第25話 潮風よ、縁があったらまた逢おう
第26話 フリントはもう飛べない−
脚本:篠崎好 絵コンテ:さきまくら 監督:出崎統
「夕凪と呼ばれた男」
絵コンテ:さきまくら 脚本:監督:出崎統
終わった。
なにもかも・・・。
全26話で素晴らしくまとまったアニメだった。
カッコいい・・・。すごくかっこよかった。ジーンときた。
24話のラストで宝がついに見つかり、第7巻ではもはや冒険は帰路を残すのみ。そして、後は各々の心の決着だけ・・・。
そう、宝島と言うアニメは、宝探しの話なのに、宝を得て金持ちになる事が主眼のテーマではないのだ。
それが、すごい。
ネタバレ
- 作者: 出崎統,杉野昭夫
- 出版社/メーカー: 創芸社
- 発売日: 1994/12
- メディア: 単行本
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- 宝とは何だったのか、と言う相対主義がすごい
「誰が言った台詞だったか…地球がもし金で出来ていたら、人は一握りの泥の為に命を落とすだろう」
ジム「どうしても、答えてほしいことがあるんだ、シルバーにとって一番大切なものはなに?」
シルバー「今はこの一杯のコーヒーさ」
ジム「まじめに答えてよ」
シルバー「まじめさジム・・・とにかく、今日という日のこの瞬間はこのお前の入れてくれた一杯のコーヒーだよ・・・しかし明日になりゃ変わっちまうだろうな」
「つまりな、俺にとっての一番大切なものってのは俺自身まだ何なのかわかんねぇんだ。だから俺はそれを探すために毎日、毎日を過ごしてる。」
「フリントの宝探しに血道を上げたこの10年間は楽しかったフリントの宝を見つければ俺にとっての一番大切なものは『何か』が分かるような気がしていたんだ。だが、何にもなかった。例えあのフリントの財宝が全て俺のものになったとしてもけど、宝はやはり宝以外のなにものでもなかった。俺の『何か』ではなかった」
「あるよなぁ、ジム。どっかで俺が、俺の一番大切なものってやつに出会う時があるよなぁ・・・そうでなけりゃ、そうでなけりゃあ、あんまりさみしすぎらぁ」
「あったさ!海へ出たこと!冒険!そしていろんな男たちに出会ったこと!」
「どこ行ったって…どんな事に出くわしたって、その気になりゃ俺たちゃぁまだまだ翔べるんだ」
何が大切なのか、それは最後まで明示されないのが良い。「ジムが経験をしたことが宝なんだ」、と言う。
だが、いろんな経験をしてきたであろうシルバーの「宝はやはり宝以外のなにものでもなかった。俺の『何か』ではなかった」とか、妻への態度とか、「10年前? さてねぇ知らねぇな。若ぇの、悪く思うなよ。昔のことを懐かしんでちゃ、ラム酒の味が不味くなるんでな」とか、過去の経験を宝として懐かしむんじゃない態度をとっている。だから、宝はいつもあるんだけど、手に入れた瞬間にもはやそれはそうではなくなって次に行きたくなる。
ただひたすら現在とあしたに命を燃やす姿勢が宝なんだな、と言う出崎統の作品から匂って感覚が良い。
そうやって今を生きているシルバーは美しいのだが、シルバーだけでなく、他の、それなりに生きている仲間たちも、命を落とした仲間たちも、やはりそれぞれの人生はそれぞれなりに精いっぱいやった結果だから、それはそれで美しいのだ、というバランス感覚もある。
ジムが再会したシルバーに執着せず、彼は彼なりの納得をして別れて、終わり、自分の妻を見つける、と言うのもヴィルドゥングス・ロマンとして良い。おとぎ話として、結婚で終わるのは良い。
だが、偉く別嬪で、とても良い女の妻を持っていたシルバーとジムが相似形であると言う事で、「結婚しました。めでたしめでたし」では終わらないだろう、という循環構造(永劫回帰)の物語にもなってる。
ジムの人生もシルバーの人生もまた、続くだろうし、同時に、グレーの話で描かれたように続かなくても、それはそれで尊いんだ、というような。
この、いろんな名台詞、カッコい言葉もありつつ、いろんな要素があるから「正しさ」明示しないようになってる。押しつけがましくない。それでも「ああ、良い作品だった」と匂いを感じさせる所が、実に出崎統の名作だなあ、と。
「何か」は分からないけど、何かに向かって何かをするという。ただ一つの憧れだけはどんなときにも消せはしないさ。
粋だねえ。
