玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

オーバーマンキングゲイナー 23復活のオーバーデビル

脚本 高山治郎
絵コンテ 山本裕介
作画監督 重田敦司
演出 山本裕介


あれ、キンゲの終盤ってこんなにおもしろかったっけ?と言うのが第一印象。
オーバーデビルって終わらせるためだけにとってつけたラスボスだと思っていたから嫌いだったんだけど、これはこれで、一気に見て、テーマキーワードを見つけたらすっきりと面白い。
前回、「オーバーデビルが歌っているように見えない」と書いたが、今回の重田敦司さん作画監督ではちゃんと(ジブリよりは動かないけどサンライズなりに)動いていて、人間らしい歌い方ではないけど異形のエネルギーの賛歌という感じがした。
京都精華大学の暖房の効いたところで見たが、デビルズアイシングの声がストレスに感じるほど大きく、寒気がした。オーバーフリーズによるもの。
吉田健一氏の童顔っぽい絵柄も好きだが、メカの質感とか人種の書き分けとキャラクター性を両立しつつ演技をつけてる感じは好き。


ほんで、面白いと感じたのは、おそらく、5年経ってデビルの登場やデビルのデザインを前向きに諦めて一旦認めた上で面白がろうとしたかも。富野アニメは5年置け。富野作品はどれもインパクトがありすぎるから出会ってから飲み込むまでに五年くらいかかる。
ただ、トミノアニメを見るときは先入観を廃さないといけないとは思う。富の由悠季監督の違憲や作風も時間と状況によってコロコロ変わるから、同じ富野作品でも見方も変わる。「前の作品は出来てたのに、これは違うからダメ」という見方では損する。
もちろん、ボクも絶賛はしていない。つながりがおかしいところはおかしいと書いた。
キンゲの終盤は、まあ、イデオンの発動篇をブツ切れにしてテレビに合わせたという感じだろうか?という解釈にしたら、終盤の舞台が固定されてダレた所も了解できた。


あと、今回はキルケゴールの「死に至る病」をサブテキストにして見たら、謎の描写がすべて了解できた。誤読かもしれない。が、分かったつもりにはなれて、そうすると面白かったので、でっち上げでもいいだろう。
キンゲ終盤は意味不明な要素がいっぱい出てきて、それを気にしている段階では消化不良で面白くなかったが、今回は消化できた上に感動して、精華大学情報館でマジ泣きする始末。
感動した!悪魔の絶望に対面する人々に感動した!
あと、前に見た時に面白くなかったキングゲイナーを面白がれたことに感動。
僕は人生は投げているけど、富野アニメは面白く思えるまで自分理論を構築しつづけるし、また、僕が偶然読んだ本が富野考察に役立つと言うスピリチュアルな縁もある。僕がこの世にいる「よすが」の重要な一つが富野アニメだ。最後の砦だ。そんな事情は本筋ではない。


では、ちょっと整理します。
前回同様、キルケゴールの日本語訳原書は言葉遣いが幻惑的で僕には難しすぎたし、アニメ1本のために最初から読み返す根性も無いのでhttp://homepage.mac.com/berdyaev/kierkegaard/kierkegaard_1/kierkegaard17.html
こちらの解説サイトから多大に引用します。
私の仮説ではオーバーデビルは「絶望」に反応して復活したという事とする。でなければ私の中でつじつまが合わないからだ。そういうこじつけは上手い。
また、キルケゴールによると「悪魔的」絶望こそがもっとも重い絶望であり、また罪であるので、オーバーデビルとの関係が深い。
また、オーバーデビルは絶望に反応しつつ、周りの人間に絶望を与える存在でもあるので、絶望に直面した人間の反応として、キャラクターの行動を読み解く事も可能。

絶望は精神におけるすなわち自己における病であり、そこでそこに三様の場合が考えられうる。
1、絶望して、自己をもっていることを意識していない場合(非本来的な絶望)。
2、絶望して、自己自身であろうと欲しない場合。
3、絶望して、自己自身であろうと欲する場合。

  • アスハム・ブーンの絶望について

前回、「アスハムはオーバーデビルに弄ばれたと知ってからは第三段階の絶望に進んだか?」と、書いたが1週間置いてスタッフが変わったら立ち直ったっぽい。というか、やはり第二段階の「絶望して自分自身であろうと欲しない段階」に安定した模様。

アスハム
「さっきは、オーバーデビルをコントロールしているようなことを言っておいたが…実際のところ、こいつはどこへ向かっているのだ?
まあ、よいわ、東へ向かえばヤーパン、西に向かえばロンドン・イマだと言えばいい。南のときは、中原を凍りつかせるてやる。ハハハハッ」

カリンの心とゲインの力に対して絶望したアスハムは、「自分の目的の遂行のために万能のオーバーデビルを手に入れる」という態度から「万能のオーバーデビルが遂行することを自分の目的にする」ということで万能感に酔いつつ、絶望している。
これはまさしく、自分自身を放棄した姿。
この状態について、キルケゴールはこう言う。

