玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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ニュータイプを生むのは宇宙ではなく毒親とクソ環境

 この件は先日、先月?先々月?に無料で読める感じだったwebコミックサイトのコミックデイズで公開されていたK2というスーパードクターKの続編萬画に登場する和久井譲介という(色々な条件があって)両親に捨てられたというか孤児になって、孤児院だとかドクターKの村とかを転々としていたキャラクターについて考えていたことなのだが。


「ニュータイプとは観察力と洞察力であり、その根底には生存の不安がある」


 ということです。


 K2の和久井譲介が他人の心理を操ったり、医術の勉強で才能を開花させたのも、「幼いころから人の顔色をうかがっていなければ生きていけなかったから観察力が鍛えられた」という理由らしい。
K2(41) (イブニングコミックス)


 そう考えると、機動戦士ガンダムのアムロ・レイがニュータイプになったのも、まあ、そういうことかなぁと感じられた。


 宇宙に出たから人が進化する、という理屈は(設定のブレがあるにしろ)ララァ・スンが地球のインドでシャアに拾われたという時点で矛盾している。Zガンダムではオールドタイプのようなヤザン・ゲーブルもレコア・ロンドを幻視しているし、Vガンダムではウッソやシャクティも(幼児期に宇宙にいた可能性はあるが)、地球育ちのニュータイプである。


 なので、ニュータイプの条件としてよく言われる「宇宙に適応する」というのは、必ずしも当てはまってないように思える。さらにいえば、サイコフレームやらGN粒子やらパーメットやら架空の物質の影響というのも、富野由悠季のニュータイプ観とは違うように思える。


  • アムロ・レイの親

 テム・レイはガンダムの開発者だし、ガンダムで戦争を終わらせることでアムロのような少年が戦争に巻き込まれることを辞めさせようとした人格者だったが、仕事に没頭するあまり、アムロとは別居がち。そのガンダムによる勝利と平和への思いはアムロ・レイ本人に伝わらないまま、彼は酸素欠乏症になった。酸素欠乏症で人格が変化した父はアムロに時代遅れのメカを押し付け、戦争しろと焚きつける。


 アムロの母親も自分の都合で宇宙にテム・レイとアムロと一緒に引っ越すことを断り、地球で別居した。一年戦争中に再会したアムロに対して、戦闘して生き延びようとする行動を叱責するが、自分は他の男に庇護されて生きていく。そして、アムロは両親とも別離する。


 アムロは普通の人が幸せとして重視する両親の愛情を受け取らずに不安定に育ったと言えるでしょう。(僕も成育歴が普通の人ではないので親の愛情を実感している人の精神状態は書物などの伝聞でしか知らないのだが)
第13話 再会、母よ…



 Zガンダムのカミーユも両親の愛情の欠乏と不安という成育歴は、だいたいそうだと思う。


  • アムロの異様な観察力

 自殺する直前の井上大輔さんがガンダム20周年を記念して1999年に出した井荻麟作詞のガンダムのトリビュートアルバム 「REVERBERATION in GUNDAM」でのアムロ・レイのキャラソン「アムロ・リフレイン」でも、アムロはモビルスーツの計器で観測したデータより直感を信じる、みたいな歌詞だ。

REVERBERATION in GUNDAM


 そもそも、アムロは第一話の時点で、ジーンのザクがサイド7で大暴れしているので退避していた防空壕のようなカプセル(非常時には宇宙に放出されるのだろうか?)の中で、他の大人たちがおとなしく座っていたりおびえ切っていたり、「隕石だ」とか言うなか、アムロは「こ、この振動の伝わり方は、爆発だ」と目や耳ではなく体感として敵襲を察知している。この時点でアムロはすでにニュータイプなのだが。危機的状況において正常性バイアスで安心せずに、むしろ不安を原動力として全身の感覚を鋭敏にして状況を把握し、生き延びるための行動に出る。


 アムロが視聴覚でもサイキックでもなく、ましてやマシーンの観測データではなく体感として状況を把握するのは、他にもランバ・ラルのグフのシールドと打ち合った時にその打突振動を感じて「こ、こいつ、違うぞ。ザクなんかと装甲もパワーも」と瞬時に敵の戦力を把握する場面でも見られる。武装が違うとか外観が違うとかではなく、グフの装甲材質と動力を一回かち合ってガンダムの腕を通した振動だけで感じるというところに、アムロの突出したセンスがある。


