアガールの同性愛カップルも面白かった。富野監督のお気に入りであるメガファウナの操舵手のステアとドニエル・トス艦長の間にも男女の匂いがあった。モブキャラでもクンパ・ルシータ大佐の部下の女の子に彼氏がいて、地球でもビーナス・グロゥブでも家族が描かれた。主人公のベルリ・ゼナムは恋愛や結婚によって物語を主導する王子様ではなかったけれども、王子以外の人々も恋をして世界を作っている。

■王子であることからの解放と子どもへの態度

 ここまで、ベルリ・ゼナムが物語的な意味で「王子様」ではなかったという事を追及するようなことを書いてきた。しかし、ここで私はそれを否定的な意味で捉えるのではなく、だからこそ『Gのレコンギスタ』という作品は画期的なのだ、と論理を逆転させようと思う。
 つまり、「王子様になる必要なんかない」という事だ。富野監督は「最終回のラストシーンが今ひとつ盛り上がらない」と自己反省しているが、むしろ盛り上げないのがこの作品らしさなのではないだろうか。亡国の王子として生まれ、才能に恵まれ、姉に恋をして、最強の専用機体を与えられ、世界の真実を知り、友人と命がけで戦う、と、ベルリ・ゼナムの設定は明らかに盛り過ぎである。富野監督作品において、そのような生まれや育ちや才能によって王子様や英雄であることを社会や物語構造から求められて苦しむキャラクターは非常に多くいた。海のトリトンしかり、シャアとアムロしかり、クロノクル・アシャーしかり。また、富野監督作品の王のモチーフでは、「如何に王者になるか」という立身出世よりは、むしろ「如何に王の座から退位するか」という問題意識があった。破嵐万丈しかり、ドレイク・ルフトしかり、マリア・ピァ・アーモニアしかり、ディアナ・ソレルしかり、迫水王しかり。そのような「業」に付きまとわれる王家のモチーフを描き続けてきた富野由悠季作品において、『Gのレコンギスタ』のベルリ・ゼナムは無自覚で未熟な子どもとして描かれることによって、軽やかに王子様の呪縛から逃れることのできる新しい主人公像を示せたのではないだろうか。
 「月刊ニュータイプ2015年4月号」のインタビューで富野監督はベルリについて「あのくらいの年齢で目的意識がハッキリしている少年なんてつまらないだろっていう思いが基本としてあるので、今のベルリのあり方は嫌いじゃない……かなり好きです。男の子って、困ったときはこんなもんだよね。強い目的意識を持って、ヒーローをやれるほどカッコよくはない」と語っている。
 この稿ではベルリが王子様として不完全で、近親相姦や性欲や恋愛も中途半端だと述べてきたが、そこが良いのである。「劇的なヒーローや王子様」ではなく「少年」が「少年である」という事を肯定し、しかもそれが『無敵超人ザンボット3』や『機動戦士ガンダム』や『機動戦士Vガンダム』のような悲劇ではなく明るく広がるラストシーンを迎えた『ガンダム Gのレコンギスタ』は富野アニメを全部見てきた私から見ても画期的だと思える。
 英雄譚では英雄の力強さや因業を描く物であるが、「物語の設定として要求された役割を飛び越える」というベルリ・ゼナムの飛躍は力強いと思える。物語の設定の枠の外に飛び出すことで創作者、創造者からも自由になる。なので、富野監督が「Gのレコンギスタ パーフェクトパックブック」で「最後はノレドに羽根を付けてベルリのもとに飛ばさなきゃいけなかったんだよね」と語っていることに対して、私は反対である。作者が主人公のために用意したヒロインと結ばれるより、作者も考えていない所で新しい可能性のある人生を歩む方が、広がりがあっていいと思う。ベルリ・ゼナムはノレド・ナグを自覚的に振ることもしなかったバカで未成熟な少年に過ぎないんだが、だからこそ世界一周をする中で今までのアニメに描かれてきた彼の冒険以上の成長ができるのではないか?と言う無限の可能性がある。作者の用意したもの以上の冒険をするキャラクター、素晴らしいではないか。
 また、主役ガンダムのG-セルフが雑に扱われているのも良い。最終回のラストでベルリは親が用意してくれたG-セルフを修理せず無頓着にシャンクに乗っている。ハッパ中尉が語るようにG-セルフはレイハントン家の子を救いたいってシステムだったが、ベルリはそれを乗り捨てる。ここもまた「親の想定した事態を飛び越える」軽やかさだろう。この稿ではベルリの無自覚さをも追及したが、そのベルリの能天気な無自覚さがG-セルフを捨てて小さなシャンクで旅をする選択に繋がっている。劇中でベルリは玩具屋に与えられるように様々なバックパックを使ってG-セルフで活躍したが劇終では捨てる。これは、富野監督が『Gのレコンギスタ』の放送前にガンダムファンに対して「お子たちに見せてやってください」と発言したこととつながっている。ガンダムファンの親が子どもに『Gのレコンギスタ』を見せる行為と、G-セルフを乗り捨てるベルリを重ね合わせると、非常にクリティカルだ。つまり、親が子どもに「このアニメを見なさい」と『Gのレコンギスタ』を見せるが、そこで描かれるのは「親に与えられたものにこだわる事なんかない」というラストである。何という自由さだろうか。
 ガンダムシリーズは確かに面白いし大人になっても見ることができる作品だ。現在も『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』など「大人に向けたガンダムの作り直し」がなされている。そして、大人になったガンダムファンは子にガンダムを見せたりもする。しかし、『Gレコ』では「子どものベルリはガンダムに乗るけど、物語のラストではガンダムを卒業して、親や作者の想定を乗り越えた世界に向けて冒険に旅立つ」という「脱ガンダム」を描いている。これはいつまでもガンダムに囚われているガンダム世代の大人にとって非常に耳が痛い。そして、子どもに対しては世界の自由さと広がりを提示している。ベルリや子どもたちが本当に大人になるのはガンダムを卒業した後で、それは作中では描かない。なので、王子様の結婚が描かれないラストとなり、物語として盛り上がらないのは確かだ。しかし、『Gのレコンギスタ』では王子様以外の他の登場人物が積極的に恋愛をし、家族を作っている世界だった。なので、ベルリもいつかは新しい出会いがあるだろうという明るい暗示がなされている。そしてまた、これはベルリが王子様や主人公であることからも自由になったという事だ。王子様の恋愛だけが重要視される物語と違い、王子様でなくても恋をする。そしてそれはまた、誰もが王子様になれるという事でもある。革命的だ。
 これはまた、富野監督のフィルモグラフィとして、仲間の元に帰った『無敵超人ザンボット3』や『機動戦士ガンダム』、『新訳 機動戦士Zガンダム』よりも広い。隠遁する『無敵鋼人ダイターン3』や『重戦機エルガイム』や、消えてしまう『海のトリトン』、『伝説巨神イデオン』、バイストン・ウェルシリーズよりもすがすがしい。近いのは『戦闘メカ ザブングル』か『オーバーマン キングゲイナー』であるが、「作者の作った設定世界の外に出る」という点では『Gのレコンギスタ』はさらに飛躍している。同族のアイーダに恋をして幼馴染のノレドに好かれていたベルリは、物語の中で金星にまで行ったが恋愛としては狭かった。物語の後でもっと広い恋をするのだろう。
 作者や親の想定した範囲の外に出てほしい、というメッセージは子ども達に対する富野監督の熱いエールのように見える。また、少子化の現代において、親は子に過大に期待したり干渉するものだ。そんな自分の子を王子様やお姫様扱いして玩具や服やアニメやモビルスーツを買い与える現代のオタク世代の親に対して、『Gレコ』は痛烈な批判になっている。「私は私自身で見つけて、成し遂げます!」と宣言するアイーダと、王子様として期待された役割を脱却するベルリを通して、「王子や姫という役割を親や社会から与えられたからと言って従う必要はない」という自由なメッセージが込められている。
 「レコンキスタ」「国土回復運動」という単語自体が、「自分ではなく、自分の先祖が持っていた財産や因縁に縛られて行う戦い」というニュアンスを含む。そして、『Gのレコンギスタ』のラストではその因縁からの解放が描かれた。これを因縁に縛られた人々を描いてきたガンダムシリーズで、また三世代コンテンツとなったガンダムで、ガンダム世代の親と子どもに対して提示するというのは、かなりクリティカルだ。おそらく、それは実際に子育てに悩んだが孫を見ることができた富野監督の実体験からの家族論も含まれているだろう。
 だから、最後に敢えて言おう。「『ガンダム Gのレコンギスタ』は子ども向けアニメである」と。