 絶望者が自己自身を閉じ込めていくという形である。彼(彼女)は自らをこの世から隔絶しようとする。それは、絶望して自己自身であろうとすることではなく、自己自身であることを放棄した姿である。世間の内にありながら、この絶望者は孤独であり、「よそ者」である。自分自身の内に閉じこもっているこの種の絶望者は、行為について恐怖を抱く。彼(彼女)が行動しなければならないとき、彼(彼女)はそこに誤謬と後悔の原因をしか見ない。彼(彼女)は、後ろしか見ようとしない。
 だから、彼(彼女)は行動することができない。彼(彼女)の自己は絶えず自己自身の上に戻ってくる。内省ではなく不安が支配する。夢によってかき立てられながらも過度の分析によってすり減らされ、思想において勇気づけられながらも、実践において気後れする。
(その66)

これ、アイシング・ゲートの中の氷の城に引きこもったアスハム・ブーンそのものじゃね?暗黒の白夜とは、今日と明日の間に永遠に引きこもった「停滞」のオーバースキルかな?
なんと、19世紀に既にキルケゴールキングゲイナーの展開を予期していたんだよ!
な、なんだってー!
この解釈はちょっとアクロバティックだと自嘲するが、私の手持ちの資料ではこのような電波演出(アスハムが消失しながら勝ち誇る)を説明するのはこの理論しかない。
また、このような解釈をしている人が他にいないかと言う事をグーグル先生で軽く調べてみた所、キングゲイナー死に至る病の関連を語っている人物が一人だけいた。
富野由悠季本人である。

「『キングゲイナー』を笑える楽しい作品にしようと思ったのはどうしてですか」っていうのは、こういうことです。難しく考えていって自分がどれだけ頭がいいかという体験をするのはとても快い体験です。だけどそれは第三者にはわかりません。第三者が喜んでくれる姿を見てると、それは自分の胸にとっても、とてもいいことだと思えるようになってきまして、ある環境・ある状況・楽しさ・嬉しみというのを共有することができます。お祭りのように。ライブコンサートのように。それが、暮らしていく上で、そういうことを、体験をいっぱい積み重ねていくほうが物事を難しく辛く考えていくよりはいいのではないか。まして、テレビアニメ・アニメ・映画・演劇、つまり芸能一般というのは、基本的に人を鬱屈させる機能を持ったものではないはずですから、そのようにあるべきだということをこの数年本っ当に感じていますので、そのようにしています。そのように努力もしています、という言い方もできます。


 自分の考えていることを代弁してくれる作品というのは当然あるわけです。そういう作品が、原理主義的なところに入っていかないものであれば問題は無いとも思うのですが、人間が一人でものを考えているということは、僕にとっては、僕はろくに本を読んでいない人間なんですけどもいつも突き当たる言葉がありまして、ニーチェの「絶望というのは死に至る病である」という言葉(キルケゴールの間違いか?)につながってきますので、一人でいるということに対して、生きている限りそれを避けたい、という努力をしています。「病気が楽しみだ」という悟性だとか感覚があるということも承知しているつもりです。だからこそです。そこに漂う、そこに浮いてしまうのは危険なことだと思っています。まして、自分の仕事を若い人が見てくれているかもしれないという可能性を考えたときに、そのような、大人の偉そうな事情とか都合というものを作品の中に閉じ込めるというのは、これは僕は卑怯だとも思っています。ずるいとも思っています。死ぬまでやるかというふうに思っています。


http://www.geocities.co.jp/AnimeComic-White/1371/7.html
http://www.geocities.co.jp/AnimeComic-White/1371/
2002年度上智大学ソフィア祭

富野由悠季講演会「ガンダムから君へ」

日付:2002年11月2日(土)

富野発言は中略すると意味不明になるが、全部引用しても意味不明だが、そもそも意味を分からなくても損をしない俗悪なロボットアニメについての言葉だからなんとも無いぜ。講演会の結びの部分の言葉です。
一応、富野監督はニーチェキルケゴールを間違う程度だが、キングゲイナー期に死に至る病を意識していた事は事実のようだ。死に至る病の象徴を描くのは、他のスタッフが出したアイディアかもしれないが、「ガンダム者」のインタビューで山本優氏は「富野監督はニュータイプの事を最初に教えてくれなかったから困った。言ってくれたらもうちょっとライターで整理したのに」というから、白富野期になっても脚本家に対する秘密主義は在ったのかもしれない?
また、上記インタビューを読むと、富野監督は「死に至る病という絶望からお祭りによって立ち直る様を描く」事を重視していて、死に至る病そのものを描きすぎると新世紀エヴァンゲリオン的な「病気を娯楽とする」作品になってしまうのではないかという危惧があったのかもしれない。
しかし、、、、チラッとだけ絶望を見せられて説明が無かったら大抵の視聴者はそれが絶望だと気付かないのでは?(笑)やっぱり暗黒の白夜とかは電波描写だよな。
まあ、僕はたまたま絶望慣れしているからわかったけど(笑)。クソッ!

