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玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。旧玖足手帖から記事・ブクマを引き継ぎました。


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90年代以降の富野由悠季作品のヒロイン論ベラ・ロナ編1万文字(はるしにゃん追悼)

はるしにゃん id:hallucina 氏に同人誌への寄稿を頼まれたが、彼が夭逝したために印刷の機会が無くなった。そういうわけで、途中の原稿をブログにアップロードする。

タイトル案


1.「恋する富野アニメの価値観の変遷~逆襲のシャアからGのレコンギスタまで~」
2.「グダちんの富野由悠季論 恋愛と世界の価値の変遷」
3.「逆シャア以降のガンダムのヒロインから、時代の価値観を読む」

  • 序 この稿のスタンスについて

今回、はるしにゃん氏から90年代のアニメーション作品に対する論を書いてほしいという依頼を受けた。そして、私は『機動戦士ガンダム』が好きなのでその監督の富野由悠季論を書くことになった。
 しかし、である。富野由悠季と言う人は非常に幅広く仕事をしている。なので、富野由悠季という人を一つのコラムで総括するということは無理である。
 では、何を語るべきか。そこで私ははるしにゃん氏の事を考えた。それで氏のいくつかの文章を読ませていただいたが、私にとってはるしにゃん氏とは「愛情」と「価値観」について「精神分析」をする人だという印象を受けた。
 それであるから、「90年代から現代までの富野由悠季の物語原作者としての価値観の変遷」を書くことにした。価値観の変遷とはすなわち時代の趨勢であり、社会学的な現代批評にもなる。また、富野由悠季監督は非常に“現代”の空気感覚に敏感で、取材を綿密に行う方である。いくつかの富野由悠季監督の作品に参加したスタッフの証言によると、富野由悠季監督はアニメーション作品を作る際に、スタッフや役者に対して自分の考えた物語の話をすることよりも、自分がその時々に影響された本や映画の話をして、自分がハマっている本を読ませたりすることが多いらしい。最新作、『ガンダム Gのレコンギスタ』のBD5巻のオーディオコメンタリーにおいて、小形プロデューサーは「富野さんは自分が影響を受けやすい人だから、本を渡したりするのは自分と同じ気持ちになってほしいからなんじゃないかな」と語った。そんな人であるので、富野由悠季監督の価値観の変遷を見ることで、アニメ批評と現代批評を接近できるのではないかと思う。残念ながら、私はそれほど精神分析や哲学や社会学に詳しいわけではなく、ただ単に富野由悠季監督が好きで富野アニメを全部見ただけのアニメファンに過ぎない。なので、理論として間違っていたり、用語を正しく使えなかったりする部分もあるかと思う。その点はご容赦をいただきたい。

 はるしにゃん氏の本と言うことで、富野監督のことを知らない人も読者として多く想定される。なので簡単に紹介しておく。ものすごく簡単に言うとガンダムの総監督で原作者。もう少し丁寧に言うと、1941年生まれで日本大学藝術学部を卒業後、手塚治虫の作ったアニメプロダクション虫プロダクションに入社、1964年11月28日放送のテレビ版『鉄腕アトム』第96話「ロボットヒューチャー」で脚本・演出を手掛けてアニメーション作家としてのキャリアをスタートさせた世代のアニメ監督。その後、虫プロを退社、実写のテレビCM会社に転職したり、フリーの絵コンテマンとして日本アニメーションタツノコプロなどで、『巨人の星』、『あしたのジョー』、『新造人間キャシャーン』、『昆虫物語 みなしごハッチ』、『アルプスの少女ハイジ』、『フランダースの犬』、『母を訪ねて三千里』、『宇宙戦艦ヤマト』など、非常に有名な日本のテレビアニメーションの初期作品群に多く参加された。初監督作品は手塚治虫原作の『海のトリトン』(1972年)。その後、日本初の原作者なしのオリジナル巨大ロボットアニメーション『勇者ライディーン』(1975年)の前半の監督を務め、その後1979年の『機動戦士ガンダム』で爆発的なヒットを収め、73歳を超えてなお2015年現在に至るまで「オリジナル巨大ロボットアニメーション」の監督として仕事をしている人だ。小説家としての側面もあり、小説では自分のアニメーションのノベライズや、ファンタジー小説などを書いている。作詞家でもある。富野監督について説明した本は『富野由悠季全仕事』や『ガンダム者―ガンダムを創った男たち』、『ガンダムの現場から―富野由悠季発言集』、自身によるエッセイ『だから、僕は…』、『イデオンライナーノート』、『ターンエーの癒し』等があるので、詳細はそちらをご参照いただきたい。
 また、ガンダムシリーズについて説明した本も多くある。また、初代ガンダムは36年前の作品だが、ガンダムの全シリーズに公式サイトがありあらすじやスタッフ、登場人物や登場メカや世界観の説明もあるので、インターネットを活用してガンダムを知ることもできる。ご利用されたし。
 今回のこの原稿では「90年代以降のアニメ評論」ということなので、ガンダムの前半である『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』(1988年公開)より後の富野作品について書いていきたい。


