玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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ブレンパワード第8話「寄港地で」

脚本:面出明美 絵コンテ・演出:西森章 作画監督:津幡住明

とにかく、なんだかやる気がなくて勉強ができない間に、精華大学でブレン感想を追いつかせてしまおうと言うわけで、1話分、さらっと書いてみよう。
べ、別にあんたたちに読んで欲しいんじゃないんだからね!ブログなんて時間の浪費なんだから!
アニメを見たって、感想を書いてない作品のほうが多いんだからね!感想ブログなんてやるもんですか!
感想ブログを読んでる暇があったら本編を見たほうがよっぽど一見にしかずだわ!
ただ、富野作品は回避性人格障害をわずらっていても回避できないほどの求心力があって、感動を外に吐き出さないと脳がいっぱいになってしまうから仕方なく書いてるだけなんだから!
私は病気なのよ!


はいはい、くまくま。


というわけで。萌えポイント。
ヒギンズがすごいことになった。ヒギンズのことは、あの当時にはやった綾波レイ系のクール&メンヘル&お人形のような処女性ロリータ要員だと思っていたのだが。
スキンヘッドマッチョで陽気な船乗りと付き合っているなんて!
ガガーン!
一番男の匂いがない見た目のヒギンズが一番恋愛マスターだった。
ガガーン!
あんなに小柄で貧乳のヒギンズが、あんなごつい男に抱かれているのだ、と言う雰囲気が映像から匂ってくる。立ち話をして、ちょっと肩を寄せて、戦闘シーンで協力しただけで、直接的な性行為描写はないのだが、エロい。
のだが、嫌悪感はなく、むしろ幸せなことだと思える。おたく向けアニメにはあるまじき。というか一般向けドラマでもこんだけうまく生々しさを幸せ感に変換できてるのはあんまりない。すごいロボットアニメだ。というか、ロボットアニメなのか?


んで、ラッセとカナン、ナンガとコモドもいい雰囲気。
あっちこっちでカップルができていく。その、ここの恋愛と言うか心の近づき方はちゃんと段階があって説得力があるんだが。
誰でも彼でもくっつけばいいと言う風な、順列組み合わせ的な構造は結果的に雑に思えるので、そうはなって欲しくないのだが。まだ8話。くっついた上で、何かが起こるのだろうか?


それで、勇と比瑪のカップルが一番気になるところですが。
しかも、二人とも主人公だから。
というか、この二人のやり取りは僕と脳内妹のやり取りに似ていて、とても好感が持てる。
偏屈で依怙地な思春期っぽい男の他人に誤解されやすい言葉を、優しくて感情的で強靭な思考力のある女の子が分かってたしなめて話してくれるのは素敵だ。
夜風を浴びながら港でお互いのことを話し合うのはとてもロマンスな感じでうれしい。


今回、勇は自衛隊とか日本政府の偉い人にオルファンの危険性を分からせようと会議に乗り込んでいったのだが、勇の期待とは違ったリアクションを高官がしたために分かってもらえないとカミーユのように切れて飛び出してしまった。
高官たちの台詞を考えてみると、独善的ではあるのだが当然のことを言っている。そもそも普通の大人が初対面の少年の言うことをいきなり全面的に信じると言うこともないし、大人と言うものは相手を信じる人よりも、まず相手を値踏みしようとする人のほうが多いものだ。それは人間と言う動物の行動としては悪いものではない。当然の個人的な行動だ。
だが、少年の感受性には我慢のできないことでもある。少年も未熟なので周りが見えないところがある。特に勇はオルファンの中枢を知っているし、ブレンも知ったから自分が世界の命運をしょっていると思っていて必死だ。中2病的な万能感とも違って、本当に必死だから行動している主人公だ。
だが、それをほかの人間にも同じくらいの必死さを求めてしまうところが少年らしいのだ。
そこが、「ブレンはトミノの個性が強すぎて奇矯なキャラクターの電波宗教アニメ」と表層的なところで言われてしまうのはとてもとても悲しいことだ。