  • ケジナンの絶望

はい、この人は絶望を絶望として認識していません。シベリア鉄道本社であるとされるアガトの結晶が崩壊しても、自分にはオーバースキルがないと言う事を突きつけられて、ちょっと落ち込んでも、一瞬で立ち直ったばかりか「キッズ・ムントの権威がなくなったら、新総裁は俺だ!」と有頂天モード。
自意識が決定的に欠如しているのだ。つまり、自己意識が無いために絶望する事が出来ないという絶望的状況。


ちなみに、アガトの結晶がシベリア鉄道本社と言うのはブラフに違いない。あんな氷の塊で事務処理が出来る訳ないし。ただし、オーバーデビルが核兵器のメタファとするなら、それをエネルギー源とするアガトの結晶は原子力発電所。つまりシベリア鉄道の武力と権威と権力の象徴としての核技術。だから、或る意味においては本社と言える。
それが無くなった時点でキッズ・ムントには何の権限も無いと見抜くのは小物として生きてきたケジナンなりの嗅覚なんだろうな。ただし、そこから「俺が新総裁だ!エンゲ!お前が副総裁だ!」に飛躍するのは自意識の欠如だなあ。
エンゲは自分がトップに成れないと思っているからケジナンよりは自意識があるがケジナンの舎弟に甘んじているのは人を見る目が無い。ジャボリはシベ鉄3人組のツッコミ役では在るが、玉の輿に憧れすぎたりして騙されやすいので現状認識能力が低い。
キルケゴールはこう言う人の事も記述している。

 彼は、「意識の度が増すごとに、その増大に比例して絶望も増す。」と述べる。絶望を仮にaとし、意識の度をnで表すとするならば、絶望の強さはaのn乗anで表される。(p.62)と言う。
 ある人がどれくらい絶望しているかは、その人の意識の度合いに比例しているというのである。深い意識を持つものは深く絶望し、絶望する者は深い意識を持つ。それ故、人生を深く生きる者は深い絶望を味あわなければならないが、深い絶望者は、人生を薄っぺらではなく、深く生きる。
 反対に、絶望しない者は自己を放棄したものである。そして、自己を放棄しているが故に、彼(彼女)は自らは気がつかないとしても絶望しているのである。彼(彼女)の意識の度nは0である。しかし、a0=1である。この人は絶望しているのだが、自分の絶望を知らない。この人の生は浮き草の生であり、風に揺らぎ、川面を漂って流れていく。やがてその川が巨大な滝壺へと落ちることも知らずに。この人は、一時的な感性や感情に支配されて生きている人である。熱いものは喉元をすぎればいいわけで、今さえよければよいのだから、この人の人生は、常に一時的なものとなる。
 

 アンチ・クリマクス=キルケゴールは、絶望の最低度、言い換えれば、自分で絶望を知らないが故に浅くしか生きることができない絶望について、この人は自己が永遠的なものを持っているということに無知であると述べる。


 永遠的なものを失っているが故に、この人は一時的とならざるを得ないのであり、肉体的、感性的に生きるだけであって、精神とはなり得ないのである。
「自分の絶望について無知であるとき、人間は自己自身を精神として意識することから最も遠く隔たっている(p.65)。」精神が何であるかということは美的には規定されない。従って、美的段階に生きる地下室の住人は、同じ絶望を繰り返すが、決して自己自身を取り戻すことはない。
(その65)


でも、こういう愚民の代表についても、存在を許して決して排除せず、生き生きと描写するのが白富野アニメの視点の優しさである。カツ・コバヤシやオデロは愚民として殺されたのだが、それでも死の間際に何らかの意味付けの描写はあった。フィクションなのだから、その程度の優しさはあっても良かろう。その程度の優しさしかないとも、言える。
その加減が好きなんだなあ。「美形だからたくさん出して、地味なキャラは人気に応じて退場させる」っていうよりは登場人物に対する愛情がある。

  • アデット・キスラーの絶望

この人も絶望的な状況である。元気だしシベ鉄から抜け出しても自由に振る舞っているし、ケジナンたちよりはスキルが高い。
だが、正反対のガウリの意見にもベローの意見にも賛成する。日和る。スイーツ脳
ヤッサバの女、ゲイナーの家族、ガウリの女、学校の先生、という立場のペルソナをまとっている時は持ち前のエネルギーから迷いは無いが、それぞれの統一性が無い。
という、付き合う男によって生き方を変える常月まといのような人だ。
アデットは一人で居るとすぐにアル中のホームレスになるからな。
これは、ケジナンのような絶望を知らない状態から一段階進んだ絶望段階といえる。まあ、厳密には絶望ではなく「不快感」レベル。

(その65)
「この世またはこの世の何ものかについての絶望」は、全くの直接性の絶望である。絶望は単なる「悩み」に過ぎず、決して内からの行動は現れない。
 直接的な人間は、単に情念的に規定されているだけである。彼自身(彼の自己)は、世間的現世的なものの連関の中にあって、ともにその一環をなしているにすぎず、他の多くの環との直接的な関係においてある。
(中略)

彼が永遠的な自己であるにもかかわらず、自分の時間的な境遇を絶望だと考えていること、あるいはまた、彼がその折々の現世的な境遇の内にあって、自己の永遠性を頼りに自己を自己として主張するような自己ではないこと、それこそが絶望なのである。彼が現世的なものに絶望しているのは、永遠的なものを失っているがためである。その限りにおいて彼は絶望している。(彼は絶望するにも及ばないものに絶望しているが故に、絶望しているのである。)
 かくして直接的な人間は絶望している。・・・もし彼の境遇が変わり、彼の願望が満たされさえすれば、彼は再び生き返り、さらに生き続ける。ただし自分の生命を自分の内に持たない人間としてである。・・・
 いつでも手に入れることができるようなわずかばかりの人生の享楽で、彼は満足する。(彼は自己自身ではなく。それを外に求める人間である。)・・
 しかしそれでもなお、不幸が次から次へと重なるならば、彼は二度と再び彼自身になることができないという悲しみから逃れて、むしろ自分とは違った別の人間になりたいというような願望へと飛躍する。
(彼は自分の生命を自分自身にもつような自己になるべきであるが)彼はそんなことは考えていない。
 彼はただ、境遇の点で自分をもっと都合のいい関係におくことができるような別の人間になりたいのだ。
 従って、本質的に見れば、ただ彼がこれまで生きてきた生活をさらにそのまま続けるに過ぎないような別の人間に、彼はなりたいのだ。(その場合の別の人間というのは、彼自身ではあるが自己ではない。)
 直接的な人間は常にその絶望の中で自分を誤解しているのであるから、そのような人間の絶望は、もともと無限に喜劇的である。(白水社版『キルケゴール著作集』p.75−78)