  • 第一章 ヒロインは価値である

 はるしにゃん氏はここ最近、インターネットで『はるしにゃんの幾原邦彦論』というコラムを執筆されている。そこでは幾原邦彦監督作品の『少女革命ウテナ』を語ってらっしゃる。そこで、はるしにゃん氏は

kai-you.net

過去作のテーマやスタイルを概観し、彼の人間観や世界観に肉迫していく作業となるに違いない。そのとき、我々は幾原の問題意識が我々の生活と決して無縁ではありえないこと、またそれゆえにこそ我々が幾原作品に惹きつけられているのだということを知ることになるだろう。

と仰っている。それと同じことを、私は本稿で行いたい。
 また、はるしにゃん氏の幾原邦彦論の第一回に、「幾原監督は東映動画佐藤順一監督の下でアニメ制作に携わり」と書いてあるが、その師匠筋にあたる佐藤順一監督も『機動戦士Zガンダム』で富野由悠季作品に演出家として参加していた。また、『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明監督と、『少女革命ウテナ』の制作団体の「ビーパパス」で幾原邦彦監督と組んだ編集者の小黒祐一郎氏が『美少女戦士セーラームーンR』の放送中の1993年に発行した「逆襲のシャア友の会」という同人誌にも幾原邦彦監督のインタビューが収録されている。なので、はるしにゃん氏が熱心に考察してらっしゃる幾原邦彦監督も、富野由悠季監督の影響下にある。(富野監督は戦記ものや手塚治虫出崎統監督などの影響下にある)
 なので、富野由悠季を考える本稿は、はるしにゃん氏の本では全く無関係と言うわけでは無かろうと思う。
そこで章題に戻る。ヒロインとは価値である。『少女革命ウテナ』は「薔薇の花嫁」という「姫」を決闘によって獲得することで「世界を革命する力」を手にしようとする者たちの物語であった。つまり、おとぎ話や神話、ヒーローズ・ジャーニーにおいてお姫様は冒険者や王子様、主人公の物語の価値を象徴する「ご褒美」だという物語構造がある。これは『ウテナ』だけでなく、その元ネタであるところの『シンデレラ』『眠れる森の美女』など西洋のおとぎ話でもあるし、日本でも『ヤマタノオロチ伝説』など、英雄が冒険の果てに価値として美女を娶るという説話は数限りなくある。そこで、どのような美女に価値を置くのか、という所にまさしくその物語が何を重視しているのかという価値基準が象徴される。機動戦士ガンダムシリーズは女性ファンも多いが、基本的には男性が主人公で男児向けロボットアニメというジャンルだ。なので、価値のあるヒロインを手に入れるという筋書きの男の子のための冒険ロマンスとしての側面がある。
 富野由悠季監督の作品はオリジナルアニメーションが主体で、架空の世界や時代を舞台にすることが多い。つまり世界観そのものの価値基準からしてオリジナルなのである。それを一つ一つ評論するというのは、非常に難しいことだ。なので、本稿では富野作品に登場するヒロインたちを紹介し、それを見ていくことでその物語が何を大事にしているのかを考え、それを概観することで時代とともにどのようなヒロイン像、価値観の変遷があったのかを書いていきたい。

 富野ファンである私の立場からこのように言うのは心苦しいのだが、富野由悠季監督の描く女性像と言うのは豊かであるように見えて、実はほぼ4つの類型にまとめられる。特に、ヒロイン級のキャラクターはほぼ以下の四要素でまとめることができる。
・火属性…姫、女王、アイドル
・水属性…魔女、巫女、シャーマン、超越者、死者
・風属性…女戦士、プロフェッショナル、犠牲者
・土属性…幼馴染、保母、母性的、母親、妊婦
 尊敬する作家の物語を類型化するのは矮小化するようで心苦しいが、本稿では論を簡潔にするために仮説としてこの四元素を用いる。大塚英志氏の「キャラクター小説の作り方」は持っているがまだ読んでいないため、先行研究などがあれば私の独論は間違っているかもしれないが、とりあえず富野ファンの印象論として書かせていただく。
 この四パターンの女性キャラクターの造形は富野由悠季監督の初期作品の『勇者ライディーン』、『無敵超人ザンボット3』『無敵鋼人ダイターン3』でも見られる。この要素は各キャラクターに分配されることもあれば、その概念をキャラクターが擬人化したように象徴として描かれることもある。
 例えば、ファーストガンダムと言われる『機動戦士ガンダム』のヒロインを分類することもできる。
・姫……セイラ・マスミネバ・ザビ
・巫女、死者……ララァ・スン
・女戦士、犠牲者……マチルダ・アジャン、クラウレ・ハモン、ミハル・ラトキエ
・幼馴染、保母、母親……フラウ・ボゥミライ・ヤシマカマリア・レイ
 と、こんな風に分類できる。
 ただし、セイラ・マスは姫でありながら女戦士として前線に出てアムロのパートナーとしてガンダムをアシストするGアーマーのパイロットになったし、マチルダ・アジャンやミハル・ラトキエが死後のイメージとして登場したこともあるので、完全に分かれているわけではない。宇宙生活に適応した未来人のニュータイプとして超能力が使えるようになったララァ・スンは巫女的だが、娼婦の身分から身請けしてくれたシャア・アズナブルを助けるために女戦士として戦い、アムロ・レイと超感覚で交流するが、死ぬ。死後、ララァは思念体として宇宙を漂う。各キャラクターが状況ごとに姫属性だったり巫女属性だったりする。
 そして、富野由悠季のアニメにおいては姫がヒロインであることが多い。富野アニメは戦闘ロボットアニメーションとして非常にハードSFとして認知されることが多い作品だが、おとぎ話やディズニーのプリンセスファンタジーなどに近いものとして見ることもできる。そして、ディズニープリンセスが時代を反映して変化しているのと同じように、富野アニメのヒロインも時代性がある。

