玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

二千年代の創造神富野 II 動物化させる富野由悠季

 富野の発明が無意味ならば、富野の力とは何だろうか。それは簡単なことで、作品がおもしろいからだ。(完)
 これで終わるのは酷すぎるので「面白さとは何か?」と考えてみよう。これも簡単で、動物的生理に訴えるものだ。それはそうだ。人類は肉体の中で生きる動物。ならば生体の条件反射を脳で集積したものが感情だろう。そして、条件反射の条件を操作することが芸能の技である。
この技術論については富野の著した教則本『映像の原則』(キネマ旬報社、二〇〇二年)にまとめられている。そこで一番わかりやすい例は四十六頁の「心臓の位置」だ。超簡単に言うと「心臓から遠い右側から来るものには寛容で、左側から来るものは恐ろしく感じる」というもの。これは能楽からも共通する、演劇の伝統的な上手下手(かみてしもて)と共通する技法の説明。富野自身は日本大学芸術学部出身で実写映画監督志望だった。正規の実写映像学を学んだ経歴は、元アニメーターや元萬画家という出身者の多いアニメ監督の中では逆に異色らしい。(余談だが、故・長浜忠夫は人形劇出身である)
 その技術は富野が60〜70年代に「コンテ千本切りの富野」として様々なスタジオや監督を渡り歩く事で研ぎ澄まされていった。日大芸術学部を出て最初に制作進行として就職した虫プロで初演出を手がけた『鉄腕アトム』から始まり、虫プロでは杉井ギザブロー出崎統高橋良輔りんたろう等を始めとする、後のアニメ界の大監督達や当時のベテランスタッフたちと仕事をした。諸事情からフリーになってからはタツノコプロでは泣ける『昆虫物語みなしごハッチ』、SFアクションの『新造人間キャシャーン』、高畑勲などの『世界名作劇場シリーズ』、宮崎駿の『未来少年コナン』、を手がけた。手塚治虫原作『海のトリトン』で実質的な初監督をした後の第二作目の『勇者ライディーン』は後半の総監督を長浜忠夫に譲り、その下で逃げずに絵コンテマンとして技を盗んだ。長浜監督作には他にも『巨人の星』『超電磁ロボ コン・バトラーV』等、多くの作品で演出として参加していた。『ライディーン』後半と同時期にはルパン三世第一期の大隈正秋総監督の下の監督として、『ベルサイユのばら』(萬画原作版)と人気を二分していたフランス革命を題材にした美少女剣士アニメ『ラ・セーヌの星』に参加した。その他、さすらいの絵コンテマンとして、大和和紀の少女萬画モンシェリCoCo』、藤子不二雄作品の『新オバケのQ太郎』まで、あらゆるジャンルの作品をやった。
 ガンダムのみに注目されがちな富野であるが、このように理論と経験に裏打ちされた職人技で観客の動物的生理を操るスキルを持つ。私は素人だが、富野作品には生理的に刺激される。私は『ガンダム』を劇場で見た時、腰が抜けた。映画で鳥肌が立つだけでなく、腰が抜けたりチャクラが熱する経験は富野作品くらいでしか味わったことが無い。感性が合うのだろう。『OVERMAN キングゲイナー』のヒロイン、シンシア・レーンの第二十話の言葉に近い感覚だ。

「こんな時は体中の血が騒ぐだろう?血が騒ぐんだよ!」


 では、富野の魅力は映像的快楽だけか?綺麗な作画アニメなのか?というと、それは違う。富野作品の作画がダメというわけではない。作画は富野に刺激されたスタッフの仕事である。音楽や声優も同じだ。富野のメインの仕事である演出は「概念」を非説明的に込めるものである(ラジオ『渋谷アニメランド』NHKラジオ第一、二〇一〇年五月二十五日)。むしろ「概念」と言う理性的な物を生理的にぶつけられ、動揺し感動を味わうのが人間なのではないか? だから血が騒ぐんだよ! 『キングゲイナー』十九話で主人公ゲイナー・サンガは敵に見せられた幻覚を斬りながら叫ぶ。

「ゲームで負けそうな時のおまじないは「僕は動物だ」。これが現実のパワー!幻は理性が見る物だ!」

それなら、幻であるアニメーションを見て動物的に感動する我々は、何だ! 『動物化するポストモダン』で、東浩紀の言う「おたく=データベース的動物」つまり現実の紛い物を摂取する中毒者か?
それを私は経験的に否定しない。
富野作品に登場するデータベース情報は強力な麻薬だ。富野作品に顕著な「メカとキャラクター」というオタク要素はガンプラを2009年に原寸大ガンダムにまで巨大化し、「シャア専用グッズ」を流通させた。劇場で写真撮影されたとの逸話が有名な「セイラ・マスのシャワーシーン」は『くりぃむレモン』等のポルノアニメやエロゲーを生み出したほどに強力だ。
もちろん、これは安彦良和という天才の作画の力でもある。余談だが、その前のエロアニメといえば、宇宙戦艦ヤマトの第四話の森雪のワープ時の裸であり、4話の絵コンテは富野と石黒昇超時空要塞マクロス銀河英雄伝説などの監督)の連名である。安彦良和宇宙戦艦ヤマトに演出や作画として参加している。また、セイラ・マスのヌードピンナップ「悩ましのアルテイシア」を掲載した月刊OUTはその前の1977年6月号に、この森雪のヌードグラビアを載せている。まったく、富野のエロさには困った物だ。マクロスもやらしかったけど(笑)。


閑話休題


だが、麻薬に反応する脳の受容体は現実の物体ではないか。だから、作品が幻のような概念データの集まりに過ぎないとしても、最終的に反応するのは我々視聴者の生体という物体!そして、その生体に対する麻薬を操るのが演出なのだ。演出とは、理論を用いながら極度に生理的なものに肉薄する、薬学に近いものなのだ。そういうわけで、富野は高度な映画技術を持ちながら、自分の主張データや芸術的アイディアのみを自慰行為的にフィルムにして、観客の快楽や心情を斟酌しない、インテリの文芸映画について批判的な言動をする事が多い。(富野は若い頃に大島渚などの和製ヌーベルバーグにかぶれた世代であるので、実写映画界への憧れや嫉妬心の裏返しも多少は含まれているであろう)
 一九九九年頃から、富野が非常に多く口にする言葉が「身体性」と「芸能」である。富野は芸能と宗教の関係についてこう述べた。

「肉体的な感覚みたいなものとか、本当にマスターベーションをかくみたいな気分が作り手になければ、作品というのは匂う物にならない」
「”芸能”とは、体から発せられる”想い”から出ているもの。つまり『もう今年は死ぬかもしれない。神様助けてくださいよ』と、これくらいのことをやって見せておけば、神様は助けてくれるだろうという歌と踊りに全部ドーッと持っていく」
(『富野由悠季全仕事』二八一頁、キネマ旬報社、一九九九年)

たしかに、芸能とは宗教に近い。ゴスペルミュージックしかり、神楽しかり。富野作品でも、『伝説巨神イデオン』や『Zガンダム』、『機動戦士ガンダム逆襲のシャア』等、超常現象でラストの決着を付ける作品も多い。なら、富野の「アニメるちから力」とは宗教か?