玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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シロクマ先生と同じく、エヴァンゲリオンの葬式に参加します

 仮面ライダークウガの配信が終わって、ちょっと暇になったのだが。今頃になって急いで新世紀エヴァンゲリオンのDVDを見たり少年エースの貞本義行萬画を読み返したりしている。


 なぜか、それはエヴァンゲリオンは僕が14歳の時に、僕がオタクとして生きていくことを決定づけた作品であり、ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Qの公開の一週間後に自殺した母親との因縁のある作品であり、そろそろ母親の死と同時にエヴァンゲリオンにも区切りをつけるべきだと思ったからだ。
 8年経っても、寝る前やアニメやゲームを摂取していない時や執筆の合間の単純作業のときなどで脳が暇な時に母親の自殺を思い出して泣いてしまっている。うつ病がひどい。シロクマ先生ではなく、かかりつけの精神科医にもそろそろ「母親の死に区切りをつけて欲しい」と言われている。日にち薬は効かなかった。
 母親の自殺の時に葬式の手配などで面倒を見てくれた大叔母も先日、83歳で死んだ。 


 だから、シン・エヴァンゲリオン劇場版を見に行くのはエンターテインメントではなく、葬式だよ。
ALL ABOUT 渚カヲル  A CHILD OF THE EVANGELION

p-shirokuma.hatenadiary.com

ここまで後ろ向きな気持ちになっているのに、「エヴァンゲリオンの完結編を見なければ人生が完成しない」という思いに私はとらわれ、映画館のチケットを買っているわけだ。まるでエヴァの呪いではないか。
 
ああ、そうだ! これは呪いだったのだった。私は思春期にエヴァンゲリオンを見て、そこで心をメタクソに打ち据えられて、人生の20%ほどが変形してしまった。心に刻みつけられた呪い、いや、呪いでないとしたら契約かもしれないが、それを解くために映画館に行かなければならないのだと書いていて気づいた。
 
それと供養。


 はてな村の精神科医であると同時に熱狂的な惣流・アスカ・ラングレーのオタクとしても有名だったシロクマ先生も奇しくも、同じような気持ちのようだ。


 そう、もう、僕たちは思春期を卒業しなくてはいけない。いつまでも母親が自殺したことを思い出すたびに、幼稚園の授業参観の途中で母親がいなくなってしまって泣いてしまったときの気持ちと同じような悲しみで心を一杯にしてはいけない。成人男性として、身内の死も「そういうこともある」と割り切って自分の人生を生きなければいけない。


社会的ひきこもり 終わらない思春期 (PHP新書)


 そういう風に決定的に母親とエヴァに「さらば 全てのエヴァンゲリオン」と告げるために、14歳の頃の気持ちを思い返すために、DVDを見返している。(間に合うか?)
 見返すたびに2006年のまだ大学生(留年)だった頃にDVDを見た感想を掘り起こしてnoteに書いている。
 エヴァの呪いの烙印を押された14歳の頃の気持ちになって、その上でエヴァに別れを告げたい。

note.com

エヴァンゲリオンは不思議の海のナディアから5年、Vガンダムから2年という1995年に位置する作品。
 82年3月末生まれで、テレビ東京系が映らず、ビデオ派でオンエアが終了してからビデオで見始めた私にとっては、1996年、14歳、中学3年生、碇シンジとシンクロする直撃世代である。そして、私が決定的にオタクになろう!と決意するに至った作品である。私が初めて理解し楽しめたアニメである。多分。
 ナディアは小学校低学年であり、良い作品で楽しみに見ていたが、所詮幼児であった。Vガンダムはシャクティと同じ歳に全部見た。しかし今、見返して新鮮な発見をつらつら書いている事からも分かるように、全く理解できていなかった。
 ですが、中学3年生です。さすがに私も自我と思考が確立されてきた頃です。(まあ、それでも今から思えば全然イタイあれだったわけですが。そして今も。)この頃の3年間、小学6年生と中学3年生の間は無限とも思える隔たりがある感覚だ。この年代は人格も体格も大きく変わる頃であり、思い返せば、まるで他人の人生のようだ。


 サントラ、林原めぐみのCD、3回くらいダビングされたエアチェックのビデオ、謎本は1冊、天使辞典、等を買い揃えたけども、絵コンテと原画集と声優のポエム付きの文庫、それと同人誌には手を伸ばさないような、そんなオフィシャル主義の中学生。
 地域の図書館で小学5年生から高校2年生までアニメージュとホビージャパンを借りている中学生。むかしから金は無かった。
アニメージュを借りていても、決定的にヲタクになったのはエヴァンゲリオンからだった。


エヴァはVガンダムの後継だとも聞く。この二つの作品の共通項は母性だ。
 その母性の危険性というものは、僕と同年代の少年達(震災、オウム事件の95年に12歳くらいだった者たち、キレる17才世代ゴールデンエイジ)が起こした事件に垣間見れるではないか。
 僕がエヴァのポスターをせっかくもらったのでと部屋に飾ろうとすると、母親に「グダちんがエヴァンに取られてしまう!エヴァンのせいで宮崎勤みたいな犯罪者になってしまう!」と泣かれた上にポスターも捨てられた。
 僕が引きこもりになったときに母親が「エヴァンなんか見てるから悪いんだ!」と叫びながらプラモデルとゾイドを壊した。


