玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

当サイトはGoogleアドセンス、グーグルアナリティクス、Amazonアソシエイトを利用しています

輪るピングドラム第22話2「美しい棺」に入る冠葉の狂気と正義

  • なぜ冠葉は殺人者になったのか

冠葉は企鵝の会という美しい棺の闇の中に自分が残って、罪も罰も自分が背負って自分の人生を捨てて、殺人者となった。だが、彼自身に具体的に誰か憎んでいる相手はいないようだ。
ただ、義理の妹の陽毬を助け、血のつながった妹の真砂子を陽のあたる世界に置きたかったから、眞悧の誘いに乗ってKIGAの会に行ったようだ。それとマリオと晶馬の二人の弟も陽のあたる世界に残そうとした。
晶馬は前回、社会的倫理に基づいてKIGAと繋がる冠葉を止めようとして決闘した。晶馬は社会的倫理にしたがって良心的に行動しようとしているようだ。
しかし、冠葉も社会的倫理を分かっているからこそ、幼い日に真砂子とマリオを「普通の子」にしてもらうように父に頼んだ。晶馬にも序盤から「お前の良心は取っておけ」と言っていた。冠葉は倫理の大切さを知っているからこそ、大切な人を倫理の恩恵にあずかる世界に残すために自分が闇に落ちようとしている。
冠葉は精神が狂ったサイコテロリストではない。むしろ、良心を認識しているからこそ、それを客観視して捨てることすらできる。だから、殺す。
命の大切さを知らないからじゃない。命の重さを知っているからこそ、どれくらい重いか知っているから、好きな人の命を選んで、敵と自分の命を捨てる。KIGAの会や眞悧の理想を信奉しているのではない。単に陽毬を助けるために眞悧に乗るのが有利だと思ったからだろう。(ピングドラムは探さないのか。電池が切れたからか?)
大切な人の命だけを大事にして、自分が殺す相手の死を無視しているようには見えない。
(その点で、コードギアス 反逆のルルーシュルルーシュは大切な人の命に価値を置く方に傾いていたと思う?追記:ルルーシュユーフェミアやシャーリーを失って自殺を意識する前から敵兵を軽く殺していましたからね。冠葉は一話から既に命を削っている)
自分の命を削る冠葉は他人の命の重さも分かっている。


だからこそ、冠葉は社会に対して怒りを抱くんだ。
正義を行おうと願う人が絶望した時の怒りは、なんとなく生きている人よりも深い。
だから、冠葉は「陽毬が死んだら、俺は世界を焼きつくす」と言う。それほどの憎しみを社会に抱く。
冠葉は陽のあたる社会の恩恵を知った上で「自分は我慢するから陽毬は幸せにしろ」と社会に対して求めている。社会の倫理の大事さを6歳のころから知っていて、企鵝の会の盲信を客観視出来ていた冠葉は、冷静で、そして社会に対する期待度が大きかったのだろう。
だが、社会は陽毬を幸せにしてくれなかった。冠葉が子供のころから人生を捨てて我慢しても、社会は子どもたちを助けてくれなかった。冠葉の我慢は報われなかった。それどころか、16年たっても10年たっても事件をネタに陽毬をいじめて学校にいられなくしたり、ゴシップ記者がつけ狙ったりする。そして貧乏になっても池辺の叔父さんは完璧には彼らの面倒を見てくれないし、たった一つの大事な家を売るなんて事すら言う。それは社会の不況とかが悪いんだ。
冠葉が真砂子に金の工面を頼まなかったのも、夏芽家が高倉家とかかわりがあったと言う事を社会の何者にもなれない大衆に嗅ぎつけられたくなかったからだろう。夏芽も社会的に潰されるからだ。真砂子を守ろうとしたんだ。
冠葉は問題に当たると、自分を汚れさせて捨てて解決しようとする。自分に対する評価や自尊心が著しく低い。自分で自分を守ろうとしていないのに、妹は守ろうとする殉教者的精神を自動的に行っている。それ以外の選択肢を思いつきすらしないようだ。


