君の名はが人気らしいけど、なんかリア充っぽくて見に行ったら人間強度が下がりそうだったので傷物語IIIを見に行った。
この世界の片隅ではキネマ旬報賞を取ったけど戦争とか国家とかについて考えるのがめんどくさかったのでラノベアニメの傷物語にした。でもこっちにも国旗がたくさん出てきた。
過去の感想。
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- 見どころ
・羽川翼のおっぱいがエッチ
・キスショットのおっぱいがエッチ
・阿良々木君のおなかがエッチ
・櫻井孝宏の声がかっこいい
・いろんな坂本真綾が出る
・いろんな絵柄のアニメーションが楽しめる
- 感想
そういうわけで、映画館の大画面と音響で過剰演出だったので、色んな意味でいろんなシーンでドキドキしました。ぼく、過剰演出好きなんですよね。ていうか、一秒に何十枚も絵を使って動かすアニメーションって言う芸術自体が過剰な媒体なので。
西尾維新先生原作のアニメは見てるけど、文章はわざわざ買って読むほどではないという距離感(決して価値を認めていないわけではなく、積ん読本が多いので小説を読む時間がない)なので原作ファンの人には申し訳ないけど。
割と普通に面白かったしドキドキしたし、よかったです。
過剰演出で映像や演出や演技にフェティシズムが溢れていて、楽しかった。ストーリーのあらすじは原作を読んでなくても、キスショットが忍になって阿良々木暦君が吸血鬼もどきになって羽川に恩義を感じる、ということはテレビ放送された物語シリーズのアニメを見てるだけでわかってるので、ストーリーを理解することよりも映像にドキドキすることに集中できて楽しかった。
しかし、バトルが終わった後のラストの決着の付け方はやはり小説家の書いた物語らしく物語的で、説明臭い所もありつつ、ビターでエモい感じがあって、ちょっと考察したくなった。
- 考察
三部作通して繰り返し、大量に登場した日本の国旗。
当初は単に「日の丸部分=血の一滴」を象徴しているのかと思っていたが、冷血篇での体育館での決闘シーンで、「日本代表選手が入場~」というオリンピックらしきナレーションが入る演出があった。これは暦しかキスショットを止められる者はいないという暗示だったのかもしれないが、暦が一人目の眷属と同じ日本人であることを強調しているように思えた。だとすればあの画面を埋め尽くすように描かれた国旗は、キスショットにとって『日本』という国が特別だったという象徴かもしれない。
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こういう意見もある。僕はそうは思わないけど。
君の名は。ってナチュラルマイルドヤンキーで日本に誇りを持ってる愛された若者の普通のマジョリティ層に受けた映画じゃないですかー。この世界の片隅に、も、戦時中の日本も自分たちと同じ日本だし、それとつながっている自分はご先祖様に感謝しながら自己肯定感を涵養するって言う感じ。
−−2016年のアニメ界最大の話題は映画「君の名は。」でした。
興行収入200億円を超えるとは分からなかったですけど「売れるな」と思いました。まず、若い人が見てもわかりやすい。新海イズムというよりもプロデューサーの川村元気イズムなんじゃないかなと思います。
深夜アニメ寄りのアニメーションって、高校で考えると、40人いるクラスで人気がない3人が、現実逃避したり、自己実現をさせるためのアイテムなのに「君の名は。」は残りの37人を巻き込んでいる。
リア充に向けた映画なんです。リア充がこぞって行ってしまったので、残りの3人は立つ瀬がない。くそっと思いながらも、見てしまう。
昨今、実写映画を含めて、リア充に属する子が見に行けるものをアニメが提供できなかったのではないかと思います。
スタジオジブリ、特に宮崎駿がといってもいいですけど。小難しい話を作り「説教くさい」と感じる子たちがいっぱいいたんじゃないかと。
「君の名は。」に説教は何もない。「僕もこれぐらいだったらできるんじゃないか」「こういう世界いいじゃないか」と見た若い人は素直に感じてるんだと思います。
ジブリのような家族連れではなく、中高生に向けてフィットしたアニメ映画ができるというのはエポックメイキングでした。
内容について評論家筋には辛辣なことを言われるんだけど、別にいいじゃん。それがエンターテイメントだと思います。
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シン・ゴジラもマイルドヤンキーで国家が個人を守護することをほぼア・プリ・オリとして書いたので日本に生きることを肯定しているマジョリティに人気が出たと思う。
「普通の人」とは何か?