機動戦士ガンダムF91 [Blu-ray]

 ここから各論に入る。本稿では90年代からの富野アニメの価値観の変遷を記述する。その点で、『機動戦士ガンダムF91』は象徴的な作品だ。というのは、80年代までの富野アニメ、ガンダムシリーズ宇宙世紀0093年を舞台にした『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』で一旦終局を迎え、新しいシリーズ、新しい価値観の構想を企図したものが宇宙世紀0123年を描いた『機動戦士ガンダムF91』だからなのである。ファーストガンダムから続いたアムロ・レイシャア・アズナブルや地球連邦とジオン公国の決着を描いた映画『逆襲のシャア』が1988年に公開された後、90年代に向けて旧作のキャラクターを登場させず世界観だけ引き継いだ新しいガンダムとして1991年に製作公開されたのが『ガンダムF91』だ。これには作品の外の制作会社の商業的な要請もある。しかし本稿では『F91』のヒロインであるベラ・ロナに着眼する。
 ベラ・ロナはシンデレラである。本来は高貴の家の生まれで一度没落するも、本国に戻り姫としての身分を取り戻す、というのが彼女の物語である。市井で暮らしていた時の名前はセシリー・フェアチャイルドと言い、主人公のシーブック・アノー少年も彼女をセシリーと呼ぶ。
 2時間の映画だけであるが、ベラ・ロナの姫としての立場はかなり流転する。その度に重層的に彼女には姫やアイドルの要素が重ね着される。まず、冒頭で登場した時、セシリー・フェアチャイルドはすでにハイスクールの文化祭のコスプレミスコンのクイーンに輝いている。この直後、ロボット戦闘が始まるのでこのシーンは見過ごされがちだが、戦争が始まる前から、貴族である実家に帰郷する前の市井のパン屋の娘であった時からセシリーは美貌と知性を兼ね備えた学園のアイドルだったと示されている。その後、セシリー(ベラ・ロナ)の実家のロナ家が創設した私設武装組織クロスボーン・バンガードがセシリーたちの暮らすスペースコロニー(全長32Km、直径6kmの円筒形の人工衛星で月と地球の間に数百基浮かぶ人工の宇宙植民地)に突然武力侵攻をして占領する。その戦闘の混乱の中でセシリーを慕う生徒会長や主人公のシーブックたちと逃げ回るが、セシリーはベラ・ロナとして、クロスボーン・バンガードの騎士の一人であるドレル・ロナの乗るロボット、モビルスーツ(MS)にさらわれ、本家に戻る。ドレルはベラの生き別れの兄である。そこでベラ・ロナと言う本名を教えられ、ロナ家の総帥で祖父のマイッツァー・ロナや父のカロッゾ・ロナと再会し幼少期を思い出し、姫としての自覚を取り戻す。なぜ、彼女が平民として育てられたのか?それは彼女の母でマイッツァー・ロナの娘のナディア・ロナが入り婿のカロッゾと仲たがいをし、シオ・フェアチャイルドという詩人崩れのパン屋の男と浮気をして娘を連れて出奔したからだ。しかしナディアはシオをも捨てて行方不明になり、クロスボーン・バンガードは武装蜂起の日にセシリーをベラ・ロナとして略取するという計画となったのだ。ここで、ドラマチックな効果がある。母のナディアは貴族の姫であることを捨てて浮気をして出奔するという外道に落ちた。その娘であるセシリーが実家に戻りベラ・ロナとしての自分を自覚的に選ぶことで、単に血筋だけの姫ではなく能動的に姫であろうとする人物だと示されている。そして、ベラ・ロナはロナ家が占領したスペースコロニーに建国した国家「コスモバビロニア」の姫、アイドルとして大衆を導くように祖父に頼まれ、戦場のアイドルとしてMSのパイロットにもなる。戦う姫である。しかし、映画の後半ではカロッゾ・ロナが人類を虐殺する計画を立てたり、他の女性パイロットがクロスボーン・バンガードから地球連邦に寝返ったり、主人公のシーブック・アノーガンダムF91のパイロットとして戦場に出てベラ・ロナの乗る機体と接触をしたことで、ベラは再会したシーブックについて行くように地球連邦軍に転向する。そして、実の父親の乗るモビルアーマーと戦い、傷つき、シーブックに助けられる。ベラは戦う姫君として戦場に出たが、物語のラストでは主人公のシーブックが悪い父親であるカロッゾを打ち破った後に助けるべきプリンセスという役割となる。カロッゾの攻撃を受けて宇宙空間に投げ出されて行方不明になったベラを、ガンダムのバイオコンピュータの力やシーブックニュータイプ能力の遠距離探知で見つけられ、シーブックがベラを抱き留めた所でこの映画はいったん終わる。完全にプリンセスを騎士が助けるという構造の物語になっている。
 まとめると、セシリー・フェアチャイルドは元々学園のアイドルであるような才色兼備の美少女だったが本当に姫としての生まれだった。本国に帰還して建国のアイドルとして兵士を鼓舞するために戦場に出るが、敵国の騎士になっていた主人公と再会し、生国を裏切る。そして、人類を抹殺する計画を立てる悪い魔法使いのような父親を主人公と共に打ち破り、結ばれる。
