今日、朝日新聞を見たら富野監督のインタビューが。
どうやら各大学の工学部のPR広告の企画で富野監督にインタビューしているみたい。
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工学的思考が新しい時代を拓く
朝日新聞2009年1月19日広告特集 築く工学部へ行こうより!
http://nextsociety.blog102.fc2.com/blog-entry-549.html
読んだ。やや異論。
どの程度、編集バイアスがかかっているか、と言う問題もあるのだが。
この一番の要因は何なのか。僕は、やはりコンピューターゲームかなと思っています。ゲームというのは、決定的に自己埋没するシステムなんです。一方、工学というのは、どうしたら目指す成果に結びつけられるかということを追求していくもの。成果というのは、社会へ作用するものということです。社会でどういうふうに、ある技術を運用できるのか、そお手法を構築していくのが工学なのです。ゲームという自己閉塞する行為に染まった子どもが、外の世界に目を向けるわけがありません。この世代の理工系離れを食い止めるために最も重要なことは、親や教師が子どもたちを外に向かわせる感性を育ててやることでしょう。工学というのは、実はアートでもあります。だから、原理原則を見つめていくデッサン的感覚は必要です。昆虫採集や、カエルの解剖、モーターの分解でもいいんですけど、実験の積み重ねによって、何かグチャグチャしていることが、ある方向へ集約されることもあるのだ、ということを示すような理科教育が、もっと行われていくべきだと思います。
絵空事ではない現実に立ち向かう工学は面白い
もう間もなく高校を卒業するという学生さんで、工学部を目指すという方には、こう申し上げたい。君たちの多くは自己閉塞するシステムの中で、ここまで成長してしまいました。だからこそ、あえて今、外に向かっていく己というものをつくっていかなければいけない、と。
環境論は、「生きる価値の無い者は減ってね」と言う事をやんわりと言っていて良いのだが。
閉塞論にゲームを持ち出す根拠が語られていないために、老人の繰言のように見えてしまうのは残念なところ。
キングゲイナーにおいて、「ゲームでリラックスして現実に対処する訓練をする」と言う事を描いたトミーノがねえ。
もちろん、ゲイナー君はゲームのセンスだけでは戦えないと言うギャップを乗り越えて、外向きにもなったんだけど。
ゲームを通じてシンシアと知り合ったり、ネットで人に誉められて、それが自信になって引きこもりを脱出してサラのケツを見に学校に行ってSM女王のアデットに逮捕されたりって言う、一面的ではないゲームの描き方をしてるのだが。
おそらく、ゲームというのが自己閉塞に陥るのは、基本的に創意が介入しないで作り手のルールに従っているもので、しかもソレが小説や映画と違って、従っている作業をしているだけなのに自分で行動しているような錯覚を植え付けるから、ではないかと思う。
これくらい順序だてて説明しないと、お仕着せの老人になってしまいますよ。
あと、僕はこの全面広告を出して富野を祭り上げて、紙面に載っていた国立工学大学に入ってから閉塞しましたよ。
研究のアート性というのもあるんだけど、学会は学会でシステムと政治の世界ですし。
あと、僕が基本的にお勉強ができなくなったというのがあって、それは僕の性格の問題だから、まあ、できる人はできるんだろ。
僕と同じ大学にいた友人は仲のいい人ほど辞めたけど。