玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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∀ ガンダム第28話「託されたもの」

脚本・星山博之 絵コンテ・西森章 演出・西森章 作画監督・しんぼたくろう/中田栄治
http://www.geocities.co.jp/AnimeComic-Pastel/3829/words28_TurnA.html
http://www.turn-a-gundam.net/story/28.htm
「ディアナ奮戦」以来、久々の星山脚本。
なんだが・・・。いろんな意味で破たんしているように見える…。
おれ、富野信者だし、星山さんはすごいベテランでヒットメーカーだと思うから、そんなに批判したくないんだけど…。
これ、駄目だろう。
と、思った。しかし、星山さんが破たんした脚本を書くだろうか?3月中にこの話を見たのだが、いろいろと忙しかった。ので、1ヶ月くらい、考えたり、mp3ウォークマンに録音して聞き直したり、考えた。いや、まあ、ガンダムを録音して聞くのはGacktでもやってることだから、別に専門家って言うわけじゃないと思う。(笑)


で、なぜ、破たんしている脚本だと思ったのか。
まずロランが問題。
前回、ロラン・セアックホワイトドールの解析能力の高さとムーンレィスとしての知性とニュータイプ的な判断力をもって、核爆発に対して誰よりも高いリテラシーを持って対処していた。と、ブログに書いた。
しかし、今回のロランは…。

  1. 爆心地を見物しながらコックピットを開けている
  2. そのくせ「放射能があるからコックピットを開けない方が良いし、生物に被害を与え続ける」とか言う。
  3. しかし、サンライズの裏設定によると、あの核爆弾は未来の核爆弾だから爆発の威力はあっても放射能は少ないらしい
  4. つまり、ロランはガイガーカウンターもチェックしていない。
  5. その上、ポゥ中尉の攻撃に対してガンダムを使ってヒバクシャのモノマネをして突進する。

あのねえ、バカ?
特に、被爆者のものまねをしてポゥのビームガンをよけないで突進して、その奇妙さを使って追い払うとか、意味がわからない。

ポゥ 「なんでこんな所にヒゲがいるんだ」
  「なんと無防備な。的にしてくださいと言っている?撃つよ」
  「なぜよけない?パイロットは乗っているんだろ?」
ロラン 「水をくれー」
ソシエ 「水ー」
ポゥ 『敵前でどういうつもりなんだ?ミリシャのパイロットは』
  「フィル少佐」
ソシエ 「はぁ」
メシェー 「ロランの作戦はむちゃくちゃよ」
ソシエ 「だませたからよかったけど、ほんとに撃たれたらどうすんのよ?」
ロラン 「あれは本当のことです。被爆した人っていつの時代でも、水を欲しがって死んでいくって…」

うん。そうだね。それは本当のことだね。でも、モビルスーツは水を欲しがらないよね。
ロランは前回見たとおり、核兵器に対するリテラシーは高いようだ。しかし、それは平和な月の世界ではだしのゲンあたりを読んで、反核啓発映画あたりを読んで手に入れたもののようだ。
つまり、反核意識はあるのだけど、その知識が高い分、今回は状況把握よりも「核兵器とは危ないものだ」「ヒバクシャとはこんなものだ」という知識に引っ張られて変な行動に走っているように見える。


他にも、ポゥ中尉が核爆弾を持っているゼノアのモビルスーツに向かってビームを撃ったり、ゼノアが和平交渉をしようとして武器を捨てないで突撃するソシエとメシェーを連れてきて紛争を起こしたり、フィル少佐がいきなり全権掌握をしようとしてディアナ・ソレルにクーデターを突然起こしたり、
キャラクターの行動原理が思いっきり混乱している。
もう、徹底して混乱している。


なら、ここまで混乱しているのなら、むしろ確信犯で混乱した脚本にしているのではないだろうか?