 このように、『ガンダムF91』はシンデレラストーリーと騎士道小説がミックスされたものだが、ベラ・ロナの姫としての要素は古典的なおとぎ話に留まらない。それは、この『ガンダムF91』のタイトルに内包された時代性、バブル時代の象徴性である。『F91』は「フォーミュラーナインティワン」と読む。つまり、バブル時代のF1ブームやフェラーリブームをガンダムのデザインとして取り入れているわけだ。本稿の最初に述べたとおり、ガンダムは時代の空気を取り入れて作られている。つまり、『機動戦士ガンダムF91』はバブル世代のガンダムと言うことができる。本作の主題歌を歌った森口博子氏は1985年に『機動戦士Zガンダム』の主題歌でデビューしたアイドルだが1991年当時には「バラエティー番組のアイドル」、「バラドル」として大人気だった。なので、バラドル森口博子氏が正統派アイドルに回帰してラブソングを歌うのは当時、逆に意外に感じたものだ。そのように、ガンダムのデザインやネーミング、主題歌の歌手にも当時の空気感を込めている。
 もともとこのアニメーション映画はテレビシリーズの序盤数話のダイジェストとして企画されたものを諸般の事情により映画公開のみで打ち切ったという不遇の作品で、そのために展開が映画としては急である。であるが、ヒロインと主人公の恋物語として見るとヒロインのベラ・ロナの唐突な裏切りは当時流行したトレンディドラマのような女心の表現と見ることができる。アンナマリー・ブルージュという女性パイロットがクロスボーン・バンガードをベラよりも先に裏切る事情も、クロスボーン・バンガードのイケメン騎士でアンナマリーの恋人であったザビーネ・シャルがベラ・ロナに取り入ろうとした事への憎しみや嫉妬心であり、トレンディードラマのようだ。また、最初はポンコツの自動車に乗っていた主人公のシーブック・アノーガンダムF91に乗り換えてベラ・ロナを迎えに行くのは当時のバブル大学生が外車を乗り回していたというようなことのメタファーかもしれない。
 ここで、さらに強調しておきたいのはベラ・ロナがどういう国のお姫様なのかということだ。コスモ貴族主義のアイドルとはどういうことなのか。映画ではマイッツァー・ロナが孫娘のベラ・ロナに語るセリフで示され、富野由悠季監督本人による小説版でコスモバビロニアが標榜する「コスモ貴族主義」の理念が強調されている。曰く「高貴な者が持たねばならぬ義務というものがあってな。例えば戦場でも一般庶民たちは怖いと言って逃げ出してもいいが、尊きもの貴族は、血を流すことを恐れてはならぬ、先陣に立たねばならない」「人権は平等だが、同じ人間は二人といない。そして何よりも人類と世界を治めるのは、自らの血を流すことを恐れない高貴なる者が司るべきなのだ」とのこと。宇宙世紀0123年の地球連邦政府ジオン公国という敵を倒した後の平和が続いた時代性により、官僚主義が堕落した。その絶対民主政治の腐敗に対して、ロナ家はクーデターを起こし「高貴な人間が大衆を導く貴族主義の国家の建国」を唱えた。クロスボーン・バンガードの武力侵攻の前に、ロナのマイッツァー・ロナは長男のハウゼリー・ロナを地球連邦議会に政治家として送り出したが、暗殺された。そのような政治劇がロボットアニメの裏にあったのだ。また、クロスボーン・バンガードは武装組織になる前はロナ家傘下の職業訓練学校を母体としていた。そのように自らを鍛えた者達が宇宙世紀の新しい貴族を自称するのがコスモ貴族主義だ。
 ロナ家は生粋の貴族ではなく成金だ。ロナ家は地球連邦とジオン公国の戦争の後の宇宙漂流物、いわゆるデブリやジャンクを集める廃品収集業を行う企業のブッホ・コンツェルンを母体にしている。ブッホ家の創始者のシャルンホルスト・ブッホはゴミ掃除屋という底辺の事業者だったが、宇宙戦争の戦後の廃品回収需要の高まりと経営の才能で巨大企業を一代で作り上げた。そして、旧欧州の名家のロナ家の家名を購入して貴族を自称し、子供や孫たちを政財界に送り込んだ。これは戦後日本がジャパンアズナンバーワンと言われ、アメリカのビルやゴッホのひまわりを金にものを言わせて購入したバブル時代の成金主義のメタファーと言える。戦後の日本でも実業家の松下幸之助が政財界へ人材を送り込む松下政経塾PHP研究所を設立した例があり、それをガンダムに取り入れたのがコスモ貴族主義だと言える。
 ただし、現実の日本での政治エリートは自ら手を汚すことはしないが、アニメでは劇的にするためにクロスボーン・バンガードは貴族主義の前衛(バンガード)としての海賊部隊を自称して武装し蜂起した。そして、姫のベラ・ロナはその前線でMSを操る騎士たちを鼓舞するために専用のMSに乗って戦場に出る。しかし、ベラ・ロナが不幸だったのは、そして特異なのはお飾りの姫ではなく本当に優秀なパイロットとして戦えてしまえたことだ。そして、自分の国や父の行う作戦の間違いを大局的に直感し、裏切ってシーブックと共に父を討つ。ガンダムにおけるニュータイプとは超能力者や優秀なパイロットやシャーマンとしての面もあるが、「事態を正しく認識できる者」としての精神力の持ち主でもある。ベラはそのような正しい認識力と精神力を持っていたがために、父を裏切ることになる。