さて、「普通の人」とは何でしょうか。普通の人は、ごく一般のふつうの人です。
正義を愛し、家族を愛し、義理人情に厚い普通の人です。
そして、それは国民の大半を占め、マス層を形成しています。同時に「普通の人」は、容赦なく虐殺を行い、差別を行い、戦争を引き起こします。それは正義に基づいていたり、家族愛であったりします。
「普通の人」は家族や共同体、コミュニティの価値観を基準して動きます。
いってしまえば、ヤンキーであり、アニキであり仁義であり、ヤクザである。
加えて、ワンピースの世界観である。彼らはアニキのためなら容赦なくコミュニティ外の人を傷つけることができます。
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きっと、60数年前、昭和29年の映画館で、日本人はこの映画を観たんだ。それと同じ映画を、俺はたった今観たんだ。
映画館からの帰りのバス停でベンチに座りながら、そのことに思い至った私は涙が止まらなくなった。ボロボロに泣いた。幸い、周りに人はいなかった。「ゴジラ」公開当時、昭和29年の日本にしかない「文脈」があったのと同じように、2016年の日本を生きる私たちには、私たちの「文脈」がある。戦後70年という時間。東日本大震災。福島原発事故。(そこに「ハリウッドにお株の『ゴジラ』まで奪われた映画界」を付け足しても良いかもしれない)
「シン・ゴジラ」はそんな2016年の今この瞬間に生きる私たちに向けて作られた、私たちの「ゴジラ」なのだ。
今までのどんな「ゴジラ」にも似ていない、誰も見たことがない、全ての人々が初めて見る、62年前そっくりそのままの「ゴジラ」。それが「シン・ゴジラ」だ。
原作者 こうの史代さん
「昔の人は愚かだったから戦争をしてしまった、そしてこんな生活にっていう感じで片づけられる気がするんですけど、本当は、われわれの見たことのある祖父母は、決してバカな人ではありませんでしたよね。
彼らが彼らなりに工夫して、幸せに生きようとしたということを、この作品で追いかけて、つかみたいと思ったんです。」
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バカを言っちゃあいけない。愚かでない人間がいるものか。
祖父母がバカじゃないから自分も馬鹿じゃないと思い込みたがるのは単なる承認欲求だ。
マイルドヤンキーは地元の祭りを継承してるから首都の大学に行くインテリよりも地域に貢献しているとか言う意見がある。バカバカしい。
愛国心や郷土愛と言うものは僕にはない。論理的ではないからだ。自分が住んでいる土地の歴史、国、かつて住んでいた祖先が正しかった、だから自分も正しい、と言う風な自己肯定感の補強行為はリア充やマイルドヤンキー、普通の人が多く行ってきているが、僕は国家が嫌いだ。
自分のご先祖様が善人だったから自分も善人で幸せになれる、なんていう土着的な宗教には全く論理性がない。人は勝手に助かるだけだし、逆に国家や歴史がどうだろうとダメなときはダメ。そして助からなかった人は死んで無くなるので語られないだけだ。
庵野監督や新海監督やこうの史代先生や片渕須直監督やアニメーターの頑張りは認めるが、国民的大ヒットの国民的な需要のされ方には僕は警戒心を持つ。
なにしろ、僕の父方の祖父は地方の没落華族の妾腹で、
寺に預けられていた孤児だったのが、
陸軍中野学校を経て、
戦時中は大陸でスパイ行為をして、
先妻を原子爆弾で殺害されたので祖母と再婚して父を作り、
戦後は国籍をごまかして戦争犯罪者逃れをして、
平成まで公安職員を務めて、
晩年には勲章ももらった地方の名士だが、
僕の母親は祖父に虐待されたことを遺書に残して自殺した。
父方の叔父も公安職員だが父方の祖父母の遺産をだまし取られた。
僕は祖父の金銭的な財産を得られなかったが、憲兵時代の資料を祖父の本棚から回収した。甘粕正彦の遺書とか。
しかし、父方の金銭を相続できなかったので借金が返せず母親は自殺した。
また、母方の祖母は戦時中に後妻業をしており、