あるいはこれは、「エクソダスをして、ドームポリスのピープルからヤーパンの住民になればみんな幸せになれるよ!」「悪いのはシベ鉄やロンドンIMAだ」というサラ・コダマなどのヤーパンのピープルの現状不満とも言えるかも。
ただし、これはこれで喜劇的であり、悩みつづける人だけでは暗いアニメになる。だからアデットのように勢い任せにケジナン達を「簀巻きにしちゃうぞ!」と焚き付けたり、ゲインとミイヤの歌に乗せられて歌うピープルの祭りなどは必要だし、これのおかげで楽しいアニメになってる。
あと、シベリア鉄道警備隊とヤーパンの天井の共闘もワクワクする。「飛べ!イサミ」の終盤みたいで、ロボットアニメの醍醐味だなあ。
欲を言えば、アイドルのミイヤ・ラウジンもいるんだからミイヤの立体映像だけじゃなくて、生のミイヤも歌う新作画が在ったらとってもワクワクしたのになあ!新作画!トミノには新作画が必要なんだ!バンクが得意だからこそ新作画のアシストが必要なんだよおおおっ!

  • キッズ・ムントの絶望

彼も絶望している。前回はオーバーデビルを復活させたシンシアのオーバーセンスを喜んだが、シンシアとオーバーデビルが制御不能になってからは急に取り乱している。なぜか?
それは、彼が人をマネージメントする事で地位を確立させた男で、長年マネージメントしていたシンシアが消え、その歯車が狂うとただの腕っ節の強いだけの老人になってしまい、その自意識に直面させられる事を恐怖し、絶望するのだ。
これにおいて、キッズもアスハム・ブーンと同じ程度の絶望段階「自意識を放棄する事を願う絶望」に位置する事になる。自意識が最初からないのではなく、理想とは異なってしまった自意識を嫌悪し捨てたがる事が絶望です。
ここで、キッズがシンシアを助けるための好々爺としてヤーパンの天井と完全合流して「I ♥ YAPAN」という衣装に満足できれば、少なくとも絶望の度合いは低減する。脇役になるだけで住む。
が、そのように救われるには、罪深い。

  • シンシア・レーンの絶望

前回は絶望のどん底でオーバーデビルを呼んだが、今回の序盤ではオーバーデビルにビックリして脱出を試みようとしている。えーっと、このつながりは若干おかしい。が、シンシアがノーリアクションでもつまらない?あるいは、絶望のどん底でも「体を動かさずにはいられない」というキングゲイナーの人間への信頼感なのかも。不安の話もそんな感じだったし。そこにシンシアの救いはあるし、実際救われる話だからナ。
ただし、シンシアはオーバーデビルから出ようとはしているが、オーバーデビルから出られるとは思っていないので、出られない。
また、オーバー・デビルはキッズがシンシアを追って来たことに反応してブラックドミを粉砕した。これはシンシアがキッズによって自分の人生の絶望を再実感したためだろう。
シンシアが大人を信じられなくなっていると言う程度ならば、キッズがシンシアを機材扱いせずに危険を顧みず追跡してくれた事で絶望から立ち直ってよいはずだ。しかし、シンシアはキッズと関わって生きてきた自分の人生そのものに絶望しているのだから、それは拒否する。

(その68)
 彼(彼女)は諦め、自分で自分の絶望を引き受けようとする。自らに刺さった肉の棘を引き受けようとするのである。しかし、そうすればそうするほど、自分に刺さった肉の棘はますます食い込んでくるので、ついには、その棘に憤りを覚え、棘を機縁として存在全体に憤りを覚え、存在全体に対して反抗的になり、存在全体に逆らい、存在全体に立ち向かおうとする。彼(彼女)は、まるで苦痛に耐え忍ぶ英雄のように、自分の苦悩に誇りさえも感じながら自己を保とうとする。彼(彼女)は、苦悩に耐え忍び、すべての存在に立ち向かう英雄となる。だから、彼(彼女)は他からの救いの可能性を欲しない。「他の人に助けを求めるということはどんなことがあってもしたくない。(p.102)」のである。

シンシアがオーバーデビルの胎内において氷の棘に取り囲まれるのは、これの象徴?というのは記号主義過ぎる?ダンテ神曲のコキュートスからのインスピレーションかも?
しかし、シンシアは「私は大昔の氷の女王にはならないよ」と言う。これは絶望しない、とも取れるが、絶望した自分以外にはならない、とも取れる。