 これもおそらく、両親の愛情に乏しく、お向かいに住んでるハヤト・コバヤシ一家に親の仕事のせいで嫌われて地域で孤立しがちで、周りに気を使っていなければ生きていけなかったがゆえに磨かれたアムロの神経質な観察力、洞察力の発露だろう。


 また、初登場時のアムロは避難警報を聞き逃して趣味のマイコンの製作に没頭していたし、ランバ・ラルと出会う直前のアムロはイセリナに銃口を向けられたことにショックを受けて、やっぱりガンダムのコンピューターの予備の部品を工作してボケーっとしていた。


 ※追記
アムロについてマイコンの修理や電気回路制作というのは、剣道やカブトボーグの素振りのような「疲れている時でもできる日常的な基礎訓練」の習慣なのかもしれない。酸素欠乏症になったテム・レイも失敗作だが電気工事していたし。コンピューター時代の「修行描写」なのかも。


 ランバ・ラルのグフと初戦闘する前のアムロはリュウ・ホセイに「新兵がよくかかる病気」と言われる厭戦状態になっていたが、ブライトがブチ切れてリュウとセイラに無理やりガンダムに載せて射出しろって言う荒療治をした。
 で、アムロはぼんやりしていたけど、ランバ・ラルという強敵と打ち合った瞬間にギアチェンジしたのか、一気に戦闘モードに復帰した。
 なので、ランバ・ラル本人はドズル中将の命令でガルマ・ザビの仇討ちとしてホワイトベースを狙ってきたけど、彼が契機になってガルマ戦の後に腑抜けていたアムロに喝を入れて向上心を抱かせる結果になっている。


 長谷川裕一先生の萬画の「逆襲のギガンティス」では、さらに進化したニュータイプは能力のオンオフができたり指向性を持っていたりすると描かれていたが、アムロも普段は割とぼんやりしている。それはたぶん、常に気を張っていると普通に神経ストレスで疲弊して潰れるからだろう。カミーユはつぶれた。
(Zガンダムの時点のアムロが「背中にも目をつけるんだ」と言ったのは視覚ではなく、背中の振動情報も知覚しろという意味だろうか?)
(ロンド・ベル時代のアムロは正規軍人になったため、殺しのプロになってしまい、一般的な日常生活には不適合を感じていると小説版で。まあ、その割にはハイ・ストリーマーではネオ・ジオンの下部組織を調査している時に普通に格闘戦で負けたりしているけど。Zでもルオ商会のボディーガードにボコボコにされていたし。じゃあ、シャア・アズナブルはどれだけ弱いんだよって)


 なので、アムロは生き死にがかかった修羅場において、危機を察知して感覚が鋭敏になって生存戦略をする。
 これもやはりアダルトチルドレン的な、家庭環境が危険な場合に感覚が鋭敏になるけど危険度が低い場所では周りからぼんやりしていると言われがちなタイプだ。
 これは割と以前にどこかのwebサイトか書籍で読んだことなので信憑性は低いのだが、発達障害の場合によっては「危険な状態で一般人より判断力が鋭敏になる」という特性があるという説もあるらしい。


 また、アムロは第34話「宿命の出会い」ではモビルスーツ越しではない生身では初対面のシャアをシャアだと認識している。シャアもアムロのことを何となく感じている。
 まあ、シャアはサイド7やジャブローに侵入したりセイラに目撃されたりしていたので、「赤い軍服を着た奴はシャア」という情報をアムロが得ていた可能性はある。
 ともかく、アムロは観察力と直感に優れている、ということだ。


  • 人と同じことをしない

 人と同じことができないというのも、発達障害の症状の一つだが。第一話のアムロ・レイの行動も他の避難民がカプセルに避難していたり行列をなしてホワイトベースに逃げ込んだり、という群れを成す行動から外れている。


 退避カプセルから出て、アムロが「ホワイトベースに避難させてもらうように頼みに行く」と出て行って、その後、ザクの暴れ方が増したし、軍人の支持も出たので、他の避難民もホワイトベースに向かう。


 他の避難民がホワイトベースに向かっていたけど、アムロは父を探してたまたま出あった矢先に戦死した軍人が持っていたガンダムの説明書を読みふける。
 これはアニメファンの間でもアムロがガンダムを操縦する段取りと解釈される場合もあるが、劇の雰囲気としては「大勢の人と違う行動をする」というのが伝わってくる。


 また、アムロ・レイは説明書を持っていた人が有線ミサイルの流れ弾で死んだのを見て「死んだ…」とショックを受けていた。後年、ナナイ・ミゲルがアムロについて「優しさが強さになると思い込んでいる」と言っていたけど、アムロが優しい人間なら、目の前で死んだ人が持っていた極秘文書を無駄にしたくないという気持ちが働いたのではなかろうか?