地方の農家の愛人をして僕の母親を生んだが
他の男性と再婚して、
僕はその再婚相手を祖父だと聞かされて育ったのだが、
義理の祖父が死んだあとは、
母の義理の兄の義理の伯父が自殺して、
祖母は伯父の嫁に家を追い出されて僕の家に引っ越して、
母親と毎日ケンカして、母親が自殺して、
母親が自殺したことで直接の血縁者が亡くなったので優先的に特別養護老人ホームに入居して毎日「幸せじゃあ」と言いながら暮らしている。
自分の義理の息子も実の娘も自殺させたのに老人ホームで介護されて税金を食いつぶす売春婦の祖母。
という、父方も母方も戦時中から家族が崩壊している家庭で生まれ育ち、僕は母親が自殺して、六本木ヒルズで過労になり精神を病んでいるので、自分の祖先や国家や社会を愛することができない。
国民や祖先が幸せに生きようとしたことは個人としてはそういう行動をするのもむべなるかな、とは思うが、それを僕が正しいとか価値があるとは思えない。
僕は僕だし、祖父も祖母も一匹のホモ・サピエンスに過ぎない。僕は祖先の命の先にいるのではなく、僕はいつの間にかこの時代のこの肉体にログインしているだけに過ぎない。
で、僕の個人的な身の上話から傷物語の話に戻るが。
傷物語は正しくない話だ。
というか、吸血鬼と人間は価値観が違うので正義が違う。
そして、阿良々木君は自分が善人で自己犠牲で美しい正義だと思っていたのに、
人間側の正義だったバンパイアハンターと敵対してしまい、ショックを受け、
人間に再度自分の意識と体を戻すために人間側の都合でキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードを退治しようとして、
そこで日の丸や東京オリンピックのナレーションが轟く。
しかし、そんな人間側の都合だけでハッピーエンドだと思えなくなってしまった阿良々木君は忍野に相談してみんなが不幸になる選択をあえて選ぶ。
傷物語冷血篇の日の丸の過剰演出が何を描きたかったのか?というと、そういう国家とか正義とか所属とか分配とか判断とかが自然なものではなく「恣意的な物だ」と強調したかったのではないかと思う。これは僕の想像だが。
「みんなが幸せになる方法は?」と思ってみんなや阿良々木暦くんたちは国家とかを作って生活しているわけだが、
「そんなのあるわけないじゃん。バカじゃないの?」と言って幸せではなく不幸を分配するのが実際的な大人の忍野メメたちの社会運営で国際政治なのだ。
@nuryouguda アララギ君はヘタレだと思いますが、ヘタレなアララギ君を罵る忍野や、羽川の存在のせいで、「ラノベ的または、ポリコレ的なものをマジで信じちゃってる弱いオタクを殺しにかかってる」と僕は感動しました。
— 三沢文也a.k.a.青二才 (@tm2501) 2017年1月19日
原作でのキスショットと阿良々木君の対戦は体育館だったらしいが、それを東京オリンピックの「今、幾多の試練を乗り越えた日本の若者が!」とか言うナレーションに乗せて国立競技場で阿良々木君が日本代表っぽく登場して、金髪碧眼長身巨躯のキスショットとスポーツ競技みたいな楽しい殺し合いで対戦するのはまさに、違う価値観を持つ日本人と外国人の国際政治における駆け引きのメタファーに見える。
それで、阿良々木君が日の丸を背負って東京オリンピックのナレーションに乗せて日本人(人間)代表として、人間の価値観を吸血鬼(外国人)に押し付けて退治しようとする時は阿良々木君は日本人国家の共同幻想と同化して人間(国家システム)の都合を行使することが正しい、と思って戦いに熱狂していた。
なのだが、羽川翼の提言で「外国人にも外国人なりの人間的な感情があるのではないか?」と思うと戦争をする気が萎えてしまう。それがこの時点での阿良々木君の大人に徹しきれない青少年っぽさなのだが。(阿良々木ハーレムのガールズと関わった後の阿良々木君はまた違うのだが)
あと、羽川も「ハートアンダーブレードさんを退治できるの阿良々木君だけ!」と言った後に「ハートアンダーブレードさんは自殺したかったんですよね」とか阿良々木君に告げてしまうのは、なにがしたいのか?って感じだが。