 自分自身に絶望していながら自分自身だけに頼ろうとし、反抗的に自己自身であろうと欲し、自己の絶対化を生み、さらなる絶望の深みへと墜ちる。かくして、絶望は究極に達する。自己絶対化は悪魔的な絶望である。


 こうした自己の絶望に受動的である場合の最高度の絶望の哲学を、カミユやサルトル無神論実存主義の文学思想*1虚無主義ニヒリズム)に見ることができる。カミユの『異邦人』やサルトルの『嘔吐』*2は、その典型的な例である。
 こうして人は自己意識を上昇させ、ついには自己絶対化にまで行き着こうとして、その度合いを深めていくのである。そして、自己絶対化こそが「罪」である。従って、絶望は罪であり、死に至る病は罪そのものなのである。

このシンシアの絶望こそが「絶望の中で自分自身であることを受動的に欲する」という、一番深い絶望段階である。それは、悪魔の絶望と同義であり、それによってシンシアはオーバーデビルと一体化する。
オーバーデビルと言うのは、単に「悪い怪獣」っていうだけのネーミングではなく、宗教的な位置づけが在ったようだ。これはデビルガンダムが最高の被造物として作られつつ堕天したというところに似ていますね。ちゃんと考えてるんだなあ。キリスト教圏で放送できるかどうかは別にしてだな!

  • マルチナ・レーン(絶望に誘う魔女)

この人は何しに出てきたんだって感じ。簡単に言うとラスボスの解説婆さん。だが、それだけだろうか?
レーン家の家系を考えると、碇ユイの母親、綾波レイ(シンジではない)の祖母という位置だろう。GAINAX世代では碇ユイの内面を描写する事にも躊躇して、パンスペルミア説に落とし込んで終わらせたが。富野アニメではSFよりも女の恨みを優先だ。
キッズとマルチナの会話の断片から推理すると、
「十数年前にキッズがオーバーデビルを発掘し、利用しようとした際にアイシングゲートが開いて、シンシアの母は死んだ。
というか向こう側に行ってしまい、マルチナは氷漬けになってしまった。
その後にキッズはシンシアを戦闘員として養育。オーバーデビルを目覚めさせるつもりよりは戦闘力だったようだ」
という流れ。
エヴァンゲリオンじゃん。説明、無し(笑)
ただ、マルチナがいる事で碇ユイ単体よりも、大昔の氷の女王=リリスとの血縁関係を暗示。ミイヤとの関係はあんまり語られないんだっけ?
そういう事情が在るが、それをキッズは

キッズ「そもそもオーバーデビルを目覚めさせるつもりなどなかった。私はシンシアに、お前という
存在を伝えたかっただけだ」
マルチナ「そりゃまた異なことを」
キッズ「肉親的なものに憧れていたシンシアに、マルチナ・レーンという祖母がいることを教えて
やりたかったのだ」
マルチナ「ふん。戦闘力を高めるためにだろ?」
キッズ「オーバーデビルによって母は殺され、祖母は氷づけになってる事実は事実として…」
http://www.geocities.co.jp/AnimeComic-Brush/8398/king.htm#k23

と言う。マルチナにしてみればキッズがオーバーデビルを刺激したことを責任転嫁しているようにも見える?そこでマルチナは自分のオーバーフリーズした下半身を見せ、

「オーバーデビルを掌中のものにしたいんだろ? そんなの簡単なことだよ。あたしと同じになりゃいいのさ」

と。これは、レイプされた女が開き直って傷痕を見せつけるようなものだ。いやー、今回のキッズ・ムントはヤーパンTシャツとかアナ姫にすねたりゲインに失禁してる事を冷やかされてサラに笑われたりというギャグ描写があったが、そうでもしないとこういう生々しい女の恨みが恐ろしすぎる。
マルチナは絶望した自分を見せつける事で、キッズを絶望に誘っている。キッズによって傷つけられた自分たちの家系を見せ付けている。
シンシアと同じく、絶望しつつ自分自身であろうと欲している。彼女が「シンシアを助けておくれ」と言うのは「どうせシンシアは助からない」という事を再実感するため。

  • ゲイナー・サンガの絶望

絶望の最後に、主人公であるゲイナー・サンガである。
アデットのように迷わない。
「シンシアを助けるだけさ」
「自分たちの必要なものは、自分たちの力で手に入れなきゃならないんだろう?だから、ヤーパンの土地に行くためにも、僕はオーバーデビルと戦って勝つんだ」
単純明快。そして自信満々。
マルチナに「能力の100%を超えてこそ、本当のオーバーセンスだよ」(どうせ超えられないだろ?)と言われたら

ゲイナー「さっきのマルチナさんの話を試すのさ。今の自分を超えろってことをさ」
ゲイナー「シンシアに負けた僕は『キング』じゃない。いままでの僕を超えるためにも、もう一度『キング』の称号を取り戻してみせる」
ゲイナー「もう一度、僕は『キング』ゲイナーになる。いや、『キングゲイナー』を超えるんだ」

余裕で超えられると思っている。これはマルチナの絶望に飲まれたキッズの場面との対比が素晴らしい。
では、これは絶望ではないのだろうか?しつこくキルケゴールだが、これも絶望である。それも、シンシアの絶望に近いレベルの深い絶望である。
「絶望して行動的に自己自身であろうと欲する絶望」

