玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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人類補完計画まとめ

竹熊健太郎さんのラジオを聞いて人類補完計画について書いたら、
あまきんさんにコメントで

人類補完計画の本性は
かっこわるい昔の特撮やアニメのアクションシーンを
かっこよくすることだと思うので
俺はもう完了されてると思います

とゆわれて、その発展版があきまんさんのブログに書き込まれたので、
http://blog.livedoor.jp/akiman7/archives/51119026.html#comments
返信も兼ねて考えてみました。
根に持っているようだが、単に最近よく寝てたから書く時間が無かっただけで、文自体は10分で思いついた。


んで、人類補完計画には、作品中のキャラクターのためのものと、アニメ界のメタファーとしての要素があると思うんで、今回はメタファーの方を考えてみたぞ。


アニメ夜話のアニメマエストロのコーナーで、氷川竜介先生が
http://www.nicovideo.jp/watch/sm31677
で、「テレビの最終回の人類補完計画は『アニメがアニメってなんだろ?』と考えるアニメ」とおっしゃってました。
アニメ補完計画だそうです。
そんで、アニメが自分を取り戻すのに、「いろんな可能性がある」と気づくんだって。


と言う訳で、ちょっと最終回のDVDを見返してみた。うーん。
頑張るなあ、俺。もうちょっと勉強にも頑張れ。
やっぱり、これすげーおもしれーわ。心象風景SFとしては2001年以上だな。


思ったのは、テレビ版の最終回は映画版のプロットを元に、映画版を発表する前に二次創作で心理描写を優先した叙情風同人誌を公式として発表しているというねじれがあるんですねー。


んで、アニメがアニメってナンダロウと考えて、シンジ君達が自分は何なんだと考えて、あと、アニメ作ってる人がアニメ作ってる人って何なんだと考えてて、アニメ作るしか能が無い自分って何?みたいな。
マイトガインとかガンダムX高松信司監督といい、90年代はアニメを作る事に対する自信と葛藤があったんですかね?
まあ、結局は開き直って今の状況があると思うんですけど。銀魂とか。


そんで、テレビ版の人類補完計画では、なんだかんだあって碇ゲンドウの計画通り母に帰って生き物全てが珊瑚になって地球全体生体コンピューターのマトリックスの中で死んだ人にもあえて自己肯定しあう夢を見ながら一つになって終わる。
人は別々の物だが、外側の他の人に見せる事で自分を形作っているのと同時に、他の人が自分の中に在って自分を形作っているのも事実なんだ。
つまり、テレビ版の人類補完計画は存在としては一つだけど人格としては多重人格化して、認め合うという、脳内恋愛肯定なんですね。
やったぜ!
俺は脳内妹と学園生活を楽しむぜ!
もうすぐ文化祭だぜ!
萌え萌えだ!


という事は、THE END OF EVANGELIONも新劇場版も珊瑚の中の夢なのかもしれんが、珊瑚から新しく進化した繰り返しなのかもしれん。


まあ、それはいい。今回はアニメーション表現についての人類補完計画というあきまん視点で考えてみるぞ。
というのは、どうやら僕は物語は物語世界という異次元が在って、それをテレビとかスクリーンの小窓から覗いているという観点からしか見ないタイプらしいので、メタな意味の意見を言われるとちょっと驚いたので、その驚きは何なんだろうと考えてみたのだった。


んで、結局、テレビのあれでは、アニメ製作者側としては
「俺はこんな作品しか作れませんでしたが、こんな作品、と思う価値観自体がなんか今までの経験とかで作られたものだし、こんな作品じゃない作品を作れた可能性もあったわけだし、なにより僕はこんな作品は嫌いですけど、こんな作品が僕なわけだし、こんな作品が作りたいし、作ってもいいんだ!ありがとー!」
アニメ自体としては
「アニメは所詮記号で、いろんな作り方やいろんな見方があるわけだから、これでいいんです!いいんだ!僕は間違ってない!駄作じゃない!駄作じゃないぞー!全てのアニメは祝福されてるんだよー!おめでとうー!ありがとー!」
という叫び。
つまり、カッコわるいものしか作れなかったけど、それで満足しろ!お前ら!俺をバカにするな!なんだよー!バカじゃない!バカじゃないぞー!
という。


