玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。旧玖足手帖から記事・ブクマを引き継ぎました。


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ギラ・ドーガはなぜアクシズを推したのか?

 密会を読んだ程度で逆シャアの話までするのは飛ばしすぎなのだが。9月に富野監督が奈良映画祭に来るというので逆襲のシャアを映写機で見た。そこで感じたことを書く機会がなかったのだが、昨日のシャアの記事のついでに書いてしまう。
 本当はGレコの考察をしなければいけないのだが。


 この問題は非常に根深く、長年、色んな人が何回も疑問を呈している。
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 いろんな意見がある。


 自分の意見としては9月に逆襲のシャアを見た時に感じたことと、さっき密会を読み返して感じたことを書く。
 前項(長い)

nuryouguda.hatenablog.com
 最重要な102Pの人間の4類型、アムロララァとオールドタイプとシャアに戻る。
 包容力のあるアムロに、差別されたララァは同一化した。オールドタイプは自らの安逸にしか興味がない。シャアは知恵と狂気と肉体を持った人!


 シャアは単に現実主義者で肉体を使って戦う戦士であり、究極的に自分しか信じていない、いや、自分しか世界にいない人間なのではないだろうか。これは雑に言うとサイコパスなのだが。
 大衆としてのオールドタイプは経済格差や社会システムの搾取によって、他者との利害と言う関わり合いによって安逸を手に入れようとする。自分は大した力も持っていないくせに、テレビや新聞やツイッターで他人のうわさに汲々として足の引っ張り合いをして自分だけは助かろうとする、蜘蛛の糸カンダタレ・ミゼラブルのテナルディエのような人間が我々大衆です。社会システムに依存したこそ泥です。
 しかし、戦士は大衆ではない。戦士は知恵によって動物以下の利己的な行為を正当化する。戦士にとって確かなものは自分と、肉体と、道具と、経験と、現実しかない。戦って獲得する、それだけだ。だからシャアは強さを手に入れた。
 アムロララァのようなニュータイプは意識によって分かり合えた。しかし、それはイメージの密会に過ぎないのではないか?
 そういう関係に対する対になる極として、「自分の肉体と現実」だけで戦うロンリー・ソルジャー、シャア・アズナブルをキャラクターとしておくのは創作術としても自然なことだ。


 シャアは現実的な経験として自分が「良い」と思ったものは「良い」と分かる能力はある。
 それがシャアの強さだ。物事の本質を理解する、と言う面でのニュータイプだ。

 だが、脆さでもある。
 シャアには自分しかいない。もしかしたら、世界が平和だったら、他の人間がもっと優しかったらシャアもアムロのようなニュータイプになれたかもしれない。だが、シャアは殺して生き延びるしかない戦士だと自覚する経験しか、現実社会で得られなかった人だ。シャアにとって世界の本質とは殺し合いと戦いでしかなかった。


 しかし、現実が殺し合いでしかないとしたら、殺して勝つ、それは正しいものの見方だ。

 で、ネオ・ジオンの参加者は元ジオン軍ティターンズや難民や軍人崩れが多い。地球連邦の社会から疎外された人たちだ。だから彼らはシャア・アズナブルを頼る。大衆の中から生まれた一般人でありながら、ララァのように地球連邦社会の大衆から排除された人々。そして、その中でもモビルスーツギラ・ドーガパイロットをやるような奴はシャアの縮小コピーのような戦士だ。
 彼らもシャアと同じく社会から殺され、敵を殺すことで生き延びることが現実だと経験して戦士になっていった。その時代の絶望的な状況は地球で殺人アスレチックを兼ねたマン・ハンターをする地球連邦の役人や、コロニーの軍事基地に自爆テロを敢行するネオジオン万歳、シャアが引責を落とすからと言って野盗に落ちる香港の庶民など、映画の劇中で点描されている。
 シャアの縮小コピーの代表の一人がギュネイ・ガスであるが、彼も「コロニー潰しで家族を亡くした」という現実の不幸を味わい、「シャア以上のニュータイプになる」と強さを求めた。
 彼らはネオジオンと言う組織に属しているが、所詮は難民の烏合の衆。彼らはシャアと同じく、一人の戦士でしかない。レズン・シュナイダーのように。排斥され世界に絶望し、世界に自分の力以外に頼るべきものを見出せなかった人たちだ。
 だからシャア・アズナブル総帥は一人の戦士としてサザビーで突出し、難民のための政治よりもアムロとの個人的な決着を優先したが、ギュネイやレズンや、ナナイでさえもシャアのためではなく自分のために動く「個」なのだ。ジークジオン!と全体主義的な儀式をしているが、実は彼らはみな孤独な魂なのです。だから寂しい人たちが寄せ集まっているのがハマーン以降のネオジオンの実態だ。(二次創作の袖付きのことは考えない)
 だからと言って、地球連邦の既得権益という社会の生ぬるいつながりの中に運よく席を持つことができて、難民を排斥してのうのうと暮らしているアースノイドの大衆が正しいというわけではない。
 だから、地球の中に居場所を見つけられなかったクェスはシャアを求め、ハサウェイのような健やかな家族を持った奴を潰さないとたまらないのだ。
機動戦士ガンダム 逆襲のシャア
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 ネオ・ジオンナチスドイツが全体主義でありながら孤独だということは、富野由悠季以前にハンナ・アーレントが分析している。富野由悠季監督がGのレコンギスタの頃からハンナ・アーレントについて言及することが多くなったが、おそらく監督はヒットラーの尻尾であるギレン・ザビを描いたころから全体主義については勉強していたと思う。宮崎駿監督に若い頃にインテリ読書量を自慢されて富野監督が悔しい思いをした経験もあるし。

