玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

当サイトはGoogleアドセンス、グーグルアナリティクス、Amazonアソシエイトを利用しています

輪るピングドラム第18話4「だから私のためにいてほしい」他者に向かう行動原理!

まさかの1週間ずっとピングドラム18話感想のターン!なんとか関西ピングドラム放送の前に書き終わりたい・・・。一応、今回で18話の感想と考察分析解説はおしまいです。まとめます。


「だから私のためにいてほしい」これがテーマだった!サブタイトルだし!!
ただ、同じ「だから」「私の」「ために」「いてほしい」でも、人それぞれでその意味合いが違うという事も示された。ピングドラムは同じ物に対しても、人々の考えや受け取り方が違うという事を今までも色んな演出やストーリーでえがいてきてたし。今回も。

  • それぞれの「いてほしい」気持ち

桃果が多蕗に対して「私のためにいてほしい」と言って子どもブロイラーから多蕗を引き上げた。

多蕗も桃果に対して「私のために(、あと人類のために桃果に)いてほしかったのに」と思っていた。(ゆりと違って苹果を桃果にしようとはしなかった)


多蕗は剣山に「私に償うために来てほしい」と冠葉に呼ばせようとしたが剣山は来なかった。


多蕗の母は多蕗圭樹や弟や夫たちを「私のために才能を発揮してほしい」と自己満足の道具にして取り替えた。


子どもブロイラーはおそらく、そらの孔分室のような「ある一定の精神状態になった子が行くことができる異次元」のような物だと思うが、こどもブロイラーの子供たちは「誰かのためにいてほしいと願われない、いらない子供は捨てられて、消えちゃうんだ」と。

おそらく、子どもブロイラーで本当に死ぬのではなく、精神的に死んで主体性を失って「誰が誰だかわからない多くの人の中の一人」という没個性な人になって、社会に使い捨てられる社畜や奴隷や兵隊になって、忘れられて、やがて消えて行くんだろう。


桃果は子どもブロイラーの他の子供たちは救わない。世界線の運命を乗り換えることができる超スゴイ級小学生女児の桃果だけど、桃果は「私にとっていてほしいと思う多蕗君」だけを助ける。そこに迷いは一切ない。多蕗だけを見て、他の何者でもない子供たちを見ようともしない。ある意味サイコ少女。
だけど、能力があるから世界中の人を救おうとしたのではなく、「自分にとって意味がある人を救いたいから」という気持ちがあるから能力が使えるのかもしれない。能力が先なのでは無く、気持ちが先。
か?

↑大好きっていう気持ちだけを乗せた女児の鉄拳で子どもブロイラーの壁をぶち破る桃果



陽毬は冠葉に「私のために生きないで」と、多蕗に「私は罰を受けるためにいなくなります」と言った。


冠葉は陽毬に「俺はお前のために生きたいんだ!」と叫んだ。


晶馬は「(自分のためには)何も望んでいないのに、ただ家族に居てほしいだけなのに」と泣いた。


苹果は「運命なら、きっと意味があるもの。私は、受け入れて強くなる」

「だから(晶馬君には)」「私のためにいてほしい」と、抱いた。

苹果はエレベーターという柵を取り払われても、冠葉が陽毬を抱きとめている時は高倉家の輪に入る事は出来なかった。表情も出せずに距離を置いて立っていた。

だけど、晶馬が来てくれたから、一歩を踏み出せて、

晶馬を通じて陽毬と冠葉も支える事ができた。


嫁入り!という「家族がテーマ!」という感覚をとても強く感じるな!
今回の晶馬は事件が終わってから来ただけだけど、だからこそ、「私のために居るだけでいい」という感覚を非常に強く感じられた。晶馬がいるから苹果は高倉家を抱ける。陽毬がいたから苹果は晶馬と出会えた。
冠葉と晶馬は双子だから同じ立場なのだけど、同じような立場の二人が「外交的アクションの冠葉」と「内省的優しさの晶馬」に別れて行動する事で、バラバラになるのではなくて一つの出来事を両側から観察するようになっていて、ストーリーの構図として上手い。5話で、帽子を取りに行く冠葉と、陽毬と苹果を守っている晶馬の対比もあったし、今回もそんな感じだ。
全く違う行動だけど、二人とも陽毬を溺愛している所とかも。「二人でひとつ」という感じ。10話で、冠葉もなんだかんだ言って、苹果の日記を守ろうとしたしね。
だけど、晶馬を抱く苹果の絵には冠葉は映っていないし、冠葉には真砂子がいるので、「ひとつだけど分かれ始める」という感覚もある。
輪るピングドラムのアイディアの元の一つになった宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」はジョバンニが主人公だけど、カムパネルラもジョバンニとラストの急展開までは全く同じような立場のただの子供だったんだよねえ。二人の旅では、カムパネルラも決して超越的な子では無く、けっこう普通の少年として行動している。二人の差はとても些細なものなのだ。
だが、その些細な違いで世界が全く変わるというのも人生なのだ。



