玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

ガンダム、エヴァンゲリオン、コードギアス さよなら絶望先生、らき☆すたに見るパロディの歴史

みんなわかっていると思うけど、僕は最近分かったので書く。
まあ、ぶっちゃけどれもパクリなわけだが。
パクリ方には色々な違いがあるんですよねー。
ガンダムスターウォーズや宇宙の戦士や竹宮惠子や、そのパクリ元から色々引用しているのだが、それ以上に現実世界の歴史や技術や人情からもパクってる。
そんで、富野喜幸監督は「ビームサーベルライトセーバーとは関係ない」とアメリカ人に言いました。
それが嘘かどうかよりも、今回はトミーノが本心でパクってないと思ってるとする。
つまり、色々なパクリ元を作者の無意識化にまで落とし込み、パクってないと信じ込んで、自分の血肉として、オリジナルと信じて作品を作る世代ですね。
実際、オリジナリティーが出る。
まあ、3000年以上前から物語はあったので、古い物語や歴史を踏まえて作品を作ると言うのは当たり前の行為である。

竹熊 すべてを批評的にしか見られないから。だから文芸批評家って小説書けないじゃないですか。
———少なくとも庵野さんが原動力にしていた「オマージュ」は発生しない。
竹熊 基本的に創作をバカにしてるしね。だから庵野さんみたいに創作者としてはバカになりきれない。まあ庵野さんもさすがに無邪気じゃないわけですけどね。例えばその上の世代の宮崎駿とか、富野由悠季っていう人たちに比べれば、庵野作品も十分に「批評的」ではあります。これは世代の問題がやはりあると思う。宮崎さんと富野さんって同い年なんですけど、個性はまったく違いますよね。ただ一つだけ共通していることは、作品をつくるということに対する疑いがないことです。
———なるほど。
竹熊 例えば僕の世代から宮崎さんの作品を見ると、やっぱりパワーが桁違いに凄いんですよ。でも、オリジナリティーがないんだよね。つまり僕の世代が批評家的に見ると、宮崎さんの元ネタが分かっちゃう。僕らが創作をやろうとすると、元ネタを露骨に示して、パロディになってしまうわけですよ。ところが宮崎さんは、元ネタがあるにしても、それを自分の「オリジナルと信じて」出せるわけ。そこが下の世代である僕にしても庵野さんにしても、できないところです。心底、これは俺のオリジナルだと信じて、世の中に提示することができないんです。
———庵野秀明の場合はエヴァの時に、その時の自分の状態を「ドキュメンタリー」にして、作品化しなければならなかった。少なくとも自分はオリジナルだから。
竹熊 それをやるしかなかった、彼の場合はね。基本的にクリエイティブって全部パクリですからね。元ネタがないクリエイティブはありえませんから。作者が天から降ってきた霊感だと感じられるものでも、それは過去の人生で触れてきた多くの作品や、知識や、出来事が元ネタにあるわけですよね。それを「パクリ」と自覚するか、それも天から降ってきた霊感のように信じられるかどうかが、「本物のクリエイター」とパロディ世代の分かれ目だと思うんですよ。
 手塚(治虫)にしてもなんにしても、彼らは霊感を信じている。創作することに対する疑いがない。そこは世代の差としか言い様がありませんね。だから、僕もオタク第一世代とか新人類とか言われましたけども、そう言われる僕たちは批評家にはなれるにしても、創作家にはなれないですね。なったとしてもエクスキューズのある創作(パロディ)しかできない。80年代からこのかた、ずっとそうだったんじゃないですかね。僕の場合は、それが『サルまん』だったわけですけども。
http://web.soshisha.com/archives/otaku/2006_1123.php

というわけですな。
んで、新世紀エヴァンゲリオンとなると、もう、明確にパロディーというか、元ネタを明かすし、むしろ元ネタを自覚的にブロック化して、それを積み上げて劇を構成するんですよね。
ナディアでそのまんまヤマトの主砲発射シークエンスをパクったりとか。小学1年生の時は騙されたなあ。
しかし、エヴァの場合はまだ自分と言うテーマを語るドラマを飾る手法としてパロディーを使っていたわけだし、まだ多少のアレンジ、というか元ネタを自作に変換する過程を楽しむと言う構造があったわけだし、分かりにくいところからパロディを持ってきて、その衒学趣味を自慢すると言う遊びもあった。