www.irohabook.com

ハンナ・アーレント大衆社会全体主義を生むと考えました。大衆とは

共同の世界が完全に瓦解して相互にばらばらになった個人から成る大衆

(「人と思想」p110より引用)

です。次に引用する文章は非常に重要です。

現代の大衆社会に特有な個人化とアトム化が全体主義的な支配の成立にとっていかに必要不可欠かを明らかにするには、ナチズムとボルシェヴィズムを比較するのが最上の方法だろう。この二つは歴史的にも社会的にもこれ以上の相違は考えられないほど異なった条件のもとで成立していながら、結局はその支配形式ならびに諸制度はともに驚くべき類似性を示すに至っている。

(「人と思想」p110より引用)

ハンナ=アーレント (Century Books―人と思想)

ハンナ=アーレント (Century Books―人と思想)

ナチス共産党は水と油のように最も離れた距離にありましたが、そのやり方はとても似ていました。排外主義的で、暴力的で、大衆を扇動する。この二つを支えているものは大衆であり、狂気と悪を冷静に判断できない個人の集まりです。

悪に先導される個人の多くは共同体を失っていました。共同体とは家族であり、地域であり、国です。第一次世界大戦後、ヨーロッパには多くの無国籍者があふれ、家族を失った者がたくさんいました。共同体はそれまで(宗教などを通じて)一定の教育を与え、「感覚麻痺」しないための価値観も与えていましたが、それらはもうありません。

加えて私たちは常に誰かから必要とされている状態を欲します。当時のドイツとソ連はその心理を利用するように、一人ひとりの個人に「あなたが必要だ」と訴えるのです。行き場を失い必要とされていないと感じる人々は、その言葉に酔ってしまう。

扇動された個人たちに何が足りなかったか? おそらくそれは共同体であり、横のコミュニケーションでした。ばらばらになったことで、一人ひとりは上からやってくる言葉を、それが悪であるか判断もしないで受けとめたのです。

 シャアは狂戦士である。と言うことは一年戦争を描いた「密会」で記述されている。
密会―アムロとララァ (角川スニーカー文庫)


 そのシャアがなぜ難民のカリスマ足りえたのか?むろん、ジオン・ダイクンという共同体を復権させてくれそうという血筋の問題もある。アトム化された個人の集まりである難民と言う大衆はジオンの名のもとにスウィート・ウォーターに集う。

 だが、第二次ネオ・ジオン軍の中枢に近い戦士たち、レズン・シュナイダーやギュネイ・ガスはシャアをむしろ利用し、軽蔑すらしているような面があった。強い男と認めながら、ロリコン趣味のヤツとして見ている。崇拝ではない。戦士として利用し合っているだけだ。
 彼らはよりシャアに近いがゆえに、シャアを軽蔑しつつ、シャアに似ている。自分の力、自分の経験、自分の魂しか世界に存在しないという狂戦士たちなのだろう。
 (ハイ・ストリーマーの序盤に出てきた武人とかね)