羽川は損得よりも正誤(善悪ではない)にこだわる委員長ちゃんだからなあ…。逆に戦場ヶ原ひたぎは善悪よりも個人的損得で動くところがある。こういうヒロインの対比はあるよね。
それで、無邪気に「自分が好ましいと思うことをやるとみんなが幸せになる」と思っていた少年の阿良々木君が大人の忍野に助言を求めて「みんな不幸になる」バランスの選択を恣意的に自覚的に行う。
無邪気に「自分が好ましいと思うことをやるとみんなが幸せになる」と言う価値観が「君の名は。」の気持ちいいポイントでヒットの原因だと思うのだが。あの地方の伝統を受け継ぐ女子と東京の国家を象徴するイケメンの関係性は非常に国家ぐるみの無自覚な気持ちよさの追求って感じなんだが。まあ、子供の価値観だよね。(そして、多くの成人した人は子供の価値観を引きずったまま自分を承認してくれるものに囲まれてぼんやり生きるので、自覚的に大人になる人は少ない。)
傷物語は全編、過剰演出なのだが、過剰演出とは何だというと、それは「強調して気づかせる」ことなんですけど。だから生死とか肉感とか感情を強調してくる演出や絵は、マンガ絵のアニメだけどキャラクターの心情を伝えてきてとてもドキドキできたのだけど。「日の丸や日本やオリンピックや国家の強調」はキャラクターを強調することではないので、キャラクターのドラマとは離れているかなー、と中盤までは思っていたのですが。
鉄血篇の日章旗が太陽のメタファーとして吸血鬼になった阿良々木君を自然的正義のルールとして焼くのは分かりやすい比喩表現だったけど、冷血篇のオリンピックや国旗掲揚はよく分からなかった。
しかし、全体の構図として冷血篇を見ると、割と国旗もキャラクターの心情に重要だった。
学習塾の体育館で女子高生とエッチなことをしたり、学習塾の国旗掲揚に送られて東京オリンピックに行き、外国人と戦って、学校に戻る。という構図はまさに学徒動員で、通過儀礼で、社会化の過程だ。子どもが世界の冷酷さを学んで、日常に戻る、という点では「行きて帰りし物語」のテンプレートと言ってもいいし、混沌とした社会を観測して個人の論理の文脈に落とし込む作業の過程でもある。
過剰演出は気付かせることと同時に、対象化、異化、自覚を促す作用もあるのですが。国家に代表される人間の都合を自覚して、その不快感を残しながら傷物たちが生きていく、ってのがこの作品のテーマなので。
みんなが無自覚に包まれている人間社会のルールとか国家も恣意的に作られた傷の集積でしかないんじゃないかなーって言う、国粋主義に対する冷や水みたいなのがある。まあ、「僕は国家に対して自覚的だから正しい判断ができる」って思いこんじゃうゼロ年代みたいな決断主義やインテリの思い上がりも、やっぱり思い込みなのだろうし、注意すべきなのだろうけど。
そういうわけで、日の丸や日本の強調は、阿良々木君が「違う立場の生き物や怪異と自分の価値観を交渉して、傷や気まずさや利己心を自覚していく」という傷物語や化物語のテーマに沿っているので、キャラクタードラマの演出として、終盤は単なるオシャレ演出を超えてハマったように見えてよかったです。
監督も3.11以降の日本で生きていくことを意識したらしいし。
しかし、ここで注意すべきなのは、傷物語が国家や社会に自覚的であろうとしているからと言って、反日や反国家、反社会ではない、と言うこと。君の名は。の無自覚な地元愛とは傷物語は違うのだけど、阿良々木君は結物語で公務員になるくらい社会や人間を愛している人物でもある。
僕は社会や家族にあまりいい思い出がないのだけど、化物語は家族や社会や学校という子供を愛するべきシステムから外れてしまって怪異に行き会ったガールズたちが公務員志望の阿良々木君によって再度肯定され、社会化されるという構成が多い。だから、僕みたいな嫌なおじさんと違って、阿良々木君は愛し愛される良い青年です。
なにしろ、阿良々木君はギロチンカッターがアレされたからといって、自責の念に駆られる。これに対する阿良々木君の見解は割と象徴的で特徴的に、彼が「正義」の人だと示している。