※追記:母親は、ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Qの公開一週間後に自殺した



 そんなわけで、最終回のトラウマを念頭において鑑賞してみる。
 この時点で碇シンジにとって、母、碇ユイは、父、碇ゲンドウによって殺され永遠に奪われた清浄な存在として位置している。(が、もちろん1話では説明は無い)
 シンジが父を苦手に思うのは、単に捨てられたと言うだけではなく、母親を奪われたと言うトラウマもあるんだろう。
 だが、僕が映画版で一番共感できたのは、実は碇ゲンドウであったのだ。「自分が人から愛されるとは、信じられない」このシーンが一番好きかも。
言ってみれば父、碇ゲンドウ自身も碇ユイに捨てられた男である。そして、それは息子は永遠に知ることは無いのだ。(補完中に知ったかどうかはわからん)
そう考えながら、見ると、ケイジや病院や破られた手紙も、なんだか、ねえ。アレです。かなしいというか、やるせないと言うか。
気持ち悪い。


 「さらば全てのエヴァンゲリオン」
 今度こそ、エヴァに別れを告げたい。



 まあ、宇宙戦艦ヤマトの続編商法を食らっていた、僕よりも年上のアラフィフ世代は毎回、「さらば」とか「永遠に」とか別れを告げようとしていたのかもしれないけど。それでも宇宙戦艦ヤマト出渕裕シリーズを楽しんでみているヤマト世代はやはり、決別するつもりはないんだろうけど。
宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち 第一章(セル版)


 僕も高校2年生の時にリバイバル・オブ・エヴァンゲリオンを映画館で一日中、3回も見て、デカいVHSセットも買って、読者プレゼントアンケートに「これでエヴァンゲリオンに区切りをつけられます」と書いたのだが。
劇場版 NEON GENESIS EVANGELION - DEATH (TRUE) 2 : Air / まごころを君に [DVD]




 あの時に区切りはついていたはずだが。


 こんどこそ、手切れができるだろうか。


母親が嫌って僕を宮崎勤と呼んでいたエヴァンゲリオンのTV版のDVDを見返して、シンエヴァンゲリオンの映画の終わりを見て、思春期を精算して、
母親の自殺に影響されているメンタルから、
母親とは関係無い「好きなものを見て好きなように生きるオタク」という自意識にシフトできたらいいと思う。
母親が自殺する前にあった「アニメが好き」という気持ちに再チューニングして、母親の自殺によるPTSDを軽くしたい。



 しかし、まあ、感想ブロガーとしてはTwitterで「シン・エヴァンゲリオンそのものより、グダちんさんの感想に期待」などと言われている。そうやって、物書きとして、エヴァンゲリオンを客体化して、批評ブロガーとしてアクセス稼ぎのネタとしてクールに作品を分析する、という風に距離を置けるだろうか?

庵野はオタクを増長させた事が嫌だったと言っている。
旧作のテレビシリーズ新世紀エヴァンゲリオンのファンは、増長したのだ。
だから、旧劇場版THE END OF EVANGELION で現実に背を向けてエヴァと言うアニメに逃避するファンを批判し、責任を取って作品を娯楽にしようとした。だが、それはやっても仕方ないと判断した。
で、今のヱヴァンゲリヲン新劇場版はヒットさせたいけど、ファンが増長する事や過剰に反応する事は、自分の責任ではないと割り切っている。
そして、新作のファンは旧作のファンと質が違う。ただ、具体的にどう違うかは言えませんが、と言っている。


(中略)


つまり、バブル景気の頃の明るい気分に乗れなかった根暗な人物(おたく層とか精神障害者や庵野本人)に重ねたキャラクターを”あえて”主人公にしたわけだ。
そういう人物が、最終的に「ここにいて良いんだ!」って思いました。っていうのがテレビ版エヴァに最初に込められた願いだった。だが、まあ、やっぱり根暗なオタクが存在するのは難しいので、最終回はすごく無理矢理になっちゃったわけだけど。


無理やりででも、「ぼくらはここにいてもいいんだ!」って居場所を提供されたオタクははしゃいじゃったんだな。「こんな自分みたいなダメ人間が出ているアニメですら世間に放送されているんだから、私たちもここにいていいんだ!」って。


ですが、庵野秀明的にはそういうオタクどもの増長がしんどかった。
なんでか。
シンジが「僕はここにいていいんだ」と言うに至る物語は、同時に庵野秀明が「庵野秀明ここにあり」と言う気分を込めたフィルムだったからだ。すごく個人的なものだったんだね。最初は。

『新世紀 エヴァンゲリオン』には、4年間壊れたまま何もできなかった自分の、全てが込められています。
(少年エース版1巻、庵野秀明)

それをオタクが「庵野がオタクはここにいていいんだと言ってくれた!」と感じて、庵野に依存した。庵野は「僕がここにいるんだ!」と言う側にいたかったのに、信者から「庵野さんは僕らにいていいって言ってくれる」って言われてしまう側に立たされてしまって、庵野さん的には「いや、それは話が違う。居ていいのは僕であってお前ではない」という気分に成って、テレビと映画の間でオタクとの微妙な心理戦があって、劇場版EOEではああいう映画に成ってしまったのだ。
nuryouguda.hatenablog.com

nuryouguda.hatenablog.com


 この直後にエヴァンゲリオンを憎んでいた母親が首吊自殺して、渚カヲルくんの首が飛ぶエヴァンゲリオンがトラウマスイッチになってしまい、8年間見ていなかった。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版 プレミアム制服フィギュア 渚カヲル 全1種


 ちゃんと、葬式ができるだろうか・・・・・・。


 まあ、アニメ映画を見る、という程度のことについて、そこまで気負う必要もないんだろうけど。



  • ほしい物リスト。

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