僕が自分の経験上思うに親というのは、子供が自分の体から出てきたと言う強烈な体験があるために子供が親の想定外の行動をすると本能的に不快に成る物なのだろう。
僕だって、自分の手足が勝手に動くと怖いもんな。
哺乳動物の本能としては、母の与えた栄養で育ち母の教えた言葉を話すのが自然なのだ。
なのに、世界には親以外のものも存在しているのである。
そして、知らず知らずの内に情報汚染されてしまうのである。フランスのロワイアル候補がアニメを規制しようとしていたのも、母であると言う事が原因のような気がするな。
自分の与えた物を食べ、自分の吟味した情報を取り入れ、自分の望む人格に育って、自分の思い通りの行動をさせたがる物だし、それが親と言う動物の自然な姿だ。親だって動物で、一個のエゴなのだから、子供が人格を持つと言う事が怖くて不自然だと本能的に拒否すると言う感覚は想像できるな。
親にとっては子供はいくつになっても自分のアンチボディ(抗体)で、外部端末で、体の一部なんだよな。子供の意思なんて者は無視されて当然なんだ。
だからこそ、地球の様々なものを学習したがるブレンパワードはオルファンの中では萎縮していたのだろう。
子供は自分の知ったことも自分の一部としてしまって、それを親に認めて欲しいと思う。親が知らない事を知った自分の人格を肯定して欲しいと思ってしまう。
だが、親はそれを認めない。
宮崎駿のように、それは子供の反逆だと思う。
パヤオは風の谷のナウシカで語ったように、子供は親の毒を引き受けて死んでいく物なのだ。
そして、美しい娘だけが、「生きろ、そなたは美しい」それがスタジオジブリの宮崎アニメ。
だが、富野の場合は、「頼まれなくても生きてやる!」
富野は万年思春期なので、子供の側に立ったアニメを作る。子供だって生かされるだけではない、生まれるだけではない、生きたいのだ。
富野由悠季が万年思春期だと言うのは、∀の癒しで、
「母は同性である嫁を好ましくは思っていなかったから、義妹の死(略)で弟が自分のところに帰ってくれるだろうと期待したのだ。それで、嬉しい。
だからぼくは、内心で荒れる。」
等と言う感じ方を56歳になってもしてるんだもんなあ。すごいよなあ。
これはなんと言うか、富野監督自身が自分の家庭環境で
http://www.hosp.go.jp/~shoraiso/shinri/kinofuzen_kazoku.html
とか、
http://www.hosp.go.jp/~shoraiso/shinri/topic.html
http://www.hosp.go.jp/~shoraiso/shinri/shinriindex.html
とかいう問題があったんじゃないかなあと思うわけだ。
富野が子供だった時とか富野が親になったときとか。
それで、富野監督はそういうのを作品で、真正面から逃げ腰にならないで取り組んでいるから、僕のような困った子もすごく魅力的に感じられるんだよね。
それで、富野アニメはおもしれえなア、と思うのでついつい社会にも認められて良いんじゃないかと思って、親の前でガンダムの話をしたりして怒られたりするわけですが。
と、言うのも当然な話で、富野作品は親の世代には決定的に存在しない物であるので、僕が富野アニメに夢中になっていると親が見捨てられたように感じるのである。
それに、富野アニメ自体が親を捨てるような内容が多いからな。まあ、僕の親はそこまで作品を見ているわけではないのだが。思想的にも富野作品を見ると富野っぽいものの考え方をしがちに成って、親から見ると気持ち悪いと感じられるのだろうね。親から与えた物とは違う人格になるような強烈さがある。
だから、親は富野アニメとか、子供が自分で手に入れた何かを見ると、アナフィラキシーショックを起こしたような気分になって子供を殺そうとする(抑圧する、脅迫する、等など)か、自分が否定されたような気分に成って混乱して罪悪感を暴露したりする。
それで、子供はせっかく自分が生きてきて自分で知ったもの、自分の脳で良い物だと判断した物のせいで親を苦しめてしまうと感じるので、萎縮してしまう。自分で判断する事を放棄しがちになる。それか、自分の居場所を守るために親を殺す(否定する、家出する、逸脱行動する)とか現実逃避する、という事に成る。