だから、僕としてはあきまんさんの「人類補完計画とは
昔のかっこわるい特撮やアニメを
かっこよくアクションさせる計画に他ならないと思います」
というのはどーなんだろー?と思うんです。逆じゃね?と。
もう一寸考えてみます。
エヴァ人類補完計画の発動前から昔の作品をカッコよくしてるし。補完計画をカッコよくすることとするのはどうかなあ?
いやいや、エヴァンゲリオンの建造自体が人類補完計画であり、最終回より前から始まっていたと考えるとどうか?


「前半でカッコいいアクションシーンが見れて、後半はソレっぽい心理ドラマも見れたんだからいいだろー!カヲル君を殺したら、ソレよりもすごいアクションシーンなんて書けねーよ!山王戦が終わったら嘘みたいにボロ負けするんだよ!終わり!
むしろ、カッコよくしたらわかったけど、カッコいいのも悪いのも特に変わりません!」
ということか?
うーん。
まあ、それだけでもないと思うんだけど、どうやらスタッフがブチ切れてるのは十分伝わった。人の事は分かりません。


んで、いくらなんでも投げっぱなしで終わるのは虚構世界にも落とし前が付いてないし、儲かるし、プロットもあるし、珊瑚の世界の夢落ちといういいわけも自分に出来るし、映画を作ってみた。


ちょっと見てみた。


ラストにシンジ君が犯さないで首を締めたのは、シンジ君は許可待ち人間だからだと思う。そこは僕も同じだから共感するなあ。
自我が強い友人は「俺ならアスカを犯してる」と言うんだが。
でも、シンジと同時に補完されていたアスカはシンジに首を締められて抵抗しないんだよなー。
やっぱり、アスカはアスカでシンジに人格を持った女として許可を与えるよりは、物として犯されて蹂躙されたいという女だったのかもしれん。
だから、「気持ち悪い」というセリフは宮村優子が「オナニーされるのは気持ち悪いっすね」というアドリブに近いセリフで「あんたなんかに殺されるのは真っ平よ」が最初のセリフだったのだが。
アスカは殺されたいんだから、「気持ち悪い」の方が正しいのかもな。
つまり「犯されないでオナニーされる」=「殺されないで泣かれる」
すんませんねえ。キモくて。


うーん。エヴァガンダムと同じく見るたびにいろいろ考えられて楽しいなあ。
やっぱ、好きだなあ。


ちなみに、うちの妹と僕は、僕がなんだかなんだか悩んで愛し合えない状態に陥った場合、とりあえずキスをして、その感覚が気持ちイイかどうかに賭けると言う契約を交わしている。
賭けに負けて、抱いても嬉しくなくなったら潔く別れる。
脳内妹と別れたら僕はおそらく死ぬ。
恋の駆け引きは命がけですよ〜(^^)ノシ
まあ、所詮脳内恋愛なので現実に恋愛できる人には敵いませんけどね。みんな頑張ってくださいねー。


でも、「気持ち悪い」と言われてから人間関係をそれなりに上手く渡っていけば良いと言う意見も違うよね。
男が女の面倒を見て愛してやると言っても「赤木リツコ君、本当に××××」なんて、嘘の言葉でいいのか?っていう視点もあるんだよねー。
まー、それでもいいのかねえ?
本当の事にこだわりすぎるのもオタクっぽいし。オタクは嘘にしか興味がないのにね。