 まあ、普通の人ならそのファイルを他の軍人に渡して終わりだけど、アムロは何となく中を開いたらモビルスーツ・ガンダムの説明書だったし、それに父親が関与していることも知っていたので読んでしまう。
 これは危機意識としては少し油断しているようにも見えるけど、アムロの中のどこかで「モビルスーツに対応するにはモビルスーツ」という直感が働いた可能性もある。


 そもそも、第一話の段階ではジオン軍も連邦軍も「モビルスーツ同士の交戦」を知らないので(ORIGINでは過去編を盛り上げるために旧式モビルスーツの戦闘がありますが)。
 テム・レイもガンダムでザクと戦うのではなく、ガンダムをホワイトベースに搬入するという初期の任務を全うしようとする。


 また、アムロが避難民の列から外れていたから、それを呼びに行ったフラウ・ボゥは偶然、直撃を免れて母と祖母が死んだのに生き残る。
 で、フラウは娘としての役割と言うか常識と言うか、母の亡骸にすがって泣くのだが、アムロは常識にとらわれないので、ビンタしてフラウに喝を入れて激励して逃げ延びるように言い、自分はガンダムで戦う決意を決める。


 というわけで、ニュータイプというのは後年の作品でサイキックとかテレパシーとか霊界通信の側面が強調されるようになってきたけど、初期段階では「常識に縛られないことをする若者」というくらいの意味だった気がする。


 サイド7の連邦軍人も「ホワイトベースとガンダムが完成すればジオン公国を打ち砕くなぞ造作もない」と連邦軍の国力を背景に自信を持つが、ガンダムが未完成状態で初期の予定にない奇襲をされたら全滅する。
 機動戦士ガンダム、あるいは富野作品や富野監督の生き方では、既成概念に安心していたら油断して死ぬ、という世界観があるようだ。


 で、その別側面がシャア・アズナブルなのである。(初期プロットではシャアはすぐ死ぬ説とかもあったらしいが)
 最終回でシャアはアムロと殺し合った後に「同志になれ」と言ったり、逆襲のシャアでもシャアは「似すぎた者同士は、憎み合うということさ」とアムロについて語ったり、まあ、単なるライバルキャラというのを超えてシャアはアムロと同格のキャラクターとして描かれている。富野喜幸監督が書いた朝日ソノラマ文庫での初代ガンダムの小説版は途中からシャアの話になるし、Zガンダムのエンディングではカミーユより上にクレジットされていたし。
機動戦士ガンダム I (角川スニーカー文庫)


 ゲリラ掃討作戦で弾薬が減ってるのに、サイド7にV作戦の基地があると察知して攻撃を仕掛けたり、シャアもアムロと同様、あるいはそれ以上に常識にとらわれない先読みの行動をしている。ララァを見出してニュータイプを戦力にしたり。


 シャアはアムロより少し大人なので「若さゆえの過ち」を感じてもいる。
 それに、シャア・アズナブルは正体がキャスバル・レム・ダイクンというジオン・ズム・ダイクンの忘れ形見だ。その正体を隠してジオン軍に入隊して出世して親の仇のザビ家を殺そうとしている。なので、アムロ・レイが両親に愛されなかったのとまた違う、あるいはさらに過酷な状況で、「めちゃくちゃ周りに気を使って注意深く振舞わないと死ぬ」という環境で生き抜いてきた。


 ララァ・スンがなんでニュータイプになったのかはよく分からんが、彼女も年齢よりも大人びているようになるような少女売春をして生き延びたという裏設定もあるらしく。
 子ども向けロボットアニメに娼婦出身でライバルのシャアと三角関係になる女を出すのはかなりギリギリアウト。ララァもまた一般社会の枠の外の外道として注意深く生きてきたのだろう。



 そう考えると、デニム曹長の命令に違反してサイド7に攻撃を仕掛けたジーンもニュータイプなのでは?とも思えるが、ジーンは「シャア少佐だって戦場の戦いで勝って出世したんだ」と、「先行事例」に沿うという行動をしているので、富野判定ではアウトです。ガンダムが立ち上がってパイプをちぎられて負けが込んだらデニムの言うことに従うようになるし。
 シャアはルウム戦役などでモビルスーツを使った新しい戦法や奇策を繰り出して出世したが、かと言って新兵がシャアを真似てたら勝てるというわけではない。


 これは富野由悠季監督の現時点での最新作のGのレコンギスタでもわざわざセリフにされていることだが「自分で感じたことではないこと」は評価が下がる。
 富野監督もテレビアニメ黎明期の虫プロで強引に演出家デビューしたり、退職したり、やっぱり頭を下げてアニメ業界に戻ったり、先例のない世界で自分の直感とその時の運で七転八倒した挙句、今の文化功労者としての地位にたどり着いた。でもまたヒミコヤマトとかいう怪しい企画をしている。ヤマタイカと区別できるの????