 宇宙世紀から、もう一度視点を1991年に戻す。1988年の『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』までの思想と1991年の『機動戦士ガンダムF91』の思想は決定的に違う。80年代のガンダムのメインの思想は1972年にローマクラブが発表した「成長の限界」という資源と地球の有限性を論じた研究を主軸にしている。88年までのガンダムの世界観は「増えすぎた人類が宇宙に移民するようになった時代」で、「地球に残っている連中は、地球を汚染しているだけの人々だ。」「人類は、自分の手で自分を裁いて、自然に対し、地球に対して、贖罪しなければならん」と言うシャア・アズナブルの思想に代表される。つまり、アーサー・C・クラークなどの宇宙SFによくあるように地球を母に見立てて「人類はいずれ母の元から旅立ち宇宙を目指すべき」とか「人類を生み出した母なる地球を汚染しないように聖地にすべき」というものだ。人類と言う子供が地球と言うグレートマザーに対して罪悪感を感じたり、自立を志向する成長途上の思想だ。これは80年代までが宇宙開発史的にも日本の経済発展の歴史としても成長していった時代性にマッチしている。対して、『F91』は日本の経済的発達が成熟し飽和した好景気の絶頂である1991年のアニメであり、作中の世界観としても宇宙世紀での宇宙生活が安定した時期の話だ。『逆襲のシャア』のシャア・アズナブルは地球に住む人に地球から自立させるために地球に隕石を落とすというテロ行為をした。対して、『F91』の敵役であるカロッゾ・ロナはコスモバビロニアの建国事業について「人類を永遠に生き延びさせるための、 我がロナ家、千年の夢」と自称したが、それは自動ロボット・「バグ」による人口の9割を虐殺して計画的かつ機械的に人口を管理することだった。シャアの思想は「人類が宇宙に向けて地球を離れて“成長”するため」という未来志向のものだが、ロナ家の思想は「地球環境の保全」という点では一致しているが「人類を永遠に“管理”するため」という成長が停止した成熟した大人の、現状維持志向の思想だ。その人類管理を行うための権威づけとして貴族を自称し、宇宙時代のバビロンという懐古趣味で組織と都市の建設を行った。これはバブル時代の日本人が金を手に入れた後に権威を欲しがって芸術品を買いあさったことへの風刺かもしれない。そしてジャパンアズナンバーワンのバブル日本とコスモバビロニアの傲慢は人類をエリートが管理するという発想となった。これは成金の思い上がりである。バブルが後から見ると実態がなかったように、コスモ貴族主義も成金が貴族の家名を買ったり宇宙にバビロンのレプリカを作ったりする虚構の権威なのである。ここで富野由悠季の作家としての鋭さが炸裂する。コスモ貴族主義を背負うために自分を強化人間にしたカロッゾ・ロナは鉄仮面と呼ばれ、『スター・ウォーズ』のダース・ベイダーのようなフルフェイスの仮面を外すことができない。富野監督はエリートが愚民を導くべきだとしている思想を発案した一方、「コスモ貴族主義は仮面を被った虚仮威しである」という貴族主義の虚構性をバブル崩壊直前に見事に描いている。
 話をベラ・ロナに戻すと、ロナ家は張子の虎の貴族なのだ。なのでベラ・ロナという名はセシリー・フェアチャイルドのアイドルとしての芸名として見ることができる。1991年の芸能界ではバブル時代の浮ついた空気が蔓延し、芸能人やアイドルも雲の上の「芸能」の人ではなく「テレビと言う虚構」の人として扱われるようになっていた。アイドルブームが山口百恵氏のような崇拝の対象から森口博子氏などのバラドルに移行したのも象徴的だ。なので、ベラ・ロナも「偽物の時代の偽物の国の偽物のアイドルの偽物のお姫様」なのである。しかし、セシリー・フェアチャイルドはベラ・ロナであることを捨て、シーブック・アノーガンダムと共に仮面を外せないままの父親を討つ。
 プライベートの面で、富野由悠季監督には二人の娘さんがいらっしゃる。現在はお二人とも外国人と結婚し、孫も生まれている。次女の富野幸緒氏は世界的なコンテンポラリー・ダンサーとなり、富野監督の最新作の『Gのレコンギスタ』のダンス部分の振り付け演出で父に協力されている。だが、1991年当時には娘さんとの間に確執があったとも噂されている。その娘との関係がうまくいかない部分が、カロッゾ・ロナとベラ・ロナに投影されている。しかし、富野監督はアニメ作家としての自虐かもしれないが、娘の恋人に父親のキャラクターを殺させる。これは、ベラ・ロナを「偽物の姫」として見て、コスモ貴族主義を「偽物の権威」として見ると面白い。富野監督は80年代にブームを起こしたガンダムやバブル景気の文化を「偽物の権威」だと思っていたのだろうか。そして、「偽物のようなアニメしか作れない父親に反抗して、本当の恋をして、正しい男と結ばれて、本当の価値を見つけて父親を乗り越えてほしい」と、娘に向けて屈折した感情を願ったのかもしれない。
 主人公のシーブック・アノーも男親の家庭で育てられ、母親が設計したガンダムに乗り、妹を守るという家族の関係性を描かれている。ここでは彼については深く触れないが、ラストシーンで宇宙の闇の中からセシリーを見つけ出すシーブックの洞察力は、カロッゾを打ち破る戦闘よりも重視して描かれている。「ベラ・ロナは偽物の姫かもしれないが、セシリー・フェアチャイルドは真実の価値を持った本物の姫として、真実の騎士に見いだされてほしい」というプリンセスストーリーが感じられる。
 本来、この映画はテレビシリーズになるはずだったのだが制作会社の都合で続編はアニメ化されていない。ただし、『機動戦士ガンダムF91』の10年後を描いた萬画作品『機動戦士クロスボーン・ガンダム』が1994年から富野由悠季の原作と長谷川裕一のタッグで少年エースに連載された。そこで、成長したベラ・ロナとシーブック・アノーが、新世代の騎士と姫の少年少女を守る大人として活躍する。しかし、本稿はアニメ批評なので『クロスボーン・ガンダム』については割愛する。しかし、これも名作だ。