夏芽真砂子は冠葉に「(彼のために)もうあんな家に置いておけない(いてほしくない)」と決意した。


時籠ゆりが多蕗を殴打したのも、「桃果だけじゃなく、多蕗にも、仮面夫婦でも、大人しくして私のために居てほしかった・・・」という失って初めてわかる気持ちだったのかも。



桃果と苹果の「私のために!」と言う所が露骨な対比構図だけど、


その他のキャラクターの「だから/だけど」「私の/あなたの」ために「いてほしい/いてほしくない」という対比、対偶、正否も徹底して描かれているんだよなー。
(上記の台詞はちょっとこまかい所はうろ覚えかもしれません。DVD買え)

  • 条件付きの「いてほしい」多蕗と無条件の「ほしい」「したい」冠葉

いろんな欲求が並列して、対比されているというのが示された18話だったし、正直僕も全てを解釈できてはいないし、作り手も自覚してなくて感覚的にやってる所もあるのかもしれない。
とりあえず、わかりやすいのが「条件付きで他人を必要とする」と「無条件に相手を必要とする」という対比であろう。
この対比についてまとめる。


多蕗の母は多蕗圭樹や弟や夫たちを「才能という条件付き」で「いてほしい」「いらない」と愛したり愛さなかった。
多蕗圭樹は「母の愛」という条件を失ったから「僕はいらない子供なんだ」と、子どもブロイラーで自分の精神を消そうとした。
そこで、桃果に「(才能は)そんなの関係ない」「私が聞いたのはあなたの心だもの」「私のために生きて!」と圭樹は言われて、それで生きようとした。
桃果は才能という条件抜きで多蕗の心そのものを認めたが、多蕗は「桃果に必要とされたから」という事が新しい存在条件になってしまった、というのが人生のままならなさだな。桃果は多蕗の「いてほしい」という気持ちとは関係なく消えてしまったし。


それを「桃果は高倉剣山の起こした事件を止めるために消えたのだ」という「条件」を設定して、「だから僕は高倉家の人間に罰を与える」という、条件に対する自動行動を発動させる。彼は受け身なのだ。
その「冠葉は高倉剣山の残党とつるんでいる」という事も、渡瀬眞悧が渡した「口実」に過ぎないかもしれないのに、自分の見たい真実を口実にしたら条件が発動して人だって殺せるんだ。


また、今回、多蕗が爆弾を爆発させる前、4発中3回「そうか」と言っている。冠葉の言動を受けて爆発させている。そこも、彼が「条件によって自動的に動く人」という無責任さ、口実を必要とする人間だという事を示している。「自分としては陽毬を傷つけたくないけど、剣山や冠葉が償わないのなら仕方がない」という条件付けとしての「そうか」だ。
また、最後に彼は陽毬を支えるワイヤー爆発させたけど、それを冠葉に支えさせた。これも「冠葉が支えられるかどうかは、彼の問題だし、自分の責任じゃない」という結果に対する受動性だ。これはあまり良い事ではないが、「責任者を自分以外にする」「見て見ぬふり」という大衆的行動としてはよくある現象でもある。
爆弾を爆発させながら、陽毬から目は逸らす。


幾原邦彦監督はこういう風潮に対して、インタビューで「ここ何年か、政治とか経済の問題とか、それから地震の後の原発事故とか、みんな悪者探しをするばっかりだよね。本当は悪い人なんかいなくて、弱い人がいるだけなのに」と、言ってた。
そういうリアルな人間としての多蕗を描いている。悪役を記号的では無く、リアルな人間として描いているのはとてもすごい作品だ。
また、多蕗がそういう無責任な行動をとるのは、やっぱり彼が「何者でもない透明な存在」にギリギリ成りかかっていた人だという素養を表現している。
ダメなやつは英雄に救われてもダメなんだ。多蕗は「桃果という条件」に依存して生き、すっかりダメになってしまった自分を自覚して、苹果に「僕みたいになっちゃだめだ」と言う。そして多蕗はゆりの夫という役割も捨てて、何者でもない人間になったのかもしれない。