 話を機動戦士ガンダムに戻すと、第一話の地球連邦軍のモビルスーツ以前の慣例に沿った戦法は負けるし、シャアを真似たジーンも負ける。周りの人と同じ行動をしていれば助かるだろうと舐めている避難民も死ぬ。慣れていたゲリラ屋の戦法にこだわったランバ・ラルも補給を受けられなくて死ぬ。息子のアムロには純真無垢な子どもでいてほしいと思っていたカマリア・レイも捨てられる。


 近年の富野監督も言っているが、いや、昔からずっと言っているのかもしれないが、慣れ仕事やパターン、先行事例、常識、役割に従う人は大体、富野作品では負ける。


 新しいシャアのような戦法をジーンのようにまねようとしても、実力が足りないからダメなのか、あるいは状況は常に変化して新作もすぐに陳腐化するということなのか。自分で感じてそうしようと(無意識にでも)思ったこと、というのが富野作品では勝ちの条件になりやすい。


 これは閃光のハサウェイのタクシードライバーとの会話でも顕著だ。今日を生き延びたから明日も生き延びられると思い、明後日のことを考えない、という凡人と、未来の事を憂いているマフティーは違う。
nuryouguda.hatenablog.com


 ただ、大衆はそういう生き方の方が楽なんだろうという面も書いてある。しかし、富野由悠季さんの小説版ではガウマンのメッサー対ペーネロペー&グスタフ・カールの夜戦の翌日、「連邦軍の方が市街地に攻撃をしていた」という世論が、アニメ版では最近の世相を反映したのか「マフティーは糞テロリスト」という風に変えられてしまっている。これ、地味に第2巻以降の親マフティー組織の増大という展開と齟齬を起こしてしまっていないか?というか、閃光のハサウェイのアニメ化は待望されていたし、第一部もそれなりにヒットしたと思うけど続報を聞かない…。ヒミコヤマトの話は富野監督が勝手に言っているけど…。


「テロは絶対悪」という固定観念が現代日本の色んな事件を反映したポリコレかもしれないけど、たいていの歴史的革命にはテロもあったしなあ…。まあ、マフティーのテロは最終的に…なんだけど…それを俯瞰せずにテロが描かれているというだけで規制されるというのが昨今の映像業界なのかもしれない。これも既成概念だ。



 しかし、そのために常に自分でアンテナを張って感覚を鋭敏にして、自己責任で自分の感覚で既成概念とは違う自分の行動を新しく生み出す、という生き方も割としんどいと思う。
 それは、逆襲のシャアでクェス・パラヤが「あなた、人の魂は地球の重力に引かれるって言ったでしょ。あれ、あたしの実感なんだ。でもさ、それが分かる人って、不幸な人じゃないかって、気になったの」と言っている。
 つまり地球の重力とは先行事例や常識や周りの空気です。たいていの人はそれに引かれて行動している。アデナウアー・パラヤもそういう官僚の常識の中で出世したのだろう。(80年代には愛人を持つのも一つの出世のステータスだったらしいし)でも、そういう生き方と自分は違うと思って、自覚的に違う道を行こうと思う人は、人の道から外れた人で、不幸なのかもしれない。


 そもそも、たいていの人は宗教や慣習や文化も親から受け継いで、それを自分の信念にして生きている。宗教戦争とかも、おそらく根底では親や血族を侮辱されたという怒りが主だろう。だって神様は本当にはいないので。
 でも、親の愛を信じられず、自分は親とは違う孤独な存在だと幼少期から周りを注意深く観測して生き延びる子どもというのは、ちょっと変ではある。
 まあ、ネタバレをすると僕の両親も僕の幼少期から不仲だったり事業に失敗したりして親の会話の端々から一家心中の危機を僕は感じていたので、富野作品のようなクソみたいな家庭環境の方が親が実際に自殺する前から肌に合っていた。
 今は普通の家庭を見るだけで精神的にしんどくなるので、ドラえもんもクレヨンしんちゃんもサザエさんも見れなくなった。