つまり、混乱しているのは脚本の構成ではなく、キャラクターが「太古の核兵器」に突然触れることで浮足立って混乱しているということを計算して描いているのではないだろうか。
そう考えると、この分かりにくい話もとても筋が通ったものに見える。
たとえば、ゼノア大尉と同じウワッドの後部座席に座っていた「ミノス」と言う男がいる。彼は前回、「核エンジンのペレットじゃないですか」「宇宙服を着ていたら放射能よけになるのに」などと、ムーンレィスらしい核技術に対する知識のあるような事を言っていた。しかし、今回は、実際に核爆発に会い、ほとんどの同僚の死に直面した結果、宇宙服を脱ぎ捨てて混乱してどこかへ走り去ってしまった。
あー。狂っちゃった。
知識があっても、実際に体験してみると自分のキャパシティーを超えて狂いました。
で、彼の上司であるゼノア大尉と同僚の女性パイロットのレアは、ミノスを原子野に放っておいたまま撤退する。
ひでえ。
こいつらも思いっきり浮足立っている。
ゼノア大尉は核爆弾を持ち出しているのに、気絶から目覚めた直後はそのことを完ぺきに忘れていたし。
核兵器をいきなりロランに渡して「この爆弾には敵も味方もない!捨ててくれ!」とか言うし、考えなしに和平交渉を強引に行おうとして、武器を捨てないソシエを連れてソレイユに向かい、味方に撃たれてゼノアは死ぬ。
核兵器は大変だ!なんとかしないと!」という思いだけが先走って、いろんな途中経過をすっ飛ばして行動に直結して破たんしている。だめだろう。それは。
これは、フィル・アッカマン少佐が「核兵器を手に入れれば全権を掌握できる」と言って突然クーデターを起こしたのと同じ。
みんな、何か大きなものがあると興奮して、何かをやらずにはいられなくなる。自分の力で何かをしようとしたくなる。
しかし、それは自分の意志のように見えてそうではなく、道具に使われているだけなのではないだろうか?


そうすると、ロラン・セアック核兵器を秘匿するということは、やっぱりニュータイプ的感性(物事を正確に見抜くこと)と言えるでしょう。
ロランは核兵器を知ると、グエン・サード・ラインフォードも道具に踊って野心を持って兵器を利用するだろうということを予想して、それをさせないために黙っている。
みんなが核兵器の影響で行動を起こす中、核を持つロランは、何もしないということを選択。
すげー。さすが主人公!
まあ、それも「核兵器を自分が処分する」ということで、道具の影響による性急な行動かもしれないけど…?でも、ロランはあんまり騒がないで、核兵器を抱えたまま結構普通に行動していたりもする。かなりの長い期間。
富野監督は「性急な進歩を急ぐ人よりもぼんやりと穏やかな性格のロラン君が素敵」というアニメを通じて、来るべき21世紀への提言を行っているのかなー。っていうか、普段から富野監督はそんなことばっかり言ってるし。
まー、でも、単年度決算を上げるためには性急な進歩と言うマラソンをしてギエロン星獣を怒らせたりしないと生活できないのが我々愚民なんですよねー。すんません。人口多すぎですよねー。


しかも、核兵器周りで混乱しているというのに、フィルのクーデターを受けて、再度ディアナとキエルが入れ替わります。

キエル 「私をディアナ様としてソレイユから脱出させたら、ディアナ様はキエルになってしまいます。そうしたらフィル少佐はディアナ様をあやめるのではないでしょうか?」
ハリー 「いや、フィル少佐は、本物がどちらか混乱して時間を費やすでしょう。それが狙いです」

わざと混乱させようとしている。しかし、ハリー・オード自身も混乱している。

ハリー 「そ、それはよいお考えです。が、そこにいらっしゃるのはキエル嬢でありますな?」
  『連れ出した時の香りはキエル嬢のものだった』

そして、視聴者もまたしても混乱します。なんだよ、これ。
しかも、ラストシーンで駄目押しでソシエ・ハイムがディアナが捕まったという話をジョゼフから聞いて、捕まったディアナではなく逃げ延びたキエルの方を、「捕まったディアナ」だと思うという芝居を入れて、さらに視聴者を混乱させます。
っていうか、文章を書きながらおれもだんだんわからなくなってきた。文意、伝わってますか?わからない人はレンタルビデオかバンダイチャンネル楽天ダウンロードで見てください。