(着手せず)

  • 結び

(未完)

  • はるしにゃんとのメール

2015/06/23 18:06、グダちん のメッセージ:

> はるしにゃん様
> グダちんです
>
> Twitterを辞められたとのことですが、アニマシオンクリティークはいかがでしょうか。
> とりあえず、90年代の富野アニメをヒロインの観点から振り返ってみようと思い、
> 90年代の1作目の『機動戦士ガンダムF91』について書いたものtxtファイルを添付します。
>
> ここで既に1万文字を越えてしまいました。
> 続く『Vガンダム』『ブレンパワード』『∀ガンダム』『キングゲイナー』『新訳Zガンダム
> 『リーンの翼』について書くと、単純計算で5万文字をオーバーしそうです。
> なんとか圧縮して遂行して書き直すつもりですが。
> どうしましょうか。
> 90年代以降の全ての富野アニメヒロインを1回で論じるか、端折るか、分けるかの選択が
> でき ます。
>
> そちら様がよろしければ、「90年代の富野アニメ」と「21世紀に入ってからの富野アニメ」
> と分けて、別の本で出すということもできます。
> 端折ってくれと言われれば、端折って書きます。
> 文字数を当初のオーダーの4万字から延長しても良いとおっしゃってもらえると、原稿料
> とは関係なく長く書くことができます。
> 編集長としての方針を仰ぎたく、とりあえず第一稿を送ります。
>
>
> また、メンタルヘルスなどが悪化して本が出せなくなったり延期するということがあった場合、
> 教えていただけると助かります。


2015/7/8, Wed 19:17


はるしにゃんです
お世話になっております
ご迷惑おかけしました
復活しました
おそらく11月の文学フリマで出版することになると思います
字数は圧縮でも自由でもかまいません
仮に延期になっても原稿料はお支払いします
よろしくお願い致します


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だが、はるしにゃんは僕に原稿料壱萬円を払うことなく、本が出せなくなるという事を僕に報告もせず、享年24歳と言う僕よりも9歳も若くして自殺した。
僕の母親も3年前に57歳で自殺した。母親が自殺する前に私の母方の祖母は「足が動かなくなるとボケる」と言って、やめろと言われたのに散歩に出かけて、よろよろと路上に飛び出して車と接触して、裁判で母親に心労をかけて自殺させた。
そんな祖母は母親が自殺したおかげで一親等の扶養義務親族を失ったと行政に見なされて特別養護老人ホームに入所できた。祖母は母親は自殺ではなく事故だと聞かされて、今日も「ワシはボケないために足を動かすんじゃ!」と笑いながら介護サービスを受けている。
幸せって、生きるって、何だろうね…。

nuryouguda.hatenablog.com


  • はるしにゃんの死後についての補記

外道な言い方だが、はるしにゃんが死んでほっとした。
何しろ、11月までに数万文字を使って、「富野由悠季プリンセス」をディズニープリンセスのように、しかもそのアニメが製作された時代背景とリンクさせる批評を行いつつ、書くと言うしんどい企画の締め切りや義務が無くなったのだ。正直、壱萬円で受けるべき労力ではない。それと同じ労力でバイトしたら拾萬円は稼げる。
いや、「90年代以降のアニメ批評」というオーダーで僕が書けるのはこういう切り口しかないし、「こういう風に書きたいんですけど、どうでしょうか」と先に企画を立てたのはボクなので、文章のボリュームがしんどいというのは僕の責任なんだが。
F91について書くだけでも3人日くらいかかったし。


しかし、はるしにゃんが死んでからというもの、なんだかやる気がなくなった。
一応、モバマスアニメとGATCHAMAN CROWDS insightの感想は書いているが。

何しろ去年の夏のガンダム Gのレコンギスタの先行上映からずっと僕はガンダムを張りつめていた。
Gレコの放送が始まると毎週徹夜してGのレコンギスタの感想ブログ毎週数万文字を書き。Gのレコンギスタ最終回の富野監督ゲスト回では同一番組内で2回もお便りが採用される快挙を達成しBDに収録された。
ガンダム Gのレコンギスタ  9(特装限定版) [Blu-ray]