  • 安心に従う全体主義

 ジョジョの奇妙な冒険の悪役のDIOは不幸な家庭に育ったが、人が生きる理由を「安心するため」「天国に行くため」と定義している。
 それに対する黄金の精神は未開の荒野を自ら切り開くことらしい。(ジョルノ「『覚悟』とは暗闇の荒野に‼進むべき道を切り開く事だッ!」)


 機動戦士ガンダムのギレン・ザビも恐らくはニュータイプである。(モビルスーツに乗って戦闘をしたり超能力は使っていないのでニュータイプっぽくないけど)
 ギレン・ザビはコロニーは落とすしコロニーも潰すしコロニーレーザーも作るしそれで親殺しをするという、とにかく既成概念や常識に外れて新しいことをしている外道である。
 (しかし、彼自身はアムロやララァのようなニュータイプ戦士は認識できてなかった面もある)
機動戦士ガンダム ギレンの野望 ジオンの系譜


 ギレン・ザビ自身は常識にとらわれないIQ240という設定の天才である。
 しかし、ギレン・ザビがガルマ・ザビの国葬で言った演説は、「ジオン公国の戦争目的が正しい」「我々の正しい戦争を神が見捨てるわけがない」と国民に対して正当化する理由の概念を与えている。(ギレン・ザビはおそらく、神を信じていないだろう)


「ガルマは、諸君らの甘い考えを目覚めさせる為に死んだ!」「諸君の父も兄も、連邦の無思慮な抵抗の前に死んでいったのだ!この悲しみも怒りも、忘れてはならない!!それをガルマは、死をもって我々に示してくれたのだ!!」と、死者の死という本来は個人的なものに意味を与えて、それを戦争に利用している。


「我々は今、この怒りを結集し、連邦軍に叩きつけて初めて真の勝利を得ることができる。この勝利こそ、戦死者全てへの最大の慰めとなる。国民よ立て!悲しみを怒りに変えて、立てよ国民!!ジオンは諸君らの力を欲しているのだ!!ジーク・ジオン!!」と、肉親の死に対する悲しみという自然な感情から来る家族愛という既成概念を戦意高揚に利用する。
 そして、ギレン・ザビに吹きこまれた既成概念に従っている兵士はアムロたちに殺されるのだが、ギレン・ザビは部下が死んでもなんとも思わない。


 アムロやシャアは自分で感じたことを理由に、自分の行動で戦う。


 対して、ギレン・ザビは他人に自然にそうするのが正しいような常識を演説で感じさせて、他人と言うかジオン公国の軍人や臣民に行動させて戦わせる。
 その点で、ギレン・ザビはパプティマス・シロッコタイプの、自分で動かず他人を戦わせるニュータイプなのだろう。(パプティマス・シロッコは元々は地球連邦軍の外側の木星船団出身の外様なので微妙にティターンズの全部をまとめきれなかったのだが)(まあ、ギレン・ザビの演説は割とナチスの引用だし、Zガンダムでは同じことをやっても古臭くなるし、軍閥の内紛やら軍需企業の要素を入れたんだろうけど)

  • 進化についての追記

 しかし、不幸な境遇で不安を抱いているからこそ、「このままではまずい」と生存本能を働かせて、安心している人よりも努力したり工夫をしたりするのがニュータイプなのかもしれない。
 これは生物の進化の歴史でもよくあることで、弱めの好気性細菌が真核生物細胞に逃げ込んだらミトコンドリアとして共生したり、乾季では川の水が干上がるような過酷な地域に追いやられた弱めの魚が肺魚となって陸上生物の先祖になったり、森から追い出された弱めのサルが人間になったり、「ダメな環境に置かれた弱者が仕方なく生き延びるため」というのが進化を促す面もある。(と言うか進化しなかったものは大体絶滅している)(今までの地球の生物の99.99%は絶滅しているらしい)


  • 富野監督と僕の問題意識

 ちょっと時間をかけて、こういう意味の分からんしタイミング的にも唐突な初代ガンダムトークを書いたのは、富野由悠季監督のインタビュー記事をプレゼントされたからだ。(K2を読んで思い浮かんだというのもあるけど)
 まあ、僕は異常なオタクだけど、人から唐突に富野監督のお言葉をプレゼントされたら
「お題に答えた文章を書くか」という妙な義理堅さを出す。
 