僕は寄生獣とか読んでいる個人主義者なのでギロチンカッターがどうなろうが自分が助かればそれでいいと思うし、自分や知人だけ何とかなるようにキスショットと交渉すればいいだろうと思うのだが、阿良々木君はそれを嫌がった。
闘争や暴力と言った不正義を阿良々木君は肯定しない。個人主義者でもない。
僕はアレキサンダー大王の師匠のアリストテレス先生の書いたニコマコス倫理学を最近読んでいるけど、数学論理学者らしく、アリストテレス先生によると「正義」はバランスであり公平性であり均等だと述べている。
「正」ということも、だから、少なくとも4項から成り、その比が同一なのである。すなわち、人間と人間の間、配分さるべき事物と事物の間の区分の仕方が同様なのである。だからしてAがBに対するはCがDに対するごとくであるだろうし、だからまた、これを置換すれば、AのCに対するはBのDに対するごとくであるだろう。したがって全体の全体に対するもまた同様である。全体とは配分を受けてそれと統合された全体を意味する。もしかような仕方で付加が行なわれたならば、それが正しい結合の仕方なのである。かくしてAをCに、BをDに組み合わせるということが配分における「正」なのであり、この場合の「正」は比例背反的なものに対する「中」にほかならない。けだし、比例的ということが「中」なのであり、「正」は、しかるに、比例的ということなのだからである。
このような比例を数学者は幾何学的比例(アナロギア・ゲオーメトリケー)と呼んでいる。事実、幾何学的比例においては、全体の全体に対するは両者それぞれの両者それぞれに対するがごとくなのである。また、いまの場合の比例は連続比例ではない。人と事物とが数的に単一なる項とはなりえないからである。
「正」とは、かくして、このこと、つまり比例的(アナロゴン)ということであり、「不正」とはこれに反して比例背反的(パラ・ト・アナロゴン)ということである。だからして、不正の行なわれる場合には、或いは過多が、或いは過少が生じるわけであって、まさしくこのことがことがらの実際において現われている。すなわち、不正をはたらくほうのひとは過多なる善を、不正をはたらかれるほうのひとは過少な善を得ているのであって、悪についてはこの逆である。
10.1 アリストテレスの正義論
アリストテレスは『ニコマコス倫理学』で、善は語れないが正義は語れると考えました。正義の本質とは平等(δικη)であり、正義の内容は「人間はポリス的動物である」とするポリスを前提としたものでした。
部分としての正義はポリス全体の中での限られた富や戦争で得た利益の配分において機能します。
部分としての正義の内容は、比例の名における平等・比例配分を行う配分的正義と、法の下の平等(法の下で皆同じ裁きを受ける)としての規則的正義の2つです。
tmaker.jugem.cc
阿良々木君が、「吸血鬼が人間を食べること」と「キスショットが自分の家族を殺すこと」を直結して考えて罪の意識に自殺寸前までさいなまれるのは、まさに正義の
幾何学的比例においては、全体の全体に対するは両者それぞれの両者それぞれに対するがごとくなのである。
という理屈である。そして、阿良々木君は数学が好きなのだ。
僕みたいな個人主義者だったら、吸血鬼が何人殺そうが自分はそれを上手いこと避けて立ち回ればいい、自分を特例にすればいい、と思うんだけど、阿良々木君は社会的人物なので全体と個人の比例の正しさを適応しようとした。
西尾維新先生や新房昭之総監督、尾石達也監督がアリストテレスの理論を意識しているのかまでは知らないけど、西尾維新作品には理屈っぽさはある。アリストテレスの理論は数学の基礎中の基礎の古代哲学だからなあ。
ただ、すでに古代の時点でアリストテレス先生は
