玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

二千年代の創造神富野VI本気で虚構を創造する富野由悠季

目次
二〇〇〇年代の創造神、富野由悠季のアニメる力・目次 - 玖足手帖-アニメ&創作-


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なんか、アップロードする機会を失速してましたが。では


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 富野作品は現実的だ。フィクションの癖に、嘘、勘違い、体臭、過労、善悪の逆転、虐殺に次ぐ虐殺、そんな地獄を見せる。「僕たちはフィクションの中で遊びたいのに、そんな現実は見たくない」と言う視聴者もいるだろう。しかし、我々の現実での認知は真実だろうか?
 東浩紀Welcome to Twitter - Login or Sign upはオタクたちの現実認知について次のように書いた。

近代国家では、成員をひとつにまとめあげるためのさまざまなシステムが整備され、その動きを前提として社会が運営されてきた。
(中略)
「大きな物語」とはそれらシステムの総称である。
(『動物化するポストモダン』四五頁)



オタクたちが社会的現実よりも虚構を選ぶのは、その両者の区別がつかなくなっているからではなく、社会的現実が与えてくれる価値規範と虚構が与えてくれる価値規範の間のどちらが彼らの人間関係にとって有効なのか、天秤にかけられた結果である。(同、四四頁)


彼らが社会性を拒否しているからではなく、むしろ、社会的な価値規範がうまく機能せず、別の価値規範を作り上げる必要に迫られているからなのだ。(同、四五頁)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)


これは半分は当たっていますが、富野作品においては半分は外れています。なぜなら富野の思想の中で「大きな物語」は現実に存在するからなのです!
それは何かと言いますと一九七二年に発表された『成長の限界』という学説です。これはアウレリオ・ペッチェイ博士が設立した民間シンクタンク「ローマクラブ」が、MITの国際チームに委託して研究したものです。簡単に言うと「人口は掛け算で急激に増加するが、食料は足し算でしか増加しない」と言う説を中心に、「二十一世紀前半に資源が枯渇して人類は滅亡する」とした「地球有限説」です。二十一世紀にも研究が続けられ、状況はさらに悪化しているのです!

成長の限界―ローマ・クラブ「人類の危機」レポート

成長の限界―ローマ・クラブ「人類の危機」レポート

 『ガンダム』に登場する「増えすぎた人口」などは、ここから来ている。『ブレンパワード』や最新作の新装小説版『リーンの翼』においても、「地球有限説」を前提とした軍事行動、虐殺行為が展開されている。富野が若いころに起きた核戦争手前までいったキューバ危機や、近年でのリーマンショックなどの金融危機という事実や、文化的には手塚治虫の全滅萬画作品やタツノコテッカマン等の地球崩壊アニメ作品等の影響もあるだろう。地球が有限であるのに消費を止めない人類を富野は批判する。

富野「拡大や成長や人間の進歩という思考がいったい何から出てきたかというと、結局経済の問題でしょう。つまり、資本は消費を必要とするという事です。
(中略)
日本の経済不況は今後もっと深刻になるでしょうから、いっそもっと深刻になっていいんじゃないでしょうか。そうして、貧富の差が極度に出てきて、人間がどうにも暮らしていけなくなる国家の姿を見ない限り、我々は次に行けないのかもしれません。もちろんそれは本当に悲惨な事だろう」
(『戦争と平和』、二一一頁、徳間書店、二〇〇二年)

戦争と平和 (アニメージュ叢書)

戦争と平和 (アニメージュ叢書)


これは富野が宗教に対して「切ない」と言い、アニメ監督でありながらアニメファンに「アニメグッズを買うな」と言う心境と同根だ。

富野に訊け!! (アニメージュ文庫)

富野に訊け!! (アニメージュ文庫)


経済不況は「戦争と平和」で富野が語った時点から八年後の現在も深刻になっている。それでも、単年度決算で成績を上げなければ生きていけないサラリーマンや官僚達は消費を喚起し、老人に税金を払わせるための少子化対策などを政策として掲げている。これは悪を成す者のすることだ! だが、その悪がなくては生きていけないのが現代人でもある。ゆえに、公共のテレビでは有識者が「人類の人口は二十億人まで減らないといけません」と言い、それを聞いたアイドルが「こわーい」と笑い、そのまま何も解決策を提示しない番組が垂れ流されている。このような社会のどこに現実があるというのだ! ならばオタク達は東浩紀の言う「人間関係」よりももっと切実なものを理由に虚構を選ぶだろう! つまり「絶望と発狂の忘却」である。現代は「モノがあるが心のない世界」でも「終わりなき日常」でも何でもない「モノと心の終わりを見ないふりをする日常」だ。
 「フィクションの中でまで現実を見たくない」、それも遊びとしてはよかろう。しかし「フィクションの中でまで現実の社会で為されるような嘘を見聞きするのはたくさんだ!」と思う者は富野作品に惹かれよう。
 それが、富野の「アニメる力(ちから)」の真実だ。少なくとも私にとってはそうだ。富野作品には血みどろの真実がある。視聴者が生きる嘘のような現実の中から、富野作品の方を真実として見れば、認識が反転する。バイストン・ウェルからは現実があの世ではないのか? イデの発動した後の因果地平とは今の地球ではないか? 我々は∀ガンダムが埋葬する前の黒歴史の輪の中に生きているのではないか? そのような感覚が富野作品には、ある。
 富野作品以外に、近代のアニメや世相を語る言葉や現象としての「決断主義」「民族主義」「全体主義」と言う物がある。これら現代の闘争心も「絶望と発狂の忘却」から来ているのではないだろうか。
 だが井荻麟富野由悠季の作詞ペンネーム)はこう歌うのだ。


「立ち上がれ ガンダム 君よ 叫べ まだ絶望に沈む悲しみあるなら 恐怖をはらって 行けよ 行けよ 行けよ」

翔べ!ガンダム

「STAND UP TO THE VICTORY その向こう側に何もなくてもかまわないから」
「STAND UP TO THE VICTORY その向こう側にたとえ悲しみが待っていたとしても 信じてほしい君の涙をみたくないから」

(STAND UP TO THE VICTORY〜トゥ・ザ・ヴィクトリー〜)(みかみ麗緒と連名)

GUNDAM SONGS 145

GUNDAM SONGS 145

虚構の真実の中でも、絶望すらも許されない。死と絶望に向かってでも生きていることを肯定する!
 この陰陽の混沌こそが富野由悠季よ!


この痛々しいまでの本気さが富野作品を作りごと以上に強い生命力を持つ作品として強化していると思うのだ!と、私は!