本文終わり
ガンダム Gのレコンギスタ  9(特装限定版) [Blu-ray]
ガンダム Gのレコンギスタ キャラクターデザインワークス



 先日カウンセラーに「アニメ評論家になって出世しましょうよ」と言われたのだが、僕に富野アニメの批評を依頼してきたアニメ批評化を目指していて実際ネットメディアで幾原邦彦論などのライターをやっていたはるしにゃんは自殺した。
nuryouguda.hatenablog.com
なので、文筆業で生計を立てるというのはいまいちどうなのかと思う。自分の意見を多くの人に植え付けること自体が目的であるので無料ブログでいいのではないか?と思う。
また、有料メルマガやニコニコチャンネルやユーチューブで課金させる人も多いわけだが、課金させて自分の意見を言う人の文章は「この文章や私には金を払うに足る価値があります」という権威づけのための情報を付加したデコデコした文が紛れていて、総体として格好が悪いと思う。なんか偉そうにするための文章ってダサいと思う。宇野とか。

いや、まあ、おすぎやナンシー関みたいな職業もあるわけだけど。
そういうわけで、今回は無料で公開するわけだが。


今後生計がいよいよ苦しくなれば売文家になるかもしれん。しかし、売文するには取材とかコネ営業とかで時間を取られる側面もあるのでにんともかんとも。

www.amazon.co.jp


とりあえず、この文章を読んで「グダちん生きて!」「グダちんに課金したい!」って思った人はアマゾンほしいものリストの品とか、はてなポイントを送ったりすることもできる。
でもなー、ガッチャマンクラウズの感想に感動した人に2年前にハヤシライスの詰め合わせをもらったくらいで、ほとんどほしいものリストから物をもらったことがないんだよなー。まあ、ブログの大多数の読者はフリーライダーなんだけども。


まー、富野信者的にはガンダム Gのレコンギスタが終わって10か月くらいになるタイミングで宣伝できたら良いという面もある。Gレコの新展開楽しみですね!
えっ、Gレコをまだ見てない人は急いで購入しましょう!