冠葉は
「社会はすごい強いもので、陽のあたる世界にいる事が幸せだ」
「社会はすごい強いので、子供たちを守って欲しい」
「子どもたちを守ってもらうために、自分はどうなっても良い」
「自分が犠牲になっているのに、子供たちを守ってくれない社会は許せない」
という、大きな社会への畏怖と期待感と、それが裏切られた時の社会への怒りと絶望がないまぜになっているようだ。
冠葉は「社会に正義を行って弱者を守って欲しい」と思う正義漢だが、社会は正義のためには作られておらず、所詮は個人が自分の利益のために生きている集まりに過ぎないので、弱者を食い物にする。だから正義漢の冠葉は「陽毬が死んだら俺は世界を許さない。この世界を焼きつくす」と言う。
理想が高いのだ。
だから、冠葉のそのような純粋な魂が眞悧に選ばれ「世界を正す者」というKIGAの会に選ばれたのだろう。


冠葉の殺人は一般社会の倫理に照らして見れば狂気なんだが、だが、「世界の方が間違っている」とするのなら、それは単に異なる思想の戦いに過ぎない。どちらも狂っている。正常も異常もなく、平等に戦っているだけだ。


これは、冠葉が池袋駅ロータリーで警察の覆面車両を爆破した時の駅ビルに「Pink Floyd「狂気」リマスター発売」という広告がかかっていることから暗示されている。
コンセプトアルバム「狂気」のラストの「狂気日食」(Brain Damage〜Eclipse / 狂人は心に〜狂気日食)には

There is no dark side of the moon really. Matter of fact it's all dark
(本当は月の暗い側なんて存在しない。何故なら、すべてが闇そのものだから)

という台詞が入っている。

all that's to come and everything under the sun is in tune
but the sun is eclipsed by the moon....
「すべては太陽のもとで調和している。だけど太陽は月(狂気)に侵される」

18話の「だから私のためにいてほしい」も、ピンク・フロイドの「Wish You Were Here」ってタイトルに似てる。


この狂気こそが逆に太陽の光で強制されていた世界に真理の闇を取り戻す、って言う思想は夏芽真砂子の「暗い場所と明るい場所は共存しなくてはいけない」って言うのにも近いし、真砂子の真摯な狂気は16話で描かれていた。
輪るピングドラム第16話「死なない男」に隠された真実とは - 玖足手帖-アニメ&創作-




これは、また、ジャック・ラカンも述べる所である。

どうがんばっても言葉では現実そのものを語ることはできない。「言語は現実を語れない」のである。ところが同時に、人は「言語でしか現実を語れない」。


しかし人が事故的に現実を垣間見たり、現実に触れたりすることがある。その一形態が精神病である。

ジャック・ラカン - Wikipedia

世界の現実そのものの真実に直面した時、人は精神病となる。
ゆえに、常識によって調和を強制されている正常人よりも精神病者は、現実に近くて世界に対して誠実な態度をとっているとも言える。それゆえ、冠葉は「世界の間違いを正す者」の候補に選ばれたのではないだろうか?
この世界は間違っている、というか、人間一人が理解できる大きさでは無いので、人間からは世界が狂っているように観測される。ゆえに、世界に直接かかわるものは社会的常識から逸脱した存在になり、殺人も犯すのだ。


幾原邦彦監督はBD1巻のロングインタビューの中で

普通の人は正しさを認識していても、恐ろしい現実を見て見ぬふりして生きていける。だけど、なかには絶対に見て見ぬふりができなくて、正しいことしか受け入れない人がいる。
(中略)
まず上手く生きられない。僕はその人たちの事を単純に否定したくないんです。
彼らの事をメディアは良く言わないでしょう。
「曖昧にできず、正しく生きようとした人だ」とは言わない。
むしろ狂人と呼ぶよね。自分をだませずに極論に行ってしまう人・・・、今回はそこも否定せずに描きたい
(後略)