放送が終わると富野監督の講演会に東京まで行き、オフ会をした。
その後、ゴールデンウイークの文学フリマでは、Gレコからガンダムを見始めた女性の依頼で「ガンダムの見方」と言う個人誌コピー本を執筆。(7万文字、原稿料1万円)nuryouguda.hatenablog.com

nuryouguda.hatenablog.com



夏コミで売られたおはぎさんのトミノギスタ発動篇にGレコの評論一万文字を書き、nextsociety.blog102.fc2.com

8月8日に大阪ロフトプラスワンウエストで行われた徹夜イベントトミノアニメブロガーナイトのためにバンダイチャンネル字幕付き動画でGのレコンギスタを一気見しながらベルリの全撃墜シーンの画面キャプを取って、トミノアニメブロガーナイトで「以下にベルリは人を殺してきたのか、それは作品にとってどんな意味やメッセージ性があるのか。Vガンダムとの相似性と違いについて」というプレゼンをした。
トミノアニメブロガーナイトの企画の発起人の一人であるあでのいさんはイベントではトミノギスタの同人誌に書いたことを流用してプレゼンしていて、僕は
「僕は一生懸命素材を集めて新しいことを喋ってるのに、あでのいさんは流用で済ませてずるいなあ」って思う。
いや、何をしゃべるかは自由だったし、僕は何をしゃべるのかあでのいさんに台本をメールしておいたのだが、「自由にしゃべった方が面白いので台本は作りません」と言われてたので,あでのいさんにはあまり考慮されなかった。まあ、横であでのいさんが「後1分でまとめてくれないと、みんなでGの閃光のカラオケをする時間がありません」と言われているのに、「ヴィーナス・グロゥブとエンジェル・ハイロゥのデザイン的な相似がテーマとも関係しているわけです」とか言い始めてプレゼンを押し切った僕も悪いのです。nuryouguda.hatenablog.com



トミノアニメブロガーナイトのプレゼンでは、「殺人をするガンダムのパイロットとしてのベルリ・ゼナムの少年っぽさと、ウッソ・エヴィンの類似性を説明する。同時に作品としてGのレコンギスタはVガンダムからどのようにスタンスが変わったのか、という事を演出論と主人公の行動原理の変化を手掛かりに読み解いていく」という話をした。(これはトーク台本を公開していないので、また別に書き起こすつもりですが、かなりボリュームのある構想なので書く時間を取れないでいる。イベントではベルリの殺人シーンのキャプチャ数十枚を大量にスライドで流しながら解説した)


夏コミに出たおはぎさんの同人誌のトミノギスタ発動編-ほほえみは光る風の中-
では「脱ガンダムと王子革命―Gのレコンギスタは子ども向けアニメである」と言う風に、少女革命ウテナとプリンセス・チュチュをイメージしながら「皇子」としてのベルリ・ゼナムの分析を行った。その王子様論はもちろん、お姫様論をテーマにしたはるしにゃんの同人誌と対になって完成してお互いの読者層からシナジー効果を生んで部数を伸ばし、おはぎさんもはるしにゃんも黒字にするという構想だった。
(ちなみに、トミノギスタの原稿料は千円の図書券だったのでクロスボーン・ガンダムゴースト10巻を速攻買いました)


で、その夏のトークイベントと夏コミケが終わって、さて、はるしにゃんからの依頼のガンダムヒロイン論の文章に手を付けようか、と思ったら死んでいた。
緊張の弦がぷっつりと切れた。


そうして、僕は自分のための創作の「小説家になろう」やpixivで連載中の脳内妹小説も書かず、トレーニングジムに通うのもさぼり、ずーっとグランブルーファンタジーとアイカツ!アイドルマスターシンデレラガールズアイドルマスターシンデレラガールズスターライトステージをしている。
ネットのトレーディングカードショップで1万円くらいアイカツカードを買ったし、ソーシャルゲームにも数万円課金した。
はるしにゃんが自殺したことをブログにして2万アクセスを集めた。
不眠症が悪化して寝酒の量が増えて、酒代で所持金がなくなった。アイカツカード通販とソーシャルゲームはクレジットカード払いだから再来月なんとかする。
放置していた銀行口座を見たら、アフィリエイト収入が数万円振り込まれてたので、数百回アイカツ!が出来るなーって思っている。
ぜんぜん、クリエイティブな執筆活動ができない、ゴミのような猿のようなバカな消費者になってしまった。すまない。はるしにゃんの本を出すことができなかった僕は結局、世界の果てになってしまった。



僕の原稿ははるしにゃんに「この続きが読みたい」と思わせて自殺を思いとどまらせることができなかった。



はるしにゃんの王子様に、はるしにゃんの友達に、なれなかったよ・・・。



「アニメを通じて社会批評!」とか言っても、はるしにゃん一人、自殺から救うことができなかった。俺のアニメ論には力が足りなかった。
いや、アニメの感想文で人間が生きものの生き死にを自由にしようなんておこがましいとは思わんかね……。
手塚治虫先生!!!!


kai-you.net

すなわち、『少女革命ウテナ』とは、か弱い少女が華麗にして魅力的な自由な大人へと成長する、極めてまっすぐなビルドゥングスロマンなのだ。にゃん。


時に愛は強く人の心を傷つけもするけれど

夢を与え 勇気の中にいつもひかり輝いて

愛は強く人の心を動かして行く

だから二人でいる きっと世界を変えるために

そしてすべては ひとつの力になる


少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』主題歌「時に愛は」より

と、はるしにゃんは幾原邦彦論を途中で絶筆して自殺した。
アドゥレセンス黙示録のひとつの力ははるしにゃんを生かし、幾原邦彦論の続き、シェル・ブリット、ノケモノと花嫁輪るピングドラムユリ熊嵐、などなどを書き続けることはなく、自殺したのだ。
いや、僕達の世界から消えたのだ。