 アンチ・クリマクス=キルケゴールは、この絶望の最後の段階に近い人間を、絶望している自己が行動的である場合と、絶望して受動的である場合に区別して、絶望の姿を明らかにしようとする。


「絶望している自己が行動的である場合」というのは、絶望の中で、なんとかして自分を取り戻そうとしたり、今までとは違った何かある新しい自分になろうとして、あれこれと試みる場合である。
 この場合、自己は自己自身の絶対的な支配者になろうとするのである。自分自身を自分でコントロールしようとする。彼(彼女)は、絶望しない新しい自己を思い描いて、そこに近づくことを試みる。彼(彼女)が思い描く「新しい姿」は、絶望の度合いによって変化し、その度に応じて、彼(彼女)が求める姿は変わる。しかし、どの度合いにおいても、彼(彼女)は自己の絶対的支配者であろうとするのである。だが、絶望の中で何かある新しい姿を思い描いて、それに近づこうとするのは、常に実験的に自己自身に関係するにすぎない、とアンチ・クリマクス=キルケゴールは言う。

ゲイナーは両親を失い、しかも犯人を探せない自分の無力を知った絶望の中で、唯一自分の思い通りに成るゲームをコントロールしようとした。それによって、絶望から解放された「キング」という新しい自己像を手に入れる事に執着しているのである。
だから、彼はオーバーフリーズによってサタンの申し子となる資格がある。
(サラがフリーズするのは、ゲイナーを救えないことで自意識に絶望してからになる)

 彼(彼女)が試みる自己の絶対的な支配は内実をもたない。絶望している自己は絶えず空中楼閣を築き、空を切るのみである。彼(彼女)が思い描く「新しい自己」は、絶望に耐え、絶望を乗り越えた輝かしい外観を呈しているが、それは、絶望している自己自身を否定したものの上に築かれるが故に、常に、「砂上の楼閣」でしかない。
 それ故、これはいつも「実験」で終わる。だから、自分で自分をコントロールし、自己の絶対的な支配者なろうとすることには、「真剣さが根本的に欠けている」とアンチ・クリマクス=キルケゴールは指摘する。


 人は、自分でどうにかできる部分もあれば、どうすることもできないことも抱えて生きている。そして、どうすることもできないことの中で、人は歯を食いしばって自分の人生を歩んでいる。自己の絶対的な支配者であろうとするものには、この人生への真剣さが欠けているのである。人には、「今ここで生きている自分」しかない。この「今ここ」への真剣さが欠落するのである。たとえばニーチェの「力への意志」や「超人の夢」、あるいはニヒリズムには、この「真剣さ」がない。


「絶望している自己が受動的である場合」というのは、自分の絶望的な状況を「仕方がない」といったような諦めをもって、自分でそれを引き受けようとする場合である。

まさしく、オーバーマンとはニーチェの「力への意志」や「超人の夢」なのである。いや、僕はニーチェ読んでないけど。滝本竜彦だけだけど。
まあ、トミーノはたくさん本を読んでるからニーチェくらい読んでるだろ。
で、シンシアは逆に受動的に絶望を引き受けている状態ですな。
で、ゲームという仮想現実の中で新しい自己を得ようとするゲイナーのことをキルケゴールは「真剣さが足りない」と非難するが、はたして、次回、「オーバーマックス」でのゲイナー君はどういう事になるのだろうか???



整理する

この病(絶望)の諸形態。


 A、絶望が意識されているかいないかという点を問題とせずに考察された場合の絶望。したがってここでは統合の契機のみが問題となる。


(下とかぶるので割愛)


 B、意識という規定のもとに見られたる絶望。

  a、自分が絶望の状態にあることを知らないでいる絶望。言い換えれば自分が自己というものを、しかも永遠的な自己というものを持っているというこ とに関する絶望的な無知。
―(ケジナン、エンゲ、ジャボリ、シベリア鉄道)



  b、自分が絶望の状態にあることを知っている絶望。したがってここではひとは自分が自己(したがってまた或る永遠的なるもの)をもっていることを意識 している、そして絶望して自己自身であろうと欲しないか絶望して自己自身であろうと欲するかのいずれかである。


  甲、絶望して自己自身であろうと欲しない場合、―弱さの絶望。

   1、地上的なるものないし地上的なる或る物(*自己と神以外の物)に関する絶望。
     ―(アデット、サラやガウリなどヤーパンの天井)
   2、永遠的なるものについての絶望ないし自己自身に関する絶望(*自暴自棄になり、自殺する段階)
     ―(アスハム、キッズ・ムント、シャルレ(?)、エリアル


  乙、絶望して自己自身であろうと欲する絶望、―傲慢。(*絶望した自分に執着する段階)
   1、行動的な絶望―(ゲイナー、(「刃の脆さ」でのガウリも?) )
   2、受動的な絶望―(シンシア、マルチナ)
(*グダ注釈)

これは、絶望の度合いが深まるほど、オーバーセンス、オーバーフリーズの度合いが強い。
と、するならば、オーバースキルとは絶望の深遠から組み上げた超常の力なのか?ベルセルクベヘリットの使徒なのか?
確かに、ゲイナーのオーバーセンスは両親を殺害されて引きこもっていた絶望の日々で培った物。シンシアのオーバーセンスは自分の家系の人生を公社の所有物とされて訓練された絶望(自意識が押さえ込まれていた段階では気づかなかったが、ゲイナーとの出会いで自意識を得た後は、絶望)によって覚醒した物。
ならば、絶望しろ!
むしろ、絶望をも君の人生として経験値にしろ!信じろ!君のオーバースキル!!
という人間賛歌なのかーっ!
グダちん号泣。