輪るピングドラム 1(期間限定版) [Blu-ray]

輪るピングドラム 1(期間限定版) [Blu-ray]

と、語っている。
真砂子と冠葉の夏芽兄妹はそういう生真面目さがあるからこそ、傷つきながら世界と戦うのだ。


っていうか、僕もピンクフロイドは好きだから16話の感想にピンクフロイドを引用したけど、まさかピングドラムの方にピンクフロイドが出るとは・・・。発想が似てて親近感が沸く。(幾原監督はUKっぽいよね)
それに、僕だって無職だから個人的な幸せや栄達はもう望めないし、冠葉のように自分と巻き添えに世界を焼きつくしてやりたいという発想は非常に共感できる。「ノケモノと花嫁」の燃えるキリンのような復讐心は僕だって持っている。


そして、前回の感想で「イケメンのメインキャストが何者にもなれないエキストラの脇役を使い捨てて殺すのはいかがなものだろうか」と、書いた。
だが、むしろ冠葉は「何者にもなれない大衆」だからこそ「助けてくれなかった社会」「正しくなかった社会」「許せない世界」の代表者として殺意を抱くのじゃないだろうか。


僕も知り合いに自衛隊員がいたりする。また、警察の世話になって警察官と仲良くなった事もある。彼らも一人一人の人間としては普通だ。悪い人ではない。彼らにも愛する人や家族はいる。だけど、そういう人が集まって「組織の決まり」「社会のルール」に自動的に従って、何も考えずに他人を取り締まったりするのは見たり体験した事がある。


東日本大震災の後の原子力発電所の暴走や、それに対して責任を取る人や指示をする人がいなかったという「顔の見えない社会」という感覚はみんな見ていることだろう。また橋本徹大阪市長のように「顔が見えているから正しいだろう」という感覚で人気を博す人もいる。橋本徹氏の言葉は「顔の見えない官僚が悪い」と見えなかった敵を可視化しているような快感がある。でも、その官僚も人事異動と登用試験でいくらでも取り換えの効く何者でもない大衆の一部に過ぎないんだ。


冠葉を矢面に立たせて使い捨てにしようとする企鵝の会の黒服たちも、顔を隠した「何者でもない奴ら」だ。冠葉と真砂子とマリオの実の父も顔を隠した何者でもない人間だった。(冠葉の父がなぜ死んだのかは、10年前の晶馬が伏線なんだろうけど)


顔を晒して殺しをする冠葉は、顔のないキャラクターよりも自我が強いと言う演出だろう。
世界を支配している社会の多数派と、カルト宗教に従っている少数派のKIGAの会も、同じく自我を砕いて透明な存在になって顔を失った大人たち、自動的存在と言う事なんだろう。
幼いころから両方を客観視していた冠葉から見ると、どちらも同じなんだ。


そういう、魂の無い存在は、もう、殺してやった方が良いんだ。むしろ殺したって構わないんだ。最初からもう彼らは生きている自分を実感する自我を失って生きているんだから。
それに、冠葉は自分の命を自分で捨てているんだから既に自分から死刑になっている。償いをすでに済ませているからいくら殺したって良いんだ。