http://www.asahi.com/national/update/0515/TKY200705150330.html
それは、僕は実感としてわかるんですよね。まあ、これは僕の実感なのでみんなに当てはまるケースではないと思いますが。
親殺しが流行るのも、こういうメカニズムが働いているんじゃないかなあと思うんですよね。
そう考えると、ブレンパワードのメカをアンチボディ(抗体)と名付けた富野由悠季のセンスは恐ろしいほど深いという事に気付く。
ブレンパワードがオルファンやグランチャーを生まれた時から憎んでいるのは、まさにオルファンの自己抗体反応でアレルギーだと言う事だ。
それで、アレルギー反応を起こさせるアレルゲン(ブレンパワードの発生源)は人間社会かもしれないわけで、それが親と子を引き離すエネルギーになるのか?と言うヒントになる。
逆に、グランチャー的なものは社会を憎んで怖れて母なる物と同化しようとする呪縛なのかもしれんとか。
そこで、オルファンが孤児だと言うのも暗示的過ぎる。そもそも、オルファンが母だというなら、母が孤児だと言うのはおかしいじゃないか。
そういうところで、また、母を孤児にしてしまった社会とか、母に処女性を求めたり、女に男並みの役割を重複して持たせるような男の弱さとかずるさとかを感じたりもするし。
その、ジョナサンがママンの事を「男を一人も愛さなかった女を母親と呼べるか!」と言う事や、ママンが仕事に逃げているようで、最後にはジョナサンしか見えないような状態になってしまったのも、それを感じるんだな。
孤児として育った女が母になったら、自分の唯一の分身で家族の子供を自分の一部、自分の四肢を愛するように愛するし、子供は親の手先には成りたくないと反発もする。
それを防止するには男が女のケツをマメに追いかけるべきなのかな?と思うし、富野監督もエッセイでその様な事を書いているわけです。
ただし、それなら女の方にも追いかけてみたくなるケツで居て欲しいと思うし、男だってケツを追いかけるのに無様であってはいけないと思う。かっこ悪くてもいいのだが、ケツを追いかけるためにケツを傷つけるような愛しかたをする人は嫌だよね、と。
その、ともすれば母と子の母子カプセルに閉じてしまいそうな関係に風穴を開けるために、父親には母親を誰よりも愛していてほしい。
父親が子供に認められるのは、父親の力によってではなく、母親を誰よりも愛する事によると言う精神科医の意見を読んだことがあるんですよ。
で、ロランやハリーがガンダム史上最高レベルにいい男だったのは、ディアナと言う胎内に回帰するだけで無く、キエルさんやディアナ様を守るためにいい男なんだよ。と思うんですけど。
だとすると、ブレンパワードの宇都宮比瑪のような超美人、僕の脳内妹のような愛の化身を仮想して溺れてみたくなるし、自分のようなキモオタには普通の三次元女性を満足させるのは無理だと、逃げて巷のイケメンと言う人に任せてみたいと思うわけですよ。オタクは全員死ね!というか。
しかし、イケメンもイケメンなりの生きにくさや寂しさがあるのだろうなあというのは、親殺しの反面、子殺しも手軽に、(経済状態とはあまり関係なく?格差社会と言っても日本だ?)行なわれていると言うのを見ると、子供を作れるような、メスに認められたオスにも、オスに何となくくっつくメスにも問題はあるだろうなあとも思うわけ。
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200705160088.html
だいたい、それを皆が皆解決できる方法もないだろうと感じるし、それを、オーガニック的な考え方で乗り越えられたらいいなあと思うのだが・・・。
と言う事をグダグダと考えて時間を浪費するのは正しく僕の現実逃避でしかないわけで。そもそも、こういう事を考えるのは僕個人のドメスティックな問題をアニメや社会問題にすり替えて精神病的な防衛機制の代償行為にしている事だともわかる。
そこで、そういうことを書いていたら、
http://d.hatena.ne.jp/nuryouguda/20070215/1171566484