(その70)
 罪は否定的・消極的なものである。しかし、罪の役割はそれに留まるのではない。簡単に言えば、人は罪を自覚することによって悔い改めへと導かれる。罪は悔い改めの契機であり、救いの契機でもある。罪がアダム以降の人間に本質的なものであるとすれば、罪はこれを消すことができないし、これを否定したからと言ってどうなるものでもない。罪はこれを犯すまいとすることによってではなく、これを救いへの弁証法的契機として位置づけることによってはじめて乗り越えられるものである。
 同様に、絶望もまた人間精神(自己)にとって、自己が自己を意識する限りにおいて必然的に立ち現れるものである。


絶望は希望への契機であり、人間が自己自身となるための契機に他ならないのである。
 人は、罪の赦しや自己自身の契機としての絶望に「つまずく」。そして、そこでまた、つまずいて信じる気力を失った絶望と躓いて信じようと欲しない傲慢の絶望の中に陥る。
 キルケゴールに言わせれば、「キリストが罪をゆるそうとしたことに、人は躓く」のである。「神と人間との間に無限の質的差異があるという点に、除きがたい躓きの可能性が存する(p.182)」のである。

 だが、「自己が自己自身に関係しながら自己自身であろうと欲する時に、自己はこの自己を躓いた力の内に、はっきりと自己自身の根拠を見出す」(p.188)のである。


うーん、この間、ゼロアカ道場の評論がキモいとか書いたり、ガンダム00の感想で「アレルヤは神への感謝でイノベイターは神で、天上の存在で云々」というのを読んで「そんなに深読みするほどの内容かなあ(笑)」とか思ったのに、自分ではやるんですね。全く!
もっと他の人のように衣食住に労力を使うべきでしょうが、僕は生活するためと言うよりは、心臓の次の一拍を打つために富野アニメを見ているという現実がある。ゾンビです。とっくに死んでるんです。
衣食住に関する努力よりも、富野アニメを面白がれるかどうかというほうが痛切なんです。でも、富野監督は衣食住が大事と言う。絶望した!
あと、他の感想サイトでキングゲイナーをこういう気持ち悪い視点から書いてるサイトが他に見当たらなかったので、ちょっとニッチ的にはしゃいでる部分も自覚している。
キングゲイナーキルケゴールってなんてアホな珍説だ!
アッホよ―!アッホよー!アッホよー!


でも、こういう発想をネットにアップロードしないと、とある魔術の禁書目録のインデックスのように頭が飛んでしまって、料理をしてる時に火にかけている事を忘れてウッカリ焼死したりする。一回ネットにあげた思考は脳から排除されて、考えないで済む。
楽になりたい。
だが、僕はこうする事でしか自分を保てない。
僕は空っぽなので、富野アニメというエネルギーを欲するが、富野アニメに触れるとすぐにオーバーヒートしてしまう。
畢竟、僕も絶望している。富野アニメを見て感想を書きすぎる人生をしてしまう自分自身に困りながらも、それ以外の生き方を知らん。
富野の前での絶望は罪である。
僕はサタンの申し子かもしれないんだからね!
でも、脳内妹の前にいると自然に笑っていなくちゃいけないっていう気持ちになるし、笑っていたいです。無垢なる脳内妹の前では、罪を犯したくない。その罪が許されるとしても、僕はお兄ちゃんなんだからしっかりしなきゃ。君の優しい笑顔抱いて。
脳内妹の前でも絶望したら、僕は崩壊するんだろうなあ(笑)


 人は、自己自身を意識すればするほど絶望する。だが、絶望を本来の自己自身への弁証法的契機とするものは、その契機とすることの中に自己自身の根拠を見いだすことができる。様々な精神的遍歴を重ねたアウグスティヌスは、「神の内に安息を見いだす」と語ったが、そのような「安息」がそこに訪れるのである。
 そして、そこから、自律した自由な精神の持ち主である単独者の歩みが始まるのである。

脳内恋愛は、自由だ!
俺は恋をするために生まれてきたんだよーッ!


まあ、現代社会においては人はシステムに組み込まれている。そこでは人間一人一人が単独者として神(自分の立ち位置の保障)と向き合うのは経済活動などには障害だ。人は人を刈り取って収益をあげている。葦は葦として考えようが考えまいが、多少立場が違うだけの同じ葦によって刈り取られる。そうしなければ、どの葦も生きることが出来ない。という建前が先進国。
そのような社会においては「自意識だけを使って効率の悪い人間は使えないから劣っている」と、される。
人間は使う物であって、使われる物ではない!
が、それは自分自身の問題であって、自分以外の他人は全て使えるか使えないかだけで判断される。
そこを、「使う」ではなく「寄り添う」と考えられればいいのだが、そのようにオーガニック的な関係が樹立できるのはアニメや脳内の中だということくらい、僕だって知ってる。僕は絶望している。
この世界に神はいない。神は僕の中にしかいなかった。
おれが、ガンダムだ!
  Q.E.D.