だけど、「大人の言うことが全部汚いってわけじゃないわ。あの人達はあの人達でなんとかしようと思ってるのよ」と分かった上でたしなめてくれる比瑪は素敵過ぎる。
レイト艦長やゲイブリッジ司令とか、勇を弁護してくれた大人もいるのだし。
そこから、二人の身の上話に移行して互いの距離を詰めていくという王道な展開になるのですが。
実は、僕はそういう話には警戒感があるのだ。
比瑪は孤児だから。

勇 「お前なんかにわかるもんか」
比瑪 「わかるよ!あたしには沢山お母さんが居たもの」
勇 「・・・沢山のお母さんが居たから解る?」

というやり取りをされると、テンプレートな脚本なのではないか?と身構えてしまうのだ。王道はいいが、テンプレートは良くない。
その、よくあるじゃないですか。物語でさ、説得するときに「私もいじめられてたから君の気持ちは分かるよ」とか「僕だって苦労をしたけど乗り越えてきた」とか「あたしも失敗したらどうしよう、嫌われたらどうしようって怖かったけど、友達のおかげで一歩踏み出せた。怖がっていたら何も始まらない。必要なのは、ほんのちょっとの勇気と強い気持ち。」
僕はそういうのは嫌いなんですよ。
お前の人生なんか知るか!ですよ。
お前が苦労してきたのは偉いかもしれんが、それが今の俺の状況に当てはまるのか!押し付けるのか!
第一、説明くさいんだよ!
あと、そういう苦労エピソードがなければ、相手を説得できないんですか?という疑惑。たまたま偶然、似たようなシチュエーションの苦労をしてたので説得できたが、偶然そういう体験をしていない相手を説得しなければならなくなったときに無力なのではないか?とか。
つまり、偶然に頼って話を進めている感覚がするとダメ。
それから、苦労をしてきた人のほうが偉いという感覚がもう嫌い。だって、そもそもいじめられたり親が死んだりしないほうがいいでしょう。障害がなくて健康で金があるほうがいいんですよ。個別の価値判断ではね。トータルで見ると、そりゃあ誰だって一つや二つ傷はあるんでしょうけど。
だからと言って、傷のある人のほうがえらいと考えるのも単純すぎる。
幸せな人生を送ってきた人のいうことには価値がないというなら、幸せな人がかわいそうだろう。せっかく幸せなのに!
で、ブレイブストーリーのミツルが一家心中の生き残りだから、妹をよみがえらせるために暴走して他の人を殺したと言うことを主人公が知ったときに、ミツルに何も言えなくなっちゃうんですよ。
主人公なら、「お前が不幸なのは気の毒だが、それはそれだ!俺はお前を殴る!」くらい言え。
不幸自慢はいやだと思う。
メンヘルか。
僕だって、人格障害ですけどね。だからと言って僕のいうことを聞いて欲しいと言うふうには思いませんよ。だって、病気治ったほうがいいし。病気だるいし。心臓痛いの怖いし。そんで、病気なのは僕だけの都合に過ぎないと言うことも分かるし。