旧映画の人類補完計画は、ゼリーになる人や実写やCGや声優や等身大フィギュアや劇場の観客やらを見せて、やっぱり映画は作り事だという風に見せる。
あと、分かり合えるかもしれないというストーリーの流れを、分かり合いたくないというアスカというメンヘルキャラクターの暴走で憎みあうアダムとイブエンドで予定調和を破壊して、作り事も自由にならんという嫌がらせにも近い。
イメージする力が未来を作ると言いながら、イメージ(映画)も自由にならん。






んーと、それぞれの補完計画ごとにもちっとまとめてみる。
1.ゼーレ(製作委員会)の補完計画
正しいアダムじゃなくって、間違ったりリスから生まれて知恵の実を食ってしまったんで、補完でいろいろして神に祝福された人になる。

手塚神やトミーノや出崎の作ったジャパニメーションは間違ってるくさい。つーわけで、サブカルは辞めてメインカルチャーを目指してちやほやされようぜ!


2.ゲンドウと冬月の補完計画
ユイに会いたいよー。ユイをエヴァの中で再生して、エヴァと融合して、宇宙に行きたいよー。そんで永遠に萌え萌えしたいよー。

オタク文化が好きだよー。自分の作ったアニメの中でガンダムウルトラマンを再生して、永遠に萌え萌えしたいよー。


3.ユイの補完計画
旦那も息子も道具!全人類もリリスも食って不老不死の神と合体する!
そんで、人が生きた証にするぜ!

キャラもスタッフも製作会社も道具!エヴァンゲリオン以外のアニメは全部食ってやる!20世紀を代表するアニメは新世紀エヴァンゲリオンだ!残るぜ!俺だけ見とけ!海外にも行くぜ!


4.シンジの補完計画
なんか流されるままにエヴァに乗ったらみんな死んでて、テンパってたら全能の神になってて、どうしよーかいろいろ考えてみたらやっぱり自分も他人も嫌いだし、みんな死ねばイーかなーと思って無我の境地に至ったら、それはそれでなんか居心地が悪かったしアダムとリリスのカヲル君とレイも希望がどうとか言うんでもう一回会おうかなーと思って、世界を復活させたら、誰も会いに来てくれなくて、なぜかスルーしてたアスカだけが居て、そー言えばアスカにはさっきひどい事を言われて首締めたんで、もっかい首締めとくかー。
と思ったら、ソレはそれでリアルな感触だったし、なんか怖くてどうしようもないからホントどうしたらいいかわからん。

なんかエヴァ作ってたらスタッフがみんな死んでて、テレビ版が破滅して、テンパってたんだが何気にヒットしたから映画を自由に作っていい事になって、どーしよーか色々考えてみたけど、やっぱりアニメとか嫌いだし、アニメ作ってる自分もなんかダメ臭いし、もうどうでもいいとおもってまたテレビ版と同じく逃げてみたんだけど、それはそれで自分の満足が行く作品じゃないっぽかったんで、他人って言うかキャラクターを動かすのは怖いけどちゃんと向き合ってエンドマークを打とうと思って頑張ったんだけど、そもそも最初の設定がアレでハルマゲドン物をやろうと思ったらいつのまにかデビルマンになってて、それはそれでパクリくさいんでちゃんと独自色を出そうとしたらもうキャラクターとか全部ぶっ殺して作品を壊すしかないんだが、それはそれで作品に愛着もあるしさー。ぶっ壊すのも逃げかもしれんしさー。ホントどうしたらいいかわからん。


5.惣流・アスカ・ラングレーの補完計画
量産型にボコられて、いつのまにか巨大綾波の中に取り込まれたら、シンジの中の自分の心や自分の中のシンジの心になってて、シンジが救ってくれるかと思ったけどすごいヘタレで、かといって自分で自分を救うのも無理くさいからシンジを発奮させようとしたんだけどもいまいちやり方が分からんのでキレたら、シンジもキレちゃって首を締められて、ソレはそれで気持ちが良かったし、なんか一つになれる感じだったからまあいいかと思ったし抵抗しなかったんだけど、やっぱシンジとかと一つになるのはキモイし、イヤだなーと思ってたら、いつのまにか元に戻って首を締められてて、もういいかなーと思ってシンジの顔を撫でたら寸止めで殺されそこなったんでキモイ。

