面白い授業でした。
まあ、たけくま先生以外にもギッちゃんや竹宮惠子先生やおトミさんも講義をしているが、今回の竹熊客員教授の特別連続講義「マンガとアニメーションの間に」は学外生や一般ピープルも歓迎と言う事だったので見た。
正直、学外生の分際で杉井ギサブロー教授の授業にもぐりこむ胆力は無いのだ。課題とかね!プロを目指している学生さんは偉いよな。俺はただ単に好きなだけ。
内容はたけくまメモにレジュメがアップされてるから、記さない。
マンガとアニメーションの間に(3-1): たけくまメモ
マンガとアニメーションの間に(3-2): たけくまメモ
生きる力を充填するために京都精華大学でキングゲイナーを見るつもりで行った。
そしたらやってたので、ちょっと迷ったけど、講義受けた。
たけくまメモとスキゾ・パラノ・エヴァンゲリオンは読んでるけどサルまんは10ページくらい立ち読みした程度。
留年して卒業できなかったら自殺物のピンチなわりに、やっぱり虫プロだし・・・。しかし、こんなダメ人間の癖にマンガとかをベンキョーしてどうすんのと思ったので、キンゲを見てから講義が始まるまで逆に一生懸命自習した。家で家族の人に申し訳ない肩身が狭いとか思いながら自殺を避けるために勉強しようとするとウェーってなるけどね。キンゲが頑張ってたら勉強する。珍しく眩暈を起こさなかった。精華の学生は所詮キモヲタなので、コウセンとちがって自習の机に堂々と脳内妹のブロマイドを飾って勉強していても肩身が狭くないのだ。妹の力。
あと、竹熊先生の講義も理系よりもわかりやすかったので、マンガは簡単だなー。ゲイ・リュサックよりムーピーのタマミの方が有名だし。編集者は構成力があるんだろうなー。結論で序盤の伏線を回収するのが上手いと思った。ま、年に6回講義だからエッセンスって言うことなんだろーなー。
んで、知ってる事もあり、初めて知ったこともありって言う感じ。当たり前だが。
まー、20才前後の前途有望な学生さん向けなので、割と常識的な「宮崎駿の手塚治虫追悼批判」や「SFジャパン手塚号の杉井ギサブロー談話」等から丁寧に積み上げ。それで竹熊氏得意のyoutubeフライシャー動画や戦前漫画資料とかを深い視点で解説し、広範な取材談話から仮説部分に踏み込む、と言う流れ。うまいなー。
手塚治虫がフライシャーのメタ性とディズニーの長編物語の両方に幼児体験的に影響を受け、テレビアニメでは表現主義よりも物語を取った。というのはなるほどーって思った。
結論としてかいつまむと、「手塚治虫本人はやはりアニメマニアの域を出ることはなかった」「虫プロ技法から日本アニメを洗練されたが手塚本人のアニメ作家としての評価は高くは無い」というものらしい。
んで、富野から出崎杉井などの虫プロに興味を持っている成人男性としては、
「じゃあ、手塚治虫のアニメがたいしたことがないんだったら、今のテレビアニメを大したものにしたのは誰か?」という疑問が出ました。
うーん?スタジオジブリはやっぱり特異点だと思う。テレビはやってないし。
そこら辺は富野とか出崎統とかヌーベルバーグとかアメリカンニューシネマとか、SF作家くずれや劇団員くずれやら安保闘争くずれとかの有象無象になるかー。
そうするとやぱし、アニメの歴史を大枠として語るとなると手塚治虫というイコンに集約するって言うことなのかなあ。
明日は「マンガ版『ナウシカ』はなぜ読みづらいのか?」
コマとコマの繋がりの有機性があまりよろしくないと言う話で、今日と対になるらしい。
この講義は「マンガとアニメーションの間に」、という事を静止画のマンガと時間芸術のアニメという視点で、わりと技術的に論じてる印象。プロを目指す学生さん用ですし。
僕は割と絵よりも内容から「最後にクシャナ様が目立たなくて残念」という程度。
僕は萬画とアニメーションの差は時間の差というよりも個人的怨念と集団的闘争とのせめぎ合いだと思ってしまう非コミュです。
以前富野監督に「個人小説と集団アニメだとどちらが普遍的なる物に接近できるですか?」と聞いて「才能のない者が自分を分かってもらおうとして書くのはよろしくない」とゆわれた。手塚先生はストーリーテリングの萬画の方に才能があったということなのだろうか?
萬画のどろろよりアニメのどろろの方が雰囲気は統一化されてるけど、骨子のアイディアは萬画のものだし、発想力?
湧きあがりすぎる発想を吐き出すために手塚治虫は量産力を必要としたのかもなーとか思った。
そこら辺の個人主義は12月の「”反・物語作家”としての大友克洋」と「マンガとアニメが融合する日(新海誠)」で語られるんでしょうかね?パソコン時代の技術論での個人製作だけでなく、恋戦士ラブコメッサーの怨念とかに触れていただけると、勉強をサボってもいいかと思うけど、流石に理系の方の単位がヤバイ。