だが、陽毬を助けたのは彼である。そういうアンバランス感覚がある。陽毬を助けたのは「結局何もしない」という無責任さの表れなのかもしれない。


ここで、割とオタクに受けた本であるゼロ年代の想像力の宇野常寛さん的に言うと多蕗圭樹は「何もしない」という新世紀エヴァンゲリオンの碇シンジ的な「引きこもり」的行動をしていると言える。行動するのも他人の条件に合わせてだし、他人に必要とされるかどうかで生きてる。

また、今回の事件も95年の爆破テロ事件を条件として行動した。
多蕗が「少年期のトラウマ」を理由に殺人未遂を引き起こすのは、非常に90年代後半的だ。「トラウマだから」というアニメが、エヴァンゲリオン以降は非常に多かった。これはアニメ以外の邦画でもそうだった。
式日 [DVD]

式日 [DVD]

  • 岩井俊二
Amazon
僕は95年の神戸市小児連続殺傷事件の犯人の酒鬼薔薇聖斗こと東や、その後のバスジャック殺傷事件のネオ麦茶、近年の秋葉原連続殺傷事件の加藤智大と同じ1982年生まれで、エヴァンゲリオン当時シンジ君と同年代というキレる17歳世代である。そういうわけで、多蕗圭樹のこういうダメな感じには、多少の共感を持つ。このような犯行について富野由悠季は「母親に条件づけされて歪んだ息子」と評している。宇野さんの言う所の「母性のディストピア」だねー。
まあ、僕はメンヘラニートなので、公立高校の公務員教諭という安定した生活をしている多蕗とは違うんだけど。多蕗は仮面夫婦でも美人女優の幼馴染と結婚してるし。1987年生まれの24歳だし。
多蕗の今回の行動は90年代のキレる17歳世代だと思うんだけど、95年の事件当時に小学生で、幼少期にトラウマを負ったという設定にするために若干若くしたのかなー。

(情動に任せて行動するゆりと桃果は90年代だと刹那的な援助交際女子高生だろうか?今も援助交際は普通にいるけどね
 


対して、冠葉は動物化するポストモダン系男子と言ったところか。

冠葉はガチでシスコンである。
前回のエントリで映像的に解説したけど、
輪るピングドラム第18話3「だから私のためにいてほしい」と願う多蕗の心 映像解析 - 玖足手帖-アニメブログ-
冠葉は基本的に下手に立ってた。

だけど多蕗に「そんなに妹が大事か?」と聞かれて


「当たり前だろ!!!」と上手からアップで即答で絶叫。全然迷いはない。動物的反射行動のようだ。
多蕗が「〜〜だから〜〜する」という条件とか理屈で「そうか」と行動するのに対して、冠葉は理由なんか全く考えないで行動する。(ここら辺は小説版の方が詳しく書いてある。買え)


「愛は痛みだからね」と多蕗に知ったような条件を言われても、


「知るか!」と言い捨てる。(ここも上手からの見降ろしというとても強い構図)


「家族だからって君が責任を感じる事はない」と、多蕗が冠葉に愛情の条件を説いても


「いやだ!絶対に離さねえ!」と一蹴した。(ここも上手からの見降ろしというとても強い構図)


この冠葉の無条件シスコンぶりは、陽毬に対しても同じ。
「私の病気、治らないんでしょ」と揺れながら陽毬が理屈を言っても


「何を言ってるんだ!俺が治す!」という無条件ぶり。


ちなみにこの「←」に落ちて行こうとする陽毬と、「→」に引っ張り上げようとする冠葉の動きは

富野由悠季の映像の原則の原理に一致している。
陽毬は自然に絶望的に当たり前に落ちて行こうとしているのに対して、冠葉は上向きに逆行して無理矢理がんばって引っ張ろうとしている。


引用元https://twitter.com/#!/pendulumknock/media/slideshow?url=http%3A%2F%2Ftwitpic.com%2F7d14c3

客観的にはこういう位置関係なんだけど、映像演出としては冠葉が上手の上で→向きの動きで、陽毬が←向きの動きになるようにカメラを置いてる。(一応、落ちる時にいくつかロングショットを短く入れていて位置関係についての最低限の映像的説明はしている)




ただ、多蕗が冠葉に桃果の姿を重ねて負けた後の、兄妹が向かい合う所は赤と青の世界のクローズアップショットの連続対比になってるので、ほとんど二人の世界なんだが。


陽毬が「ありがとう冠ちゃん、でも、これからは自分のために生きて」って言って落ちるんだけど、その落ちる最後に

二回冠葉の方を(→)にチラッと振り向きながら落ちてるんだよなー。これで、陽毬が自然に(←)に落ちて行くだけじゃなくて冠葉の方にも未練があるんだ、って言う要素を入れてて、すごく巧い。