はるしにゃんのこの最後のコラムにはたった7個のはてなブックマークしかつかなかった。
僕は

暁生系の男性としては、女性享楽が「大文字の他者の享楽」という外部性とイコールになっているというのが概念として理解できない。宮台系援助交際女子はサヴァイブの果てにメンヘラになったb.hatena.ne.jp

とブックマークコメントをした。彼の最後の論考に反論してしまって、彼を傷つけてしまったのだろうか?
はるしにゃんも宮台真司さんと親交があってフランス留学の口利きをしてもらったりしていたが、宮台思想がメンヘラを生んで自殺するという事を予言していた。

† @hallucinyan
2012-08-04 02:35:39
あまりにも平沢唯は幸福すぎる。そのことへの反作用が蛸壺屋です。モラトリアムを拒否してみんなバラバラだけれど小さな成熟をするというのがあの三部作です。
返信 0


† @hallucinyan
2012-08-04 02:38:05
僕らはつらい現実を生きているからこそけいおん!で癒されるわけです。その癒しがいかにうまく作られているかという点で京アニが優秀だったということです。
返信 0


† @hallucinyan
2012-08-04 02:41:43
宮台真司が言うように、まったりしていると思っていた女子高生たちはみんなメンヘラ化していった。ポストモダン化による世界の無意味さはやはり耐え難い。だから蛸壺屋を読むと実存的にグッと来るし、けいおん!という巧妙に作られた作品を見ると癒される。
返信 0


北守 @hokusyu82
2012-08-06 03:19:02
まあ作品を「死を直視する」ものとそうでないものに分類し分析すのはたいへんお趣味が悪うございますねで終わる話なのですが、両者を形式としてまったく異なったものとして議論するのではなく、後者は前者の欠如であるにすぎないことをまず前提として議論するのは、後者の作品群にたいして悪意があると解釈されても仕方ないでしょうね。
返信 2


いかれるまぐろうさぎ id:miruna
2012-08-06 08:47:09
気持ち悪いメンヘラ男が自分の胡散臭いファッションメンヘルを都合の良い美少女に押し付けた上で殺して自分を浄化するっつーどこぞのエロゲ宗教と全く同じ事言っててうんこすぎるし死ぬのは自分だけにしとけよつーかこの世の女子高校生はみんなメンヘラであってほしいというお前の願望と現実の区別ぐらいつけろ基地外togetter.com


アニメノチカラって何だろうね…。自殺者を止める力もない…。そして、僕もおそらくは無意味な老人になって介護保険料を食いつぶす前に、いや、おそらく年金では生活費も賄えないだろうし、自殺するだろう。
永遠に生きることが当然だと思って人権を主張して憲法を利用して介護職員に寄生する肉塊になんかなりたくない。


だが、それでも僕が今現在は自殺をしようとしていないでこんな文章をネットにアップロードしているのは、はるしにゃんに与えてもらった「富野作品のプリンセスを考えて文章にする機会と発想」を自分からあきらめたくはないからだ。
はるしにゃんが死んで、90年代以降というオーダーや本の字数に収めるという企画が消滅したので、海のトリトンのピピから始まるGレコのアイーダ・スルガン姫までの富野プリンセスの系譜を連載形式でブログに書いてもいいと思っている。
そして、それはGo!プリンセスプリキュアが放送されている2015年の現在へ続く思考になるはずだ。
だが、それを書く元気が、今の僕にはない…。


だが、今、僕に元気が無いからと言って、自殺したら永遠に書くことはできない。
はるしにゃんはもう、輪るピングドラムユリ熊嵐の評論を書くことはできないし、幾原邦彦の次回作を見ることもできない。
僕は富野作品の過去作の批評を書く可能性があるし、次回作を見ることもあるかもしれない。
生きているというのは、そういう事だ。アニメを見る、それが生きるという事。
そして、アニメを作ってもらうために、過去に自殺者を出したA-1Picturesのアイドルマスターシンデレラガールズソーシャルゲームに課金したり円盤を買ったり、富野を鬱病に追いやったこともあるバンダイサンライズアイカツ!の映画を見ることもできる。
僕を過労死寸前に追いやったKLabのラブライブ!は好きではないが、ミルキィホームズMLPは好きだ。特にもこっちが好きだ。
そういう事をブログに書いてアクセスを稼いで、アフィリエイトの数万円をソシャゲやアイカツ!につぎ込むことも、プリチケをパキってデビューすることも、脳内妹アイカツ!のマイキャラにして育成することも、脳内妹の小説を書くこともできる。


今、俺が課金プレイをしているデレステは、はるしにゃんがプレイできなかったデレステなんだぞ!!!
iOSはよ!!!!!!!



たった1ヶ月生き延びただけで、お前はデレステをプレイできたのに!お前と言う奴は!
なぜアイマスを、幾原邦彦を信じられなかったんだ!!!!



そんな僕のリプは、永遠に彼に届くことはない。それが、死だ。冥福などない。アニメだけがある。

とどけ!アイドル

とどけ!アイドル