 彼らは腐敗した地球連邦の共同体と言う重力に魂を引かれていない戦士だ。その代わり宇宙に魂がアトムとして宙ぶらりんになり、ただ力を振るい、鬱憤を晴らし、自分より偉そうなものに復讐することを求める。(テレビ版のカミーユが崩壊した一因でもある。劇場版のカミーユは魂をつなぎとめる縁(よすが)を握ることができた)

 で、ギラ・ドーガに乗っているような連中がどんな人々かの説明をしたが、中盤を省いて、何故アクシズを押したのかという話題に移る。
 大体の人の意見はアムロに影響されたから、地球が本当の生まれ故郷だから、人の良心があるから、人の心の光だから、という人が多い。
 しかし、僕は映画を見て、違う意見を持ったのでわざわざ書き記そうと思う。


 おそらく、彼らは寂しかっただけなんだろう。


 僕も社会にも家庭にも居場所がない、ここでブログを書くしかできない寂しい人間だ。自分しか世界に感じられないのに、自分の力も信じられるほど強くもない。だから、ネオ・ジオンの捨て鉢な兵士の心に共感する。


 この時の状況を整理してみよう。


 アクシズは既に地球に落下が確定している。しかし、ロンド・ベルの破壊工作によって分割された。それでも後ろ半分は減速して地球に落ちることが、やはり確定している。
 その時点でMSのパイロットにできることはない。あるとすれば残存艦艇の援護である。あるいはシャア総帥の救出である。


 しかし、この時点でサザビーνガンダムに撃破されている。サザビー撃破が兵卒に伝わったかどうかは分からないが、「総帥未帰還」とか「レウルーラからの命令が止まっている」と言うことはギラ・ドーガパイロットにも分かっていただろう。ギレン・ザビが射殺されて数分間命令系統が止まっただけで戦況が激変するのがガンダムの戦争の終盤なのだ。ならばシャアがアムロとの戦闘にかまけていればネオジオン艦隊は崩壊するだろう。
 アクシズが落ちて勝つにしろ、ネオジオン艦隊が殲滅されて負けるにしろ、もはやネオジオンの兵士にできることはないのだ。……圧倒的孤独。
 もともと、シャア同様、冒頭のゲリラ同様、ギラ・ドーガの兵士もアクシズを落とした後のことは考えていない。と言うか人類抹殺の汚名を着て戦死するか処刑される、こういうストーリーに酔っていた特攻隊だろう。シャアが「父、ジオンの元に召されるであろう!」と演説を締めた時に盛り上がるような連中だ。
 ギュネイに「あのスケベどもめ!」と言われた作戦前夜のパーティー、あれは電気を消して男の兵士と女兵士が乱交パーティーをしていたんだろう。それに参加しないのがクェスとギュネイと言う若者であるのだが。
 死ぬ前に一発乱交して、そして死ぬ。小説版ベルトーチカ・チルドレン202Pのこの場面でもシャアとナナイが痴話げんかをした後に、ネオジオンの士官たちはホテルで戦勝パーティーを出撃前にやってチークダンスをして、レズン・シュナイダーは偉丈夫の男を口説き落として、クェスに振られたグラーブを嘲笑する。戦勝パーティーを戦う前にするなんてことは、生き残ることを考えていないからだ。
 武士道なのかもしれないが、斬り死にすることしか見えていない。刹那的だ。だが、戦わなければ難民のネオジオンは生き残れなかった。そういう自分の戦いと死だけを現実のものとして考えてしまう人生経験しか、ネオ・ジオンの兵士は持てなかった。それはやはりシャアの縮小コピーなのだろう。



 だが、縮小コピーである彼らはやはりシャアほど強く孤独になることはできなかった。



 寂しかったのだろう。
 そこで、サイコ・フィールドの人の信頼関係の共振によって帰りの燃料の心配をせずに地球連邦のGMIIIやジェガンの部隊が地球の向こうからもやってきた。
 ギラ・ドーガパイロットにとって地球連邦軍のMSというのは自分を殺すもの、家族を殺したものでしかない。そして、もうギラ・ドーガは戦う理由を失っている状況だ。殺してほしかったんだろう。最期に華々しく銃剣を交えて散る。それが孤独で弱い戦士の最後の希望だっただろう。


 しかし、地球連邦軍パイロットはそれを無視した。そして、アクシズを一心不乱に押した。
 ギラ・ドーガは自分に銃を向けないで通過するジェガンを一方的に殺すことができた。ジェガンの方もギラ・ドーガの部隊がまだ生き残っているのに、まったく戦闘行動をせずアクシズを押すサイコ・フィールドの共振に意識を向けた。


 ここで、ギラ・ドーガパイロットはパラダイムシフト、或いはアイデンティティ・クライシスを起こす。映画にすると一秒未満のシーンで、非常に見逃しがちなのだが、ジェガンとすれ違ったギラ・ドーガは呆気に取られたように硬直する。ギラ・ドーガにとってジェガンとは自分を殺すものの象徴であったはずだ。それを殺さずに無視する。自分が殺されるかもしれないのに!