  • 眞悧の暗躍

それから、冠葉は既に眞悧に対して殺人を犯しているから、殺人に対するハードルが低くなっていたんだろうね。


幽霊である眞悧が晶馬と冠葉に「陽毬は死ぬよ」と言ったのが、同時だとする。


すると、前回の晶馬の回想を整理すると。


・【眞悧が高倉冠葉、晶馬に「陽毬は死ぬよ」と病室で告げる。】

・【顔に傷の無い晶馬、ショックを受ける】【冠葉、眞悧に対し殺人未遂。眞悧の力を見せられて従う】

・【晶馬と冠葉の神社での決闘】

・【顔に傷のついた晶馬が冠葉に荻窪で追いついたら、冠葉は覗木記者を殺害】

・【傷の手当てをした晶馬が陽毬に「冠葉は家を出て行った」と言って陽毬を叔父の家にやる】

・【顔に傷の無い晶馬、ショックを受ける(回想)】

・【冠葉と陽毬が地下基地で合流】

・【冠葉が池袋で爆破】 【陽毬が池袋で死を願う】
と言うこと。


だから、衝動的に眞悧を殺そうとしたことが、冠葉の殺意の明確化の発端だ。
晶馬は眞悧に「陽毬が死ぬ」と告げられてもそれを受け入れた。苹果の影響だろうか?むしろ、運命に逆らって金を得ていた冠葉を攻撃し、陽毬を家から出した。晶馬は陽毬の死ぬところを見たくなかったんだろう。
冠葉は眞悧に金をやるためにいろいろ企鵝の会のために働いていたから、裏切られて眞悧に殺意を抱いた。だけど、その殺意は眞悧に届かず、眞悧が企鵝の会のリーダーで殺せない存在と言う力を見せられた。
だから、冠葉の殺意は眞悧に捻じ曲げられたから、社会に向かったとみえる。


と、すると冠葉は負け犬なのである。
眞悧に負けたから他の人を殺しているので、それはあんまり美しくないのじゃないだろうか。
冠葉は陽毬を助けるためと言っているが、陽毬の命の重さも他の人と変わらないし、陽毬も自分の命をあまり重く考えていない。
むしろ、陽毬が助からないという絶望による冠葉の怒りを、眞悧が利用しているようだ。


陽毬は今回、冠葉の元に行って冠葉を抱きしめて「もう自分は死んでも良い」って言った。
だが、冠葉はそれが受け入れられなくてさらに怒りを燃やした。
それに、今回、陽毬が池袋にワープして死を願った事だって、そもそも1話で池袋の水族館で生き返った事だって、眞悧の差し金かもしれないのだ。
陽毬とマリオの病気だって、どういう病気か明かされていないので、眞悧が病気にした可能性だってある。


だから、今回の陽毬の死も、冠葉が世界を焼きつくす動機として利用されるために、仕向けられたものかもしれない。


では、冠葉の社会への憎しみが眞悧に利用されたものとして、眞悧はなぜ、それほどに世界を憎んでいるのだろうか。
それは、彼が以前語った「僕には世界中の全ての『助けて』って声が聞こえていた」と言うことが動機だろう。
眞悧は世界の全ての人のエゴイスティックな救いを願う声を聞く人だったんだろう。自分が助かればよくて、他人を助けようとせずに「助けて」と言い続けるクズのような人間たち。眞悧は医者だったので、そういうわがままな弱者の人間を見る機会は多かったのだろう。
それが眞悧の世界への憎しみの理由か。あと2回、眞悧の心の闇は描かれるのだろうか。
単なる「本当に超能力を持ったオウム真理教の麻原彰光」の戯画化として眞悧が描かれると、眞悧は現実の単なる犯罪者に過ぎない松本智津夫劣化コピーになってしまう。それはちょっと恥ずかしいので、あと一ひねりの聞いた演劇にしてくれる事を願う。
主人公の一人の冠葉が松本死刑囚のコピーに踊らされてるピエロだっていう話だと、悲しいし情けないもんね。


もっと、「狂気」と「正気」、「少数派」と「多数派」、「個人」と「世界」の戦いとか、そういう抽象的な話にして欲しい。現実の事件をちょっと変えただけのコピーだと、残念。輪るピングドラムはこれまでの内容がとてもよかったので、現実の劣化コピーではなく物語として独立したものになる事を祈る。


この感想は陽毬と多蕗の事も次に書きます。
書きたい事が色々あるので、やっぱり僕には響く、精神的に親近感のある作品なんでしょうね。

狂気

狂気