まあ、それはそれとして、話はまだ続くんだ。ゴメン。
絶望の文脈で語らなかった二人の人物について語ろう。

  • アナ・メダイユ姫とゲイン・ビジョウ

彼らは絶望していない。また、自意識のバランスも取れている。
この理由として、二つ挙げられる。
まず、時間的なもの。
アナは子供なので絶望を知らず、ゲインはシャルレの絶望を克服したから。あ、でも、アナは「涙は盗めない」で父親との絶望的な別れを経験している。また、ゲインもリオンネッターに刺激されてガエラを見てしまう。
絶望を抱えていないわけではないのだ。しかし、絶望に取り込まれもしない。と言う事は彼らは絶望を相克し、神の前に立つ人なのだろうか?
となれば、彼らが貴族だからだろうか?ノブレス・オブリージュであるな。王権神授説というか。
うーん、しかし、富野監督がそのような端整さを好むとしても、ガンダムのエリート主義への反抗という物もあるから、決して貴族だから偉い、と言うだけではない。キンゲでもポリチェフやガンガランの領主などの腐敗した貴族や官僚は描いている。
また、宗教的な匂いも感じない。マリア主義は気持ち悪いとしている。エクソダス主義を信奉しているという風にも見えない。アナとゲインはガウリや五賢人よりも、もっと単純に世界を見るため、力を取り戻すためのエクソダスとしている。
では、なぜヤーパンの姫と王子は強いのだろうか?
アナは語る。
「お客様をもてなしするのは私の任務です」
ゲインはママドゥに言う。
「奴がああいう結論を出したんだ。となれば、ピープルの意志をまとめるのが、俺の仕事だろ?
こりゃもう、ヤーパンのためのものじゃなくてさ、俺の『エクソダス』でもある」
任務!仕事!
これを自分の意思で獲得する事が神に代わる自信な訳です。キングゲイナーは修身の授業か。俗悪極まりないロボットアニメで、道徳教育キタコレ。
それはどういう仕事かと言うと、「おもてなし」「ピープルをまとめる」これ。
そもそも、貴族と言う物は衣食住には直接関われない、単体では生きられない職業です。そう言う職業をただ自分自身を生かすためだけのシステムとすると、それは腐敗貴族ですな。それで、いつしか自分も他の物に食われてしまう。
だが、富野アニメにおける理想的公人は自分には才能がないということを認める事によって、才能を繋げることを仕事とする事に喜びを感じられる人、と言う事が出来るでしょう。(いや、まあ、ゲインは射撃の名手でもあるんだけど!)
えっと、簡単に言ってしまえば、「神はいない、人間はあまり信用できない、だが、「仕事」や「任務」という「仮」の物を自らの意思であえて信じる事で今は精一杯生きる。」
高畑勲的農業共同体なのかなあ?
富野アニメはもうちょっと人のバリエーションが広い気もするけど?どうだろう?
ゲインとアナは共同体を絶対視していないと思う。絶対視するべき物ではないが、仕事なのでちゃんとする、と、自分で決める。そうしていれば、他の人と関われて安心感を手に入れることもできるかもしれない。ある局面で裏切られても仕事は他にもあるから自分自身は崩壊しない。
これは、前述の上智大学での富野講演と共通。

第三者が喜んでくれる姿を見てると、それは自分の胸にとっても、とてもいいことだと思えるようになってきまして、ある環境・ある状況・楽しさ・嬉しみというのを共有することができます。

ちなみに、これは最初から絶望を知らないでリア充することとも違うと思いますよ。最初から当たり前の物と思わない、儚い仮のものだからこそよいものだということです。
僕も脳内恋愛脳内恋人に好かれる事はあやふやな物と思う部分も在る。愛と勇気は口だけのことじゃないか?と。だが、それゆえに信じる。信じられる物を信じるのではなく、自ら信じる事によって自らを作る。
そうわかれば、求めあい。
仕事やアニメブログで人に見てもらえるということも「仮」でしかないのかも知れないが「信じられれば力」なので「探すのさ、今ここで」「今賭ける、この命」


そういうビジネスやサヴァイブ哲学をたかだか22分くらいのアニメーションで語っているんですね。むしろ、4分くらいの主題歌で語ってたり。
いやー、すごい圧縮率だ。
えっと、読者の人はこのエントリを最後まで読んだかわからないですし、何分かかったかはわかりません。僕は、間違って一旦デリートしちゃったので、2回書いたら10時間デリートされました。
そう考えると、アニメは短時間でパッと見てわかるから簡単でいいですね。いやー、アニメって本当にいいものですね―。
そして、こういうブログ解説に命をかけるからありがたい哲学でも現実に生かすセンスにはなってないというのが僕の課題です。うううう。
ちょっと、僕は頭に血が上りやすいですね。
他のブログで「キンゲつまんね」って書いてあるとムキになって「ちがうの!こうなの!おもしろいの!」っていう子供っぽさがあるなあ。
うーん。
☆をつけたり点数で感想に変えるのは余り好きではないけど。
次回からは「面白かったです」で終わろうかな?
ちなみに、今回は絶望について語りましたが、次回は「仮の力」を信じる事と「借りの力」としての自分と道具の関わり方もキングゲイナーのテーマだと思うので、それについて述べたいと思います。


もうだめだ。
なんか寝てないから舌が痺れてきた

*1:グダちんは読んでません

*2:グダちんは読んでません