金銀財宝、人生経験、正義、家族の温かさ、個人の情熱、等、色々な物を相対化しているんだけど、同時にそのどれもがそれなりに価値がある、としている。その上で「ただ一つの憧れ」というただ一つの、一つだけの「何か」という物へ向かう、意志の力を美しく描いている。
- 宝島メモリアル「夕凪と呼ばれた男」
蛇足かもしれない。だが、白鯨伝説へ続けようと言う出崎統のその時の現在の息吹が感じられて、良かった。彼はもう死んでしまったけど、確かに出崎統が居たんだ。居たんだよ。
「夕凪と呼ばれた男」をジムが追いかけるだけだと、ジムがシルバーと言う過去に捕らわれてしまうと言う事で、物語のテーマに反してしまうんだけど、このOVAはたった7分なのに、この中で6年が経過していて、ジムもその中でジム自身の人生をきちんとやっていたんだ、と言う事が感じられて良い。
また、シルバーの子がシルバーの「何か」だったのか?どうか?ということとか男の旅は続くのさ・・・。と言う事など、いろんな連想が沸いて来て美しい。
- シルバーの妻
この最終回にしか出てこないシルバーの妻がすごく良い。演出的にもカットインの入り方だけで重要人物だと思わせる絵が良い。
夕日を背負っているのが美しい。夕日についてはシルバーは船長に反乱をおこす直前、10話で夕日を睨めつけながら、
「俺も好きだったよ。おめえくらいの時はな。
でも、今はあんまり好きじゃねぇ。
派手に人の心を誘いやがるが、それもほんの少しの間だ。
すぐに姿を隠して夜になっちまう。
あの美しさをやたら信じちゃいけないんだ。
夕陽は裏切りの名人だ。
あっという間に人の心を夜の闇に突き落としちまう。
大人になってからやっとわかった。それから夕陽が嫌いになった。
わかっていてもよ、それでも野郎は美しい。
だから負けねえようにさ、俺の勇気を試してるのさ」
と、ジムに語った。夕日を背負って現れたシルバーの妻が、夜陰に紛れてシルバーと逢瀬をする所など、色々な連想を得られて、美しい。シルバーの妻はGenjiの朧月夜の君のように「あんたは、待っていたって帰ってくる人じゃないから」と言って来る。これも出崎統的に美しい。
シルバーと妻の関係はちょっとしか描かれないし、そのくせ長い時間や距離の行間を感じさせるから、正しいメッセージは考察しようもない。だが、正しさはあまり出崎統作品では重要ではないんじゃないかな。ただ、あった事を美しいと思う事があれば、それでいいのではないかな、と。アニメだしね。見て、美しいとか思えれば、それで良いんだ。
うむ・・・。
- 原作との差異
青空文庫にあったので読んだ。
図書カード:宝島
アニメを見終わった勢いで昨日、これを5時間くらいで読み終わってしまった。やはり、アニメの方が面白い。子供向け雑誌『Young Folks』誌上にて、1881年から1882年にかけて連載されていた明治時代の小説である。原作を読むと、時代設定はフランス革命の十年程度前の18世紀後半のようだ。
アニメは出崎統の原作改変手腕が強く「原作を大胆に解釈し直し、原作では敵役であるジョン・シルバーを「男の中の男」と位置づけ真の主人公とした」と、言われるが、原作のシルバーも全くの悪の権化とか屑と言うわけではなく、魅力的な悪役だと思えた。
シルバーがジムに自分の若いころを重ねて、ある意味で優しくする所(そのために部下に黒丸を突き付けられる所)などは原作にも登場した場面である。また、海賊としての本性を現す直前のシルバーが肉焼親父として親しみやすくユーモアと教養を持った好人物として振る舞っているのも、原作でもあった所だ。
そういうわけだし、原作も今日に至るまでいろいろな映画の題材になる程度には魅力的な名作物語と言える。ただ、アニメ版の方がアニメーションと言う娯楽的な媒体であるので海の生き物との戦いや嵐や砲撃や銃撃戦のスペクタクルシーンが増量されているし、心理的なイメージシーンや暗喩もアニメにはある。また、原作はジムとリヴシー先生の一人称によって描かれた一人称小説で、航海日誌の体裁を取っているがために、シルバーが独立して悩んだり戦うシーンが無い。そのため、シルバー陣営とトレローニ陣営の情報戦と言った面でもアニメの方が客観的に描ける分、駆け引きの面白みがあった。
原作からの大きな変更はそのような表現媒体の違いだけでなく、精神的な雰囲気も違う。