 これはジェガンパイロットがララァ・スンエルメスで自分を投げ出したことの縮小コピーのようにギラ・ドーガパイロットに感じられたのではないだろうか?フォウ・ムラサメララァのコピーだったが、自分を捨ててアクシズを押すジェガンもまた、ララァのリフレインだったのではないだろうか?


 それは、愛。


 ジェガンギラ・ドーガパイロットはおそらくニュータイプではないだろう。大衆に近い弱い戦士だ。だが、寂しい戦士としての人生を歩んできたギラ・ドーガパイロットにとって、自分を殺さず、殺されるかもしれないのに素通りするジェガンは、ギラ・ドーガを黙殺するというよりも自分に身を投げ出して信じてくれた人、と言う風に見えたのではないだろうか。
 それはサイコ・フィールドによって人の共感が広がっていた雰囲気に飲まれていたせいにしろ、身を投げ出したジェガンギラ・ドーガにとって非常に尊く、孤独だった人生で初めて出会った共感、愛情に見えたのかもしれない。機動戦士ガンダム第41話「光る宇宙」の縮小複数コピペがジェガンギラ・ドーガで偶然にしろ、起きたのだろうか。


 そこで、ギラ・ドーガパイロットは再生した。生まれ直しをしたのです。アクシズを落としてテロリストとして射殺されるか処刑されることを覚悟していた彼らは、ジェガンたちが無意識に銃火を向けないという愛を示したことによって、ある意味キリスト者的な再生を果たした。孤独だった戦士が、本当に愛のためになすべき天啓を得たともいえる。
 逆に意地悪に言うと、作戦として無意味になり総帥も失ったMSのパイロットが孤独に耐えられなくなったので、アクシズを押すということに自分の存在意義をすり替えて寂しさを誤魔化したともいえる。
 どちらにせよ、孤独な戦士として自分が戦って死ぬということしか想像していなかったギラ・ドーガパイロットにとって、サイコ・フィールドの中での人の共感で行動するジェガンが自分を殺さないで地球を守ろうとしたことは、愛情と言うか、産まれ直して初めて感じた人との繋がりと感じられたのではないだろうか。だから、彼らはその行動に参加する。地球がダメになるかどうか、それは表面の理解でしかない。寂しい戦士が愛に触れて誰かと同じに寄り添いたいと思った、それが一年戦争の密会から続く富野ガンダムにおける人の共感の本質なんじゃないだろうか。
 それが、アクシズギラ・ドーガを押した理由だと私は思う。ロンリー・ソルジャーも一人では生きられない。Believe!

 生まれ直して二周目の人生を使う、と言うことは十年の時を経て、オーバーマン キングゲイナー
のゲイン・ビジョウやリーンの翼のサコミズ王など、21世紀の富野作品で多用されるモチーフとなった。新訳Zガンダムカミーユもテレビ版のバッドエンドを超えた後の鍵系エロゲーのトゥルーエンドみたいだし。
 Gのレコンギスタクンパ・ルシータ大佐は1周目はトワサンガで、2周目はヴィーナス・グロゥブで、3周目はレイハントン家救出で、テレビ版の本編では4周目だったのかもしれない。

アムロ 「なんだ?どういうんだ?」
  「やめてくれ、こんな事に付き合う必要はない。さがれ、来るんじゃない」
シャア 「なんだ?何が起こっているんだ?ええい、完全な作戦にはならんとは」
ジム隊A 「ロンド・ベルだけにいい思いはさせませんよ」
アムロ 「しかし、その機体じゃあ」
  「ギラ・ドーガまで。無理だよ、みんな下がれ」
ギラドーガ隊A 「地球が駄目になるかならないかなんだ。やってみる価値ありますぜ」
アムロ 「しかし、爆装している機体だってある」
  「駄目だ、摩擦熱とオーバーロードで自爆するだけだぞ」
  「もういいんだ。みんなやめろ」
シャア 「結局、遅かれ早かれこんな悲しみだけが広がって地球を押しつぶすのだ。ならば人類は、自分の手で自分を裁いて自然に対し、地球に対して贖罪しなければならん。アムロ、なんでこれがわからん」
アムロ 「離れろ、…ガンダムの力は」
シャア 「こ、これは、サイコフレームの共振。人の意思が集中しすぎてオーバーロードしているのか?なのに、恐怖は感じない。むしろあたたかくて、安心を感じるとは」
アムロ 「何もできないで、おあっ」