 有料記事なのでどこまで引用していいのかわからん。


 同時に、ガンダムエースなどほかの雑誌媒体のインタビューでも、最近の富野監督は似たような話をしている。


 ものすごくざっくり要約すると、前述のアムロとシャアやギレンの話とつながっていて、
「このままでは地球はもうダメです。年寄りや偉い人の言っていることに従っているだけの人は真っ先に死にます。だから自分で考えて新しいことをやれ」
 ということです。


 思えば、機動戦士ガンダムは「リアルロボットアニメの先駆け」と言われた。それは事実である側面もある。
 しかし、同時に、マーケティングやその放送時期の流行から海外ドラマの「コンバット!」や松本零士などの戦記物の文法をトレースしていたという面もある。
 スーパーロボットで宇宙人や恐竜と戦うアニメと違って、軍事的戦争としてのガンダムはリアルだと言われる。
 しかし、それはそれで「軍事的戦争の戦記の歴史という既成概念」というオールドタイプ思考による受容なのではないだろうか?
 ガンダムファンはたまに「サイコミュやニュータイプに頼らない、リアルで泥臭い本物の軍人が出てくるアニメを見たい」とか言う。それは、理解できるパターン、知っている様式の枠に当てはめて、その中に囚われているだけなのでは?


 だが、ドローンやらサイバー攻撃やら戦争を取り巻く技術も変わっているし、同時に戦争が起こる思想的背景や経済的都合も流転している。


 ミリタリーマニアという趣味は楽しいかもしれない。僕も工事現場で働く車とかカッコいいと思う。その延長で戦車や軍艦が好きという人もいるだろう。


 別の作品の話になるが、機動警察パトレイバーは逆襲のシャアや富野ガンダムを思想的に受け継いだ面もあると聞く。


 また、押井守監督がアニメ化した攻殻機動隊の原作では「死こそが現実」と脳に電脳コンピューターを入れた主人公が裁判で証言したりしている。
 確かに「死」や「戦争」は脅威判定が高い。なので、「死」や「戦争」、そして軍事やら兵器のスペック、政治的な敵味方の知識が豊富なミリタリーマニアは「現実に詳しい」と自己認識したり、平和を訴える人を「脳みそお花畑」と侮蔑したりする。
 しかし、それも太古から人間同士で殺し合って奪い合っていた人間の本能という既成概念に沿っているだけの、自動的な反応に過ぎないのかもしれない。


 なので、実は僕は押井守監督の「劇場版パトレイバー2」の後藤隊長の戦争についての長セリフはキャラにあってない気がしてあんまり好きじゃない。戦争について正しく理解しているから俺は偉い、戦争が起きたら俺は活躍できるのに、みたいなミリオタの感覚が好きじゃない。
(後藤隊長がハタハタを食べたがる回は好き)


 どちらかというと富野監督のファンとしてアマチュア同人作家からプロ漫画家になったゆうきまさみ先生の後藤隊長の「みんなで幸せになろうよ」という方が好き。
 ただ、後藤隊長が「警察の仕事はいつも手遅れ」というのは、富野監督の政治思想より一歩引いていて、「争いが起こらないように人間を進化させたい」というのが富野監督の考えなのだろうと思う。同時に、それはちょっと理想が高すぎるとも思う。


therace.jp



 先日のこの記事は公開されているので引用してもいいだろう。

富野:その最たるものがSNSでしょう。世界中の人と簡単に情報のやりとりができて意見を言い合うことができるようになった。しかしその結果何が起こったか。人類全体の知識レベルが上がったなんてことはなく、ただヘイトとフェイクニュース、ポルノだけが蔓延しているのが現実です。こういう道具を人類が使ってはいけない、という局面まできていると思います。しかしその警鐘を今の大人や老人たちが唱えていますか?全くしていません。特に若者を諫めるべき老人たちは「若い奴がやっていることは分からない」と黙ってしまっています。


 同じようなことを僕も先月末にブログに書いた。

nuryouguda.hatenablog.com


 しかし、高度に情報化された現代、そしてカルト宗教の組織票で総理大臣になった人間も単純な物理的銃弾で死ぬことが証明された現代では、「我思う我」以外の他人が存在するのか?あるいは尊重するべき相手なのか?
 ということが非常にあいまいになる。


 人間は対話することができず、コンピューターの性能が上がってもその情報は処理できず、敵か味方か、くらいの単純なことしかわからない。そして、味方が敵のような要素を見せると何もわからなくなる。