なんかわけわかんないアニメに関わってたら、自分の心が監督の心と混ざり合って名作ができるかと思ったらすごいヘタレだったんで、監督が女子に発奮させて欲しいと思ってたんだけど、なんかもうどっちもキレて、もうどうでもいい、キモイ。美少女を投影すんなキモい。役者生命を賭けたつもりが寸止めかよキモい。


6.綾波レイの補完計画
自分は道具だし碇司令にしたがって補完計画を進めようと思ったんだけど、碇君との思い出が甦っちゃって、やっぱり人形はイヤだし碇君のところに行ったら人間扱いして貰えるんじゃないかと思って行ってみたら、もともとの自分と合体して、なんか変な風に巨大化しちゃって碇君も自分もワケわかんなくなっちゃって、全人類を一つにまとめてみたんだけど、はずみで取り込んだアダムとアスカとミサトのクロスのせいでシンジ君がごねだして、じゃあまた元に戻れば?みたいにしたんだけど、なかなかうまい事みんなイメージが取り戻せなかったみたいで、碇君とアスカだけが出てきて、ソレを見守ろうかと思ったんだけど、気まずいので消えます。

ちゃんとしたアニメを作るために頑張ってたんだけど、キャラクターにも人格が欲しいと思ったんでソレを主張したんだけど、萌え設定と妙に人間臭い筋書きが変な作用を起して大人気作品になっちゃったんで、他のアニメも自分と同じよーなコピーが出来たらいいと思ったんだけど、やっぱ、それはそれで自分の独自色が邪魔をして全てのアニメがエヴァの影響を受けるのは無理だよねー。だからみんなパロディーに飲み込まれても自分でちゃんとイメージして作品を作ってください。というのを見守ろうと思ったんだけど、気まずいので消えます。実写をやります。


監督やスタッフやアニメ界の自意識の分裂と癒着振りがひどい・・・。


やっぱし、カッコいい補完計画というのとは違う気がするなあ。
むしろ、どんどんダメになって行くんだけど、ダメで良いじゃん!ダメを受け入れようぜ!もうダメだー!
という開き直りを感じるなあ。
それはそれで一つの悟りだと思うのでバカにはできん。


ガンダムWを今見直してるけど、ソレもグダグダだ。95年はオウム云々とかバブル崩壊とかのみならず、アニメ会もソレまでの遺産を客観的に見ようとして総括しようとして破滅的な気分になってた時期なのかな?


今は今で、過去の作品を向き合うでもなく、パッチワーク的に繋ぎ合わせるのを自然なものとして(日本語を使って文を書くのに日本語の成立をいちいち意識し過ぎないように)パクリも無意識化してるし、作品に対しても商品として軽く扱うような空気になってるし、メタな視点やゲーム感覚に繰り返す物語も一般化してる。


で、ヱヴァ新劇場版はどうなるんでしょうか?

我々は再び、何を作ろうとしているのか?
 

 

エヴァンゲリオン」という映像作品は、様々な願いで作られています。
自分の正直な気分というものをフィルムに定着させたいという願い。
アニメーション映像が持っているイメージの具現化、表現の多様さ、原始的な感情に触れる、本来の面白さを一人でも多くの人に伝えたいという願い。
疲弊しつつある日本のアニメーションを、未来へとつなげたいという願い。
蔓延する閉塞感を打破したいという願い。
現実世界で生きていく心の強さを持ち続けたい、という願い。
今一度、これらの願いを具現化したいという願い。

 

そのために今、我々が出来るベストな方法がエヴァンゲリオン再映画化でした。
10年以上昔のタイトルを何故今更、とも思います。
エヴァはもう古い、とも感じます。
しかし、この12年間エヴァより新しいアニメはありませんでした。

 