で、陽毬は感情的には冠葉の方向に未練があるが、条件付けとしては「自分が罰を受けます」という風に落ちていくんだ。

でも、冠葉はこんなにアップになってから「やめろーーーーッ!」っと叫んで上に飛ぶカットがあって

この抽象イメージで「落ちて行く陽毬の毛糸の玉」に対して「俺はお前のために生きたいんだ」と言う天使を象徴するかのような、西洋絵画のような映像言語演出で想いを伝える!
この、究極まで追いつめられた時に静かに抽象概念の絵に被せて「俺はお前のために生きたいんだ」と言うのが、すごく真実味があるな。
クリフ・ハンガー的な「陽毬がどうなるか?」というサスペンスの演出としても上手いし。
極限状態で真実を話すというのは、フグ毒で死にかけてから電車ワールドに行って本音を話す15話の真砂子にも近い。


ま、とりあえず冠葉は「妹を大切に思う事に理由なんかない」むしろ「俺がお前のために生きたいんだ」という存在理由が陽毬を大切に思う事に直結している。むしろ、陽毬を大切に思うために生きてる。生きてるから大切に思う、というのとは逆なのだ。命を分け与えることにも全く躊躇してないしね。12話で。

ここにあったプリンセス・オブ・ザ・クリスタルの画像はGoogleアドセンスによりアダルトコンテンツと見なされたので検閲削除しました。
せめて著作権だったらまだ納得がいったのに、地上波放送をエロと断じられた。嫌いだな。


パートナー各位

お客様のサイト(hatenablog.com)で大量のポリシー違反が検知されました。これは、AdSense プログラム ポリシーに違反しています。そのため、お客様のサイト(hatenablog.com)に対してサイト単位での措置が取られ、広告の配信がすべて停止される可能性があります。


 


この「因果関係が逆転してる感情的行動力」ってのは桃果の「能力を使いたいと強く思うから能力が使える」という感情論にも似ている。
因果が逆転するほどの条件反射が、すごく冠葉の動物的な所だ。


シスコンに理由なんてない!!!


ぼくはキレる17歳世代だけど、妹萌えシスコンでもあるので冠葉の気持ちもわかる。
理屈としては陽毬が死んだ方が財産の問題も解決するし丸く収まるんだけど、シスコンの本能として、そんな事は絶対に在ってはならないので、考えるよりも先に守る!!!!
多蕗が「現実的には経済的に安定しているけど、過去のトラウマに縛られて行動している」という90年代感覚だとすると、冠葉は「リアルに貧乏で、家を売れと親戚に言われてるけど、妹を守る事には全く迷いがない!親戚にもちゃんと金を渡す」というポスト決断主義である。ゼロ年代の決断主義だと「自分以外はぶっ殺して目的を果たす」って感じだけど2011年のポストゼロ年代の震災以降の冠葉は「辛い事はたくさんあるけど、大切な者はやっぱり大切だし!そこは動くよ!」っていう行動力と、リアルさがある。


そういう冠葉の姿勢は序盤から全くぶれてませんね。5話のトラックに引きずられてボロボロになっても負けない所とか。
もちろん、それは5話の台風の話「だから僕はそれをするのさ」で触れられたように、冠葉が父親の剣山に影響を受けて「嵐が去るのを待っていたら大切なものは守れない」という条件を教えられたからなのかもしれない。
だけど、今回の冠葉は父親が来ないという事を突き付けられても、父親の組織と自分の関係を陽毬に聞かれても、陽毬がそのために死のうとしても、冠葉は絶対にあきらめなかった。親父越え!
冠葉のそういう絶対的シスコンな所はとてもかっこいいと思う!


で、だ。
結局陽毬は助かるのだけど、

冠葉が助けたのではない。



この、「陽毬は助かったけど、どうして?」という冠葉の絶望から希望への変化が、彼の振り向きと背景の色の暗い青から明るい緑への変化で描かれているのが、とてもすごいと思いますね!山内色彩学ですね!キャシャーンSinsや夢喰いメリーも色彩がすごかったですね!(東映時代の山内さんの作品は見てたけど小学生とかだったのでうろ覚えだけど、美しかったと思う)


で、陽毬を助けたのはよりによって今回の悪事を作った多蕗だったという!!!
ここで、冠葉に押されて下手にいた多蕗が上手に転じて王子様ポーズを取っているというのが、もう、すごく演出的に深い!!!!
なかなかこういう演出はできない!!!!
この時の多蕗の「なんだか自分でも不本意だけど助けてしまった」というぼけーっとしたムスッとした顔も絶妙!