しかし、近年のガンダムSEEDコードギアス 反逆のルルーシュケロロ軍曹を見ると、すごい有名な元ネタをそのまま放り込んで、むきだしの元ネタで興味を引くと言う構造になっている。
さらに、らき☆すた絶望先生になると、パロディですらなく、元ネタを「置く」だけで充分な笑いや興味を実現している。


これは、情報化社会のインフラの影響かねえ?広く浅く。カラオケで置いてない歌手のファンになっても仕方が無いと言うか。


まあ、本歌取りと言う文化もあるんで、日本人はパロディー好きな民族だと思うんだが。外人は知らんが。朝鮮人はパクリが好きと聞いている。隣だからな。


そんで、これらの作品はどれもパクリなのだが、パクリ方が微妙に違うんで視聴者の態度も微妙に変えないといけないんじゃないかなあ。んで、変えたらどれも充分面白いし。
絶望先生らきすたも置くだけと書いたが、置くタイミングとか置く向きとかも重要だからなあ。


ところで、上記にあげた作品はどれもヒットしている。
とすると、今までの作品の影響に対して何となく程度の見識しかないのに脆弱な作家性とオリジナリティーに頼って、パクリにもなりきれない不明瞭な作品を作るよりは、思いっきりパクる、と言うか名作の原理原則に沿うような物を作るほうが普遍性がある、と言うか売れるのだろうかね?
視聴者的には自分の知ってるものをネタにされてると言うと嬉しがる感性というのもある。あるあるネタ
しかし、パクリ方を通じて、その並べ方でオリジナリティーを出したいし、情報の取捨選択が知性の見せ所と言うわけでもある。
また、無限世界を有限に認識する人間の生の個性を主張したいと言う本能欲求もある。


追記
http://beatarai.blog90.fc2.com/blog-entry-284.html
これはエヴァンゲリオンを使ったガンダムSEEDだよなあ。機動戦士ガンダム00とか。
らきすた京アニ角川内でのパロディーが多いわけですが。
自己コピーは制約が少ないのな。
と、すると、パロディーは露骨になる代わりに、オタク作品のパロディーのネタの広さはむしろオタクジャンルのみに限定されはすまいかと思うんだが、ひぐらしとかはホラーや推理小説をメタ的にパロディーにしてるわけだし、上手いネタの使いかたってのはあるかなあ。むしろ、企業の方が当たりやすいコピー品を作って、オリジナルに近い順列組換え品は同人から出てくるのかもな。
僕としては、富野のような本当の狂人がいろんなものをぶち込んでグチャグチャにして作った訳のわからないものが見たいのだがな。


カトゆーに細くされたので追記
http://d.hatena.ne.jp/banana-cat/20070829/1188360826

そーいえば、エヴァンゲリオンではボアビールやエビチュビールに変えてましたけど、後半からはUCCそのままでしたね。
シンジ君はデラベッピンを読んでたし。
金魚屋古書店とかもありますねー。


こういう、パロディーが直球になってきたのは、萬画アニメの主な視聴者は萬画アニメが好きなので、萬画アニメを題材にしたら共感が得られる。
ということと、萬画アニメに対して作中人物が言及したり、萬画アニメがある世界の方がリアリティがあるし、萬画アニメで見たような描写で構築した方が理解がショートカットできると言う事かな?

に、しても僕が何となく感じて、生煮えのまま何となく書いたエントリをもとにしっかりとした考察をされる人を見るとすげーって思うけど、僕はCLANNADで忙しいのだ。




エヴァンゲリオン総集編の雑誌を読んだ。
唐沢なをきの犬エヴァンゲリオンと、田中圭一トニーたけざきが面白かったです。
大和田秀樹は僕的には東京的な温度の低い内輪な笑いなので微妙なのだが、人気はあるのでおもしろいのでしょう