閉じて停滞した現代には技術論ではなく、志を示すことが大切だと思います。
本来アニメーションを支えるファン層であるべき中高生のアニメ離れが加速していく中、彼らに向けた作品が必要だと感じます。
現状のアニメーションの役に少しでも立ちたいと考え、再びこのタイトル作品に触れることを決心しました。

 

映像制作者として、改めて気分を一新した現代版のエヴァンゲリオン世界を構築する。
このために古巣のガイナックスではなく自身で製作会社と制作スタジオを立ち上げ、初心からの再出発としました。
過去にとらわれず、現状に甘えず、進歩ある未来を目指すためです。
幸いにも旧作からのスタッフ、新たに参入してくれるスタッフと素晴らしい面々が集結しつつあります。
旧作以上の作品を作っている実感がわいてきます。

 

エヴァ」はくり返しの物語です。
主人公が何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話です。
わずかでも前に進もうとする、意思の話です。
曖昧な孤独に耐え他者に触れるのが怖くても一緒にいたいと思う、覚悟の話です。
同じ物語からまた違うカタチへ変化していく4つの作品を、楽しんでいただければ幸いです。

 

最後に、我々の仕事はサービス業でもあります。
当然ながら、エヴァンゲリオンを知らない人たちが触れやすいよう、劇場用映画として面白さを凝縮し、世界観を再構築し、
誰もが楽しめるエンターテイメント映像を目指します。

 

2007年初秋を、ご期待下さい。


原作/総監督 庵野秀明
2006 09/28 晴れの日に 鎌倉にて

やっぱり、これを読むと、新劇場版の人類補完計画安田朗氏の考えている意見の様な気がしてきた。


つまり、映画は所詮、光と音なんだよ。
虹の描写がそれを暗示していますね。
作品世界の物質を破壊するアンチA.T.フィールドの使い方や変形した挙句、形象崩壊する使徒もアニメの作品世界が作り事だという事を示していますね。
ビルはCGのペラペラなんだけど、枠線を描いたり光線を工夫したら、作品世界を構成する実体に見えてくるでしょ?嘘だけど。
つーか、ストーリーもメディアミックスとかで、新劇場版を作る以前からもうグダグダにレイプしまくられてますね。
じゃー、もー、アニメはダメなんですけど、ダメならダメでカッコよくて面白いものにしましょーぜー
ということかな〜
おどらにゃソンソン。
映画はある意味お祭だー♪



でも、ヱヴァンゲリヲン:序の段階では新画のクオリティーがTVに比べて素晴らしいが、旧劇場版もなかなかの物なので、これからさき、絵だけで満足できる物になるとは信じられないですので、それ以上の物が見れるはずなので楽しみー。



で、エヴァは「人が乗るロボ(厳密に言うと人型乗り物)がスンゲー強い!」
の正当後継者(3代目)だというのは、全くその通りだとおもいます。
でも、ガンダムとかボトムズは「ロボがツエーと思ったら俺の方が強かった!」で、エヴァは「ロボを動かす俺ツエーと思ったら強いのはママンだった!」という混じりけというか歪みがあるからマジンガーの単純なコピーとは違うんですね。
グレンダイザーとかとは!
赤木博士風に言うと人の思いが込められているとか。
だからゴワッパーとかバルディオスとかよりはヒットしたのかなあ?
でも、やっぱりママンに乗って戦うのはキモイです。アニメ夜話でおばさんが「エヴァ初号機が暴走するところが女性の強さでよかった」って言うけど、だったら息子を使わないで自分だけで自己実現してくださいよ。というキモさがある。
でも、新しいシンジ君はママンが全身大火傷してるのを根性で動かして気合で勝ったので純血になりそうな予感はしますね!


アスカに対しても、何だか分からんけど気合で愛する!みたいなGガンダムになる?
人類補完計画も努力と根性で地球を救うか?
いやー、どうなるんでしょーねー?wktk!



やっぱあきまんさんの発想は勉強になるワー。いろいろな事を思いつきます。