「徳全般をつくりだすべきそれとしては、法の規定する諸行為のうち、およそ社会的な教育(パイデイア・ヘー・プロス・ト・コイノン)についての関心から立法された諸般の行為が存在している。もっとも、端的な意味における立派な人間をつくるための個々の人間の教育(ヘー・カタ・ヘカストン・パイデイア)について、はたしてこれが国政(ポリテイケー)の問題に属するか、それともそれ以外に属するかということになると、これは後にいたってわれわれの決定しなくてはならないところである。よき人間であるということと、或る任意の国(ポリス)のよき市民(ポリテース)であるということとは、必ずしも同じではないだろうからである。」
と国家、法、社会、教育、人材育成のシステムについて注釈を加えている。
そういうわけで、阿良々木君は国家に代表される法やルールや社会や人間の都合と、怪異や個人やヒロインの両極端で苦悩するし、それが物語シリーズの各々の事件なのだなあ。
また、アリストテレス先生は徳を「中庸」と定義したが、忍野メメがバランスを重視するのもニコマコス倫理学に似ている。
西尾維新作品は結構殺人シーンやギミックの奇抜さが印象的ですが、個人が社会と折り合いをつけていく話が多いので、意外と根は倫理的で真面目なのかもしれないですね。
なんかアニメ映画の日の丸の描写だけでいつの間にかギリシャ哲学の話になってしまった。感想文としては論が飛躍しすぎてしまった。
アニメを見ただけで社会とか国家とか倫理学とか言うのは考え過ぎだし、やっぱり無自覚に国家と自分を重ね合わせて何となく幸せになりたいと思う大衆の生き方の方が楽だとは思う。だけど、僕はいろんなことを考えないと生きている実感が得られないので考えます。
国民的大ヒットしたシン・ゴジラとか君の名は。とかこの世界の片隅にが正しいとか儲かってるとか興行収入が多いからこの国の国民性がどうのこうの、と大勢の人を見て井筒監督とかが文句を言うこともある。
年末にクレヨンしんちゃん見ながら、「大人も見られる子ども向け」と「子ども騙し」の違いについてしつこく語り、クレヨンしんちゃんの面白い作品は前者であることを再三主張してきた。
— 三沢文也a.k.a.青二才 (@tm2501) 2017年1月19日
その意味で言うと、「君の名は。」は子ども騙しならぬ童貞騙しなのよね…興行収入1位が童貞騙しの国とか…
しかし、大勢の人が何を見たり何を考えるかより、自分が何を見て何を考えるのかということの方が僕は大事だと思う。他人が何を考えるのかは知らないけど、自分が何を見ているのかは知っている。何でもは知らない。知っていることだけ。
社会現象になるくらいたくさん見られている映画があると言っても、自分が見れる映画は自分のキャパシティ内だけだからね。
でも、なんだかんだ言って傷物語も売れてるからな!君の名は。が売れすぎてるだけで、傷物語も売れてるし化物語のCDもオリコン1位取るくらい売れてる。
www.lisani.jp
www.animatetimes.com
売れてるんだよなあ…。
そして、君の名は。でアニメ映画がリア充向けに売れまくる風潮ができたからか、新房監督も打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?のアニメ版を監督することになった。
eiga.com
うーん。まあ、僕はリア充にはなれなかった人間なのでアレなんですけど、(サマーウォーズにも乗り切れなかったし)アニメファンとしてはアニメ業界が潤うといいと思います。
www.monogatari-series.com
まー、傷物語も君の名は。も海外でも興行成績がいいので、日本を強調しているからと言って日本人しか楽しめない作品でもないらしいが…。
たくさんアニメ映画がありますねー
www.kansou.me
- まとめ
・傷物語はエッチな画像や過剰な芝居や特徴的な象徴の過剰演出が強くてドキドキしました!
・特に過剰なくらい印象付けられる国旗や社会性はアニメの添え物と言うだけでなく、古代から続く人間らしさの哲学にも関わってきて考えさせられました!
こちらの西尾維新作品もおすすめ!
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