 そして、人は動物であり、常に同種のヒトと生存競争をしている、つまり、人を殺して相手の食い扶持を奪うことが「報酬」と「安全」につながる。どんな手段を使っても構わない。騙される方が馬鹿なのだ。むしろ、馬鹿は何も考えていないので人格権もなく、個人の顔や人生や価値観を知る必要もなく、鏖殺しても害虫駆除をした程度の罪悪感で済む。


 自分が何をしたらいいのかはわからないが、とにかく相手は間違っていると叫んでいると、それで似たような境遇の仲間を得ることができるし、気分も晴れるのかもしれない。同時に相手からは憎まれる。



 前回の記事の後に一日置いただけでも、戦争や事故の話題がTwitterに登ってきていた。
 みんな、自分の身分や境遇とは違う人間の生死は単なる新聞記事や笑い話やエンターテインメントだと思っていないか?
 まあ、それはTwitterだけの問題ではなく新聞が印刷されたころから、あるいは2千年以上前に4大文明が戦争を開始したころから変わらない人間らしさかもしれない。
 ともかく、人は自分以外には感情移入しにくい。痛くしなければ覚えないけど、他人の痛みを検知する能力は人間にはない。

nuryouguda.hatenablog.com

 お前たち人間は自分の境遇とは違う人間、違う意見を持ち、共感しにくい人間を自分とは違う存在として攻撃しようとしているだろう。そして、Twitterのブロック機能も嫌いな奴は見えなくする機能として使われる。(僕は自覚的な反抗として使っていますけど)


 生存と攻撃の戦略しかないんだよね。


 そして、似たような政治思想を持っているグループ以外はどんどん断絶していく。


(中略)


 政治や外交や戦争についても、自分が親近感を持っているものを擁護し、それと反するものは知能や理解や読解力や努力が足りないって切り捨てて馬鹿にして笑って楽しむのがお前たち人間なんだよなあ!


自分に対して敵対している、あるいは悪印象を持っている者たちについて「これこれこういうわけでこのようなおろかなことをしているのに違いない」と高度な類推能力を発揮して想像上の悪意と相手の欠落した点を書いているという風に、人類の敵の僕からは見えるって言うことね。
 そして、「相手の欠落している点に気づいている自分は賢いけど、相手は馬鹿なので自分の欠落に気づかない」と決めつけるのが最近のTwitterではやりの文法だ。


(中略)


 「馬鹿で愚かなあいつらと自分は違う」と言いながら、馬鹿で愚かな社会の同居人を助けることはせず、ただ「自分は(普通にまじめに勉強してきたマジョリティなので)馬鹿で愚かではない」と訴えて神か仏か天皇か官僚か組織か何者かに自分の優位性をアピールする人たちの酷薄で貧相なことよ。
 これは、思想的に右派でも左派でも変わりないよ。どちらも、自分の意見や境遇とは違う個人を馬鹿にしたくてたまらないのさ。

 なんか僕のブログをサンライズの社員やアニメーターも読んでいるという噂を聞くし、僕も富野監督にファンレターや13万円くらいするプリザーブドフラワーを送ったりしている(現在のサンライズでは京アニ放火やコロナ流行を受けて生花などの受け取りは拒否している)ので、富野監督が僕のブログを読んでる可能性はある。


 うわーーーー。クズでごめんなさいねーーーー。


 富野監督は色々と問題行動も起こしていたらしいが、今は天皇陛下から授与された文化功労者だし今もいろんな人と対談したりインタビューしたら注目される存在の有名人なので、僕みたいなクズよりは言葉遣いがきれい。



 僕はクズなのでクソみたいなことを勝手に書くけど。

therace.jp


富野:人間が種としてレベルを上げていくためには20世紀までの考え方では不可能でしょうね。例えば政治家も20世紀までの「政治的な政治家」では問題を解決できないからです。ではどうするべきか。ギレン(註1)ならこういうかもしれません「人類が革新するためには新しい才能を持った人々に『政治家化』してもらわなければならない」と。



富野:佐藤さんは「きちんと物事を見ていく」ことができるからそう感じられると思います。しかし同時に、この感性を育てる教育がされていない、という問題があるんですよ。それが教育の一番根本的な部分のはずなのに、今は子供たちにコンピューターを配って教育ができている気になっている。
佐藤さんが石を触って削っているだけで地球が今置かれている状態を感じ取れるのに、ネット上に溢れている文章をどれだけ読んでもそれを見つけ出すのが難しいです。佐藤さんが感じ取ったことを具体的に短い文章でパッと言うことは難しいから、佐藤さんは作品を通してそれを伝えている。芸術家は作品を用い、言語を介さないで世界中の人たちにメッセージを伝えます。しかしただ作品だけ見てそのメッセージが読み取れますか?だから読み取るための鑑識眼を育てていかないといけないし、そういう教育をしていかなければならないんですよ。
「きちんと物事を見ていく」、つまり「直視する」能力を身につけていかなければならないのだけど「直視する」という以外に、それを説明することができません。今は論破という言葉が流行っていますが、物事を直視できない人が百万語の言葉を羅列して相手の意見を論破しようとしています。しかしそれをやっている間に地球は滅ぶでしょう。今必要なのは芸術家や、地球からのメッセージを感じ取り「直視する」力を育てることだと思います。