ジムの父親が死んだのはアニメでは本編が開始する1ヶ月前となっているが、原作ではビリー・ボーンズのために哀れに死んだと言う事になっている。これでは父親が情けない宿屋の亭主という雰囲気で、アニメでの誇らしく、ジムの一つの目標であった海の男の父親とは違う。原作版では、海の男の冒険を引き立たせるために、陸で商売をしている父親を情けないものとして描くという構造か。しかしながら、海賊たちもアニメ17話でジムに攻撃される事もなく、「酒と悪魔に飲まれたぞ」という歌詞の通り、アルコールによって簡単に自滅してしまっている。アニメ17話は、イノセントな少年だったジムが海賊を攻撃する事によって、海賊が狂気に陥りジムの攻撃性が問題視される、というような重要な場面だったのだが。(もちろん、原作ではジムとシルバーが協力して船を動かす18話のシーンもない)
この点、原作では「海賊は嘘つきで、アルコール依存で、乱暴で、すぐに殺し合いをして、死ぬ危険な者」と言う風に描かれていると思える。この点では「カリブの海賊」をファンタジックに描いて読者の好奇心、興味を引く事には成功していると言える。アニメ版ではもう少しシルバーに踏み込んでいるために、海賊たちもただの荒くれ者ではなく、ある意味においては夢を追っている男たち、と言う風に描かれている。この辺は身分制度や差別意識が大きかった原作の時代のイギリスと、20世紀の日本と言う文化的風土の違いとも思える。もちろん、アニメにおいても海賊たちは死んだりするんだが。
原作は明治時代の小説なので、人の命が結構軽く、その死があっさりと描かれている。また、原作ではジム自身も結構性格が悪く、海賊たちに意地悪な攻撃をしたりしている。その点で言えばアニメの方が敵であれ味方であれ、その死には一定の厳かさや命が燃え尽きると言うロマンチシズムが込められていた。ジムの性格もアニメでは非常にさっぱりしている。
原作とアニメの一番の精神的な差異と言えば、これは作品のテーマの違いなのだが、原作にとって最大に重視されている価値観は「正直さ」「忠実さ」と言った「規範意識」であり、その根底にはキリスト教がある。
聖書に対する呪術的な取り扱い、死後の世界で救われるかどうかを重視する記述が原作にはある。ただ、原作においてはキリスト教的価値観を述べるのが主眼であるという記述でもなく、物語の中心は宝をめぐる冒険である。キリスト教的価値観はこの物語のテーマと言うよりは、この物語が描かれた当時の時代の常識として、特に作者の意図を含まずに挿入されたものであろう。(それゆえに、21世紀人の日本人の私からは異物感を感じられる)
原作では神や、それによって保証される「忠実さ」「誠実さ」に従う事を正義としている。誓約を果たす、約束を守ること事を重視すると言うキリスト教文化圏の意識が非常に強い。ゆえに、原作のシルバーがなぜ悪いのかと言うと、偽証をしたからである。
対して、アニメ版は、これまでも述べたように「世間のルールよりも自分の意志を貫いたかどうか」「実際の宝よりも自分の経験」「経験と言う過去よりも常に現在に魂を燃やす事」を重視する出崎統のロマンチシズムがある。
アニメ版のシルバーは「偽証すらも自分の夢をかなえるための道具として使う男」として肯定的に描かれているので、キリスト教道徳としては、原作の倫理観とは全く正反対のものになっている。これはすごい。
アニメ版では、キリスト教の描写は「常に聖書を持って予言的な事を言うアブラハム」を「うわごとを言う奴」と言う風に描いているし、ジョン・シルバーに「俺は神も悪魔も信じていねえ」と言わしめているので、19世紀の原作、あるいは作中の18世紀の近世的な自意識に比べると、アニメ版の登場人物の精神構造は非常に近代的だ。
つまり、アニメ版はフリードリヒ・ニーチェ以降の「神が死んだ」という20世紀的な価値観と言える。
人間は、合理的な基礎を持つ普遍的な価値を手に入れることができない、流転する価値、生存の前提となる価値を、承認し続けなければならない悲劇的な存在(喜劇的な存在でもある)であるとするのである。
だが一方で、そういった悲劇的認識に達することは、既存の価値から離れ自由なる精神を獲得したことであるとする。その流転する世界の中、流転する真理は全て力への意志と言い換えられる。