id:psb1981さんには「男がマイホームパパをやればいいと言うことでしょうか?」「でも監督も男というものにそれほど大きな期待はしていないだろう(笑)というのが今のところの私の考えなんですよ。」と言う風に提示されるのであり、強い父親を求めるのは、典型的な現在の日本的父親の家庭で育った僕の願望でしかないのであり、かつ強くなれない僕の言い訳なんだよねえ。
そういう僕の問題は結局のところ、僕が虚弱な人間でこの歳になっても学生をやって家にバイト代くらいしか納入していないのが原因なんだよねえ。世の中の大半の事はお金さえあれば隠蔽できるのに、それをやっていない僕の責任なんですよね。
じゃあ、なんでお金を稼ぐために勉強したりバイトをしないで富野作品に本能的かつ体質的なレベルで入れ込むのかと言うと。やはり、富野アニメが僕に狭い世界以外の何かを見せる決定的な突破口になるのではないかと言う期待を抱かせる極めてオーガニック的なエネルギーを感じてワクワクするわけなのです。
生まれた時から世間を見せられて辛かった、それを現実から連れ出してくれて嬉しかった。
ガンダムが見られて、ガンダムがあるアニメが想像できて、アニメのこの監督…
人間がトミノと読んでいる監督のことがわかって、嬉しかった。
そういう作品を見てこられたことは、喜びだ。
でも、今、何もできないのが…口惜しい…
助けられず!助けられただけで、しかも無職!
いいのかグダちん!こういう運命で!
と言う気分です。
富野作品を見ると闘わなきゃ!現実と!と思うんですが、現実と闘うと富野作品に戻っているんだなあ。
富野は私の母になってくれるかもしれなかった男性だ!
と言うのはさすがに、まあ、アレなんですけど。
それから今思いついたんですけど、ガンダム等のアニメは親の世代にはなかったので、僕が親に怒られてしまう。僕がガンダムにとられてしまうと親に思われると言う、事を書いたのだが。
最近は親の方がガンダム世代に成ってしまい、子供にムリクリガンダムを見せると言う状況も発生している。
もちろん、ガンダムとかアニメは超面白いし、富野監督も親がZガンダムを子供に見せられるようにチューンナップしてみたりしているので、親子でアニメを見るのは全く正しいのだが。
僕が懸念する所は、ガンダムを親が押し付ける事で子供がアニメを自由に楽しめなかったり、ガンダムの見方は人によってかなり違うのだが、親が自分の一面的な見方を押し付けたりする事が起きると辛いな、と思ってしまう。
アニメはやはり、一人一人が自ら望んで手に入れるものであってほしいのだよ。
http://www.kbstyle.net/brainpowerd/notice.html
によると、
鑑賞上の注意
ブレンパワードは非常に強い作用を有する作品です。用法・用量を守って正しく鑑賞しましょう。公開:平成15年09月23日
禁忌
以下に該当する人は、ブレンパワードを鑑賞してはいけません。富野由悠季(喜幸)監督作品を一度も鑑賞した事が無い人。
富野由悠季(喜幸)監督作品、富野台詞等に対するアレルギーを有する人。
黒富野属性の人。
戦闘シーン目当ての人。
記号としての「萌え」目当ての人。
萌え声優ヲタクの人。
腐女子。
注意事項
ブレンパワードを鑑賞する際は以下の事に注意して下さい。オープニング時は特に周囲に注意しましょう。
劇中用語が非常に多いですが、必要以上に意味に拘らないで下さい。
基本的に分からない用語・発言内容は聞き流しましょう。
考えるよりもまずは感じましょう。
音楽に身を委ねましょう。
人間関係に注目しましょう。
特に冒頭数話は連続性を意識した構成になっています。可能なら連続して鑑賞しましょう。
物語の本質に触れるためには、第9話までは鑑賞しましょう。
一度通しで視聴した後、少し間を置いたら出来るだけもう一度鑑賞しましょう。
だそうだ。大体、僕は全ての条件をクリアーしているのだが、唯一つ、劇中用語には拘りすぎだな。
しかし、ブレンの用語に拘る事は僕の人生を考える事にも成っているくらい、僕にとってブレンパワードや富野由悠季は重要なんだし、僕の考えを人に押し付ける機はないし、僕の考えを考える事ができるのは僕だけなんだし。
というわけで、一つよろしく。
アニメおもしれー。