と、散々文句を言うのだが、ブレンパワードは嫌な感じはしなかった。最初は僕の嫌いな不幸自慢かよ!と思ったのだが、気分は悪くない。
それで、http://damegano.web.infoseek.co.jp/braintop.htmlを読み返したり小説を読んでみたりして、どうしてかなあと考えてみた。
僕が比瑪のことが好きだからなのか、トミーノ信者だからなのか。
結局のところ、偏屈で怒って落ち込んでいた勇が最後に笑ったと言うことが一番大きいのだが。
では、なぜそういう気分になったかと言うことだが。
台詞を反芻してみると、結構論理や話はかみ合ってないんだよな。
話題も二転三転するし。そこが、トミノか面出明美さんだかのオリジナリティか?と。
そりゃ、勇も比瑪も別の人なんだから簡単にかみ合わなくて当然なんだが、作劇としては三段論法的にスムーズに説得されるように作ったほうが楽だし、見ているほうも分かりやすいはずなんだ。
だが、トミノ作品はそれをしない。
つまり、こういうことです。
ビジネストークでない、コミュニケーションにおいては、WhatよりもHowを重視した会話のほうが心地いいのよね、大事なのよね、ということです。
僕も比瑪に似た顔で比瑪のように思いやりと機転の利く脳内妹に愚痴って、機嫌を直すようなことが良くあるんだけど、そういうときに大事なのは、どういう論理を展開するか、と言うよりも、どんな風に話してくれるか、と言うことのほうなんですよ。
つまり、情報よりも共感が得たいわけ。
もちろん、内容がおざなりで口調や美辞麗句だけ心地よければいいってもんじゃなくて、比瑪も妹も上手い切り替えしをしてくれたり、違う視点を提示してくれたり、賢いなあと思う。
だけど、それも論理的に優位だから、というわけではなくてですね、相手の話をちゃんと聞いて分かってるからなんですよ。その、話した内容以上に深く、その時の感情とかそういう思考にいたった性格とかを理解してくれているって。
そういうのがニュータイプなのかなあと言う気もする。
で、そのWhatとHowの違いはどこから見分けられるのか、と言うと感覚的なものなんですけど。
どれだけ相手に対して本気になっているか、という雰囲気を見せられるか、と言うことではないかと。
その一環としてなら、自分の苦労体験を語ることも嫌らしさがなく聞ける。
「私はたくさんの親に育てられた」という「情報」が重要なんじゃなくてですね、「たくさんの親に育てられた私」がその体験を踏まえた脳によって「あなた」に対してこういうことが言いたい。という歩み寄りの態度がうれしいんです。
そういう態度は比瑪の表情や口調からにじみ出ている。慰めてみたり怒ってみたりすかしてみたり笑いかけたり、感情を揺さぶる。
っていうか、内容も大事なんだが、魅力的な女の子が魅力的な表情で一生懸命自分に語りかけてくれるって言うだけで充分説得されたくなると言うもの。


なんだかコミュニケーションが苦手なくせにコミュニケーションスキルを書いたわけなんですが。
つまり、要約すると「比瑪は勇を大事にしたがっているのが分かって可愛いな。いい子だな」ということです。
だから、誰に対しても応用できる恋愛スキルってわけじゃないんだよな。「レストランの裏メニューを食べさせて相手のことを特別に思っているところを見せたらモテる」とかじゃなくてですね。
大切な相手だから自然と大切にしたい、と言う風に考えたいなあ。
だから、いまだに童貞をもらってもらえん。



えっと、後この話で語りたいことは、
グランチャーがラストで潜水艦のミサイルに撃墜されて死んだのだが。ブレンパワードって白富野だから人が死んでなくてケイディですら生きてるけど、死ぬやつは名前も出なくてちゃんと死んでるな。
クラウンやクランプといった死ぬ要員にも名前を与えていた黒富野と変わって、死ぬやつは極悪人にするか名前を隠して視聴者には嫌悪感を抱かせなくしてフィルムのストレスを軽減しているのだが、死ぬやつは死んでる。味方もしっかり敵を殺すよー。「もう誰も死んで欲しくないから闘う」とかいうぬるいアニメじゃない。「なるべく人には死んで欲しくないけど自分や仲間も死にたくないから死んでもらう」という。
そんで、グランチャーを殺した後、ヒギンズブレンはほめてもらって、ヒギンズは恋人との連携と愛を再確認して、比瑪はブレンが仲良くなっていくのを見て幸せに思う。
結構怖い、と言うかたくましいシーンなのだな。
でも、一見するとさわやかな印象。それでいいのか?ジュピトリスの中には数千人のクルーがいたのだが、カミーユは明るくしてていいのか?
人が死ぬと言うのをアニメでも見るのが嫌になってきた潔癖な世代に対してトミノが迎合し始めているのか?とも、人が死ぬのを描かない振りをしてしっかり描いていて、気づく人にだけ気づかせると言う技は黒とみのよりも怖いのかもしれない。とか思うわけです。
その対称の位置が、味方は美しく生き残って、敵やモブキャラがことさら残酷に死んでいくガンダムの新シリーズなのかなあ?とか。


んで、勇が語ったオルファンとブレンの親子関係については別項で書くのだが。
30分くらいで書くつもりが、2時間くらいブレンについて書いてるというのは時をかけるオタクだ。