と、まあ、そんな感じで、「混乱した話を通じて混乱した人々を精密に描いた」という話なんだけど、やっぱり本放送での初見の印象は「なんだこれ、わけわかんねー」だったわけだ。
普通、視聴者が混乱した人々の話を見たら、作品自体が混乱してると思って理解しようとすることをやめるよなー。だから、売れなかったんですよ。ターンエーガンダムは。
普通、視聴者がアニメの群像劇を見る場合、理解するためには「本当のことを言うキャラ」というランドマークが必要なわけです。基準座標ですね。たとえば、機動戦士ガンダムSEEDでは、ラクス・クラインキラ・ヤマトの発言を正しいものだとして見ると理解しやすい。(本当に正しいかと言うより、作品構造としてそうなっている)
スタジオジブリ系列のアニメも、基本的に主人公に感情移入して、主人公の得た情報を主人公と同じに解釈していくとわかりやすい構造になっています。
正しい誰かがいない場合でも、なにかメッセージ的なキーになるセリフで視聴者の基準を作ったりします。
たとえば、主人公が飲み屋で知り合った行きずりの誰かから何かキーになる言葉を聞いて、考えを改める、などのテクニックがあります。
でも、富野由悠季のアニメ、その中でもターンAガンダムは「平気でうそをつく人たち―虚偽と邪悪の心理学」を底本にしていることもあり、誰を信じていいのかわからないし、全員馬鹿だし、賢そうなキャラクターでも(ギレンとか)でも賢そうなだけでどこか考え違いをしているし、人と人は分かり合えないし、主人公も変なことをよくやるし、話の基準軸がなく単に事実を提示する作りになっているので、視聴者はその中に放り出された形になって大混乱です。
しかし、10年たって2度目の視聴をしている私はその混乱を見て、それを一つ一つ解釈するのがとても面白いので、やっぱりこの間にイデオンとかVガンダムとか大混乱作品を通じて私のトミノリテラシーも向上したってことなんでしょうなあー。



あと、1999年という世紀末のアニメ界は新世紀エヴァンゲリオンブームの後期でもあります。
つまり、「謎の提示で視聴者を引っ張る風潮」が先鋭化した時期であります。もう、この頃は変なアニメがいっぱいありましてねー。
というか、エヴァのおかげで、「少々謎が多くてもいい」「むしろ視聴者はそれを楽しむ」「だから、ちょっとは分かりにくくていい」と、製作者側が思っていたような時期です。


で、ターンエーガンダムでも、顔が出ていない「アグリッパ一派」という言葉が「人類補完計画」のようなジャーゴンとして、前半では語られています。
でもねー。
そもそも、エヴァが分かりにくい話を作ったのは、イデオンVガンダムのわかりにくさの影響です。だから、本家の富野アニメが、さらに分かりにくさを逆輸入したらもう、濃くて濃くてたまらないものになるじゃないか!
それに、エヴァンゲリオンってテロップの入れ方とか演出がうまくて、謎は多いけど「これが謎ですよ」ってのは分かりやすい。
対して、富野。投げっぱなし。
しかも、エヴァは謎ときストーリーという基本的な流れは最後まであるしそれ風の演出が徹底されているんだけど。ターンAガンダムは謎を解く話じゃないし、「牧歌的な世界名作劇場」の皮をかぶった演出です。
もう、エヴァに比べて、2重3重に分かりにくい。
しかも、エヴァキリスト教の歴史という分かりやすいものをネタにしているのに対して、ターンエーは自前のガンダムの歴史をネタにしているとか、斜め上すぎるだろうが!わかるかそんなもん!


もう、トミーノの作品はめちゃくちゃだよ…ロックだよ…アナーキーインザU.C.だよ。大好きです。


で、そういう分かりにくい作品が一世を風靡した後、ゼロ年代中盤からはまったり日常系アニメが一世を風靡します。
一応ロボットアニメのコードギアスとかファンタジーアニメのCLANNADもあるんだけど、そこで提示される「不思議」はすでに視聴者の興味の中心ではなく-ガンダムSEEDのエビデンスワンのことを覚えている女子高生視聴者はいるのか?-単なるネタ振りとして受け止められ、掘り下げられることはなく、キャラクターの振る舞いや格好よさに視聴者が喜ぶ作品が中心になりました。


で、そのまったり日常系アニメの始まりが「あずまんが大王」だったり、謎よりもアクション中心のコードギアス 反逆のルルーシュだったりするわけで。
両方でシリーズ構成をした大河内一楼氏は、富野監督をうまく反面教師にして売れ方を研究してるよなー。