―芸術家を政治家にしたらめちゃくちゃになってしまいそうです。


富野:それは20世紀までの考え方に汚染されているからですよ。「全く違うレベルのことを考えられる人を呼んできて政治をやってもらわないとならない」「そういう意識に切り替えないと地球が滅ぶというところに来ているんだ」という言説を広げていかないといけない時代になっているのです。
人はもう1ランクレベルを上げなくてはならないのだけど、今までの延長線上で考えていては絶対に上がれません。延長線を飛び越えるためには芸術家を政治家にするといったレベルの考え方が必要なのです。そしてそれを受け入れられる能力論や感性論を持つこと。それが「ニュータイプ」(註3)だと思います。それが理解できないオールドタイプの人はさっさと後に譲って引っ込むべきです。


 僕が「K2の和久井譲介やアムロは敏感に周りのことを観察している」と思いついたのは先月の事なので富野監督のおとといのインタビューとは関係ないけど、まあ、僕が富野監督のアニメとか小説をたくさん見ているからなんとなく思考が引っ張られているのかもしれないけど。


 滅茶苦茶ざっくりと要約すると、
「今の世界はもうダメです。だから新しいことをしましょう。しかし、単に突飛なことをするだけではもちろんダメで、正しく物事を見て正しく行動しましょう。仏教における八正道」
 ということです。


 スペースノイドだからとか超能力だからとかサイコフレームとかそういうことじゃないんだよ!正しく周りを観測して、正しく振舞えというだけの事です。


  • 不安な現在こそ未来を拓く

 で、プレゼントされた有料記事の話になるんですけど。


www.asahi.com


 現在は本当にダメな時代で異常な時代で、原子力発電も石油など化石燃料やらレアメタルも、人口も食料も環境汚染も大変な世の中だ。
 大人たちも自分の安寧しか考えていない。インターネットを与えられても他人の悪口を言っていれば自分が正しくなったように思ってヘイトしあうような奴らばっかりだ。


 だからだろ!チャレンジだ!


 時代と世界と大人がダメで不安な時代に生きているということを骨身にしみて育っている子供こそ、アムロ・レイやシャア・アズナブルやララァ・スンのように「注意深く、慎重に、鋭敏に、正しく、物を感じて行動する」という訓練を生き延びるためにしているのかもしれない。
 そういった子どもたちの中からニュータイプが産まれることを期待したい。が、そのまま人類はダメになってクソみたいな核戦争で明日にでも滅ぶかもしれない。


 そういう不安な人生を子供にさせることになっている現代はひどい時代なのだが。まあ、そこからの社会的サバイバーが強くなってくれれば…。(潰れる人も多いだろうが。僕も過労で潰れたし)


  • Gレコのオールドタイプ

 そう考えると、1000年前に決めた計画に沿って地球を保全するためとはいえ、何万年もかけてフォトン・バッテリーを充電することを続けているヘルメス財団のラ・グー総裁(200歳ちかい)は究極の前例主義者でものすごいオールドタイプなのかもしれない。


 しかし、ラ・グー総裁やフラミニアのような体が衰える方向の突然変異、ムタチオンが発生するのなら、逆に強くて賢い人類が発生するということに期待してもいいのかもしれない。


 Gのレコンギスタの作中ではそのような超越的なニュータイプは描かれなかったが、「旧弊や先入観を卒業して世の中をキチンと見よう」ということは伝えられていたと思うので、それでいいんじゃないっすかね。
劇場版『Gのレコンギスタ Ⅴ』「死線を越えて」(セル版)


 八正道、割と法事で来ている僧侶とかを見てもできてない人が多いので、みんな修練するしかないんよね。




 なんか「アムロって周囲の脅威にかなり敏感だよね」「アダルトチルドレンだからかな?」くらいの雑な思い付きのわりに妙に長くなって申し訳ない。

  • ほしい物リスト。

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↑グダちん用


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