オペレーターA 「光の幕のむこう、モビルスーツが跳ね飛ばされています」
ブライト 「もっとよく観測しろ」
  「何が起こっているんだ?」

シャア 「そうか、しかしこのあたたかさを持った人間が地球さえ破壊するんだ。それをわかるんだよ、アムロ
アムロ 「わかってるよ。だから、世界に人の心の光を見せなけりゃならないんだろ」
シャア 「ふん、そういう男にしてはクェスに冷たかったな、え?」

 しかし、ギラ・ドーガパイロットとジェガンパイロットはアムロララァのような交感をしても、それがアクシズを押し戻すことにはならなかったし、分かりやすい生贄にもならなかった。ギラ・ドーガジェガンやジムもアムロの気合で跳ねのけられた。映画版では跳ねのけられた後のパイロットたちの機体は死に体に見えて、中の人は命を吸われたようにも見えるし、小説版のベルトーチカ・チルドレンでは跳ねのけられた機体の姿勢制御をする程度にはパイロットは生きていた。ハイ・ストリーマーでは跳ねのけられたMSはアクシズを見守っていたらしい。
機動戦士ガンダムハイ・ストリーマー〈3〉シャア篇 (徳間デュアル文庫)

 二次創作のトワイライト・アクシズは見ていないのでわからないが、戦後、生き残ったギラ・ドーガジェガンパイロットがどうなったのかはわからない。二次創作のユニコーンは見たけど知らない。
 ベルトーチカ・チルドレン368p12行目でシャアは「自分の事だけで、わたしは精一杯だったのか?」と孤独な戦士の最期の後悔を発し、アルテイシアを思った。
機動戦士ガンダム 逆襲のシャア―ベルトーチカ・チルドレン (角川文庫―スニーカー文庫)

 富野由悠季の小説によるとアクシズを太陽に押し戻したのは地球で生まれる子供たちの魂の力のようでもあるし、映画を見るとクェスやチェーンが死ぬたびに霊力を増したララァの亡霊の妖力にも見える。地球で生まれた子供たちは、小説版の文章の並びから見ると、アクシズで死んだ戦士たちの生まれ変わりかもしれない。
 それが人の心の光なのか、逆襲のギガンティスの意志なのか、人の可能性なのかはわからない。



 しかし、ギラ・ドーガパイロットが個人的に人と人のつながりを感じても、世界を革命する力になるほどでもなく、密会は密会のままなのかもしれない……。



 そして、それ以降も宇宙世紀の戦争は人の血を流していくのだった。
 孤独な魂が戦わずに殺し合わずに生きていくのは、この地球と言う惑星では難しいことなのかもしれない。
 なぜなら、人と人の平和なつながりと言うのは一度の戦争、一度の奇跡、一人の救世主で永続するものではなく、個人個人と、諸国民の不断の努力と希求によって維持し続けなければいけないものだからだ。これは戦争よりも過酷なことかもしれないが、核兵器を開発した以降の国際社会に生きる我々は難民や金銭の格差を抱えながら社会でつながって助け合い、或いは断ち切って戦うしかないのだ。
HGUC 1/144 RGM-89 ジェガン (機動戦士ガンダム 逆襲のシャア)
HGUC 1/144 AMS-119 ギラ・ドーガ (機動戦士ガンダム 逆襲のシャア)
憲法と平和を問いなおす (ちくま新書)


  • おしらせ

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nuryouguda.hatenablog.com
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ロンリーブロガーのグダちんに人間との関わりを証明したい人はそうするといい。


 つーか、ギラドーガごときの評論なんか1時間で終わると思ったのに3時間もかかった…。クソッ。これではGレコの本論ができん!パワーダウンだというのか!しかし私も夕飯を作ったり年末の掃除をしたりしなくてはいかん…。
 デレステではクリスマスのマスタートレーナーがもらえるんだよーーーっ!クリスマスプレゼントだろ!エレシュキガルまでに7章クリアなんだよ!(1年やってたのに6章でやっとマシュが3段階目になった)


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