富野監督は真面目すぎるのよ。ファンタジーなんてネタでいいの。
ギアスは単なる願いの気持ちでいいの。(むしろ、ルルーシュとスザク二人の因縁がメインで、親父の世界改変計画はスルー)
古河渚が死んだって不思議な力を使ったら世界がループして生き返るの。そういうものなの。視聴者はその喜びや快感を動物化して受け止めてたらいいの。

http://d.hatena.ne.jp/rikio0505/20090322/1237731128:title
 それよりも、いいところもあったでしょう?と言いたいです。真剣に生死を描いていたり、幼女(娘)が可愛かったり、あとは7年くらいの時間を描いていたり。7年の歳月でキャラ(特に朋也)の風貌が少しずつ変わっていたあたりの細かさも含め、いい仕事はしてたし、この作品ならではの部分は多かったと思うんですよね。ラストの方のダメ?な部分だけを見るんじゃなくて、もっと良いところを見て欲しいな…というのが偽らざる気持ちなんですが、読後感とかって大切ですからね…。難しいなあ。

 こうしたファンタジー性の排除は、劇場版『AIR』にも言えることであるが、出崎統としては、『CLANNAD』をファンタジー作品として描かないというところが基本路線だったのだろう。


 この点が京アニ版と徹底的に異なるところである。京アニ版の『CLANNAD』は、徹底して、ファンタジー作品である。そこで示されている基本路線というものは、ファンタジーを介することによって表現できる何かがあるということ、家族を始めとした現代の様々な問題に応えるためには、ファンタジーという回り道が必要になる、というようなものである。『CLANNAD』の物語からファンタジーという要素を抜いてしまったら、そこにあるのは、ありふれた凡庸な物語、非常にベタで古典的な物語だろう。従って、もし実写版の『CLANNAD』というものがあったとしたら、描き方にもよるだろうが、おそらく正視に堪えないものになるのではないかと思う。『CLANNAD』の古臭い物語が成立するのは、それが美少女ゲームという枠組の中で発展したファンタジー作品であるという点をやはり抑えておく必要があるのではないだろうか。


 いずれにしても、劇場版の『CLANNAD』からは、制作者の情熱というものは伝わってこなかった(出崎統の冒険心みたいなものは伝わってきたが)。別に、京アニ版『CLANNAD』から何か猛烈に熱いものが伝わってくるわけではない。しかしながら、非常にしつこいこだわりというか、静かな情熱のようなものは十分に伝わってくる。この前の特別編でも、なぜあれほどタライをしつこく描くことができるのかよく分からないが、ああいうところに制作者のこだわりというものが感じられて、そうした細部の積み重ねがひとつの作品を素晴らしいものにさせているように思えるのである。


http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20090320:title

お前のこだわりはタライと言う物質で満足できるものなのか!ガキがかわいかったら世界の法則はどうなってもいいのか!


でも、富野喜幸は因果を描く人だから。ファンタジーにおいても原因と結果、そして人の業は描くぞ。
出崎統については本項で触れるにはあまりにも出崎統すぎるから割愛)
ファンタジーを便利なツールとして描くことはしない!
むしろ、ファンタジーにのまれた時、人がどうなるかと言うことを徹底して書いて、書いて、書きまくっていた。

というか、<ファンタジー≠何をやってもいい不思議パワー>です。

ファンタジーという装置は、例えば猿の手だったり(これはホラーだけど)、何らかの教訓を含んだ御伽噺だったり、『もし非現実的な行為を実現させることができたとしてもそこには制約があったりそれでもどうしようもない現実が厳然としてある』というのを際立たせる手法の筈です。

http://d.hatena.ne.jp/nemuke/20090323/1237786761#:title

富野監督の伝説巨神イデオンバイストン・ウェル物語もファンタジーの中の制約や現実を徹底して描いていましたよねー。
富野監督は世界観の設定に対して、とてもまじめでちゃんとやらずにはいられないんでしょう。
しかも、それが設定云々の話だけでなく、個々のキャラクターの積み重ねで世界を作っているという世界観(世界に対する認識の仕方)です。


そういうわけで、核兵器を何とかしようとして頑張りすぎたゼノアさんが死ぬのは、感動的でもあるが、現実的に見ると愚かな暴走でもある。
そんな書き方をする。
そういう、感動路線と冷徹な視線が分かちがたく同居しているカオスが富野であり、そんな富野を愛しちゃう!