いわばニーチェの思想は、自身の中に(その瞬間では全世界の中に)自身の生存の前提となる価値を持ち、その世界の意志によるすべての結果を受け入れ続けることによって、現にここにある生を肯定し続けていくことを目指したものであり、そういった生の理想的なあり方として提示されたものが「超人」であると言える。
アニメ版ではキリスト教の描写は薄いが、その代わり「国家への忠誠」という物がスモレット船長、リブシー医師にはあり、宝の帰結もそれに従ったようになっている。もちろん、原作にも国家民族意識は描かれているし、原作では現実のイギリスの戦争の歴史を引用する具体例も出ている、。
ただ、ジョン・シルバーは国家への忠誠もない。もっと、海の男として全世界の海に対峙する、個人として描かれている。そして、シルバーの「大切な何か」はいつも流転していて、普遍的な価値は手に入らない。だが、シルバーは「力への意志」を持って人生に立ち向かっていく。と言う事で、超人的。ニーチェの言う所の超人と言える。
そう考えると、アニメの宝島は主人公が社会に出て成熟する事を結末とする教養小説とは、正反対の個人主義的物語とも言える。
キリスト教文化圏において、神が死んだ時に大きな物語が終わったんだろうな。日本においては90年代にバブルがはじけて、右肩上がりの経済成長が終わったあたりで「大きな物語がなくなった」と、言われているのだが、個人主義とか個の意識が勃興した20世紀以降、大きな物語は崩れていたんじゃなかろうか。というか、そんなものは最初から幻想だったのだ。
BSアニメ夜話の新世紀エヴァンゲリオンの回で、そのような会話があった。
藤津:いまの滝本さんの成長するでちょっとさっきのシンジの成長の話で思ったんですけど、
エヴァって成長してもどこ行くかわかんないんですね、あの世界だと。
アムロって一応戦場があって、社会があって、一応がんばってる大人がいるんで、
そこの一員になる、成員になるっていうことで、大人のイメージがあるわけですけど、
エヴァって大人って冬月とお父さんしかほとんどいなくて。岡田:あの世界に大人はいないです。
藤津:他はほとんど大人や一般社会みたいな描写はないんで、第三新東京市も結果的に人のいない街なので、
エヴァってあの環境をシンジが卒業したときにどこいくかっていわれたときに、小谷:ネルフに就職?
藤津:みたいなことしかなくて、それが見えないから、成長させようがない構造に最初からなってる気はちょっとしているんです。
BSAjébuV¢IG@QIv
そういうのは1995年のエヴァではあるんだけど、1978年のアニメ宝島においても、あった。
(庵野秀明はナディアの島編を作ったり、おにいさまへ・・・を評価したり、ふしぎの海のナディアのラストが宝島のアニメのラストにそっくりだったりしたので、宝島も見ているオタクでしょう。)
1882年のイギリスの原作を1978年に日本人がアニメにする時に、キリスト教的な規範意識を除外したように見える。むしろ、原作では悪として描かれた、規範的な所を外れるシルバーこそ、魅力的なんだ!という風に意識改革した出崎統のロマン主義を感じる。
エヴァンゲリオンの「大人」とか社会の問題なんだけど、宝島においても、ジムは一人前の船乗りに成長するのだが、男の中の男のジョン・シルバーが「俺の『何か』」を見つけられずに放浪している所や、グレーの帰結で描かれたように「国家社会が正しいとも言いきれない」という問題提起もしている。
「成長して社会の構成員になったから安心」というような小さな成熟を否定するわけではない(かもめのパピィの帰結は肯定的だ)が、アニメ宝島はそれをもう一つ乗り越えた所の、家族とか富とか国家とか神とか、そういう次元を飛び越えた所にある、「俺の『何か』」を目指しているように見える。
だが、それは非常に哲学的な命題であるにも関わらず、出崎統の生命力を感じさせる演出は理屈っぽい所に行かず、「俺の『何か』」「俺の『宝』」は「冒険のロマンだ!」として、理論ではなく情感でまとめている。
これがすごい。
ロマンだ。(いわゆるロマン主義の理論とは違うかもしれない。むしろ、アニミズム的な生命力)
「経験が大事なのか?」とか「その経験を捨てて未来を見ているだけでいいのか?」とか、理屈を考えたら切りがないんだが、それはそれとして、「俺たちはまだ飛べるんだ」と、生き続ける。
ロマンだ。
生命の情感こそ、出崎統作品であり、その高揚感は僕の孤独な魂を慰める。
白鯨伝説に続く!
だが、次は途中だったおにいさまへ・・・を見ます。