わかる?


「条件」で動いていた多蕗が「無条件」シスコンの冠葉の行動を見て、不本意だけど助ける、って言う所に二つの違う概念が合わさったアウフヘーベン的なカタルシスがあるんだよ!!!!
多蕗もダメダメな受動的人間じゃなかったんだ!
冠葉の無条件な思い込みでは陽毬を助けられなかったけど、冠葉の熱い思いは止まっていた多蕗の心を突き動かすパワーになったんだ!
っていう!


うおおおおお!すげー!
こういう人間関係は実に物語!って感じがしてとても上手いですね!


今回は前回の17話を受けた話だったのね。
で、


前回、「僕は高倉家の人間に罰を与える」って多蕗が陽毬に言った。
で、闇ウサギであるシラセとソウヤも

「だめな悪い子には罰を与えないと」って陽毬の空になったベットに向けて言うじゃん。
そのシラセとソウヤを

中央ポジションでペンギン帽子が見ているじゃん。
だから、前回の引きを考えると
「あー、陽毬が絶体絶命になってもどうせ『生存戦略ーーーーっ!』って叫んでプリンセス・オブ・ザ・クリスタルに変身してイヤボーン的に助かるだろう?どうせ変身ヒロインなんだろ?」って思うじゃん。思うよね。ペンギン帽子って陽毬がもってない時にも現れてたし。
でも、18話は最後までペンギン帽子様が現れないのが、すごい!魔法少女まどか☆マギカもだけど、変身美少女が変身しないのが逆にすごい!!!!


で、結局陽毬を助けたのは「冠葉を見て反省して思いとどまった多蕗」だからね!魔法関係ない!
13話の眞悧を見るに、ペンギン帽子は眞悧から贈られたもので、桃果のような女の子が被っていた物なので、運命を乗り換える力がありそうなんだけど、18話ではまるで冠葉と多蕗を試すかのように何もしない。


この何もしない、ペンギン帽子の不在っていうのが、「だから私のためにいてほしい」という話の中で存在感を発揮してるよなー。無いことで存在感の重要性。
つまり、「あえて彼らのためにいなかった」ペンギン帽子がすごい。


と、すると、「ピングドラムとは冠葉の・・・」というプリクリ様の発言を考えると、眞悧の「運命っていう概念が人の世界に存在するのか」「それを確認したいんだ」「二人でピングドラムを探すのさ」「そして、きみは僕と同じ風景を見るんだ。あの兄弟と妹の行く末を」という発言を鑑みるに、ピングドラムとは冠葉が運命的に追い詰められた時に発する何か、なのかもしれない。
運命でギリギリどうしようもなくなった時に、それでもその運命を覆す何か。多蕗の条件を覆して助けさせた何か。



なのかなー???



でも、幾原邦彦監督は「ピングドラムは抽象概念じゃなくて物体として登場させるよ」って言ってた。でも、イクニさんの言う事だしなー。
どうなんだろうね???
まあ、僕は「冠葉の想いの強さが多蕗を突き動かした」っていう単純な話をこんなに躍動感と色彩の演出で盛り上げた芝居の手腕だけでも感服するよ。


あと、もし冠葉がピングドラムの発動者であっても、18話の段階ではまだその域に達していないようだ。結局、陽毬は多蕗が助けたしね。
だから、冠葉がピングドラムの発動者としても、まだまだ24話までに二転三転するだろうということ。
今回、兄妹と苹果に前後から挟まれて何かを感じて、「逃げないで運命に向き合おう」と思った晶馬にも何かが起こるだろうし、それは楽しみですね!
また、今回「罰は私が受ければいいんだ」って思った陽毬にも何かが起きてほしい。
オープニングの「少年よ我に帰れ」のラストカットや桃果を失った人たちの悩みを見ると、「陽毬は死ぬけど、残された人も前向きに生きて行こう」っていう風になりそうなんだけど。でも、それだと陽毬は「テーマを語ってに死ぬために生かされてる」というすごくもったいないキャラになってしまう。おれはシスコンだから、陽毬にもちゃんと生きる意欲を持ってほしい!トリプルHという夢を持ってほしい!
そのうえで、死ぬなら死ぬで。単に死ぬために死ぬなんてつまらない。生きようとするものが死ぬから美しいのだ。(Fate/zeroのキャスターが言ってた)


そんなわけで、関西ピングドラム第19話、あと1分で開始です!!!
ギリギリ間に合った!!!もう、リアルタイムで見るわーwwwwww

[rakuten:amiami:10296848:detail]